■ガストン・ルルー『シェリ=ビビ最初の冒険』


 本格ミステリの古典としては『黄色い部屋の謎』(1908) で、一般的知名度では『オペラ座の怪人』(1910) の原作者として知られるフランスのミステリ作家ガストン・ルルーのシリーズ・キャラクター、シェリ=ビビ作品が我が国初見参。国書刊行会の〈ベル・エポック怪人叢書〉の第二作だ。
 本書『シェリ=ビビ最初の冒険』は、1913年にフランスの日刊紙に連載された小説だが、これが今読んでも、滅法面白い。
 肉屋見習いの醜男シェリ=ビビは、ある偶然から人を殺してしまい、以来、殺人が殺人を呼び前代未聞の極悪人として、流刑地カイエンヌに向かって監獄船バイヤール号で護送されていた。監獄船の囚人たちは、彼らを掌握しているシェリ=ビビの一斉蜂起の合図を待っていた。シェリ=ビビは二人の看守が見守る不可能状況から逃走、監獄船内部を跳梁し、ついには、運命の合図を発する。
 シェリ=ビビが姿を見せず、船内各所を跳梁するシーンは夢幻の如く、一斉蜂起の闘争シーンは血で血を洗う激烈さ。
 闘争の果てに、シェリ=ビビらは勝利。船の乗組員や看守らは、囚人として監獄に入れられ、逆にシェリ=ビビは船長となり、彼の右腕の囚人も船の幹部となる。船上で、アナーキーなまでの秩序の転覆が起きるわけだ。
 シェリ=ビビの支配下に置かれた監獄船に、遭難者の放蕩者デュ・トゥシェ侯爵とその取り巻きが流れ着く。侯爵がシェリ=ビビの初恋の人セシリーの現在の夫であり、シェリ=ビビは侯爵の父の殺害の濡れ衣を着せられていた、というのは、ありえないような偶然だが、疾走するストーリーの中では、それも許してしまえる。
 侯爵ら上流階級人士が監獄船に乗ってからのシェリ=ビビの応対には、笑いがこみあげる。シェリ=ビビら元囚人は、船上の幹部としてふるまうが、とってつけたようなふるまいが、侯爵らの不信を招いてしまう。その後のダンスパーティでは、笑いから一転、侯爵ら一行には、恐怖の瞬間が訪れる。サスペンスに笑いに恐怖。この辺、作者の筆は緩急自在だ。
 シェリ=ビビは、囚人の外科医の施術により、想像を絶する方法で、デュ・トゥシェ侯爵と入れ替わる。
 この場面での「手はダメだ!  手はダメだ!」というシェリ=ビビの台詞は、当時の読者を震えあがらせたという。
 この船上編の第一部の後、第二部ではシェリ=ビビが侯爵に成り代わったその後が描かれる。このパートは、近年も書かれる人格転移物や異世界転生譚の趣がある。偽の侯爵シェリ=ビビがセシリーの愛を獲得できるかが焦点となり、第一部のスペクタクルは期待できないようだが、やがて過去の亡霊たちが押し寄せ、シェリ=ビビは闘いに立たざるを得なくなる。彼は、自らの冤罪事件の謎に決着をつけるべくお膳立てをするが、クライマックスでは、波状攻撃のように、運命の皮肉がシェリ=ビビを襲う。最後の壮絶なシーンは、当時の読者の心胆を寒からしめただろう。
 シェリ=ビビは、悪党たちの王となる冷酷非情な一面があるが、人間的に情にもろく、純朴で面も持ち合わせている。運命に翻弄されながら、運命を変えようとするモンテ=クリスト伯とドン・キホーテを掛け合わせたような人物だ。初恋の人セシリーには愛を貫き、相棒のラ・フィセルとの友情には一点の曇りもない。天にこぶしを突き上げながら、〈運命ファタリタス!〉と言うのが口癖だ。
運命に翻弄される彼は、パリの劇場で『オイディポス王』を観劇し、「まさに私のような男だ!」と叫ぶのである(『黄色い部屋の謎』のオイディプス王悲劇を想起させられる) 。
 船上の闘争、囚人たちが支配する船、奇怪な入れ替わり、別人としての生活、過去からの追手との対決と次々と物語のモードか変わる破天荒な小説であるが、サスペンスとメロドラマ、笑いと恐怖を自在に繰り出す物語のハンドリングは老練な船長のように巧み、結末で数々の伏線が効いてピタリと収まる構成美は、やはり本格ミステリを書いた作家の筆によるものと思わせる。筋の巧妙というところでは、まず屈指の悪漢小説だろう。
 蛇足だが、船上、看守二人が見守る独房からのシェリ=ビビ消失事件と厨房からの消失事件が出てくる。特に解はないのかと思っていたら、後に本人の説明が出てきてこれがなかなかのもの(後者には笑う)で、この辺にも『黄色い部屋の謎』の作者らしさが出ていると思う。

