みなさま、カリメーラ(こんにちは)!

 日本で最も知られたギリシャ人作家と言えば、もちろんカザンザキスでしょう。ほとんどの小説が邦訳されているうえに、1935年には日本を訪れ旅行記を残しています(その後57年にも再訪)。この旅行記には藤下幸子氏による日本語訳があり、ギリシャ語学・文学専門誌『プロピレア』のオンライン版で無料公開されています。
 また、2024年は「日本・ギリシャ文化観光年」(両国の外交関係樹立125周年)ということで、その一環として福田耕佑氏と吉川弘晃氏による『日本旅行記』ギ日対訳がギリシャで出版されました(ただし非売品)。

https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/records/2014711
●藤下幸子訳「ニコス・カザンザキス『日本中国旅行記』より(「神戸」、「大阪」の章)
https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/records/2014729
●藤下幸子訳「ニコス・カザンザキス『日本中国旅行記』より(二)」(「奈良」、「慈悲の女神」の章)
https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/records/2014749
●藤下幸子訳「ニコス・カザンザキス『日本中国旅行記』より(三)」(「サクラと大砲」「日本の悲劇が生まれたところ」の章)
『プロピレア』24-26号、2018-2020年。

福田耕佑訳、吉川弘晃監修、『カザンザキス・旅する 』(日希対訳『日本旅行紀』)
ディオプトラ出版社、2024年。

 旅する作家カザンザキスが神戸、大阪、奈良などを回り、戦前の日本の情景に鋭い視線を注ぎながら、工員、工場主、貿易商、技師、駅長といった人々と言葉を交わします。

 ひるがえってギリシャのエンタメ小説はどうでしょう? 例えばミステリには日本人が登場する作品があるのでしょうか?
 文学ミステリ派セルギオス・ガカス『カスコ』(エッセイ第28回)には、やり手弁護士の組織するグループに通信担当の小柄な日本人がいますが、名前もセリフもない、ほんのチョイ役です。
『ブラック・レイン』の健さんや松田優作氏のような堂々と主役と渡り合う日本人キャラがギリシャ・ミステリにも出て来ないかなあ、と半ば夢のように期待していたところ、思いがけない出会いがありました。
 今回はそのお話です。

◆エレブルーのギリシャ人探偵シリーズ

 ヴァンゲリス・ヤニシスΒαγγέλης Γιαννίσηςは私の大好きな作家で、これまで二度登場(エッセイ第12回35回)してもらってます。デビュー作『憎悪』(Το μίσος, 2014) に始まるスウェーデンのギリシャ移民イコノミディス警部シリーズに加えて、ドキュメンタリー警察もの『アレクサンドラ大通り173番地』(Λεωφόρος Αλεξάνδρας 173, 2021) や故郷エレフシナを舞台にしたトリッキーな因縁話『もう一人の兄弟』(Ο άλλος αδερφός, 2023) という具合に作風の幅を広げてきましたが、またしても新たな方向性を見せてくれました。
 驚くことに日本人キャラ登場、それも端役ではなく重要人物なのです。
 ですが、まずはイコノミディス警部もの第4作『影』(Η σκιά, 2018) をご紹介しておきましょう(現在まで6作刊行)。


ヴァンゲリス・ヤニシス『影』
ディオプトラ出版社、2018年。

 お馴染みエレブルー市の北の森で異様な男の死体が見つかります。上半身裸で十字架にかけられ、足の指が縛られたうえに、足元には三羽の鳩の死骸という、なにかの儀式殺人でしょうか? まさか北欧に残る邪教崇拝? リアリズム主流のギリシャ・ミステリもここまで来たかという感じです。死体は顔が潰され指紋も焼かれており、DNAも記録と一致せず身元はまったく不明。検死官の見立てでは、犯人が激情を爆発させたというよりも、もともと本性に潜む底知れぬ悪意が溢れ出た犯罪だとか。
 シリーズ初登場の若きホルム巡査部長が、年間七千人ともいわれるスウェーデンの行方不明者を絞り込んでいった結果、犯罪者たちと関係の深いアルバニア人移民と分子生物学が専門のスウェーデン人という二人の可能性が浮かびます。常識的には前者、ミステリ的には後者が該当しそうですが、オカルト儀式殺人(かどうかは分からない)の被害者としてはどうなのか… 
 そうこうするうちに、死体の画像がSNSで拡散。バックにはノルウェーのブラックメタル・バンド、バーズムの曲が流れ、犯人自身がバラまいた可能性が疑われます。
 車椅子の若き犯罪学者ビョルリング(デビュー作では大活躍だったのに、今回は電話の会話だけ)のアドバイスにより、邪教崇拝の線を探っていくうちに、スタイルだけなのかどうかはわかりませんが、悪魔崇拝を売りにする地元のブラックメタル・バンド《ドゥンケルハイト》が走査線に浮上。イコノミディスたちは森の犯罪との接点を探るべく禍々しい《ドンケルハイト》のライブ会場へ潜り込むのですが、狂気の音楽にあてられ・・・・気分が悪くなってしまいます。
 このバンド、いかがわしくも深い闇を抱えているようで、カギを握ると見られる消えた元メンバーを追ってホルムたちは隣国ノルウェーへと出張します(CDジャケに使われたニーダロス大聖堂を観光がてら訪問。読者サービスでしょう)。その後、バンドメンバーが一人また一人と消されていき……十字架の死体、二人の失踪者とはどうつながるのでしょう? 事件現場で目撃された禍々しいコープス・ペイントはいったい何者なのか?

