中国の上海では8月12日から18日まで上海ブックフェアが開催されました。毎年、中国全土から出版社が集まり、新刊やおすすめの書籍を割引価格で販売するだけでなく、国内外から有名作家を招いてトークショーやサイン会を行うビッグイベントです。上海では7月25、26日に同人イベントCOMICUP26、7月31日から8月3日までデジタルエンターテインメント展ChinaJoy、8月7日から9日までBilibili World 2020などのイベントが集中的に開かれました。新型コロナウイルス感染症をしっかり予防するという措置が前提にありますが、今の中国及び世界の情勢の中でこういうビッグイベントを開けるのが上海の強みです。

 しかし今年の上海ブックフェアはやはりコロナの影響が避けられず、国内から作家を呼ぶのはともかく、世界的に有名な外国人作家を呼ぶのは無理でした。昨年は島田荘司が3時間で900人以上にサインをしました(☞ 「第61回:2019年上海ブックフェアレポ」)が、今年はミステリー小説関係の海外からのビッグゲストはなし。
 その代わり国内のミステリー作家らによるイベントは上海の各地で行われ、8月16日には大勢の関係者が集まり、第2回華斯比推理小説賞授賞式が行われました。華斯比推理小説賞とは、編集者兼書評家の華斯比が設立した賞で、短中編小説を対象にした、中国で数少ないミステリー賞の一つです(詳しくは、「第44回:中国ミステリの雑誌と賞がこの先生きのこるには」をご覧ください)。

第2回華斯比推理小説賞受賞作品

 

 今回はゲストに亮亮(第9回:中国ミステリ紹介『季警官的無厘頭推理事件簿』)、河狸(『剪刀中的幽霊』)、豆包(第66回:2019年版中国懸疑小説精選)、呉非(第65回:誘拐ミステリーで上海観光?!)、呼延雲(第56回:事故物件と迷信に挑む中国社会派ミステリー)、時晨(『傀儡村事件』)、鶏丁(孫沁文)(『凛冬之棺』)、陸燁華(『春日之書』)らを招き、トークショーと授賞式が行われました。

トークショーはライブ配信された

 

 そして、今回は上記イベントゲストの一人である社会派ミステリー小説家・呼延雲の新作『掃鼠嶺』(2020年6月)を紹介します。

 10年前、北京市郊外で計4人の被害者が出る連続殺人事件が発生。容疑者として高校生の周立平の名前が上がり、現場の状況などから世間も警察も誰もが彼を連続殺人事件の犯人だと決めつけるも、当時捜査班にいた警官大学の学生・林香茗だけが頑なに周立平の犯行は最後の1件のみだと主張。他3件の物証などがないことから、周立平には懲役10年が科せられた。
 
それから10年。北京市の掃鼠嶺(モデルはおそらく福寿嶺)にある、もう使われていない地下鉄駅付近で4人の焼死体が見つかる。検死の結果、うち3人はいずれも障害を持つ栄養失調状態の児童で、少女の身体には性的虐待の跡があった。残り1人は、社会福祉組織・愛心慈善基金会の傘下にある児童養護施設院長の邢啓聖だった。そして現場の防犯カメラや物証などから容疑者として浮かび上がったのは、釈放されたばかりの周立平。やはり彼は10年前の連続殺人事件の犯人だったのだろうか。彼を死刑にしていればこの事件は起きなかったのだろうか。10年前の事件にも関わった名探偵・呼延雲は、当時周立平犯人説を唱えていた元刑事の李志勇と共に掃鼠嶺事件に挑む。


■名探偵・呼延雲シリーズ第8作
 作者と同姓同名の名探偵が出てくるシリーズの最新作で、本作にもおなじみのキャラクターたちが登場します。呼延雲の親友で彼に匹敵する頭脳を持つ林香茗が今回も再登場。彼はある理由で表舞台には姿を現せられないのですが、シリーズが進むにつれてますます存在感を発揮。今回は学生時代に呼延雲と共に連続殺人事件を捜査するというシーンがあります。
 この連続殺人事件を解決するきっかけは、犯人が被害者宅で壊れてしまった眼鏡の破片を隠すために水槽を壊していたという、日本の30~40代のミステリー好きなら絶対知っている某有名推理漫画のトリックを使っていたこと。林香茗と呼延雲は犯人が日本の推理漫画の読者だと推理し、捜査線上に出てきたのが4件目の被害者の娘の同級生である周立平でした。
 作家としての遊び心が感じられる冒頭ですが、単に既存のトリックを借用しただけではなく、これがミスリードだったという真実が10年後に明らかになるなど、きちんと自分の作品に落とし込んでいます。
 他にも、敏腕女性記者の郭小芬が記者を辞め、その経験を活かして警察とは違うルートで関係者の聞き込みを行ったり、不良警官・馬笑中がそこそこ出世していて、今回もなだめすかしの捜査手段で関係者の口を割ったりするなどの活躍が描かれています。そして2人の仲も大きく進展し、シリーズ物の醍醐味を味わえます。

