・La Maison des sept jeunes filles, 1941/11/26(1937夏-秋 執筆)[原題:七人の若娘たちの家] ・« Votre Bonheur » 1938/2/13-4/30号 ・Tout Simenon t.22, 2003* Les romans durs 1941-1945 t.5, 2012 ・映画『La maison des sept jeunes filles』アルベール・ヴァランタンAlbert Valentin監督、アンドレ・ブリュノAndré Brunot、ジャン・テシエJean Tissier出演、1942/2/6[仏] |
彼はもう一度窓から書棚まで歩いた。3歩だった。今度は書棚からドアまで進んだ。これが彼の書斎で行き来できるすべての距離であり、家のなかではもっとも小さい部屋で、またもっとも家具が多い部屋のひとつでもあった。
ドアのところまで来たとき彼は耳を澄まし、そうしながら不安にならずにはいられなかった。もちろん、この家は小さい。ほかの新築の家と同じように。だが古い家のごとくしっかりしている。床は本物の床であるし、ちゃんと天井は天井であり、壁は壁だ。
ただ、そのとき、彼はそうしたものすべてがまるで漫画映画の家のように爆発したりぶわっと膨らんだりするのではないかと思ったのだ。
「ウゲット!」とギヨーム・アドランは呼んだ。彼はカーン高校の歴史教師で、大いなる威厳と落ち着きを持って、自分の書斎の境界上に立っていたのだった。「ウゲット!」……。
「はい、パッピ……」
彼はしかめ面をした。パッピといつも呼ばれていることだけでなく、耳にしたすべてが馬鹿げていた。ドアが強く閉まる音も、駆けてくる足音も、床が軋んでいることも、自分の叫んだ声がまるで20回ものいい争いに聞こえたことも。
「この大きさで大丈夫なのか?」と、アドランはカーンのいちばんの新興区でもっとも空気のよい場所に家を建てるとき何度も念を押したのだった。
「12人のご家族には普通ですがね」──と建築家は誓った。
だがアドランはたった七人しか娘がいないのだった! そしてその七人の娘は、これじゃ本物の家じゃなくて人形の家みたいと感想を述べるほど満足したのだった。(瀬名の試訳)
今回読む『La Maison des sept jeunes filles』[七人の若娘たちの家]は、英語にも日本語にも翻訳されていない、珍しいシムノン長篇のひとつである。だが本作は戦時中の1942年2月に映画化された。原作本が刊行されたのは前年(1941年)の11月で、映画公開まで2か月ほどしかない。つまり本作は映画の宣伝に合わせて刊行時期が設定されたのであろう。実際、シムノンが本作を書いたのは4年前の1937年といわれている。その間、刊行せずに寝かせていたわけだ。
映画の企画がもとからあってシムノンがその話を受諾して書いたのか、あるいはストック原稿が映画に起用されたのか、どちらが先だったのかは詳しく資料を見ていないのでわからないが、いずれにせよ本作は数あるシムノン作品のなかでもとりわけ個性的な小説に仕上がっており、「これでは翻訳が出ていないのも無理はない」と思わせるほど規格外れの作品だ。いちおうロマン・デュールの一冊の数えられているものの、本作はデュール(硬質)でもなければミステリーやサスペンスでもない。いままで読んだなかでいちばん似ている作品は何かと振り返ると、おお、そうだ、リュック・ドルサン名義の初期艶笑譚『ベヌヴィルの乙女』(第21回)が思い当たる。本作は端から端まで恋愛喜劇なのである!
原著がガリマール社の本はfolio(フォリオ)というレーベルからペーパーバックが出る慣わしで、中期のシムノン作品も近年はfolio policierというミステリー部門に統一され、本作もそのレーベルで出ているわけだが、「いや、さすがにこれはポリシエ(ミステリー)じゃないでしょう」とツッコミを入れざるを得ず、表紙デザインも突き抜けたやけくそ感が漂って微苦笑を誘う。普段のシムノンと違う点はまだある。最初から映画化を狙っていたのか、分量もいつもの3分の2ほどしかなく、しかも全編にわたって会話が文章のほとんどを占め、まるでシナリオやシノプシスをそのまま小説化したかのようでもある。いや、本当にシムノンはたんにシナリオをノベライズしただけではないのか? そんな疑惑を覚えつつ映画を観てさらに驚いた。映画版は基盤の設定こそ同じであるものの、ストーリーは違うからだ! なんと映画の脚本家はちゃんとシムノンの原作をアレンジしてストーリーをつくり直している!
