ここ数カ月お休みをいただいていたのは、中国ミステリーネタが見つからなかったというわけではなく、単純に手が回らなかっただけです。幸か不幸か、中国現地で生活していると紹介したい作品はいくらでも見つかります。ただ、読む時間がなかなか取れず、積ん読が増えていく日々。そんな中、長編作をようやく読み終えることができたので、今回はその本を紹介します。

『空城計』(呼延雲・2022年5月出版)

 本書『空城計』は作者と同名の探偵が活躍する「呼延雲シリーズ」の最新刊。このシリーズではこれまでさまざまな中国の社会問題を取り扱ってきました。
『掃鼠嶺』(2020年)では社会福祉の暗部や児童虐待を取り上げ、『凶宅』(2018年)では事故物件詐欺を扱い(第56回:事故物件と迷信に挑む中国社会派ミステリー)、『復讐』(2017年)では娘を未成年に殺された父親が完全犯罪を実行する姿を描いてきました。本書『空城計』では、病院を舞台に医療トラブルと医師不足の現実を描きます。

 人口300万の平州市(おそらく北京からさほど離れていない架空の市)は、新区(新しい居住・商業地区)の建設が間もなく終わり、大勢の市民たちも旧区から新区へ引っ越しすることになっていた。そんな中、同市の子ども病院救急科主任の周芸は、病院の新区への移転に異議を唱えていた。病院が新区へ移転すれば、旧区に住む大勢の市民から医療サービスを奪うことになるからだ。しかし移転をすでに決定事項としている病院や平州市の上層部にとって、そのような意見は邪魔なだけだった。
 新区落成式典を控えた大晦日、周芸は貧困家庭患者への特別対応などが問題視され、クビを言い渡される。だが失意のうちに帰宅した彼女のもとへ、病院の副院長から電話がかかってくる。なんと、移転のために旧区から新区の病院へ向かったバスが事故に遭い、乗車していた大勢の医者や看護師が死んでしまったのだ。周芸は悲しむ暇も与えられず、復職と引き換えに、人員も設備も不足した旧区の病院で大晦日の夜の指揮を取らなければいけなくなった。
 だが救急科には子どもを連れた患者家族が大勢押し寄せ、待合室は戦場のような光景になっていた。そればかりか、迷惑系動画配信者の集団やクレーマーといった自分勝手な連中までやってきて、子どもの患者の親は疲弊した医療体制に文句をつける。さらに市内では子どもたちを狙った卑劣な犯罪が発生し、ますます多くの患者が病院へ運び込まれるという事態に。その容疑者として名指しされたのは、周芸が特に面倒を見ていた子どもの父親だった。
 病院の内外は混乱を極め、周芸たちが限界を迎えそうになる中、危機的状況を救ったのは地味な警備員・老張だった。元刑事だという彼は、現役刑事も舌を巻く知識と技術を駆使し、安楽椅子探偵よろしく、病院にいながら事件現場から証拠を見つけ、犯人を追い詰めていく。正体がほぼつかめない老張は周芸にとって敵か味方か? 子どもたちを狙う犯人の目的は? 周芸たちの長い夜は始まったばかりだった。

 

■クセのある登場人物たち
 なにせ約30万文字の大作なので、あらすじも長くなってしまいます(一般的な長編ミステリー小説が15万~20万前後)。
 もう9巻目になるシリーズの最新刊として、過去作と違う最大の特徴は、呼延雲をはじめとする主要キャラクターがほとんど登場しないこと。これまで数々の常識外れの難事件に対して、主要キャラたちの人柄や能力などで事件現場をコントロールできていたので、こんなメンツで本当に収拾つけられるのか?と読者の不安を煽る陣営になっています。
 とは言えシリーズ物の作品なので、関連キャラも出てきます。そのうちの二人が、豊奇と田穎の刑事コンビ。実は物語の舞台となった病院では先日、看護師が殺されていて、この二人は捜査のために大晦日も病院に残っていたのでした。彼らは呼延雲と面識があり、読者から見て周芸の味方であることが分かります。

 修羅場に放り込まれた周芸ではありますが、病院は一応彼女のホームなので味方や理解者は少なくありません。入院患者の母親・陳少玲もその一人。難病の娘を持つ彼女は夫の張大山と共に治療費を捻出してきましたが、それだけでは到底足りず、周芸の厚意によって入院が認められていました。しかし周芸の解雇により、彼女らも病院から追い出されることになりますが、解雇キャンセルにより彼女らの措置もうやむやに。ただこの病院側の非情な対応に張大山が深い恨みを抱いたことで、このあと彼は凶悪事件の容疑者と見なされてしまいます。

