「つかみ」が重要なのは、いつの時代のミステリも同じ。
 この1928年に刊行された、一見、古臭げな探偵小説も、冒頭から、読者をつかんで離さない。

■A・E・W・メイスン『オパールの囚人』


 引退実業家リカードは、ロンドンのパーティで、まばゆい美女が、明らかに誘いかけるような笑みを浮かべているのに気がつく。カリフォルニアから来たその娘ジョイスは、友人のダイアナ・タスバーロウに関する相談事があった。何の変哲もないダイアナの手紙に、ぞっとするほど奇怪な、まだ未完成の顔が揺れ動いているのが見えるというのだ。ダイアナに何らかの危害が加えられていることを心配したジョイスは、リカードに、ダイアナの住むフランス、ボルドーの邸宅に滞在し、何が起こっているのか調べてほしいと懇願する。
 この依頼に先立って、「あの事件のおかげで、世の中がすっかり違った形で見えるようになった」「私が立っているこの世界は、巨大なオパールのようなものだ(中略)そして私はずっと、足元にある地面が危険なほどにもろいことを、オパールのようにもろいことを感じている」というリカードの述懐や、リカードの友人パリ警視庁警部アノーの「記憶の中でも最もおぞましい事件」という表現が、さらに読み手を誘うスパイスとなる。
 こうしたストーリーが、いかにも英国風の機知に富み、悠揚迫らぬ調子で進行するのは、芳醇なワインを味わうようで、嬉しくなる。
 本書は、『薔薇荘にて』(1910)、『矢の家』(1924)とミステリ史のマイルストーン的名作に続くアノー探偵譚の長編第三作。戦前に抄訳が出ているのみで、原著刊行から95年を経ての完訳だ。アノー警部&リカードのコンビが扱った事件としては、『薔薇荘にて』以来となる。二人の名コンビぶりは、『ロードシップ・レーンの館』(1946) でも味わえる。
 ボルドーのホテルでアノーと再会したリカード(ここでのアノーのおどけぶりは爆笑もの)は、ダイアナからの招待状を手に、シャトー・スブラックのブドウ収穫祭を訪れる。ダイアナの屋敷には、意外なことにジョイスも滞在していたが、ジョイスを憎しみの眼で見つめる若い夫人をはじめ、不穏な雰囲気が漂っていた。その夜、眠れないリカードは、邸宅での不審な動きを目撃するが、翌日には、ジョイスと若い夫人の二人が謎の失踪を遂げていた。やがて、片手が切断された一人の女性の遺体の発見の報が入る。
 アノーとリカードは、捜査を続け、徐々に、事件の核心を明るみに出していく。リカードは、探偵として、アノーを出し抜きたいと思っている節があり、単純なワトソン役というわけではない。アノーは、しょっちゅう英語の慣用句を誤用し、リカードが腹立ちまぎれに修正するというやりとりも物語のいいアクセントになっている。
 真相は、冒頭に掲げられた言葉が決して大げさではないほど禍々しいものだ。後の時代ならまだしも、書かれた当時としては相当のインパクトがある題材だっただろう。本書は、論理的に推理を積み重ねて謎を解くタイプの小説ではないが、読み返してみると、至る所に手がかりというか、真相へのほのめかしが鏤められており、巧妙な制作物であることが判る。犯人に対しアノーが採った強行手段も、異形の事件に見合うように強烈だ。
 面白いのは、真相が明らかになった後にも、数多くの謎が残り、事件の全容は、ある登場人物の告白で明らかになるところだ。その話は、やむにやまれぬ思いから出た一個のサスペンスフルな冒険譚でもある。本書は、事件の謎解きと裏側で展開された冒険という二つの行為、二つのジャンルのハイブリッドといってもいい。犯人側の行動とそれを回避しようとする側の行動がもつれ、絡み合って事態は、より複雑化したものになったといえる。こうした作品の可能性は、いまだ十全に追求されたとはいえないのではないだろうか。
 見かけはアロマ漂うヴィンテージ、内には、特異な題材とともに、その形式にも先駆性を秘めた一冊だ。

