みなさま、カリメーラ(こんにちは)!

◆実存ミステリ――ドン・キホーテの従者となって

 ミステリ小説のサブジャンルで「実存ミステリ」というのがあるのかどうかわかりませんが、ある作家・・・・を評するとき「実存的イパルクシアカテーマ」とか「実存的イパルクシアキ 孤立からの逃避」といった言葉が目につきます。ことさらサルトルやカミュの思想を考えなくても、「イパルクシ」(ύπαρξη)は「存在、在ること」という普通の語なので、おそらく登場人物が自分の存在価値、存在の意味に迷ってあがき苦しむ作品ということでしょうか。ミステリ小説と結びつくと、書斎に座って思索するのではなく、犯罪に巻き込まれたり捜査したりする中で、自分の存在や生にはいったいどんな価値があるんだろうと悩むストーリーが展開するのでしょう。「哲学ミステリ」と呼べば、堅苦しくなりますが、日本語のイメージとしては近いかもしれません。

 ある作家とは、すでにエッセイ第9回に登場しているヴァシリス・ダネリス (Βασίλης Δανέλλης) です。デビュー作『黒ビール』(Μαύρη μπίρα, 2011) は主人公がたまたま知り合った男の死の真相を、自身の生きる意味にもつながるという思いから、頼まれもしないのに追及します。第三長編『列車の男』(Άνθρωπος στο τρένο, 2016) ではホームの転落事故をめぐる証言が実は各証言者自身の人生を反映し、恣意的に再編集されたものであることが明かされ、ただ一つの客観的な真実など本当にあり得るのだろうか、が問われます。


ヴァシリス・ダネリス『黒ビール』
カスタニオティス出版社、2011年。

ヴァシリス・ダネリス『列車の男』
カスタニオティス出版社、2016年。

 今回ご紹介するのは五作目、最新の短編集『自分を失った男』Ο άνθρωπος που έχασε τον εαυτό του, 2022)です。『列車の男』以上にミステリをはみ出していますが(扉ページにもただ「小説」と表記)、本エッセイはとにかく読み応えのある面白いギリシャ小説を取り上げたいと思っていますので、ご登場願いました。


ヴァシリス・ダネリス『自分を失った男』
カスタニオティス出版社、2022年。

『自分を失った男』は8つの短編とエッセイ1篇を収めています。
 最初に打ち明けておきますが、このうちある作品はテーマや狙いがこちらの心にストンと落ちてけっこう納得しながら読めたのですが、ある作品はちょっと理解ができませんでした。
 とにかく、簡単にご紹介していきましょう。

 まずは「最初の殉教者」“Ο πρωτομάρτυρας”なる奇妙な短編から始まります。
 町にはロクに知り合いもいない新参者の作家《私》が、終日カフェに座ってボルヘス作品の研究に没頭しています。そこへキックボードに乗った妙な男が現れ、突然「サンチョ、ついてまいれ!」とどやされるまま大慌てで旅立った《私》は、いつの間にか怒涛の追跡、竜やら一つ目巨人やらとの対決へと突進していきます。熱量十二分のアクションシーンが展開しますが、初っ端に置かれたこの風変わりな作品をどう受け止めればいいのか、正直戸惑ってしまいました。

 8つの短編にはいずれもエピグラフが付いています。別にそのことばにこだわらなくても各作品を味わうことはできるでしょうし、そもそも作家の引用した狙いが元の作品のテーマと一致しているとは限りません。ただ、どこから着想を得たのだろうかと舞台裏を覗こうとするなら、引かれた元の作品も読んでみたくなります。
「最初の殉教者」のエピグラフはちょっと特別です。引かれているのは作者ダネリス自身の本(文章?)「海辺の墓地の詩人」からで、「なんびとが彼を骨の散らばる地へと招いたのか?」という一節ですが、実はこの本は実在しません。「海辺の墓地」というのは、ボルへス『伝奇集』「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」に登場するメナールなる作家が偏愛し別の詩形に書き換えたヴァレリーの詩です。「最初の殉教者」の冒頭で《私》がカフェで研究していたのはこのボルヘス作でした。ややこしいことに、このメナールはボルヘスが創った架空の作家です。つまり、ダネリスはボルヘスの虚構を利用して、さらに虚構を重ねているのです……などと調べてみても、しかし頭がクラクラするばかりで、ダネリス作の理解にはあまり役立たない気もしますが、それよりも本の献辞がヒントを与えてくれました。
『自分を失った男』冒頭には「わがドン・キホーテ、ティティナへ」との献辞があり、(以下で触れますが)巻末エッセイにも、文学上の師であった伯母のティティナ・ダネリ(2021年死去。エッセイ第4回)の思い出が綴られています。とすれば、文学の道へ導いてくれた伯母と作家自身の辿った苦難の文学修行を、ドン・キホーテ&サンチョの道行に置き換え、立ちはだかる怪物たちの妖しげな幻想で包み上げた魔術的リアリズムの作品ということになるでしょうか。

 二番目の「ミルティアディス・ルソスの心理連合」“Η συνομοσπονδία των ψυχών του Μιλτιάδη Ρούσσου”もやはり設定がぶっ飛んでいますが、より具体的な社会を舞台にして、挑発的なテーマがもろに突きつけられるので、分かりやすいとは言いませんが、楽しんで読めます。
 アテネのオリュンピオス・ゼウス柱廊のそばで突然銃声が響き、チェスに興じていたルソスたちは慌てて避難を始めます。続いて二発の銃声が聞こえ、路上で額から血を流す若者をルソスが助け起こそうとすると、何者かの声「そいつに触るな、立ち去れ!」。
 時代背景ははっきり書かれません。軍事政権の公安警察か鎮圧武装隊から逃げようとするレジスタンスの光景でしょうか。ただし、具体的な史実はそう重要ではありません。問題となっているのは、ヒーローでも何でもない普通人が、身の危険を冒しても若者を助けるべきかどうかです。
 ここで突然、読者は危機に直面したルソス氏の脳内に放り込まれます。中では無数のルソスの《自己》が緊急会議を開きます。皮肉屋、短気、冷笑、不寛容から論理家、慈悲深きタイプまで様々なルソスがいて、喧々囂々けんけんごうごうの大議論が吹き荒れます。
 ルソスは、そして作家自身はどのような結論に至るのか。これが強烈なサスペンスを生み出します。
 こちらのエピグラフは、イタリア人作家アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは……』の「人格は魂の連合からなり」云々という一節です。この場合は明らかにダネリス作品の内容とつながっていますが、あるひねりが施されています。
 ダブッキ作は第二次大戦直前のスペイン内戦期を舞台にして、お隣りポルトガルの小さな新聞社で文芸欄を担当する記者が、体制に反対し迫害される若者と知り合うことで自分の生き方が揺さぶられていく話です。現実の社会情勢や政治問題とは距離を置き、過去のバルザックやドーデの翻訳に没頭してきたけれど、心の奥底では納得できないモヤモヤを感じていた記者が中年になった今、不条理な現実を前にどんな行動を取るのか? 作者がどう結末をつけるのかが読みどころです。
 記者が自己省察を続ける中で、人間の人格はたくさんの魂の連合から成り、その間で支配者を目指す抗争が絶えない、というフランスの心理学説が飛び出します(主人公の知り合いの神父は「人間の魂はただ一つですぞ。分割することなどできないでしょうに
と仰天)。記者が取る行動を周囲の人間たち、若者や秘密警察とのやり取りを通じて、外から描いていくのに対し、ダネリス作は主人公の頭の中へ直接飛び込み、ひとりの人物の脳内で多くの精神が激論を交わす様子を内部から炙り出します。いわば『供述によるとペレイラは……』の変奏曲です。
 最後に到達する答えはダブッキとは異なるのか? これも比較してみると面白いです。