 これまで比較的リアリズムの警察捜査物(アクションは過激だけど)だったこのシリーズ、今回はブラックメタル・バンドの奇怪なイメージに始まり、運命の女神ウルズのシンボル、墓から蘇り生者の血を吸う死霊ドラウグ、自分の眼と引き換えに知恵を得た主神オーディン、彼の振るう槍グングニル、古代ルーン文字の羅針盤ヴェグヴィシル、子どもを攫う森の妖怪トロールといった北欧の怪異が飛び交い(それらに交じってギリシャの悪鬼カリカンジャロスまで)、おぞましい百鬼夜行の幻想がてんこ盛りです。

 北欧ミステリの宿命なのか、キャラたちの生活はボロボロに荒れています。
 まず、主役イコノミディス警部です。特に第二作『城』で家族も巻き込んだ悪役との壮絶な戦いがストレス症候群を遺しており、繰り返しフラッシュバックに怯えます。一週間ほど愛妻リズベットとのアムステルダム休暇旅行で少しは落ち着いたようですが、いつ再発するか分からない危うい状態です。抗不安剤が放せず、禁煙禁酒を誓い、コーヒーもやめてダージリンティー、食事もバナナとシリアルを無理してかき込む毎日。心身ともに病んだ警部は第二子誕生をまじかにして、のどかな田舎への転勤を考えています。次回作では舞台が変わるのかも。
 新顔のホルム巡査部長は母親のある病状に悩んでいます。その点では心優しき息子なのですが、ただし外国人恐怖と移民への偏見がひどく、移民二世のイコノミディス警部と対立しがち。教会放火容疑で逮捕されたムスリムの若者の処遇をめぐって、「出身国によって居住国の法律に縛られる度合いが違うわけじゃないだろ」「そういうのはあなたが移民だからでしょ」と激しくやり合います。今作はこのテーマがかなり強く出てきます。
 同じく今回から登場の女警部補リヴェラはさらにとんがっています。酔っぱらって捜査会議に平然と遅刻する破滅型で、手には死者たちの名前と復讐の女神エリニュスのタトゥー。いったいどんな因縁が? その辺は次回作で明かされるのでしょう。

 殺人課主任のボスニア系ジャジャノヴィッチは第二作からの常連で、横柄な頑固おやじ、「お前に共感は持ってないがな、おれの間違いを正そうとするんなら耳は傾けてやろう」とイコノミディスには高圧的ですが、今回なぜか事件に対し弱腰。あげくに飲んだくれて家に引きこもってしまいます。
 こんなガタガタのチームでおぞましい(たぶん)シリアルキラーを追い詰められるのか……心配です。
少し残念なのは、作品のギリシャ色が薄まってしまったこと。北欧のギリシャ人移民という面白い設定からはいろいろなテーマが盛り込めそうですが(以前は軍事政権下で亡命した両親のエピソードなどが盛られていました)。妻リズベットとの微妙な愛情の綾は強く出ていますが、息子ヤニスの出番もちょっと少ないですね。スウェーデン人クラスメートたちとの関係は大丈夫なんでしょうか。
 ギリシャ料理ではケフテデス(ミートボール)が出てくるくらいです。なお、リズベットのチキンカレーは近くのネパール料理屋のよりもいけるらしい。


https://el.wikipedia.org/wiki/%CE%9A%CE%B5%CF%86%CF%84%CE%AD%CF%82#/media/%CE%91%CF%81%CF%87%CE%B5%CE%AF%CE%BF:Gehaktballetjes.jpg
ケフテデス(ミートボール)。ギリシャのひき肉(キマス)料理にはいろいろとおいしいのがあります。スズカキア(トマトソースで包んだ細長いハンバーグ、エッセイ第14回)やラハノドルマデス(卵レモンソースかけロールキャベツ、第15回)などもその一つ。

◆日本人キャラ初登場。その名は……

 さて、上で触れた愉しい出会いというのはヤニシスの新作『マクガフィン』(Μακγκάφιν, 2024年) です。
《マクガフィンMacGuffin》はヒッチコック監督の使った語で、登場人物たちがこれを追い求めてストーリーが進んでいく、例えばスリラー映画の《宝石》とか《秘密書類》といったアイテムのことだそうです。それ自体の正体はさして重要ではなく、周りの人物たちを引っかき回すのがポイントで、『ミッション:インポッシブル3』の謎の《ラビットフット》みたいなやつです。あれも結局何なのかよく分からなかった……


ヴァンゲリス・ヤニシス『マクガフィン』
ディオプトラ出版社、2024年。

まずはエピグラフにビックリします。

「タン、タン、タヌキの~」――日本の童謡より――

 何なんだろうと思ってると、人を食ったようなプロローグが始まり、Tシャツ屋のおやじが若い店員に文句を言ってます。「注文したのはスパルタ王のデザインだろうが。けったいな動物の絵になっとるぞ!」「ありゃりゃ……まあ、サテュロスとでも言っときゃ売れますって」
 カヴァーの文字の背後にもうっすらとタヌキと酒瓶のイラストが……。これが《マクガフィン》なんでしょうか?