■ナイオ・マーシュ『闇が迫る』


 『闇が迫る』(1982)は、32冊の長編を残したナイオ・マーシュの遺作長編。副題は、「マクベス殺人事件」。
 シェイクスピアの戯曲『マクベス』は、権力に眼がくらんだ将軍マクベスとその夫人による殺人の物語であり、遺児やマクダフらによる復讐の物語でもあることから、ミステリとの相性は良く、作品の題材にしたものや、タイトルにしたものも数多い。先般のクリスチアナ・ブランド『濃霧は危険』でも、主人公の少年が暗誦している『マクベス』の台詞が展開上の鍵となっていた。中には、ミステリ狂の御婦人が探偵小説と間違えて『マクベス』を買ってしまい、作中の「真犯人」を推理するというジェイムズ・サーバー「マクベス殺人事件の謎」というような作品まである。
 そうした中で、本作は、真正面から『マクベス』のミステリ化に挑んだ作として、まず屈指のものではないだろうか。ミステリのガイドブック1001 Midnightsでは、マーシュ作品としては3冊を挙げ、本書をその1冊として選んでいる。マーシュは、女優や演出家として演劇の分野でも活躍した才人で、『殺人者登場』(1935)、『ヴァルカン劇場の夜』(1951)、本書の前日譚Death at Dolphin(1966)などの演劇ミステリも多い。
 気になるのは、横井司氏の解説によると、執筆中は、友人への手紙に、「長い間もて遊んだ挙句、最後にはいつも怖気づいてしまうアイデア」と格闘していると書き送り、作品化の困難さに「書くのは地獄だった」とまで書いている点だ。だが、本書は、英国では好評をもって受け入れられ、記録的な売上げを挙げたという。
 
 本書の冒頭には、主要登場人物一覧とともに、劇場上演の配役表が掲げられている。
 本書の主人公は、演出家のペレグリン・ジェイ。ロンドンのドルフィン劇場では、「マクベス」上演の稽古が始まった。俳優陣には、一癖も二癖もあるのが揃っている。「マクベス」上演は、凶事を招くという演劇関係者の迷信があるらしく、それを素直に信じる女優もいる。マクベス役の俳優が夫人役の俳優に色恋を仕掛け、それに、劇中で復讐を果たすマクダフ役の俳優が嫉妬するという三角関係も起きている。舞台には、何者かが木製の剣を置き、演出家が負傷するなど不審事も起きる。そんなトラブル続きの中で、見事な「マクベス」が完成し、「完璧なマクベス」として成功を収めるまでが、物語半ばまで。ここまでは、「マクベス」の悲劇を深化させるペレグリンの演出を追いつつ、トラブル続きの一座の見事なバックステージ物にもなっており、読者は一つの作品を作り上げることの爽快感を主人公や関係者と共有し、ミステリであることを忘れてしまう。「マクベス」も、二度演出した経験があるという作者の面目躍如である。
 二週間ほど上演が続いた後に、舞台上で事件は起きる。「マクベス」の終幕、復讐を果たしたマクダフらの戦果として従者によりマクベスの首が掲げられるのだが、その首からは、血がしたたっていた。作り物のマクベスの首が、実際のマクベス俳優の首と入れ替わっていたのだ。ショッキングな殺人事件である。演劇ではないが、民俗舞踏の本番中の首切り殺人を扱った同じ作者の『道化の死』(1956)を思い出させもする。犯行可能だったものは、役者らに限られる。犯人は誰で、なぜこのような現場を選んだのか。
 事件の解決に当たるのは、演出家のぺレグリンとDeath at Dolphin以来、旧知の中であり、たまたま観劇していたロデリック・アレン主席警視。
 この謎解き部分のできは、残念ながら、あまり良くない。そもそも、犯行に及ぶことができる人物が限られている上に、アリバイづくりの可能な者を考えると、おのずと犯人は限定されてしまう。また、動機も納得のいくものとはいえない。観劇中のぺレグリンの息子が気づいたものから、犯行解明のくだりになる点は、ドメスティックな描写に力を発揮したこの作者らしいが。
 作者がいう「最後には怖気づいてしまうアイデア」とは、劇の最後に掲げられる首が生首にすり替わっているというものだろう。鮮烈なシーンだが、登場人物がリアリスティックだけに、事件は生々しすぎないか。劇の冒涜ともとられかねない。また、犯人に意外性をもたせようとすると、現実の劇の進行とそぐわず、生首にすり替える必然性も難しい。劇中の登場人物と生身の俳優の二重性を作品にどう生かせばいいのか。作者は、様々な隘路に陥ったことを告白しているのだろう。
 「地獄だった」といいつつ、作者は、難業に挑戦し、作品を書き終えて生涯を閉じた。そこに、ミステリ作家としての業のようなものを感じてしまうのは、不謹慎ではあるまい。