「Η・Η氏の眼鏡」“Τα γυαλιά του κυρίου Η. Η.”でも奇妙な現象が描かれますが、ストーリーは明確で物語に引き込まれます。
 H・H少年が教師に指示されて、嫌々ながら眼鏡を作らされますが、そこでの視界の広がりに驚嘆します。年齢とともに近眼が進み再び見えづらくなりますが、老いても手足が取り換えられないのと同じく、今や自分の目そのものである眼鏡を替えることはできません。そんな時同僚レギーナの真摯な勧めで新しいのを作るのですが。大人になった今、世界が明瞭に見えることに対して彼はどう反応するのか……
 エピグラムは哲学者キルケゴールの日記の一節「私が書こうとするのはある眼鏡を手に入れた人物の話である。一方のレンズの影像が小さくなると、釣り合いを取ってもう一方のレンズの影像が大きくなる」。この日記の前後がどうなっているのかよく分かりませんが、わずかこの一節からダネリスはウイットと皮肉に富むストーリーを考案したのでしょうか?(重要な登場人物にあえてキルケゴールの婚約者の名をつけたのはお遊び?)

「五百ドル」“Πεντακόσια δολάρια”はパワーにあふれた作品です。日頃バーにとぐろを巻く謎のアメリカ人が借金を返そうと、貸手を探してアテネ中を彷徨さまよいます。たまたま知り合った語り手も付き従い、さらにアメリカ人の知り合いたちがそこかしこで参加して大勢が町を練り歩くことに。
エピグラムはイタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(別題『マルコ・ポーロの見えない都市』)の「今や過去からははじき出された彼は、別の過去あるいは未来の待つ他の町に行かなくては」ですが、むしろ作中で触れられるメルヴィル『白鯨』のイメージとの重なりの方が強烈です。アテネの街角がやがて大洋の波と化し、男はエイハブ船長に、語り手は人食い族の船員クイークェグになって舗石の下の潜む巨大なクジラを追いかけます。
 ストーリーの行きつく先よりも、巨大なイメージの怒涛に圧倒されてしまいました。

 残念ながらいまいち狙いが分からなかったのが、散文詩のような小品「ウイスキーを飲んでいた犬」“Ο σκύλος που έπινε το ουίσκι”。多分読むこちらに問題があるのでしょう、私自身詩が苦手なので。ただし、作家の師ティティナ・ダネリはこの作品を特に気に入っていたそうです。
 抗議デモにいつも付き従っていた犬「ルカニコス」(腸詰めルカニコが好きだったためのニックネーム)の死を悼むところから始まり、他の野犬たちの思い出が続きます。「ルカニコは本当に死んだのか? アテネの犬たちは死んでいくのか? それとも街路の野良犬の魂は、今も永遠に駆け回っているのだろうか?」といった一節は分かるような分からないような。つながりを失った現代の町の住民をつなぐのはもはや街頭の野良犬だけ、という思いなのでしょうか?
エピグラフは詩人ヤニス・リッツォス『石の時代』から「私たちの犬ディックの墓も忘れないようにしよう」。
 リッツォスは百冊を超える膨大な数の詩集を遺し、ノーベル文学賞候補にもなったほど高い評価を受けています(残念ながら、セフェリス、エリティスに続く三人目の受賞者にはなりませんでしたが)。強靭な精神を持つ左翼詩人で、内戦期も軍事政権期も徹底して政権に抗い、何度も島の収容所に追放されています。『石の時代』もその一つ、マクロニソス島への流刑時代に書かれたものです。
 


ヤニス・リツォス『石の時代――マクロニソスの唄』
ケドロス社、1957/1990年。
 
 
 