 冒頭で雪のスウェーデンではなく、太陽がギラギラ照り付けるピレアス港が登場します。エーゲ海クルーズフェリー《アプロディテ号》の前には乗船を待つ車の長い列。その中のアキンディノス一家の四人が主人公のようです。
歯科医アキンディノスはスマホの会話にかかりっきり。患者との予約確認に勤しんでいるように見えますが、実は不倫相手とおしゃべり。妻ナナはそんなことはお見通し、すまし顔でスマホの韓国ドラマに見入っています。さして乗り気ではないのについてきた老母ヴァルヴァラはお疲れ気味で、その世話は高校生の娘ミカエラに押し付けられています。ミカエラは、できれば仲間たちとフォレガンドロス島へ行ってアザラシ保護活動に参加したかったのに、と文句タラタラ。
 なんだかしっくりしていないこの四人家族に加えて、さらに主要人物が四人乗り込んできます。
 かつての羽振りの良さはどこへやら、今や借金まみれの大船主。恋人に手ひどい裏切りを受け復讐に燃える若い娘。ミカエラとよりを戻したいストーカー気味の若者。
 そして八人目はお待ちかね、日本人の登場です! この若者が非常にユニークな設定。アテネで寿司バーを営業する実業家とか、トヨタかホンダのディーラーといったギリシャ人ならすぐに浮かびそうな役柄ではありません。その名も「コターロ」Κοτάρο (Kotaro) 。「小太郎」?「高太郎」?「光太郎」? ちょっとわかりませんが、忍者っぽい身のこなしを見せるあたりは「風魔の小太郎」なのか?
 この小太郎、登場早々、埼玉の「東武動物公園」のサイトを熱心に見入っています。心配なのは、三十時間後に控えたヒカルの手術の件。その費用がクラウドファンディングで集まるかどうか……実は「ヒカル」というのはこの動物園で唯一のタヌキ。小太郎が何よりも愛する動物なのです。隣席の子供に、これはキツネじゃなくてタヌキだよ、ギリシャにはいない、日本だけなんだ。森を走ってお腹を「タタタ」と叩いちゃ、好きなものに化けるし、玉を使って何でもできるんだぜ……と熱く語ります。手術費捻出のために、結局仕事を請け負うことを決意。使命は「ある標的からスマートウォッチを奪い、相手を抹殺した後、最初の島で降りて逃亡するべし。彼の生業はスゴ腕の殺し屋なのでした。ターゲットは……タヌキのTシャツを着用中との指令。

 こうして、ワケありの八人がフェリーに乗り込み、エーゲ海クルーズに出発します。
 最初の目的地シフノス島の直前で乗船客の一人が殺害されます。どうも着ていたTシャツで誤認されたもよう。プロローグにあった発注ミスのせいでタヌキのTシャツが広く出回っているらしく、船内はタヌキだらけです。
 スマートウォッチを追っているのは小太郎だけではありません。アキンディノス医師も不倫を嗅ぎつけた謎の人物から脅迫を受けており、目印にタヌキのTシャツを着て、同じTシャツの謎の乗客から時計を受け取るように命じられます。
 してみると、どうも《マクガフィン》はタヌキのTシャツではなく、スマートウォッチのようです。中に入ってるのはスパイのリスト? 麻薬取引のダミー会社の資料? 国家の機密書類? 医師にも小太郎にもわかりません。とにかく手に入れることが先決。まさに《マクガフィン》状態です。
 話が進むうち、若い娘の復讐やら、元カレの過激なストーキングが絡んできて、状況はハチャメチャになっていきます。さらに、小太郎の宿敵である同性愛の殺し屋ペアがたまたま乗船しており、気づけば一触即発の状態だし、鬱まっただ中の大船主もこれまた何か陰謀を巡らせて、十か国語を話し大好物は和牛という手練れの暗殺者を呼びつけます。ある人物が邪魔者の排除を誰かに依頼し、また別の人物が自分の宿敵を……と殺人が立て続けに起きます。閉ざされた船内には殺害依頼と実行の網目が張り巡らされ、目が回りそう。引用されたエウリピデスの悲劇『ヘレネ』のセリフ通り、誰もが「見た目と実像は大違い」。
 最後まで生き残り、時計を手に入れるのはいったい誰なのか? 結局その中身は明かされる?
 これ以上はもう何を書いてもネタバレなので、ストーリーはこの辺までに。

 シリアスなイコノミディス警部シリーズとは真反対の、ポップでコミカル、かつ皮肉満載のストーリーと切れるアクション&壮絶スペクタクルが読む者を心地よく運んで行ってくれます。テーマがテーマなので、家族いっしょにディズニー風の爽快感とはいきませんが。私はヒッチコック『ハリーの災難』のようなブラック・コメディーを連想しました(あれより死者ははるかに多い)。