してみると本作は映画というより、むしろ1幕劇の舞台化を念頭に置いて書かれた喜劇のように思える。実際、物語の舞台も多くは室内で、セットを組んで役者たちが入れ替わり立ち替わり登場して演技するにはちょうどよい。シムノンは何度か舞台劇のシナリオを手がけたことがあり(第52回参照)、本作はそれと同じ感覚で書かれたようでもある。
さて読者の皆様は、では結局のところ本作は面白いのか、そうでないのか、そこに最大のご興味があるだろう。常識的に答えるならば、わざわざ一般の人が山田風太郎の『忍法相伝73』(1965)を読む必要がないのと同様、シムノン熱愛者でもない限り本作を読む必要はないだろう。しかし私はここでずばりいい当てるが、あなたはもちろん2013年に戎光祥出版から復刊された『忍法相伝73』を購入しており、大切に本棚に並べているだろう。そしてもちろん積ん読状態であろう。まったくそれと同じことだ。そしてさらに当てるならば、あなたはときおりぽっかりと時間が空いたとき、まだ読んでいない風太郎の他の忍法帖や明治ものや室町もの、ずっと傑作であることが最初から明白である他の本をすっ飛ばしてでも、むずむずと『忍法相伝73』を手に取りたい欲求に駆られ、抗えない気持ちになることがあるだろう。そして『忍法相伝73』に手を伸ばしながらも、つい最後の瞬間に気の迷いを見せて、その脇にある『醗酵人間』(2014)を読んでしまったりするだろう。というわけできっとあなたも本作『七人の若娘たちの家』を読みたくなるに違いないのだ。そして私は請け合うが、本書は意外と面白い!
フランス北西部カーンの新興住宅地に新築の家を建てて十数年暮らしてきたアドラン一家は、このところ最大の問題に直面していた。宅地のローン返済が滞り、当時借金をした近隣住民のロリーヴ氏35歳が頻繁に催促に訪れるようになっていたのだ。これ以上返済を延ばそうものなら町役人に取り立てを願い出て、家屋や家財を差し押さえなければならないという。だが一方でその日、アドラン家は初めてやって来る若き男性を迎える準備で大忙しだった。娘のひとりウゲットが、初めて婚約者ジェラール・ボワデューを招待したのだ。
家主ギヨーム・アドラン53歳はカーン高校の歴史教師であり、いつも微笑を浮かべている妻との間に7人の娘がいる。長女のロベルトは27歳で、食事やお茶の仕度で台所に立つことが多い。クロティルド25歳は近くの町イシニーの教師。ローランド23歳はいちばんの美人で頭もよく、薬局の助手として働いている。今回フィアンセを招いたウゲットは20歳。エリザベス18歳はデパートの売り子。そして末娘は双子の学生姉妹、16歳半のコレット(愛称ココ)とミミである。夫婦と娘7人、総勢9名がひとつ屋根の下で暮らしていることになる。2か月前ウゲットは妹といっしょに映画を観に行き、そこでジェラールと出会い、毎週水曜には妹らと連れ立って親交を深めるようになったのである。彼はカーンのアパルトマンに住んでいる。
婚約相手のジェラールは高名な老ボワデュー将軍の息子で、もし娘が彼と結婚できたなら一家は安泰だ。そしてアドラン家の当主であるギヨームも、自分はウィリアム征服王(ウィリアム一世、1066-1087)にまで家系が辿れる生粋のノルマン人であると信じているから、彼としてはこの縁談を何としてもまとめなければならない。父であるギヨームは娘にピアノを弾かせ、歌を歌わせ、さらにはジェラールに古い文書を披露し、自分たちの由緒正しい家系をアピールする。だが末娘ココの姿が見えない。家族全員で歓待しなければならないのにどこにいるのだ。気を揉んでいるとココが魚を持って自転車で釣りから帰ってきた。7娘のなかではいちばん自由気ままな性格の持ち主だ。同席していたロリーヴ氏は「返済はあと2か月待つが、それが限度だ」といい残してその場を去って行った。つまり2か月で婚約をまとめないといけないのだ。