■二―ナ・デ・グラモン『アガサ・クリスティー失踪事件』


 1926年、世界で最も有名なミステリ作家が実際に起こした11日間の失踪事件を題材に、書き上げられた2022年刊のフィクション。
 クリスティー失踪事件は、ヴァネッサ・レッドグレーブ、ダスティン・ホフマン主演の映画『アガサ』(1979)の題材にもなったし、その後も、ノンフィクションの刊行等がある。
 英国最長のSFドラマシリーズ「ドクター・フー」には、「アガサ・クリスティ失踪の謎」の回があり、失踪当日、連続殺人が発生し、クリスティー自身が探偵役を務めるというエピソードがあった。
 この世紀の文学的謎のあらましは、以下のようなもの。
 1926年12月、アガサ・クリスティーは、夫(アーチー)の不倫を巡って大喧嘩をした後、秘書と夫のそれぞれに宛てて手紙を残し、失踪をした。1920年にデビュー以来、六作目の長編『アクロイド殺し』で話題を呼んでいたこともあって、この新進気鋭の作家の失踪は、世間の耳目を集め、延べ数千人の警官が捜査に動員された。夫による殺害まで疑う警官もいた。11日後、ヨークシャー州のスパ・ホテルに滞在しているクリスティーが発見される。彼女は、夫の愛人の姓で宿泊をしていた。本人は記憶をなくしていたと主張し、何を尋ねても「思い出せない」と繰り返すのみ。その後も、クリスティー自身は、この事件の真相については、触れることなく生涯を終えた。
 この事件については、失踪当時、エドガー・ウォーレスやドロシー・L・セイヤーズが独自の推測を発表し、ウォーレスは小説化もしているという。本書では、出版エージェントに依頼を受けて、コナン・ドイルが出馬する一幕もある。

 本書『アガサ・クリスティー失踪事件』は、この事件を土台に、綿密な調査を行った上で、虚実取り混ぜた人物を配し、想像の翼を羽ばたかせたロマン。
 物語は、夫アーチー・クリスティー大佐の愛人ナン・オディーの一人称で綴られ、叙述は、ナンの過去と現在を行き来する。ナンは、ロンドン生まれの四人姉妹の三女で庶民の娘。少女期に親戚の住むアイルランドを頻繁に訪れ、彼の地の魅力に囚われる。アイルランドの青年と将来を誓うが、戦争(第一次世界大戦)が二人の仲を引き裂く。彼女は、その後苛酷な体験を経ていることが徐々に明らかになる。心に深い傷をもつナンと、上流の家に生まれ、筆で生計をたてられるアガサとの対比が印象深い。アイルランドの修道院でのナンの苛酷すぎる体験は、インスパイアされた本もあるようだが、生々しく、悲痛だ。
 本書は、その展開に驚くところが多いが、その手始めは、ナンがクリスティーとごく近くに滞在し、交流にまで至る点だ。さらに、スパ・ホテルの宿泊客の夫婦の謎の殺人事件が起きる。やがて、ナンがアーチーと不倫をしている驚愕の理由が明らかになる。それは、愛でもなければ、金でもない。ちょっと想像を絶する理由によるものだ。最後には、殺人事件の意外な動機と犯人が明かされる。
 これらは、プロット上の驚きだが、アガサの行く手にも、新たな恋愛が訪れる。我々のよく知る人物を彼女の性愛まで含めて、ここまで空想の羽根を伸ばしていいのかという気もするが、彼女の運命に訪れるロマンティックな転回も、小説としての眼目の一つだろう。
 本書について、作者は、「事実はおそらくこうだっただろう」という推測に基づくものではなく、「わたし自身の純粋な想像から生まれた物語」としている。その言葉のとおり、事実をベースにした謎解きや、事件とクリスティー作品との関連の探求といった要素は薄い。
 小説としては、(エクスキューズはあるものの)ナンの一人称では語り得ないことが語られたり、登場人物の心理に納得のいかない点があるなど、不自然さも感じさせる。夫婦の殺害事件の構成の弱さを指摘するむきもあるだろう。それでも、本書は、現実にあった苛酷な女性受難と現実の失踪事件をアクロバティックに接合した野心的な作品とはいえるだろう。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


◆【毎月更新】クラシック・ミステリ玉手箱 バックナンバー◆

◆【毎月更新】書評七福神の今月の一冊【新刊書評】◆

◆【随時更新】訳者自身による新刊紹介◆

◆【毎月更新】金の女子ミス・銀の女子ミス(大矢博子◆)