 
『石の時代』は未訳ですが、リッツォスの重要な詩集は和訳されています。
中井久夫訳『リッツォス詩選集』、作品社、2014年。

東千尋訳『ヤニス・リッツォス詩集』、土曜美術社出版、2019年

 特に面白く読んだ三篇については、もう少し詳しくお話ししましょう。

「物語の自動販売機」“Αυτόματος πωλητής των διηγημάτων” は作家志望の男が切符の自販機ならぬ「物語の自販機」を見つけます(この「物語」は正確には「短編小説」です)。興味本位で使ってみようかなと、指示に従って読書時間や作品タイプを選択すると、二十分後に「自分を失った男」なる作品が出てきます。その夜暇つぶしに目を通してみて驚愕! 鏡の前に立つ主人公にある思いが去来し解放感に満たされるという内容は、まさに自分が練っていた作品の構想と同じものでした。
 自販機の製造会社を訪れ、あの作品ぼくが創ったんですよ、まだ頭の中にあるだけなんだけどねと打ち明けますが、当然体よく追い払われます。ならば自分で執筆して正当性を証明してやろうと書き始めますが、うまくいきません。もう一度自販機へ走ると、出てきたのは「最初の殉教者」。砂漠で目覚めた殉教者が謎のラクダ引きについて行き、七つの砂漠を越えて奇妙な体験をするという幻想譚。その後はアプローチを変えて、(自分が一番理解しているはずの)自作の批評を書いて別名で編集者に送ります。ところが何としたことか、あなた作品の誤解が多いね~と取り合ってくれません。他方で物語の自販機の利用者は増え続け評判はうなぎ上りで、主人公のイラ立ちは募るだけ……
 作品と作家の関係が皮肉たっぷりに描かれています。作品はどこまで作者に帰属するのか? 著作権とは何か? 作品さえ評価されれば作家は満足できるのか? 結局のところ誰のため、何のために書くのか? 日頃作家ダネリスが直面している問題なのかもしれません。しかし少し視点を広げて、小説に限らず作り上げる物・発表する内容と、その作り手・発表者との間の関係やいかに?と言い換えてみるならば、誰にでも当てはまる一般性を備えた問題にも見えてきます。
 この短編に登場する「自分を失った男」や「最初の殉教者」は、『自分を失った男』所収の他の短編と同タイトル名です(ただし内容はまったく別物)。自作へのこのメタ的言及はどういう意味を持つのでしょうか? さらに、作家の自作批評が編集者によってボツにされるというのは、批評家にしろ読者にしろ、しょせん他人は他人の尺度で解釈しているにすぎないんだよという皮肉か、諦観か?
 エピグラフはミハイル・ブルガーコフの悪魔的な怪作『巨匠とマルガリータ』から「“ドストエフスキイは死んだんです”と女性は言ったが、その口調はいくぶん疑わしげだった」。黒魔術師の手下たちが作家協会の豪華レストランに侵入しようとして、「ドストエフスキイなら証明書は不要でしょう」と詭弁を弄するのに対し、入り口の女性が反駁するセリフです。これに対して、手下の黒猫が叫びます「ドストエフスキイは永遠に不滅だ!」。ブルガーコフ作品にとってはポイントになる箇所ではないかもしれませんが、ダネリス作品の本質を突いているようです(だからこそのエピグラフでしょう)。
 作家の目指すもの、そして読者にとって大事なもの、つまりは文学作品の価値とは何なのか、生身の作者を離れて作品が《不滅》であるなどというのはどこまで真実なのか。
物語自販機と作家の存在の関係が奇抜なストーリーを通して問われているようです。
 
 表題作「自分を失った男」“Ο άνθρωπος που έχασε τον εαυτό του”は当然もっとも力が入っている作品でしょう。
 エピグラムはアルベール・カミュ『転落』から。カミュ作同様に、どこかの酒場で酔っ払いの《おれ》が周囲にくだを巻くところから始まります。
 二十年前、《おれ》はさる医師の家に侵入しようとする奇妙な男を見かけます。数日後その男は通りのベンチで涙ぐみながら、医師宅を見上げています。ホームレスとは思えない風体で、好奇心を引かれた《おれ》は男をカフェニオに誘ってわけを聞こうとします。男の話は途方もなく奇怪なものでした。
 男はもともと医師宅の息子で、本来なら文学の道に進みたかったところを、厳格な父親の押しつけで法律家を目指すことに。しかし裕福な生活の中で次第に不満は安楽に変わり、自分が本当は何を欲しているのかも曖昧になっていきます。
 ところがある日、閉め切られた地下室に降りたところ不可解な何ごとかが出来し、男の前にもう一人の自分が現れます。顔も名前も生年月日も同じ。しかもこのもう一人の方が、頭の回転も人あしらいも上手うわてのようなのです。
 何が起こったのか? というより肝心なのは「自分を失った」男は自己を取り戻すことができるのか? また、冒頭の酔いどれ《おれ》はこの男とどう関わることになるのか? この辺が読みどころです。
 カミュ『転落』からは「今じゃ遅すぎる。永遠に遅すぎるな、幸いなことに!」が引かれています。『転落』の結末で語り手の酔いどれ弁護士が口にする責任逃れ・自己弁護のセリフです。ダネリス作の主人公はしかしそれほど高慢ではなく、自分の喪失も偶然巻き込まれたという感があり、過去の選択もそれほど後悔しているようには見えません。むしろ、受け入れるしかないという諦観のようにも聞こえます。それでも最後には人生の選択は「幸い」だったという心境にたどり着くのでしょうか?
 もう一人の自分に取って代わられる不安は、「五百ドル」のカルヴィーノのエピグラフにも通じるようです。「今や過去からはじき出された彼」云々は、マルコ・ポーロのセリフで、今自分は広場で一人の男を目にしているが、もし過去に別の選択をしていたならば、今あそこにいるのはあの男ではなく自分自身だったかもしれない、という述懐です。過去の選択によって、別の自分が生まれる「自分を失った男」の姿に重なって見えます。

 掉尾を飾る「訃報」“Νεκρολογίες” には「物語の自動販売機」と相通ずる部分があります。
文学好きのある女性が新聞社を訪れ、何か記事を書く仕事をもらえないだろうかと編集長に頼み込みます。編集長は文章力を試そうと、誰か有名な作家の訃報を書くように注文。訃報を書く記者というのは『供述によるとペレイラは……』と似た設定で、タブッキへのオマージュかもしれません。女性はあえて忘れられた無名の作家を選び、下調べを始めます。その作家の唯一の中編が挿入されますが、ホメロス「オデュッセイア」の一部を改変したもので、気ままに生きる蓮喰い人ロトファゴイの島で(暴君のごとき)オデュッセウスと(島民に誘惑される)部下たちが激しく対立する情景が描かれています。
意外なことに件の作家が健在であると知り、女性は面会を申し込みます。そこで話し合われた内容が女性のみならず、作家にもどのような影響を与えていくのかが、ストーリーの中心になります。
 ここでも、生身の作家の人生そのものと残された作品との関係、作家の死と作品の永遠性とが焦点になっています。
 エピグラフはフリオ・コルタサル「アテネからスニオン岬までの旅の方法」とありますが、シュール・レアリステッィクな文学的エッセイ『八十世界一日一周』(題名はヴェルヌ作のもじり)からの一節だそうです(残念ながら未訳)。「自身の思い出を語るべきではないだろう。何かによって特徴づけられるなら、自分たちのものではないのだ。その報いがやってくる」は文脈不明でこれだけではよくわかりませんが、ダネリスの「訃報」や他の所収作と並べて想像してみるなら、自分の心情が作品という形で固定されるともはや自分の所有するものではなくなるが、自分の手を離れたとは言え、その影響は自分が引き受けざるを得ない、といった思いなのかもしれません。