 コメディっぽい効果を上げる仕掛けとして、途中でいきなりパロドス(古代喜劇の合唱隊コロス入場)、パラバシス(合唱隊から観客への語り掛け)、エクソドス(合唱隊退場)が挿入され、読者と愉しい掛け合いをしてくれます。あまりに突然なので、読んでる方が慌てますが、混乱を極めたストーリーがここで整理してもらえます。ただし、ネタバレはもちろん回避。
 読者「《マクガフィン》っていったい何? 小太郎の依頼人は誰なの? ○○殺しの犯人は××でしょ?」
 合唱隊「すべてが混乱ちゅうのがこのお話の肝じゃよ。疑問が全部解かれると、本は魅力を失うでな!」

 小太郎についてもう少し。
 作者ヤニシスは「あとがき」で伊坂幸太郎が好きなことを告白し、名前を使わせてもらったことに謝辞を述べています。してみると「幸太郎」だったんですね。「世界で最も愛すべき危険な殺し屋でしょう」と作者自身も気に入っているキャラの様子。伊坂氏の作品はギリシャ語訳がないので、『マリアビートル』(2013年) を英訳Bullet Trainで読んだのではと思われます。
 日本人読者としては、幸太郎がどんな風に描かれているのかに興味を引かれますが、その生い立ちのパートが任侠風でなかなかに面白い。
 五歳のとき盛岡の駅でパチンコ狂の父に捨てられた後、見知らぬ男に拾われ殺し屋修行。師匠「サイゾー」のもとで技を磨きます(これは「才蔵」かな? 私の勝手なイメージは(『キル・ビル』の)千葉真一氏です。ならば幸太郎は若き日の真田広之氏か?)。好物は太巻き(これは作者の好み?)。自ら腕をふるって知人にご馳走しています。
 幸太郎と某人物が「あの子の命は助けてもらえぬか?」「それはできませぬ」と日本語で会話するシーンもあります。もちろん実際はギリシャ語で書かれており、そばにいたギリシャ人が大体そんな内容だろうと想像しただけですが、どうしても時代劇調で訳したくなります。
 幸太郎と並ぶ主役アキンディノスも印象に残る人物です。臆病で逃げ上手、見ざる聞かざる言わざるが信条。医師で議員立候補も狙うほどなのに、満たされざる自分の人生を悔いっぱなし。オレがジェームズ・ボンドなら殺し屋なんざ返り討ち、恐喝者もちょちょいと片付けてやるのに!とか、ル・カレなら目印はタヌキのTシャツなんかじゃなく、カーネーションか指定された新聞だろ、などと笑わせてくれます。

 本編の後に作者の選んだ「プレイリスト」が載っています。
 ボン・ジョヴィ、クイーン、エアロスミスなどに交じって、ポルノグラフィティ「サウダージ」、X JAPAN「WEEK END」、郷ひろみ「2億4千万の瞳―エキゾチック・ジャパン―」、麻倉未稀「ヒーロー」といった日本の曲が入っているのは驚きでした。にしても、何か共通項があるのでしょうか? 誰か想像できます? アヴちゃん「Stayin’ Alive」も挙がっていますが、これは米映画『ブレット・トレイン』Bullet Train(2022年。ブラッド・ピット主演、伊坂幸太郎原作)の挿入歌だからでしょう。
 
 すでに新作『ヴィヌーシュカ』(Βινούσκα, 2025) が出版されています。これまた不思議な題名です。主人公の殺し屋のコードネームらしいのですが、なぜロシア語 вина「罪」からなのかはよくわかりません。カヴァー絵が『マクガフィン』に似ていますが、続編ではなさそうです。


ヴァンゲリス・ヤニシス『ヴィヌーシュカ』
ディオプトラ出版社、2025年。

◆欧米ミステリ中のギリシャ人(39)―― キャロル・クレモーのギリシャ人――◆

 後半は、華々しくデビューしながらその後の活動がよくわからない謎の作家のお話を。
『アリアドネの糸』(Carol Clemeau, Ariadne Clue, 1982)で1983年のCWA新人賞(ジョン・クリーシー・ダガー賞)を受賞したキャロル・クレモーです。
 この題名からして読まないわけにはいきません。

キャロル・クレモー『アリアドネの糸』、早川書房、1984年。

 ともかく、まずはストーリーから。
 古典文学科の若き准教授アントニアの大学では、エーゲ海文明展の準備が進み、キャンパスに貼られたアガメムノンの黄金マスクのポスターが人目を引いています。
 そんな折アントニアはギリシャ系の院生アリアドネから、夏にクレタ島の親戚の家に旅行するんですが、先生いっしょに行きませんかと誘われます。教師の威厳を出そうと学生とは距離をとっていたアントニア先生ですが、クレタ島の誘惑に抗えず受け入れることに。五年前にもクレタを訪れており、クノッソス宮殿はもちろん、ファイストス、ハギア・トリアダ、グルニア、ザクロスといった遺跡を回っており、必ずまた行かなくちゃと夢見ていたのです。
 ところがここで大事件が発生。展示会に合わせてアテネ考古学博物館から借り受けた、大量の黄金装身具、酒杯、大型の甕、獅子狩りの短剣などの古代遺物が盗難に遭ってしまいます。四千年前の人類共通のお宝。これはひじょうにまずい。国家間の大問題になりそう。管理責任者の大学博物館は大パニックで、警察もキャンパスに入ってきます。
 時を同じくしてアリアドネが姿を消します。神秘的な雰囲気の娘で、研究よりも(自分の祖先たる)古代ギリシャの世界に対して異常なまでの熱意でのめり込み、研究者向きじゃないな、とアントニア先生も感じていました。
 とにかく気がかりはアリアドネの行方。居酒屋タヴェルナの実家やらあちこち探して回りますが、いっこうに見つかりません。そのうち大学博物館の若い夜警が現れ、このところずっとアリアドネが深夜に作業室で何かに取っ組んでたのを見ましたよ、オレもあの子の身が心配なんだと打ち明けます。提出間近の博士論文の仕上げに忙殺されていたのか? しかも、数日前彼女は作業場で奇妙な人物と密かに会ってたらしい。とはいえ、この若い夜警もただそれだけで自分に会いに来たのかしら、とアントニアは怪しみます。
 果たしてアリアドネは自分の意志で身を隠したのか? それとも犯罪に巻き込まれたのか? もちろん、彼女の行方と盗まれた古代の財宝とは無関係ではありえないでしょう。