■社会の暗部描く
 
これまで健康食品会社の詐欺的商法、不動産の地上げビジネス、未成年犯罪などの社会問題をテーマにしてきた作者が今回取り上げたのが、社会福祉の名目で合法的に私腹を肥やす民間団体でした。障害を持つ特定の児童を保護することで政府からお金をもらい、政策を悪用して違法な不動産ビジネスにまで手を出す基金会の醜悪さをこれでもかと描写しています。この悪用可能な社会福祉制度や愛心慈善基金会にモデルがあるのか分かりませんが、登場人物の口から語られる、善意を基礎としたシステムの中で繰り広げられる狡猾な金儲けはとても現実味があります。
 捜査面では、天眼システム(中国全土を網羅する防犯カメラネットワーク)に頼りすぎている警察捜査の弊害などを指摘。スマホアプリ等の使用状況や防犯カメラの映像などの状況証拠を積み重ね、警察にこいつこそが犯人だと最初から思わせておいて、決定的な証拠を出して無罪を勝ち取る頭脳明晰で度胸がある犯人を描いています。ますますデータで騙せない世の中になる中国社会においては、感情面で人間(警察)を騙すというトリックが増えるかもしれません。
 さらに作中では警官などの口から「法治社会」という言葉がよく出てきます。要するに、現代中国は「法治社会」だから、金持ちだろうが共産党員だろうが悪人は罰を受けるという意味で、正義の力を象徴しています。こういう言説はここ数年の中国のミステリー小説を読んでいると特に眼にするようになりましたが、本作を読んで再確認したのは、法治社会になっても悪人がいなくなるわけではなく、犯罪の手段はより巧妙に、捜査へかかる圧力はより複雑になり、真の悪は法の網を逃れるということ。この言説に込められているのは、どうにもならない現実に対する虚しさであり、虐げられている弱者の悲鳴です。

■東野圭吾の呪い
 
本作の主人公の一人、周立平は心に静かな炎を秘めている人物で、10年間の刑務所生活のおかげで警察の尋問に耐える精神力と捜査を撹乱できる頭脳を持っているのですが、何より恐ろしいのは他人のために自分の身を犠牲にできる覚悟で、その意志の強さは当時の呼延雲も林香茗を騙し通せたほど。彼も誰かのために罪を犯しており、その行動から東野圭吾の『容疑者Xの献身』や『白夜行』を思わせ、レビューでもこれを指摘する声があります。実際作者も執筆中に東野圭吾を意識しなかったことはなかったと思いますが、こういう作品を読むたびに東野圭吾を連想してしまうのは、現代中国ミステリー作家にかけられた呪いと言っていいでしょう。
 幸いなことに、出版社が本書の帯に東野圭吾の名を借用したキャッチコピーを書くことはありませんでしたが、これを機に東野圭吾頼りの宣伝はやめ、作品自体の力で読者にアピールするべきでしょう。
 初期の呼延雲シリーズには「四大推理機関」という、警察以上の発言権と捜査力を持つ民間の探偵集団が登場しましたが、読者から「中二病」的と言われ、リアリティを求めるうちにそれらのエンターテインメント性は徐々になくなり、反対に現実の社会問題を題材にしたよりスケールが大きく問題が根深い作品が書かれるようになりました。これは素晴らしい方向転換でしょうが、キャラや背景の細部を徹底的に描写することにより、シリーズが進むにつれてページがますます増えることになりました。本書は500ページという大ボリュームで、読むのは全く苦になりませんでしたが、これ以上ページ数が増えると上下巻にもなりかねず、また本の価格もより上がって、読者が減る恐れも。こういう力作が正当に評価されるようになってほしいものです。

 

阿井幸作(あい こうさく)

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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