 こんな風に見てくると、8篇のそれぞれに異なる種類の仕掛けが施されてはいますが、全体に通底する何かがありそうにも感じます。普段自分の存在に自信を持ち、その場所でそうしていることを疑問に思わない人物が、ある時突然何かに躓いてその確信に揺らぎが生じ、そんな風にふるまっているのがほんとうに正しいのかどうか不安に陥って、あるいは破滅へと転がり、あるいは立て直しを目指してあがくといった姿です。

「訃報」の後にはエッセイ「別れ」“Αποχαιρετισμός” が置かれています。作者ダネリスの亡き伯母ティティナ・ダネリへの敬愛がストレートに溢れる、文字通りの《訃報》です。ダネリ女史はギリシャ・ミステリ初期に『判事ゲーム』、『第四の女』といった、登場人物を極限まで鋭く心理分析する作品を発表し、その後の興隆を支えて来た《ギリシャ・ミステリ六歌仙》の一人でした。


ティティナ・ダネリ『判事ゲーム』
プシフィダ出版社、2002年。

ティティナ・ダネリ『第四の女』
アルモス出版社、2004年。

 こうして、「最初の殉教者」でダネリ女史の後に従って出立したダネリスの文学修行の旅は、文字通り「別れ」によって幕を下ろします。

◆天国の犯罪

 今回のもう一冊は、タイトルをよく耳にして読んでみたいなあと思っていた作品です。
 タチアナ・アヴェロフ『パラディソスの犯罪』(Τατιάνα Αβέρωφ, Έγκλημα στον Παράδεισο, 2017)。天国パラディソスの事件とはまた不思議な題名ですが、何か幻想的な内容なのでしょうか? 聖ペテロが犯罪を追うとか?


タチアナ・アヴェロフ『パラディソスの犯罪』
メテフミオ出版社、2017年。

 ……と勝手に想像していたのですが、「パラディソス」は実は舞台となるギリシャ北部の牧歌的な村の名前でした。
 村長のコレティスは波乱の人生を歩んできた人で、若い頃イタリアへ渡って成功し大富豪となります。が、数年前に望郷の念に駆られて村に帰還。イタリアでの家族を事故で失くしていましたが、その思い出をすっぱり断ってパラディソス村の女性と再婚し、村長に選ばれ周囲からは厚く信頼されています。村はかつて内戦の舞台となった土地で、村長は記念博物館建設を計画し、死して後イデオロギーは関係なしとの思いから、左派右派両軍の戦没者名を刻んだ慰霊碑を建立しようとしています。
 8月15日生神女就寝祭(カトリックで言う聖母昇天祭)の日、コレティス村長の酷たらしい遺体が発見されます。谷間からロバで運んできたのは、精神に障害のある巨躯の羊飼い《巨人》でした。
 ギリシャ北西部の中心都市ヨアニナから若きガラニス警部が派遣され捜査に当たります。テープに録音した証言を何度も聞きなおして事件を詰めていく慎重派(山羊座らしい)で、大雑把な村の古株キツゥリス署長とは何かと衝突しています。偏見に満ちた署長は最初から密入国者か流浪民の殺しに違いないわいと思い込み、ガラニスと激しく対立。
 村長夫人はもちろん悲嘆にくれますが、実はそれ以前から不眠に悩み、山上のメガロハリ修道院にしげしげと通っていたようです。ガラニス警部はなにか裏の事情があるのではと、修道院を訪ねますが、饒舌な若手修道士の宗教談議に煙に巻かれて情報が全くつかめません。
そんな時、修道士見習いのラキス少年が崖から転落死します。村長の殺害現場からほど遠からぬ場所でした。当然何らかのリンクありと見たガラニス警部は村長周辺と修道院内部の証言を集めるべく奔走しますが、いったいどこで繋がるのか明らかにならず、村はシリアルキラー(σίριαλ κίλερ、外来語で入っています)が徘徊しているのではという恐怖に包まれます。
もう一人、有力な情報が得られると期待されるのは、村長の遺体を発見した《巨人》ですが、コミュニケーションがままならず、治療を担当する女医ラーズに頼ることになります。 
 このラーズ医師がヒロインです。生まれ育った首都から自ら望んでこの村に赴任してきたのにはワケがあります。数年前に恋人から手ひどい裏切りを受けたようで、自然に富む素朴な村でやり甲斐ある仕事に専念し、人生の再起を図ろうとしています。粘り強く《巨人》の治療に当たるのもその一つです。その分、都市出身で村のしきたりを軽んじがちのガラニス警部には最初から反発を感じています。ところが、警部の方も女医の証言に隠されたある嘘の匂いを感じ取っていました。しかしこれ、最後にはめでたくカップル誕生となる王道パターンですが、どうなるんでしょう?
 捜査がしばらく停滞した後、さまざまな展開があってストーリーが動き出します。亡くなったラキス少年と親しくしていた修道士がおぞましい秘密を暴露。村長夫人の家には夜盗が入り部屋がメチャメチャに。現場の崖の下からは《巨人》の歌声が聞かれますが、つまり、彼は詐病なのか? さらにラーズ医師が警部にある告白をするとき、ついに事件が思わぬ方向に転回していきます。
こうして平穏でのどかな小村の奥底に潜むドロドロした秘密が次第に炙り出されていきます(それにしても皮肉な村の名)。ミス・マープルものやアン・ズルーディ作品を思わせる雰囲気のミステリ、私は大好きです。

 作家について簡単に書いておきます。
 タチアナ・アヴェロフは1954年アテネ生まれ。社会心理学を専攻し、心理学者として働いています(作中のラーズ女医に面影が投影されているようです)。父親は有名な政治家エヴァンゲロス・アヴェロフで、1980年代まで国防大臣や外務大臣を歴任していました。家系はもともと北部のメツォヴォの出身。祖先のゲオルギオス・アヴェロフが特に傑出した人物で、商人として莫大な財を成し、1896年第一回近代オリンピック・アテネ大会のスタジアム建設用に膨大な寄付をしています。有名なギリシャ海軍の装甲巡洋艦アヴェロフ号はこの人の名にちなんだものです(現在は引退してピレアス湾に展示)。


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Georgios_Averoff-%CE%93%CE%B5%CF%8E%CF%81%CE%B3%CE%B9%CE%BF%CF%82_%CE%91%CE%B2%CE%AD%CF%81%CF%89%CF%86_1910_pano.jpg
【ギリシャ海軍装甲巡洋艦ゲオルギオス・アヴェロフ号。】