 さて、この小説が面白いのは、事件がギリシャ神話に見立てられていることです。
 エピグラフでクレタのミノス王家の伝説がかいつまんで語られます。
 傲慢なミノス王は神の怒りを買ってしまい、呪われた王妃パシパエは雄牛を恋したすえに半人半獣の怪物ミノタウロスが生まれます。怪物は迷宮ラビュリントスに閉じ込められ、属国アテネからの男女の生贄を餌として育ちます。これを阻止しようと王子テセウスは自ら生贄となってクレタに乗り込み、恋する王女アリアドネの手助け(ここで迷宮脱出のため「糸」を使うわけです)で、怪物を倒します。
 ここまでは一番よく知られた部分ですが、後日譚があります。テセウスとアリアドネは手を取り合ってミノス王のもとを逃れますが、途中の島でテセウスは非情にもアリアドネを捨ててアテネへ帰還(テセウスの急な心変わりは謎。アリアドネに一目惚れしたディオニュソス神が攫ったという説もあり)。父王アイゲウスは息子の身を案ずるあまり海に身を投げ(それゆえアイゲウスの海=エーゲ海)、テセウスが跡を継ぎます。
 まだまだ話は続きます。後になってテセウス王はクレタとの同盟の証としてアリアドネの妹パイドラを妃に迎えます。さらに、戦いで捕囚としたアマゾン族の女王とも結ばれ、息子ヒッポリュトスが生まれます。眉目秀麗なヒッポリュトスに惹かれた継母パイドラは誘惑しようとするのですが、拒否されて……エウリピデスが悲劇『ヒッポリュトス』に仕立てています。

 作家がわざわざこのエピソードを冒頭に置く以上、なにか平行性を仕込んでいるに違いありません。どこまで神話に見立てたストーリーが進み、どこで読者を裏切るのか、ひじょうに愉しみです。
 アリアドネは最初から堂々と現れますが、そのほかのキャラはそもそも出てくるのか?
 彼女の妹の名前がなかなか呼ばれなくて、ずっと「妹」とされているのが不思議でしたが、かなり後になって(これは登場人物表にも目次にも記されているのでネタバレじゃないと思いますが)、「フェイドラ」(つまりパイドラ)だと分かります。やがて末っ子のミノタウロスも登場。もちろん半人半獣ではなく、ちゃんと「ヤニス」という名がありますが、どこか情緒不安定で「象嵌ぞうがんのような眼をして」という謎めく人物です。
 一番の期待はテセウスです。神話では彼こそが怪物退治や継母パイドラの恋といったエピソードを結び付ける人物ですが、これが『アリアドネの糸』の誰に当たるのか、結局登場しないのかはっきりしません。失踪したアリアドネは誰かを迷宮(何かの苦境?)から救い出した後どこかに置き去りにされたのか? 妹フェイドラはやがてその人物と結婚して義理の息子を愛することになる(姉も未婚ですが)? ヤニスはその謎の人物に殺されてしまうのか? 妄想はどんどんと愉しく膨らみます。

 ストーリーの舞台がなかなか明示されなくて、たぶんアメリカ東岸かなあ、作者シカゴ出身だしと思っていたら、登場人物が英国風パブ・・・・・で密談するシーンが出てきて読んでるこっちは混乱。しかしその後で「アントニア先生やあたしみたいに二十世紀のアメリカに住んでる人間は」というセリフがあるので、まあこれは解決です。
 舞台がクレタ島へ移ることはないのが残念ですが、その代わりにと言うか、アントニア先生がアリアドネの家族を訪ねて行った先がギリシャ人街。「居酒屋タヴェルナ」「パン屋アルトポイオン」「薬屋ファルマキオン」などギリシャ語の看板が並びます。アリアドネの母親は居酒屋「迷宮ラビュリントス」を営んでおり、看板には牛の頭に子供の体という、異形のミノタウロスが描かれています。ヤニスを暗示しているのか? なかなかに意味深です。

 ミステリ的に面白いのは、ある場所で見つかるメモです。アルファベットたった三文字が記されただけ。これ、ダイイングメッセージ? アントニアたちは必死になってこの文字を含む語を探すのですが。 
 これに関連して、カギとなる『イリアス』の一行が繰り返し現れます。
《アトレイデース テ アナクス アンドローン》「人々のあるじたるアトレイデスの息子と……。「アトレイデスの息子」とはギリシャ軍の総大将アガメムノンのことで、「神々しきアキレウスとが衝突し……」と続きます。
 アントニア先生によるとこの二つが事件解決の糸口らしいのですが、どういうことでしょうかね? 古代ギリシャ語の知識をトリックに応用するのは、いかにも古典学者ならではの趣向で、サラ・コードウェルを思い出します。