 逆に、本作における敵を挙げるとすると、真犯人以上に厄介なのが統合治安弁公室主任の雷磊。もとは北京の公安のエリートだったのですが、シリーズ前作の『掃鼠嶺』で暴かれた汚職の余波で平州市に飛ばされた出世欲の権化です。大晦日に平州市で起きた児童を狙った毒入り弁当事件の犯人が張大山だと決めつけ、行方不明の張大山を見つけ、逮捕することで北京へのカムバックを目論んでいます。もちろん周芸や陳少玲にとって、そんな憶測は到底受け入れられるはずありませんが、雷磊の方が彼女らより一枚も二枚も上手で、陳少玲も重要参考人として連れて行かれそうになります。
 これまでのシリーズでなら、雷磊より口が回るキャラが出ていたり、単純に肩書が上の味方が現れたりして、彼に主導権を握らせることはなかったでしょうが、病院という陸の孤島で捜査のトップに立つのが権力に飢えた男という、最悪の展開。そんな中、ジョーカーとして現れるのが警備員の老張です。

 この老張という中年男性、二年前から病院で働いている警備員で、張という名字以外何も分かりません。普段は地味でこれといった長所もないように見えましたが、この大混乱の日に銃を持った暴漢を一瞬で制圧、さらに雷磊の代わりに毒入り弁当事件捜査の指揮を執り、八面六臂の活躍を見せます。彼の登場は周芸たちにとって頼もしく感じられましたが、一方で、夫の張大山の嫌疑を晴らすためだと陳少玲を説得し、素人の彼女を危険な事件現場に行かせて証拠収集させるなど冷酷な一面もあり、全幅の信頼を置いていいのか疑問です。

 過去作からの脇役が再登場する反面、主要キャラがほぼ出てこない本書の成功は、長期シリーズの歴史の厚みを感じさせてくれるとともに、著者の決断力の高さもうかがえさせてくれます。毎回取り上げて申し訳ないのですが、このシリーズは初期、警察と共同で難事件を捜査するリアリティのかけらもない民間の探偵集団が出ていたのですが、それが数作前から、最初から存在していなかったかのように姿を消しました。こういった著者の取捨選択能力、要するに誰を出して誰を消すかという判断力は長期シリーズを続けていく上で必要不可欠なことであり、もう少し評価されてもいいのではと思います。

 

■現代社会への問いかけ
 冒頭で述べたように、本書は医療トラブルや医師不足を批判した小説です。
 そもそも周芸が病院から毛嫌いされた理由は、患者第一主義を掲げて貧しい患者にも病院のリソースを割いて治療に当たっていたから。まじめな医者のやる気をくじく労働環境ですが、患者も善良な人間ばかりではありません。子どもを心配するあまり、医師や看護師に強く当たり、暴力行為にまで及ぶ患者の両親、医療ミスにクレームをつけ、賠償金をもらうことを生業にしているプロクレーマーなど、中国の医療関係者を取り巻く環境が平州市子ども病院で縮図となって現れます。
 こんな最悪の状況の中で犯罪まで発生するのですから、周芸らの心労は想像に難くないです。ここで肝心なのが、本書の看護師殺人事件から児童を狙った連続襲撃事件が解決されても、現実どころか作品世界でも医療問題は残ったままという点。

 もう一つ本書に通底しているのは、世間の的外れな評価や負担しか強いない国の指示に対する冷たい視線です。旧区をないがしろにして新区へ移転しようとする病院経営者は、現場の住民のことを考えていないばかりか、陸の孤島と化した病院に手を差し伸べることすらしません。その理由は、大勢のお偉いさんが出席する新区の式典を円満に終わらせるために、万が一を考えて医療関係者を他に割くことはできないからというもの。
 また、実は周芸には医師の夫がいて、「急性呼吸伝染病」(おそらく新型コロナを指す)対策に尽力していたのに、勤務外の事故で亡くなったために何の褒章ももらえなかったという過去があります。
 さらに雷磊という無能で権力欲の塊みたいな男が、事件の解決に奔走したとして何も知らないマスコミに評価されるというラストからも、いかに国の評価システムが節穴なのか皮肉ろうとする著者の気持ちがうかがえます。