 歴史小説『林間の空き地』(Το ξέφωτο, 2000) でデビューしましたが、ミステリは『パラディソスの犯罪』が初めてです。ミステリ第二作『シルバー・アラート』(Silver Alert, 2023) もすでに出ています(認知症などで行方不明になった高齢者の捜索に使われる警報シルバー・アラートはギリシャでも十年ほど前から民間ベースで広がりつつあります)。この作品でもガラニス警部とラーズ女医が共演しており、シリーズ化を考えているのでしょう。


タチアナ・アヴェロフ『シルバー・アラート』
メテフミオ出版社、2023年。

 

◆欧米ミステリ中のギリシャ人(36)―― アン・ズルーディのギリシャ人(5)――◆

 いよいよ、アン・ズルーディの《ヘルメス探偵シリーズ》最後の翻訳作品になってしまいました。第5作『ネメシスのささやき』です。


ヴリシ」という名ののどかな村で、当地の大詩人サントスの改葬が行われています。ギリシャ正教の習慣で、土葬された数年後に骨を掘り出し、きれいに洗い清めてから納骨堂に収めるのです。骨を洗うワインや容器が準備され、神父や会葬者のつどう中、サントスの棺の中から出てきたのは……このとんでもない怪異を目にした詩人の娘レダは恐怖のあまり墓地から逃げ出します。
 場面は急転して四年前のシーンに。
 おなじみの探偵ヘルメスがサントスの朗読会にフラリと現れて詩集を買い求めます。探偵はこの詩人を高く評価しているようで、「セフェリスと並び称され、ディムラやパトリキオスを超えていますね」と絶賛します(キキ・ディムラ、ティトス・パトリキオスは現代ギリシャの代表的詩人)。が、サントス本人は詩が軽んじられる世情に不満を持ち、自分は死後ようやく注目されるゴッホみたいなもんだわいとやけ気味です。
 その後サントスは(なんともギリシャっぽいと言うか)オリーヴの種をのどに詰まらせて急死し埋葬されますが、遺言は「わが骨が日の目を見るとき、遺産は相続されるべし」という不可解なものでした。
 こうして四年後、冒頭の改葬に話が戻ります。
 
 本当はこの辺でストーリー紹介を止めておきたいのですが、話が進まないので、レダを怯えさせた怪異を書いておきます(本の裏表紙解説にもちゃんと書かれていますので)。

 朽ちた棺の中から出てきたのはなんと豚の骨でした! 村では瞬く間に奇怪なうわさが広がり、誰かの「邪視」のせいだなどと言う説も出ます。神父はこんな改葬は認められないと典礼を拒否(そりゃそうでしょうね)。レダや詩人の妹フロナ、彼女に思いを寄せる出版代理人などが首をそろえて大議論。皮肉なことにサントスの詩は死後大人気となって、印税がザクザク入っており、貧困に苦しむ娘や妹はお金を必要としています。しかし、件の遺言のせいで、骨が見つからない以上財産を分与するわけにもいきません。
 そもそもサントス本人がどこで何をしているのかが問題です。そんな折ようやくサントスの死体が発見され、二度目・・・の埋葬が行われます。それでも、遺産相続はさらに四年後になってしまうのですが……

 今までの事件とは異なり、出来事自体が何だかあいまいで、いったい事故なのか事件なのかすらはっきりしません。出版代理人や妹フロナはサントスの死とここ四年間の彼の行状の調査をヘルメス探偵に依頼します。探偵は朗読会の後、さる使命を帯びてヴリシ村に来ていました(あいかわらず謎の目的でギリシャ中を旅しています)。

 今回は題名に「復讐の女神ネメシス」(The Whispers of Nemesis) が使われています。
 ゼウスの使いヘルメス探偵がその役を果たすのでしょうか。ただし事件の輪郭が明瞭ではなく、そもそも罪の所在があいまいなので、怒ると怖い・・・・・ヘルメスの矛先がどこに向かうのか分かりません。
 それに加えて、詩人の娘の名がレダ・・であるのも読者の疑心を煽ります。
 作中でヘルメス探偵がレダの神話を語ってくれます。それによると、女神ネメシスに欲情したゼウスは、相手が鵞鳥に姿を変えて逃げるところを、自ら白鳥に変身して捕まえ卵を産ませます。卵は牧人によってスパルタ王妃レダに届けられ、ここからトロイア戦争の元凶の美女ヘレネが誕生。ところがこれには別伝があって、ゼウスと交わってヘレネを産んだのはレダ王妃自身だった、と言うのです。ヘルメス探偵曰く「レダとネメシスは神話によっては同じ女性だと見なされています。
 
 ところで、上の神話を読んで疑問に思う方もおられると思います。絶大な権力のゼウスを逃れようとするひ弱な妖精ニンフの「ネメシス」が「復讐の女神」っていったいどういうこと?
 私も不思議でしたので、ちょっと調べてみました(ここから脱線)。
 ギリシャ神話はさまざまな時代や土地の伝承の集合体なので、細かいところで矛盾、食い違いに溢れています(それが魅力でもありますが)。
 もともと「ネメシス」(νέμεσις) という語の原義は「分け前を授受すること」。不当な行為に対しての「分け前」なら、逆に「当然の報い」となります。
 ホメロスの叙事詩では神々の懲罰というよりも、人間たちの与えあう「当然の怒り、非難、叱責」として使われます。戦況劣勢で弱気になったアガメムノンが「こっそり逃亡すれば破滅は避けられるのだから、グチャグチャ非難・・するな」とか、オデユッセウスが「貞淑なわが妻に狼藉をはたらく悪党どもめ、世間の非難・・を怖れぬ所業なり」と啖呵を切る場合などです。
 錯綜する神々誕生の物語として有名なヘシオドスの叙事詩『神統記』では神格というか、世界を構成する自然的・精神的要素として現れます。詩人によると、この世で最初に存在したのは「混沌カオス」で、そこから「幽冥エレボス」と「ニュクス」が誕生。「夜」からはさらに「タナトス」「眠りヒュプノス」「運命モイラ」などが生まれますが、そのうちの一柱が「ネメシス」です。ギリシャ語の抽象名詞は女性名詞が多いので、擬人(神)化されると当然女神になります。と言っても、この詩ではネメシスが活躍するエピソードが描かれるわけでもなく、ただ「人間にとってのわざわい」と形容されるに過ぎません。
 同じヘシオドスの教訓詩『仕事と日』でも、時代が下るとともに堕落し妬みがはびこるに至った人間の世界を見捨てて、白いベールをまとう「ネメシス」と「廉恥アイドス」はオリュンポスへと去ってしまい、人間たちには災禍からの救いが残されなかった、と語られるだけです。
 これが悲劇になると、分をわきまえない傲慢な人間に対する神の憤り、報復という側面が現れてきます。
 ソポクレス『エレクトラ』ではオレステスの死を嘲笑う王妃クリュタイムネストラを前に、憤る王女エクレトラが「死んだばかりの者(オレステス)を支えるネメシスよ、聞き給え」と祈願し、もう一人の敵役アイギストスはこの復讐神を憚って「ネメシスがそばにいるやもしれぬ」と遺体を愚弄するのを控えます。『コロノスのオイディプス王』では亡くなったオイディプスが闇の国に送られたのは神意なり、あまりに嘆くとむしろ神の怒りに触れるぞ、とテセウス王が忠告。『ピロクテテス』は孤島に捨てられた弓の名手をトロイア戦争に復帰させようと使者が送られる話ですが、このまま見捨てるなら神の報復が来るだろうというセリフに出てきます。
 エウリピデス『フェニキアの女たち』で、王女アンティゴネは城下に押し寄せ侮蔑の言葉を投げつける敵将を目にして、ネメシスの成就を祈願し、『オレステス』ではトロイア戦争の発端となったヘレネが報復を受けた後、彼女の振る舞いに対する神の怒りはもっともなこと、と言われます。
 