■ジプシー・ローズ・リー『Gストリング殺人事件』


 国書刊行会版〈奇想天外の本棚〉第2弾。『Gストリング殺人事件』(1941)は、米国の伝説的ストリッパー名義による華やかなアメリカン・バーレスクの世界を舞台にしたミステリ。クレイグ・ライスによる代作説が従来は主流だった。欧米の名だたる作家事典は、ライスの作品として扱い、森英俊『世界ミステリ作家事典[本格篇]』でもそれは踏襲されている。また、ジプシー・ローズ・リー名義の第2作『ママ、死体を発見す』は、我が国では、クレイグ・ライス名義で刊行されている(同書の解説の森英俊氏は、代作説に異論を唱えるライスの評伝を書いたジェフリー・マークスの説を紹介して真相は藪の中と書いているが) 。
 本書前説では、酔眼俊一郎氏が、リー側、ライス側双方の伝記等を読み込み、最新の知見で真の作者を明らかにしている。
 ライス代作説が受け入れられたのも道理。本書は、バーレスクの騒動で起きる殺人事件をJ.J.マローン物を彷彿させるようなスクリューボール・コメディのタッチで描いており、その華やかで賑やかな作風は、ライスによく似ている。そこは抜きにしても、数あるバックステージ物としても、有名人が自らを主人公にしたミステリとしても、珍種に属するものだろう。タイトルのGストリングとは、ストリッパー最後の衣装で局部を隠す飾り紐のついたいわゆる「紐パン」のこと) 
 アメリカのバーレスクは、歌と踊りと艶笑喜劇、ストリップで構成されたショーで、「バーレスクとは金のない男向けのレビューなのさ」というのが劇場支配人の十八番の台詞だ。
 バーレスクの花形ストリッパー、ジプシー・ローズ・リーは、今日も今日とて、ニューヨークのオールド・オペラ劇場でショーに出演している。バックステージは騒動の連続だが、楽屋の新しいトイレ設置祝いのパーティのさなか、踊り子のラ・ヴェルヌがGストリングを首に巻き付けて遺体となって発見される。
 この最初の殺人が起きるまで、バーレスクの裏側の人間模様がたっぶり描かれている。華やかで気の強い女たちの職場だから、楽屋は、女同士のいさかいや、男を巡るいがみ合いも絶えない。ジプシーは、人気取りのために最後の一線Gストリングまで取ってしまう踊り子に激怒したりもする。ジプシーらは、警察署の手入れをくらってしょっぴかれこともあるが、支配人は、一時間での釈放を約束、警察まで送るキャデラックを用意し、踊り子たちから喝采が起こる。歴としたエンターテインメント界の一員たらんとする業界人の矜持を感じさせるエピソードだ。
 最初の殺人の後、ジプシーは恋人で一座のコメディアン、ビフ・ブラニガンと憶測を巡らせるが、またしてもGストリング絡みの踊り子の絞殺事件が起きてしまう。
 ステージ上の派手な捕物で、犯人と思われる男が死亡するが、真の犯人は、別にいるとビフは推測する。
 真相は、二重底になっており、謎解きを添え物にしないという作者の気概は感じるが、プロットはやや素人っぽく、最終章まで重要な要素が隠されている点は、マイナス。一方、物語の脇役的な人物、Gストリング売りの男、隣の中華料理屋の店員、踊り子と恋に落ちた警官まで、関係者皆がステーキハウスに集まり、真相が開示され、大団円を迎える雰囲気は、華やかで活気に満ちている。ジプシーは、感情の起伏は激しいが、時に恋する乙女でもあり、強く可愛らしい自画像をこの物語で描いてみせている。
 本書で、ジプシーとビフのその後が気になる方には、続編の『ママ、死体を発見す』もどうぞ。