 本書では現場・基層で働く人間がどれだけ美しくまた醜いかということに筆を割くのとは対照的に、国を代表する人物やシステムに対してはとことん血の通っていない無機物として描写しています。これは前作『掃鼠嶺』から続く、中国の社会システムに対する問題提起であり、褒められるべき人々が全く報われない現状に覚えるやるせなさは、著者が取材を重ねる中で醸造されたものであるのでしょう。こういったもどかしさや悔しさを感じ取れるミステリー小説は中国では少ないと思います。

■社会派と本格の融合
 本書は社会派ミステリーと本格ミステリーを組み合わせたという触れ込みで人気を博しています。このような社会派と本格が融合した作品は近年の中国ミステリーのトレンドです。著者の呼延雲自身、はじめは本格重視の作家でしたが、徐々に作品の中に社会問題を盛り込んでいきました。呼延雲だけではなく、現代の中国の作家がそうした創作スタイルを選ぶようになったきっかけはいろいろあるでしょうが、社会派の方がドラマ化などしやすいことも上げられるでしょう。

 ではそもそも社会派と本格が融合した作品は何かと言うと、先日開かれた呼延雲とミステリー作家・翻訳家の趙婧怡の対談「社会派ミステリー小説にあるべきものとは?」の内容をまとめると、作品に社会問題を組み込んで現代の世相を反映させる一方、魅力的な謎も盛り込んで読者を最後まで飽きさせない物語ということです。


対談する呼延雲(右)と趙婧怡

 本書において、病院内で看護師を殺した犯人とその理由、そして毒入り弁当事件の犯人が子どもたちを狙う理由が、序盤から中盤の大きな謎として登場します。弁当事件の犯人は子どもたちの弁当に毒を入れて彼らを病院送りにするのですが、その後、新区落成式典でダンスを披露する予定だった子どもたちのところにも現れ、建物を放火、子どもたちを追い掛けます。そこでケガをした子どもたちがまた病院に運び込まれることになるのですが、ここで疑問が生じます。
 犯人は建物にガソリンを撒いて殺意全開で挑んでいるにもかかわらず、無力な子どもを一人も殺せなかったのはなぜか? 弁当に入っていた毒も、致死性ではなかったのはなぜか?
 病院に次々運び込まれる子どもたちを尻目に、ミステリアスな男・老張は考えます。犯人には別の目的があるのではないか?と。そこで彼は一計を案じ、諸葛孔明のような罠を仕掛けます。ここでようやく「空城計」のタイトル回収となるのですが、老張がどのような「空っぽの城」を仕掛けたのかはネタバレ過ぎるので控えます。

 実際、本書は、現代中国の社会問題を盛り込んで、登場キャラたちに医療制度の問題点を喋らせてもいますが、犯人の動機がさほど社会問題に根ざしたものではなく、社会派と本格が融合しているのかは疑問です。溶け合うというイメージよりも、社会問題や魅力的な謎、登場キャラなどのブロックの一つ一つが呼延雲の手によりキレイに組み合わせられた作品という印象を覚えました。

 中国(もちろん他の国と同様)の社会はまだまだ完璧ではありません。社会の各システムには隙間や穴が存在し、小狡い人物がそれを利用すればいくらでも悪事が可能です。本書は医療トラブル、人手不足、リソース不足といった現代中国医療を取り巻く問題を一つの病院にぶち込むことで、犯罪者に完全犯罪の機会を与えた大作でした。

 中国で「社会派+本格」ミステリーは、SFミステリーや時代ミステリーと同様、一つのジャンルとしてこのまま成長していくでしょうし、その流れは止められないと思います。例えば、エラリー・クイーンを愛好しロジック重視の本格ばかり書いていた作家の時晨は先日、中国の高齢化社会をテーマにしたミステリー『梟獍』を著しました。中国の社会問題に切り込んだ小説が増えるのは非常に喜ばしいことで、今後はこのジャンルを対象にした小説賞も創設されるでしょう。そんな中で呼延雲が先輩としてどういう姿を見せていくのか、今後は創作以上に彼の発言が注目されることになるかもしれません。

 次回作は2024年に書き上がる予定と呼延雲は言っていましたが、その間にもいろいろと活動してほしいものです。

阿井幸作(あい こうさく)

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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