 ただ、そうは言っても具体的なイメージがやっぱりつかめませんね。神の憤怒とか復讐という概念だけがあって、具体的な容貌やエピソードがあまり描かれないからでしょうか。この点では職分が似た「復讐女神エリニュスたち」のおどろおどろしい姿の方が強烈な印象を残します。

 アイスキュロスの三部作では、王子オレステスがクリュタイムネストラを討って父の仇を果たしたものの、「エリニュスたち」にとり憑かれて狂気に追いやられます。『供養する女たち』の最後でオレステスは錯乱し「そこに、ゴルゴンみたいなものが、黒っぽい衣を着て、髪いっぱいに蛇がうろうろまとついている」(呉茂一訳)。
 
 ネメシスは後代の芸術に大きな影響を与えたローマ詩人オウィディウス『変身物語』にもチラッと出てきます。気まぐれで多くの男女をそで・・にしたあの美少年ナルキッソスの話です。捨てられたある男がナルキッソスの「高慢スベルビア」を恨んでネメシスに祈ったため、ナルキッソスは罰として水面に映る自分の姿だけに魅惑され、やがて憔悴して消えてしまいます。が、ここでもネメシスが姿を現すわけでもなく、話の中心は水仙・・になったナルシシスト・・・・・・の美少年や彼に捨てられ木霊だけになった妖精エコーの悲哀です。「高慢」の罰といえば、まあそうなんでしょうけど、美少年が性に目覚めていないだけという気もしますが。
 
 ただし、実際の信仰上復讐の女神として崇拝されていたのは確かで、ローマ時代の彫像が残されているし、2世紀後半の旅行ガイドブック、パウサニアス『ギリシャ案内記』には「アッティカ地方の東岸ラムヌウス区にはネメシスの聖所があり、この女神は傲岸不遜の人間に対して、神々のうちもっとも容赦のない厳しいお方」で、ギリシャに来襲したペルシャ軍にはこの女神の怒りが下ったのだろうと記されています。
 
というわけで、古代の神話や文学の中では、具体的な外見や華々しい活躍のエピソードが準備されておらず、「ネメシス」=「復讐の女神」概念だけが図式的に残された感じがします(現代の画家たちはこのネタをもっと視覚的に利用して、剣、火、砂時計など多様な表象グッズを持たせた有翼の女神像に仕立てていますが)。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Alfred_Rethel_002.jpg
【アルフレート・レーテル『ネメシス』(1837年)。】
 

https://en.wikipedia.org/wiki/Nemesis#/media/File:Pierre-Paul_Prud’hon_-_Justice_and_Divine_Vengeance_Pursuing_Crime.JPG
【ピエール=ポール・プリュードン『罪を追う正義テミス(向かって右)と神の復讐ネメシス(左)』(1808年)。】

 これに対して、ヘルメス探偵が語った、白鳥のゼウスに追われる華奢なニンフの話が出てくるのは、1~2世紀頃の神話小事典、アポロドロス『ギリシャ神話』です。このエピソード自体はもっと古く、『キュプリア』『イリアス』『オデュッセイア』伝説の全容を謳いあげる叙事詩シリーズの一つで、断片で伝わる)にも、ネメシスはゼウスに追いかけられ、心は「廉恥」と「
義憤ネメシス」の思いで憔悴した、とあります。とは言っても、なんだか語のダジャレで無理やりつなげた感じで、そもそも人間の慢心に対する神々の義憤・復讐などではなく、個人的なニンフの恨みのようにしか感じられません。
 結局のところヘレネを生んだニンフと厳格な復讐の女神という二つの顔がどうもぴったりとは結び付きません。二つの伝承が一人の女神に流れ込んだのでしょうか。

 それだけに、このことをわざわざヘルメス探偵に語らせた作者ズルーディのたくらみが気になりました。

 ところでミステリ作で「ネメシス」と言えば、まず思い出すのはクリスティーですね。
『カリブ海の秘密』では、西インド諸島の連続殺人を阻止しようとしたミス・マープルが、協力者の富豪の前にピンクのスカーフをつけた姿で現れ「私はネメシスです」と宣言します(その衣装ではあんまり怖そうじゃないな、のツッコミあり)。二部作の続編『復讐の女神』は原題自体がズバリ『ネメシス(Nemesis)』です。帰国したミス・マープルがすでに物故した富豪から不思議な依頼を受け、忘れられていた犯罪を掘り起こします(お得意の「回想の殺人」風)。
 また、ギリシャでも大人気ジョー・ネスボのハリー・ホーレ刑事シリーズ『ネメシス 復讐の女神』でも、被害者の部屋に「ネメシス」と題された絵画が遺され、犯人の脅迫メールには「復讐」のことばが繰り返されます。ホーレ刑事に協力する心理学者は、ネメシス神はローマ人に伝わって裁きの女神ユスティティア(つまり「ジャスティス」)になったんじゃよ、と蘊蓄を語ってくれます。
 クリスティーの場合は探偵マープルがネメシス役となって犯人を告発し、ネスボでは犯人と被害者の間になにか遺恨が残っていて、これが報復につながっていきます。方向性は違いますが、ネメシス役を引き受け告発し断罪するのは人間です。