ときは11月。日中は明るい陽射しもあるが夜になれば寒く、朝には町に霧が立ち籠める。婚約相手のジェラールは申し分のない青年のようだが、ギヨーム・アドランには気がかりな点があった。なぜ彼は町内に部屋を借りているのだろう。ひょっとして他にも女がいて、家族や親族に知られぬようこっそり連れ込んでいるのではないか。まさか娘のウゲットも、そうしたふしだらな女のひとりとして軽く扱われているに過ぎないのでは? というのも、あの歓待から15日後、ギヨームは偶然ロリーヴ氏と町で出会い、以前ジェラールのアパルトマンへ電話をかけたとき女が受話器に出たと耳打ちされたからだ。さらにロリーヴ氏の話によると、先週日曜にあの歓待パーティがあった後、木曜にレプロン通りのジェラールのアパルトマンにウゲット以外の女が入ってゆくのを見たという。しかもそれは娘のひとりローランドだったというのだからギヨームは驚いた。ローランドは15分ほど彼の部屋にいたらしい。さらに土曜には長女のロベルトも彼の部屋に半時間ほど入ったというのだ。
一方、家では娘たちの仲がぎくしゃくするようになってきていた。以前から長女ロベルトは、いままで自分にも結婚の機会はあったのに、借金取りのロリーヴ氏のおかげですべてぶち壊しになって、この年まで独身で暮らしてしまったと台所で嘆くことがあったが、とりわけロベルトとローランド、末娘ココの間で衝突は大きく、ココは庭にテントを張ってひとりで暮らすといい出す始末である。「ロベルト姉さんはいつもお金、お金、お金のことばっかり!」──とにかくアドラン一家は、みなが言葉をしゃべらず静かなときでさえ、もはやねじが外れた状態だった。そんなこんなだから父ギヨームは、末娘ココが自分のことを「お父さん」ではなく「パッピ」と呼ぶのが気に障る。一方でココは、父がときおり愛称ではなく「コレット」と本名で呼ぶことが、よそよそしくて嫌いなのだった。
と、このように、最初からわあわあと騒がしい場面が延々続く。スクリューボール・コメディ? まあコメディと呼ぶほど滑稽なシーンがあるわけではないが、7人娘の家というだけで気忙しい擦れ違いドラマの内容が容易に想像できることだろう。(おそらくは当時の世界的不況下で)ローンが払えず、金持ちとの結婚に気を揉む父親と、本当は自分は愛されていないのではないかと悩む純真な若娘など、1930年代から1940年代にハリウッドで盛んにつくられた恋愛映画のフォーミュラそのものである。映画版も最初に娘がピアノで歌い出すシーンがあるので、いつミュージカル仕立てになってもおかしくないと、内心ひやひやしながら視聴した。
ローランドは彼に勉強を教えてもらうために部屋を訪れただけで、恋愛感情はまったくないと父に主張する。ジェラールは応用生物学に関心があって自然科学者を目指しており、自分も薬局の助手なので話が合うというのだ。しかし長女のロベルトが彼の家に行ったことについては何も知らない様子だ。アドラン家には頻繁にロリーヴ氏が訪れる。どうやら彼はもともとウゲットが好きだったようなのだ。しかしウゲットは15歳も歳の離れた男と婚約することは耐えられず、映画館で折良く知り合ったジェラールへの結婚に走ったのかもしれない。だが聞くところによればローランドはジェラールの家に二度も行き、一度は彼の車に乗ってどこかへ出かけたこともあったらしい。聡明なはずの娘ローランドは、妹ウゲットから婚約者を略奪しようとしているのだろうか? しかし父ギヨームはローランドからよくよく話を聞いて知った。ウゲットの婚約者ジェラールは母の感情を逆なですることをとても怖がっている男だというのだ。彼がカーンのアパルトマンに住んでいるのは、母親がカーンの荘園に暮らしており、見舞いに赴くためらしい。