■パミラ・ブランチ『死体狂躁曲』


 奇想天外の本棚第3巻は、パミラ・ブランチ『死体狂躁曲』(1951) 。さきに翻訳紹介された『ようこそウェストエンドの悲喜劇へ』(1958)が皮肉とウィットたっぷりの見たこともないようなハイスパート笑劇ミステリで、瞠目させられただけに、年に2度も、この英国女性作家にお目にかかれるとは、歓声で迎えたくなる。本書は、かつて同じ訳者の私家版 (ハッピー・フュー・プレス1993) で紹介があったとはいえ、多くの読者にとっても初お目見えの一作だろう(なお、『ようこそウェストエンドの悲喜劇へ』の作者表記は、「パメラ」。同書の解説では、原音は、「パミラ」に近く、刊行に当たって解説者は「パミラ」を主張したというが、同書は慣行に従って、「パメラ」表記となったようだ)。
とにかく、本書は、冒頭からしてぶっ飛んでいる。
 市井の紳士服店主ベンジャミン・カンは、殺人罪で告訴されていたが、無罪の評決を受け、釈放される。彼は実は殺人者に違いなかったのだが。刑事裁判所から出てきたカンをある男が追いかけてくる。クリフォード・フラッシュという男の名にカンは聞き覚えがあった。彼は、3人の人間を列車から突き落として殺した罪で起訴され、無罪放免となった男だった。カンは、誘われるままフラッシュの家についていく。そこには、ほかに4人の男女が住んでいたが、彼らは全員、絞首台を逃れた殺人者だった。フラッシュは、自らが主宰する、無罪となった殺人者であることが会員資格のアスタリスク・クラブに入会することを誘われる。クラブは一種の互助組織で、死亡した場合は、遺産をクラブに遺すことになっている。カンは、すぐ隣の家で下宿することになるが、最初の晩に殺されてしまう。
 釈放された殺人者が、殺人者のクラブに誘われるというのも、奇天烈な話だが、主人公と思われた男が4章目で死体となっているというのも、また異色。
 この小説の真の主人公は、クラブの隣家に住む二組の夫婦、写真家兼探偵作家のピーターとその妻で画家のファン、彫刻家のヒューゴーとその妻で工芸家のバーサ、それに事件に巻き込まれるファンの幼なじみの男性バレエ・ダンサー、レックスの5名なのだ。(このレックスは、『ようこそウェストエンドの悲喜劇へ』でも登場する)
 下宿人カンの死体を抱えたファンは、ピーターの犯行を疑い、レックスとともに死体を処理しようとする。そこに、新たな下宿人の美女がアスタリスク・クラブから送り込まれてくるが、彼女も死体に。二組の夫婦プラス1名は、二つの死体を抱え、右往左往することになる。
 二人が殺害されたことを知ったアスタリスク・クラブの面々は、死体を取り戻すべく、隣家への侵入を企てる。
 本書の筋から、ヒッチコック監督のブラックコメディ『ハリーの災難』(1955) を思い出す方も多いだろう。物語の中核をなすのは、死体を巡るドタバタだが、それに加えて、殺人者クラブという存在があったり、プロ対アマチュアの死体を巡る攻防があったりと、作者の奇想には歯止めがない。加えて、(特に犯罪者側には) 頭のネジが飛んだような人物が多く、その言動は幾度も頬を緩ませる。家に出入りする補鼠官 (ネズミ捕りの男) や使用人連中、犬や猫といった脇役もエキセントリックな個性をもち、いい味を出している。
 死体を抱えてウロウロする人たちを茶化しまくった本書を評するには、「悪趣味」「ブラック・ユーモア」「オフビート」「シニカル」「シック・ジョーク」などという言葉を連ねる必要があるだろうが、読み心地は決して悪くない。死体を抱えて奮戦するアマチュアたち (犯罪者たちも幾分か)は、どこか抜けていて、人間味を感じさせるからでもあるだろう。意外な犯人が明らかになった後の結末には、始まりからは想像もつかない心地の良さまである。
 狂躁的なギャグの連打という点では、『死体狂躁曲』は、『ようこそウェストエンドの悲喜劇へ』に比べて、(これでも) まだおとなしい。叙述においては、英国流アンダーステートメントというか、皆までいわない抑えた表現が微苦笑を誘うという作風。処女作においても、作家独自の個性は十分すぎるほどだが、自らの作風を突き詰め、後の作品で独自の境地に至ったようにみえる。
近年の再評価著しい、この英国女性作家の遺した作は、あと2作というが、また、どこかで出逢える日を待っている。