アガサ・クリスティー『復讐の女神』ギリシャ語訳
プシホヨス出版社、2021年。
 
 
 
 

ジョー・ネスボ『ネメシス 復讐の女』ギリシャ語訳
メテフミオ出版社、2011年。

一方『ネメシスのささやき』ですが、現代のお話にもかかわらず、シリーズ最初からヘルメス探偵はゼウスの使者のような幻想味を帯びています。「自分は最高の権威のもとで仕事をしています」とか毎回謎めかしながら、神の代理人のごとく人間に裁きを下していくのです。探偵=裁き手という点ではマープル風ですが、はるかに神秘的。なので、今回も神がかったヘルメスこそネメシスだろうなと思っていると、この「ネメシス=レダ同一説」が登場して驚かされます。詩人のために復讐を果たすのは実は娘レダなのでしょうか? あるいはレダがミス・マープルとなって、誰かの罪を暴くのか? それともネメシスは二人(二柱)いて、つまりヘルメス探偵と娘レダの共闘と言うこと? 本格派作家のたくらみは油断できませんね。いろいろ考えると頭がこんがらがってしまいます(愉しいけど)。
いずれにしろ、最後に姿を現す傲岸不遜な犯人はたしかにゼウスの神罰を受けそう。探偵がその欺瞞を容赦なく暴いていく場面は迫力があります。「私をみくびらないほうがいいですよ」のセリフが決まってます。

 さて、作品に盛られた他のミニ情報についてもう少しお話ししましょう。
 毎回登場する美味しいギリシャ料理に食欲をそそられますが、今作は「クレフティコ」です。ラム肉とフェタチーズのホイル焼き、と説明されています。

https://en.wikipedia.org/wiki/Greek_cuisine#/media/File:Kleftiko.JPG
【豪快な山賊料理クレフティコ。】

「クレフティコ」(κλέφτικο) は「泥棒風」の意味ですが、泥棒が隠れ家でつつく闇鍋というわけではありません。オスマン・トルコ時代に山にこもり抵抗したギリシャ人たちは「クレフテス」(κλέφτης) と呼ばれました。体制に組み入れられることなく、自由奔放に生きる英雄たちといった美化されたイメージが付与され、その勇姿を謳いあげる「クレフテス民謡」もたくさん残されています。「山賊料理」とでもしておきましょうかね。

 家庭料理をもう一つ。ヘルメスの永遠の想い人ルーラばあさん(って、ヘルメスはいくつ? 神秘の探偵です)が、タラの揚げ物に添えるのが「スコルダリア」。つぶしたニンニク(スコルドσκόρδο)をポテトや水に浸したパンに加えて練り上げたパテです。なのでスタミナは出ますが、口内はニンニクの香りでいっぱいに。


https://en.wikipedia.org/wiki/Greek_cuisine#/media
【真ん中のカップに入ったのがスコルダリア。】

 スイーツ大好きのヘルメス、以前は「ブガッツァ」や「カダイフィ」を賞味していました。今作では「ガラクトブレコ」です。パイ皮にセモリナカスタードを詰めたミルクパイで、その名はギリシャ語「ガラクト(牛乳)」+トルコ語「ブレキ(パイ)」のハイブリット合成語です。


https://en.wikipedia.org/wiki/Galaktoboureko#/media/File:Galaktoboureko.jpg
【ガラクトブレコ。ペレケーノスの探偵ニック・ステファノスも食べてました(エッセイ第14回)。】

 重要なキーとなるフルーツも登場します。
 ヘルメス探偵はルーラへのお土産を手に入れようと、《カリンの島》として知られるセフトス島に立ち寄ります。
『アテネからの使者』のティミノス島、『悲しみの聖母』のカルコス島に続き、作家はまたも新しい島を創造したわけです。ズルーディ女史のブログによれば、スポラデス諸島の一つスコペロス島をモデルにしたらしい。まあ、作品中に実在の地名はほとんど出てこないので、その辺にこだわる必要もないのですが。(舞台のヴリシ村はペロポネソス半島の山間に設定されているようです)。
 それよりも、この「カリン」が気になりました。まさか花梨かりん酒を作る東洋の「カリン」ではないでしょうから、「西洋カリン」(medlar) なのでしょう。ところがややこしいことに、「マルメロ」(quince)もまた「西洋カリン」と呼ばれることがあります。マルメロが日本に伝わった時に、「カリン」に似ていたためにこう呼ばれるようになった由。なので、「マルメロ」の実は「カリン」のように黄色くて洋ナシ風ですが、「西洋カリン」は褐色でお尻の萼部分が尖ったちょっと奇怪な形をしています。ともに実がなるのは秋で、主にジャムや果実酒として賞味されます。文化的背景はちょっと異なっており、「西洋カリン」は古代ギリシャの植物学の文献に出てはきますが、むしろ英文学のチョーサーやシェークスピアで言及されているそうです。一方「マルメロ」は「恋愛」や「結婚」の祝福のイメージで古代ギリシャの詩や劇に登場し、中世ギリシャの諷刺詩「果物の議会」では《まことやんごとなきフルーツ界の帝王バシレウス》の地位についています。また「貧しきプロドロモスの歌」という、これも中世の諷刺詩ですが、貧乏詩人が生活の窮乏を皇帝に訴える中で、小生このような果実が食べとうござりますリストにはマルメロとセイヨウカリンが仲良く並んで出てきます。

 島の名が長ったらしい《西洋カリンの島》もないでしょうから、訳者ハーディング祥子氏は日本人になじみのある「カリン」を使ったのでしょう。それにしても実物はいったいどっちなんだろう、と気になってしまいました。
 ヘルメスが島を訪れたのは冬で、雑貨屋のおやっさんに「シロップでもジャムでもいいですので」と頼み込みますが、「秋に出なおすことだな」とにべなく言われます。秋が旬という点や最後の場面の「ピンク色に咲き乱れるカリンの花」はどちらでもあり得ます。「かつてカリンは貞操を守る果物と考えられていたんですよ」というヘルメスの蘊蓄は「マルメロ」を思わせるのですが。いったい古代・中世ギリシャの「マルメロ」か? シェークスピアの「西洋カリン」なのか?