■キャロル・クレモーのギリシャ語講座■
Τι θέλετε, κυρία ;(ティ セレテ, キリア?)「ミセス、(注文は)何になさいます?」
Παρακαλώ .(パラカロ)「おねがい」
Καλά, καλά.(カラカラ!)「いいよ、いいよ。大丈夫」
Σιγά σιγά.(シガシガ)「ゆっくり、ゆっくり」
Ἀτρεΐδης τε ἄναξ ἀνδρῶν καὶ δῖος Ἀχιλλεύς.(アトレイデース テ アナクス アンドローン カイ ディーオス アキッレウス)「人々の主たるアトレイデスの息子と神々しきアキレウスとが……」
『イリアス』第1巻第8行。アガメムノンとアキレウスの不和がトロイア戦争のストーリーを牽引します。】

 作家自身をモデルにしたのでしょう、キャンパスや授業の雰囲気が面白い。アントニア先生は失われたエウリピデスやメナンドロスの断片の発見が学問上どれほど衝撃的、価値あることかわかる?!と大熱弁をふるいますが、相手は「へ?」といっこう伝わりません。こと自分の専門になると誰でもこうなるよなあ、とクスリとさせられます。
 クライマックスとなる大学博物館の地下室も、まるで古代の墳墓のようで雰囲気満点です。
恋愛要素をやたらと盛り込んで膨らませることはなく、話を謎解きに集中させたコンパクトな仕上がり(200頁ほど)で、充分に愉しませてもらいました。

『世界ミステリ作家事典 本格派篇』(国書刊行会)では、CWA新人賞受賞者リストの中にキャロル・クレモーの名はありますが、項目としては立てられていません。ネットで探すと『アリアドネの糸』で1982年に「第一回スクリブナー犯罪小説賞」最優秀作品賞を受賞、とあるのですが、この賞自体も私にはよくわからないままです。
 訳者の山本やよい氏が「あとがき」で「二作目はアントニアが夏期休暇を利用してギリシャの村へ出かける話になる予定です」と書いておられますが、その後の作品が見つからないので、本業の古典研究の方に戻ってしまったのでしょうか? そちら方面では、ウェルギリウス「農耕詩」の描写に関する論文タイトルが見つかりました。また、学位論文は古代のプリュギアのダレス「トロイア戦争」を12世紀にラテン語訳したエクセターのジョゼフという人物がテーマのようです。
 ただありがたいことに、短編二編が和訳されて『EQ』に載っています。
「古式の呪い」(“Curses”, EQMM 1983/1, EQ 1984/5 No.39)、
木偶坊デッドウッド(“Dead Wood”, EQMM 1985/ 4, EQ 1986/ 5 No.51)
 です。どちらも長編同様にアントニア・ニールセン教授(准教授から昇進?)が主役で、やはり大学が舞台。凶悪な犯罪は現れず、カンニング、盗作、アカハラ・パワハラなどいかにもキャンパスというテーマが盛り込まれています。
 ことに「古式の呪い」はラテン語の授業風景が面白く、作者ものびのびと筆を走らせている感じ。学生六人の小講座制とはいいですね(今の日本じゃ考えられない)。命令文の練習として、ラテン語で呪いの札を書くようにと課題が出され、三週間後のハロウィーンでお化け屋敷に吊り下げよう!と学生たちは盛り上がっています。どちらの短編でも実に嫌味な人物が罰を受けることになり、読後感はいいです。
 中村銀子氏のイラストが挿入されていますが、意外にもアントニア教授はかなり年配で、ちょっとミス・マープルの雰囲気あり(一年前の『アリアドネの糸』では就職して五年目の新進研究者の感じだったけど)。

◆ファイロ・ヴァンスのギリシャ語

 ところで、クレタ島とミステリで思い出すのは、天才探偵ファイロ・ヴァンスがクレタ出の人物の事件を、軽くちょちょっと解決した短編です。と言っても、高木彬光のパスティーシュ「クレタ島の花嫁――贋作ヴァン・ダイン」(1953年)のことですが。二階堂黎人編『密室殺人大百科』に再録されていることからも明らかなように、密室トリックが眼目です。ニューヨークにやって来たクレタ人女性アンジェリカとその従兄キクロプス(一つ目巨人ですね)が登場。ヴァンスは相変わらずレジー煙草をくゆらせながら、クレタ島のトロイア遺跡・・・・・・・・・・・はシュリーマンが発見したのだよ、などと怪しげな蘊蓄を垂れています。