■ジム・トンプスン『反撥』


 よくぞ続いてくれるものなり。文遊社ジム・トンプスン本邦初訳小説シリーズから11冊目。発表は、『おれの中の殺し屋』の翌年1953年だが、実際には、作者の最初の犯罪小説『取るに足りない殺人』(1949) に続く第2作として執筆され、すぐには受け入れられなかった長編という。
 すぐに受け入れられなかった理由は、想像を巡らすことができるが、まずはストーリーから。
 サンドストーン刑務所で15年の刑期を務めたパット(レッド) 33歳は、身元引受人ドク・ルーサーのもとに仮釈放で引き取られる。パットは、ドクと同じ住居に住むこととなり、名目上の仕事も与えられる。ドク・ルーサーは、元精神分析医だが、現在はロビー活動のようなことをやっており、政界や役所に様々なコネがあるようだ。ドクの周囲には、何らかの不穏な動きがあるようだが、パットに一体何を求めているかは、判然としない。やがて、決定的事態がパットを飲み込もうとする。
 舞台は、「政治家の良心の墓場」といわれる州で、政治家と官吏がグルになって不正をはびこらせている実態が背景にはある。
 読者は、パットに悪い印象は抱かない。刑務所に15年も収監されていたのは、少年期のふとした過ちが不幸の連鎖を生んだからだし、頭も切れる男だ。
 一体、何が進行しているのか、周囲の人はほのめかすばかりで、全体に朦朧としているから、希望をもってシャバに出たパットの「出口なし」の状況は続く。逆にいうと、このパットの置かれた混沌こそが、本書の大きな読みどころといえるかもしれない。
 悪意に追い込まれた男のホワッツダニットという趣が本書にはある。パットは、自分が置かれた状況を知るために、私立探偵さえ雇おうとするが、探偵は殺され、パットはその第一発見者になってしまう。
 結末に向けて薄皮がはがれるように、ドクの正体が明らかになってくる。終幕で明かされる、パットに求められた役割は、意外なもので物語の構図のシビアさを浮き彫りにするような苛酷なものだが、いささか現実離れもしている。同時に、進行している汚職事件のからくりも強い印象を残すものの、メインのプロットとのバランスはあまり良くない。
 結末は、物語全体の苛酷さ、暗さとマッチしないようなもので面喰らってしまう。あるいは、出版に向け商業的理由により配慮されたもだろうか。
 主軸の企みとサブのプロットの連関の弱さ、首尾一貫性を欠く結末とアンバランスなところが目につく本書だが、人物は相変わらず魅力的だ。
 特に、不正のはびこる州で公選の公務員を30年続ける悪を憎む矯正局長マートル、知り合ってすぐ誘惑を仕掛けてくるドク・ルーサーの妻ライラ、ドクの秘書で永遠に若くて陽気なマデリンといった女たちが、実質を伴って迫ってくる。ドク・ルーサーには、現実のモデルがいるようだが、政治活動もしていたトンプスンの父親の面影もあるようにみえる。身元引受人と庇護される青年の関係は、父と子の関係にも似ており、トンプスン小説に度々でてくるエディプス・コンプレックス的な関係と解す余地もありそうだ。