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Medlar_pomes_and_leaves.jpg
【西洋カリン(medlar, μέσπιλο)】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%AD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Cydonia.jpg
【マルメロ、別名西洋カリン(quince, κυδώνι)】

 どうにも気になって仕方がないので原書を購入して確かめたところ、medlarでした。ギリシャに魅せられているとは言え、英国人作家の血の中にはやはりシェークスピアの伝統が流れているということでしょうかね。
 結局ヘルメスが雑貨屋で見つけたのはカリンのジャムでしたが、「シロップ」というのは、果物を砂糖で煮た「スプーン・スイーツ」(spoon sweets) のことです(ギリシャ語「グリコ・トゥ・クタリウ」(γλυκό του κουταλιού) はそのまま「匙の果実」の意)。伝統的な素朴なデザートで、お客に行くとふるまってもらえます。トマトやナスなどからも作られるそうです。


https://en.wikipedia.org/wiki/Greek_cuisine#/media
【サクランボの「スプーン・スイーツ」】

 最後にもう一つだけミニネタを。
 トルコ出身のタクシー運転手ハッサンなる人物が重要な役で出てきます。人はいいのですが、運転が乱暴でヘルメスは乗るたびに恐怖を感じ、これを紛らわそうと「ハジダキスの美しくも有名な曲『白鳥』」をハミングしています。
 「日曜日はダメよ」の主題歌で有名なマノリス・ハジダキス作曲の「白鳥イ・キクニ」(Οι κύκνοι)、YouTubeにあったのでリンクしておきます。

 面白いことに、この歌詞は古代の喜劇詩人アリストパネスの『鳥』に出てくるセリフを現代ギリシャ語訳したものです。歌詞の中で繰り返される「ティオ・ティオ・ティオ・ティクス、ティオ・ティクス、ティオ・ティクス」(Τιο, τιο, τιο τιξ, τιο τιξ, τιο τιξ)は鳥のさえずりを模した音で、アリストパネスのオリジナルとほぼ同じ発音。ヘルメス探偵が口をすぼめた顔が浮かびそうです。
 
 さて脱線はこれくらいにして、今作でも後味の良さは相変わらずです。罪ある者にはネメシスがおとずれ、悩み苦しむ人物たちにはそれぞれの癒しが与えられます。
 風光明媚なギリシャの土地に潜む秘密へといざなってくれる《ヘルメス探偵シリーズ》5作品、とうとう読み終えてしまいました。寂しい限りです。原書はあと4作出ているので、いつか新訳で《白いテニスシューズの太った探偵》に再会できるのを期待しています。
 
 なお、『アテネからの使者』、『ミダスの汚れた手』はギリシャ語訳も出ています。


アン・ズルーディ『アテネからの使者』ギリシャ語訳
ケドロス出版社、2010年。

 

■『ネメシスのささやき』のギリシャ語講座■
Καλώς ήρθατε !(カロス・イルサテ!)「いらっしゃいませ!」
Γεια μας !」(ヤー・マス!)「乾杯!」♦「ヤー」は「健康」、「マス」は「私たちの」。友達ひとりの健康を願うなら「ヤー・スー」、相手が目上か複数なら「ヤー・サス)」
Χαίρω πολύ(ヘロ・ポリ!)「はじめまして!」 ♦語頭のΧの発音は日本語にはない(口蓋の摩擦音)ので、「へ」か「ヒェ」か、とにかくカタカナにしにくいです。エラリー探偵は「喉につかえるような」とか揶揄してました(エッセイ第8回)。
Αμέσως(アメソス!)「いますぐ!」
Εμπρός!(エンブロス!)「前へ!」 ♦これと次の語は、ともに「(電話で)もしもし」の意味になりますが、この違いが本作ではちょっとした伏線になっています。
Ορίστε!(オリステ!)「はい、どうぞ!」
Παππού !(パプー)「おじいちゃん!」 ♦パプス「おじいちゃん」の呼びかけの形。そのままの意味ですが、最近たまたま読んでいたフリッツ・ライバー「ジェフを探して」に出て来たので。老バーテンダーがなぜギリシャ系なのかは分かりませんでしたが。

 

橘 孝司(たちばな たかし)
 広島在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっともっと紹介するのがライフワーク。現代ギリシャの幻想文学・純文学の小説も好きです。
《ネメシス》つながりで読んでみました。ハリー・ホーレ・シリーズ第4作『ネメシス 復讐の女神』
 第5章「ネメシス」、第46章「メーディア」(メーディアもまた夫イアソンの不実に復讐した神話の魔女)でネメシスの豆知識が語られ、作品全体にも血の復讐のモチーフが繰り返されます(被害者がロマの女性であることともリンク)。ナルキッソスの話も出てきますが、面白いことに、復讐に憑りつかれるのはナルキッソスに裏切られて怨嗟する青年ではなく、むしろナルシシスト自身の方であるというフロイト心理学の説は、オウィディウスの伝説と真逆です。
 エドガー賞長編賞候補にもなったという重量級の大作で、オスロの銀行強盗殺人とロマ人銃殺事件が同時に進行します。読み直すと、あからさまなほどあちこちに伏線が張られていました。ただ、体力・記憶力がどんどん落ちてきた読者としては、あまりに盛りだくさんで、二つの別作品にしてもらっても十分に楽しめたのになあと感じました(二つの事件の平行性も狙いなのでしょうが、登場人物、エピソードが頭の中で混乱してしまった)。

 コルタサルのシュールなエッセイが今後翻訳されるかどうかわかりませんが、短編集『悪魔の涎・追い求める男』は図書館で借りて読めました。面白かったのはやはり、映画「欲望」の元にもなった「悪魔の涎」。ちょっとミステリ風に進みながら怪奇なシーンで終わります。他には、切れのいい掌編「続いている公園」も好き。

 F・W・クロフツ『二つの密室』。たまたま読んだお久しぶりのクロフツ。最終章のタイトル「復讐の女神ネメシス」にビックリしましたが、女神の説明はまったくなし。犯人が報いを受けるクライマックスだから当然だろとばかりにしれっと使われてます。作品自体は犯人もトリックもあまりに捻りすぎていて、ちょっと呆気にとられました。フレンチ警部のキャラが立ってる中期作品なので「謎は解けた。この先主任警部の椅子が欠員になったときは、同僚の誰よりもさきにオレにまわってくるだろうて、フフフ」とクロフツ節全開で笑わせてくれます。

 『狼の一族』(異色作家短編集18, 2006)
フリッツ・ライバー「ジェフを探して」収録。


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