 話のついでに、本家ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスのギリシャ語について少々。
 デビュー作『ベンスン殺人事件』(1926年)からして「世界の知的業績、芸術的業績を理解するには、いろいろな言語を知ることが不可欠だよ。特に古典のギリシャ語とラテン語は翻訳ではダメだ!」と高飛車の目線で登場。この天才探偵、外国語が五十くらい操れそうですね(古代エジプトの象形文字も読めるらしい)。『カナリア殺人事件』(1927年)のエピグラフ「第一印象は多くの者を欺く」もプラトンの『パイドロス』から採られています。
 傑作『僧正殺人事件』(1929年)の冒頭でヴァンスとギリシャ語とのかかわりがチラッと出てきます。大学時代にクセノポン小アジア遠征記アナバシス『ソクラテスの思い出』を読んで感激するも、主人公(クセノポン自身)が一万人の部隊を率いて退却し、海まで到達したところで・・・・・・・・・・・興味は失せてしまったらしい。その後なぜか突然、喜劇作家メナンドロスの断片に興味を持ち翻訳を始めたようです。ひと月以上この作業にかかりっきりでしたが、「僧正」によるマザーグース殺人が起こり中断します。
『カブト虫殺人事件』(1930年)では翻訳を続けているようですが、その後放り出したものか、『ケンネル殺人事件』(1931年)では進捗報告なし。
 続く『ドラゴン殺人事件』(1933年)で「その夏は七月後半に入って、メナンドロスの断章への興味がぶり返し、その翻訳を完成させようと取り組んでいた」。作者は言い訳の必要を感じたのでしょう、「例のマザーグース連続殺人によって中断したのを御記憶かもしれない」。まあ誰も覚えてないけど。
『カシノ殺人事件』(1934年)になるとまたもや飽きて(ヤレヤレ)、古代メソポタミア文明とシュメールの陶器に凝り出し、『ガーデン殺人事件』(1935年)ではラテン文学に乗り換えたのか、(例の「ギリシャ人の贈り物には気をつけろ!」が出てくる)『アエネイス』の一節を使った暗号を嬉々として読み解いています。その後はしかし、ギリシャ語熱はどこかに消え去ったようで跡形もなし。あ、わずかに『誘拐殺人事件』(1936年)のエピグラフには上と同じ『パイドロス』が引かれてますが。
 
 ところで、ずっと疑問に感じていたことがあります。
 天才探偵ヴァンスは、実際はどの程度ギリシャ語が読めたのか? 
 クセノポン『アナバシス』は初級文法を終えた学習者が勧められる定番の読み物です。兵士たちが黒海に達した時の叫び「海だタラッタ海だタラッタ!」で知られ、ヴァンスも一応この箇所まで(作品の半ばあたり)は読んだのでしょう。と言うか、この名場面を出したかっただけ? (一年後、負けじとエラリー・クイーンも『フランス白粉の謎』で同じ作品を読みながら、雪中で眠る兵士たちの靴紐が凍り付いて足に喰いこむ、というくだりから「父さん、素晴らしいトリックが浮かんだよ!」)
 しかるにその後いきなりメナンドロスの喜劇とは。これは手ごわい。古代には人気があった作家ですが、その後は忘れられ、ラテン作家たちの翻案や断片的な情報でのみ伝わっていたところ、二十世紀初めにパピルスの断片が発見され、ようやくその素顔が明らかにされるようになりました。きちんと読むには先行する研究だけではなく、古代中世の注釈スコリアにまで当たる必要があるでしょう。(アントニア先生も力説していた)メナンドロスの気むずかし屋デュスコロスがほぼ完全な形で出版されて世間を驚かしたのは、ようやく五十年後のことでした。
 派手なネタが大好きなヴァン・ダイン、ギリシャ語作品をヴァンスに読ませるなら、世紀初めのこの大発見だ!と思ったんでしょうかね。

 こんな風に横目で見てしまうのも、ラテン語やフランス語の引用はやたらと多いけれどギリシャ語はほとんど出て来ないからです。『ベンスン』『カシノ』『ガーデン』ではラテン語詩の原文をまるごとを引いてるし、フランス語、ドイツ語原文の引用もあります。一方で、ギリシャ語は人名か地名があるだけ。
『ベンスン』では哲学者アナクサゴラスの逸話「ランプが必要になるなら油を入れておけ」が引用され、ヴァンスは「至言だよ!」と偉そうに言ってます。たぶんプルタルコス『英雄伝』の「ペリクレス伝」からでしょう(貧困の中、餓死しかけた哲学者が慈善家とされるペリクレスを詰るシーン)。ここも原書では英語のセリフだけです。「ランプが必要な者たちはホイ トゥ リュクヌ クレイアン エコンタス油を入れておくよエライオン エピケウーシン」とでもあれば、さすが百科全書派ヴァンス!となるのですが。
 唯一私が気がついたのは、『カブト虫』の中でのやり取り、「アヘンだって?」「ケシの汁を固めたものだよ。学名Papaver somniferum、ギリシャ語じゃオピオンというね。つづりはオミクロン、パイ、イオタ、オミクロン、ヌー (= ὄπιον) だ」。でもこれもな~。よく似たラテン語の単語opiumがそのまま英語に入ってるんだから、アメリカ人誰でも知ってそうだけど。
『グリーン家』の註では古書マニアのトバイアス老の蔵書目録が延々と続きます。「館もの」の雰囲気を盛り上げる小道具としてみればいいのでしょうが、ラテン語や英独仏伊西露瑞典語のタイトルはあれど、ギリシャ語の本は一冊もありません。
 も一つついでに、『ベンスン』の冒頭でヴァンスの美術偏愛ぶりが紹介されますが、「コレクションの多彩なことは博物館並みだ。アマシス時代の黒絵のアンフォラ壺、エーゲ文明のコリント様式の花瓶、クーバチャ島やロードス島の皿、アテネの陶器、十六世紀イタリアの水晶の聖水盤……」とあります。ロードス島はともかく、エーゲ海に「クーバチャ島」ってあったっけ?と悩んでしまいました。原文を見てもやっぱりKoubatcha。どこだどこだと調べてみると、コーカサスのダゲスタン共和国内にクバチKubachiという場所があって、クバチの皿Koubatcha plateは16, 17世紀のペルシャ陶器として有名なんだそうです。ネットでも皿の画像がたくさん見つかります。まさかこれ? もしそうなら(分かりませんが)、これは作者の書き方が悪い。エーゲ海、コリントス、ロードス島、アテネと並べると、そりゃギリシャだと思ってしまう……
 ギリシャ語に限るならば、アントニア・ニールセン教授やサラ・コードウェルの探偵たちの方がずっと上手うわてでしょう。