ローランドはそれについてゆくため車に同席したのである。しかし心配性の母親の前に顔を見せることはできず、ついに月末の寒いある日、やはり車でジェラールに連れ添って荘園へ行った彼女は、相手の母親に気づかれぬよう物置のなかでひと晩過ごすはめになり、そのおかげで風邪を引いてしまった。未婚の若娘が無断で家を空けてしまったことになる。父ギヨームは自らジェラールの家を訪れ、相手は不在で会えなかったものの、自分だけでなく娘たちもみな複雑な状況に置かれていることにようやく気づく。
ただ、ジェラール自身、本当に自分はウゲットと結婚したいのか、それとも本当に愛する相手は話の合うローランドなのかわからなくなってきていた。ローランドは荘園でついに母親に見つかり、追い出される。とぼとぼと町を独り歩きながら、彼女は寒くてやるせなくて仕方がなかった。彼はただの臆病者だ! でも、そういう自分はいったい何だろう? 「ばか!」とローランドは悪態をついた。手持ちの金もわずかしかない。街中でローランドは偶然にもココと出会い、家から金を持ってきてくれと妹に頼む。事態を察したココは家に走り、ドア口には長女のロベルトが出てくれたが、すでに家財は町役人にすべて差し押さえられてしまったそうで、何も持ち出すことはできない状態にあった。
実はココも父や姉たちに話していない秘密があった、初めて姉と連れ立ってジェラールとの映画デートに同席したとき、この人は姉のウゲットよりも私のことを好いていると直感したのだ。しかし姉の恋人を奪うことなどココにはできない。そこでそのとき彼女は咄嗟に、自分は15歳だと年齢を偽った。それほど若ければ彼は恋愛の対象から自分を外し、姉のウゲットとの恋心を育むだろう。
誰がジェラールと結婚する? だが家族の借金のことを思うと、まず誰かがロリーヴ氏と結婚する必要があるのではないか? ココは200フランだけ手にして、急いで姉ローランドのもとへ向かった。だがローランドはすでに決意していた。ビストロで彼女はココにいった。「私はロリーヴ氏と結婚するわ」
「頭がおかしくなったの?」とココは驚く。だが姉は取り合わなかった。「馬鹿なこといわないで。私は死にたかった。だからもう思い残すことはないでしょ」「私はまだ生きたいわ。ロリーヴ氏と結婚するなんて、死ぬのと同じことじゃない。私は嫌よ! 姉さん、あなたは利己的だわ!」「何をするつもり?」
ココは黙ってビストロを出て行った。町は霧に煙り、自分の吐く白い息もすぐさま霧に混じって消えてゆく。家に戻ったココには姉のロベルトやウゲット、双子の妹ミミを始め、姉妹全員と父親とで話し合うべきことがあった。
ココも冬の寒さが祟ったらしい、その夜彼女は風邪で寝込んでしまった。翌朝、父は学校へ出勤し、母も買い物に行き、ウゲットたちも出て行って、家には長女ロベルトと末娘の双子、ココとミミの3人だけとなった。いまこのときしかチャンスはない。寝床でココは妹のミミに外の偵察を頼み、ロベール氏を見つけたら家に連れて来るよう指示した。もし父のいう通り、自分たちがウィリアム征服王の子孫なら、自分たち7姉妹にも少しは野生があるはずだ。ココの最後の秘策が始まる。
物語そのものについては、とくに解説や深読みの必要もないだろう。本作は普段のシムノン長篇の3分の2ほどしかないと先に述べた。実際には本書は全6章からなり、5章まではいつものシムノンの呼吸と変わらないのだが、最後の第6章だけが半分の長さで目立って短い。正直なところ私は読み進めながら、「ふーん、恋愛コメディねえ。まあ、星取り表をつけるなら1つか1つ半といったところだろうか」などと思っていたのだが、最後の第6章に至ってもう本当に嬉しくなって、知らず知らずに顔が綻んでにやけてしまった。