■アルトゥーロ・ペレス=レベルテ『フェンシング・マエストロ』

 
 著者アルトゥーロ・ペレス=レベルテは、国民的人気を誇るスペインの現代作家。1993年に『フランドルの呪画』(1990) でフランス推理小説大賞外国人作家部門を受賞。『呪いのデュマ倶楽部』(1993) 、『戦場の画家』(2006) など邦訳作品も多い。クラシック・ミステリの枠に入る作家ではないが、論創海外ミステリからの刊行であり、簡単に触れておく。
 本書『フェンシング・マエストロ』(1988) には、論創海外ミステリ久しぶりの近年の作品というほかに、作家・高城高氏の手による初の翻訳という話題がある。高城氏は、1935年生まれ。今年、87歳。1955年、「X橋付近」でデビュー。日本ハードボイルドの黎明期において、鮮烈な作品を次々と放ったレジェンドだ。その主要作品は、創元推理文庫の〈高城高全集〉にまとめられており、一時途絶えていた執筆も「函館水上警察」シリーズ、ススキノシリーズ等で再開、今も新しい作品を刊行している。
 高城氏は、大学でフェンシングを始め、ある時期までクラブでプレーをしたそうで、スペイン語は独学の由。本書は訳者が20年以上前から親しんでいた原作をコロナ禍において訳したものだという。
 本書は、1986年9月海外に追放されていた将軍らがスペインに戻り軍事クーデターを企てた名誉革命ラ・グラリオーサの時代を背景に、フェンシングの師範ハイメ・アスタルローアのひと夏を描いた歴史ロマン。
 ハイメは56歳、当時としては老人とされる年代。フェンシングは既に時代遅れの武芸とされており、決闘もピストルに移行している。老いたる師範を主人公にした本書は、幕末の剣豪小説を思わせなくもない。
 フェンシングの個人教授で、糊口をしのいでいるハイメの単調な毎日に、変化が訪れたのは、すみれ色の瞳の美女アデーラが剣の技術の個人教授を希望してから。最初は、女性はお断りと告げたハイメだが、彼女の熱意に一剣を交え、彼女の技量に驚かされる。二人のフェンシングの練習のシーンは、激しく火花が散り、男女の交歓シーンでもあるかのように艶やかさをもっている。ハイメは、彼女にフェンサーとしての特別な資質を認め、突きスラストの秘技をアデーラに伝授するが、やがて女は姿を見せなくなる。
 ハイメは、フェンシングの弟子筋の侯爵から、重要書類を預かるが、やがて侯爵は惨殺される。侯爵の死体には、例の突きの秘技の痕跡があった。
 一介の老剣士が、運命の女と出会い、クーデターの陰謀に巻き込まれ、運命がけの争闘を余儀なくされていく。ハードボイルドな雰囲気すら漂うハイメのたたずまい良し、運命の女アデーラの謎めいた魅力良し、ハイメの秘めたる恋心が燃え上がるのもまた良し。何より、本書の独自性は、フェンシングを知悉した作者による剣の試合のリアリティにある。フェンシングの専門用語が頻出するが、細かなことは分からなくても、その生死を賭けた剣技の迫力の前にさして気にならない。剣と恋と陰謀が運命のごとくからみあい、たどりついた結末に、読者自身が大勝負を闘ったかのように、肩で息をすることになるだろう。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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