 ま、ゴチャゴチャ書きましたが、(今は評価が落ちてしまったとは言え)半世紀も前にあかね書房『エジプト王ののろい/スコッチ・テリアのなぞ』で、海外ミステリの魅惑の森へと導いてくれたありがたい作家には違いありません。(にしても、傑作『グリーン家』でも『僧正』でもない、『カブト虫』『ケンネル』という不思議なこのカップリングはなぜ?)

ヴァン・ダイン『カブト虫殺人事件』
完全に忘れてしまったストーリー。扉ページの紹介文「完全であることを唯一の弱点とする完全犯罪を描いて第一人者」だけが、よく分からないながら記憶の底に。内容を思い出そうと五十年後に再読しましたが、もっとも印象的だったのは天才探偵のとんでもなく上からの目線でした。
 
ヴァン・ダイン『ケンネル殺人事件』
それに対して、この珍トリックを忘れる人はいないでしょう。手を叩いて大喜びするか、怒って本を投げ出すか、本格ファン度が試されます…… もっとも、マエストロ・カーはその上を行きます。けっこう好きな人も多い(はずの)中期のあの作品です。
橘 孝司(たちばな たかし)
 広島在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっともっと紹介するのがライフワーク。現代ギリシャの幻想文学・純文学も好きです。
 その日たまたまチャリング・クロス・ロードを歩いていました。ナショナル・ギャラリーを出て左手にある通りです。しばらく歩くうち向かいに怪しい看板が出現。《Murder One》。おおっ、さすがモリアティー教授の牛耳る犯罪都市ロンドン。昼日中からこんな危ない看板を堂々と掲げるとは。恐る恐るドアを押して入ると……目前にはまさに理想郷が広がります。ホームズの棚、クリスティーの棚、セイヤーズの棚、クロフツの棚。恍惚として左右に目をやりながら向かったのはジョン・ディクスン・カーのコーナー。初めて目にするカー原書の数々は、あたかも何度目かの絶版ブーム・・・・・に泣く日本のファンを狙い撃ちするかのようなラインナップ。『毒のたわむれ』『蠟人形館の殺人』『一角獣の殺人』『九人と死人で十人だ』『パンチとジュディ』。いまでこそ新訳で手軽に読めますが、そのころはまだ創元推理文庫のバンコラン・フェル博士・メリヴェール卿新訳シリーズも出ておらず、絶版本のカタログを見返してはため息をついていたものです。他人には渡さんぞと十冊ほど抱きかかえて(ペーパーバックなのでけっこう出回ってるんでしょうけど)、レジへ突進したのでした。
 その後平井呈一氏の教え(「これを機会にぜひ原書で恐怖小説に親しまれることをお奨めします。冬の晩、字引をひきひき恐怖小説を読む醍醐味はなんともいえないもので、いちど味わったら長く忘れることができないものです」)をミステリに応用し、辞書と取っ組み合いをしながらチマチマと(スラスラとは行かない)読んでいきました。
 かくして、私にとってカー(そしてミステリ)の原書体験の第一号は『毒のたわむれ』です。カー初期の作品ですが、バンコランの闊歩する妖しいパリやロンドンを離れ、作家の故郷、雪降るペンシルヴェニアを舞台にした異色の作品。クライマックスである人物が床を踏みしめる語thump-thumpが忘れられません。「ドシンドシン」だそうですが、私の頭の中では勝手に和風に翻案されて「みしみし」で残っています。
 犯罪現場に不気味にこだまする笑い声といい、巧妙に隠された犯人といい(「フーダニットとしてはなかなかよくできている」ダグラス・G・グリーン)、ぜひ新訳をお願いします。
 残念ながらミステリ専門店《Murder One》は2009年に閉店してしまい、今ではオンライン注文のみだそうです。

https://www.theguardian.com/books/booksblog/2009/jan/08/murder-one-closing-crime

https://www.cbc.ca/news/world/was-it-the-internet-in-the-library-1.840730
《Murder One》閉店のニュース。「誰が《Murder One》を殺したのか?」

ジョン・ディクスン・カー『毒のたわむれ』
ハーパー&ロウ出版社、1990年版のカヴァーデザイン。

 
 


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