この最後の短い第6章が、実に、実にチャーミングなのだ! いやあ、シムノンがもともと艶笑コントで作家の腕を磨いて出世してきた人物であったことを忘れていた。もちろん本作にエロティックなところはどこにもない。だがペンネーム時代の艶笑譚でも、突き抜けた爽快な読後感があったことを忘れていた。シムノンはペンネーム時代に読者のニーズに応えて悲恋ものも量産したので、シムノンといえばたとえ恋愛小説でも暗くて陰鬱、バッドエンドが常道だという思い込みに陥りがちだが、それ以前にシムノンは最終章がいつも抜群にうまい作家であり、その最後の一章があるから次の本も読みたいと読者に思わせる力量の持ち主であり、そしてかつてはあっと驚くような持ち前のその見事な決着のつけ方を喜劇にも発揮して、私たち読者を楽しませてきた実績があった。今回もわずか数ページの最終第6章が素晴らしい。おしゃれで、可愛らしくて、往年の恋愛コメディ映画のハッピーエンドそのものだ。このラスト一章があるから、悔しいけれど嬉しくて降参だ、評価は決して低くできない!
本作の映画版を観ると誰もがさらに驚くだろう。映画ではなんと隣人のロリーヴ氏が主役といっていい役回りなのだ。その分ジェラールの影が薄い。ジェラールは画家見習いの優男で優柔不断だが、いつしか彼の動向を偵察していたロベール氏自身が、アドラン家の娘たちに好意を抱くようになってゆくのだ。ということで映画版でも最後に末娘のココは策略を見せるが、そこでは別のハッピーエンドが待っている。ロベール氏もまた最愛の相手を見つけるのである。
原作の最終章にこんな台詞がある。煮え切らなかったジェラールへの言葉だ。
「最初に会ったとき、あなたは個性ある人に見えなかったの。でもだんだん……。自分を責めないで、ジェラール!」
そう、本作を読み始めたとき、私はあまりにも登場人物が多すぎて、7人もの若娘や周りの大人たちのキャラクターが見えなかった。しかしだんだん……、いつの間にか私はちゃんと7娘を見分けることができるようになっていたし、男たちそれぞれの個性もわかっていたのだった。劇場に入ってまずパンフレットを購入し、自分の席に座ってパンフレットをぱらぱらと眺めて開演時間を待つとき、私たちはたいてい役者の顔と役柄が一致せず、こんなにたくさんの人が出てきて区別がつくのかと不安に思ったりする。だが舞台が終わってひとりずつ役者がアンコールに応えて出てくるとき、私たちは拍手を送りながら、ひとりひとりの名シーンが心に浮かび、もう誰が誰なのかを間違えることはない。
そしてラストが楽しい舞台劇はたいてい、いや、ほとんどすべての場合といってよいが、私たちは温かく心満たされて帰路につくものなのである。
お待たせいたしました。ついに今月(2022年4月)下旬、選びに選び抜いたシムノン初期の傑作2篇を、合本のかたちで日本の皆様にお届けできる運びとなった。どちらも本邦初紹介、翻訳をご担当下さったのは気鋭のフランス文学者であり作家の森井良氏。幻戯書房〈ルリユール叢書〉の『運河の家 人殺し』(https://genkishobo.exblog.jp/29131722/)、ぜひご堪能いただきたい。
瀬名の初読時の感想文は、本連載第37回と第55回(当時はタイトルを『殺人者』と記載)を参照。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。 文理の枠を超えた「パンデミックと総合知」をテーマに、母校・東北大学の研究者らとの対話連載を展開中。記事構成は翻訳家・サイエンスライターの渡辺政隆氏(https://web.tohoku.ac.jp/covid19-r/people/)。 ■最新刊!■ |
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