みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
◆ ギリシャSF作家を育てよう
今月も、まずはギリシャSF のミニ情報からです。
本エッセイではここ数回、19世紀後半から20世紀初めにかけて、ジャンル濫觴とも言える古典的作品のご紹介をしましたが、今回はがらっと方向を変えて、新しい作品について書きたいと思います。
もともと幻想文学やSFはギリシャ文学の中ではマイナーなジャンル(かつては《亜流・傍流文学》の扱い)で、目を向ける出版社も多くはなかったのですが、「
『ラリー・ニーヴン幻想文学賞2013』 万有の通路出版、2016年。 『ラリー・ニーヴン幻想文学賞2022』 万有の通路出版、2023年。 |
同賞の内容についてごく簡単に記しておきます。名称は「幻想文学」ですが、「SF」「幻想」「ホラー」を三本の柱としており、応募作品の中から以下のような部門の優秀作が選ばれます。
1 SF賞(短編と中編) 2 幻想賞(短編と中編) 3 ホラー賞(短編と中編) 4 Valles Marineris賞(scifaiku、SF俳句) 5 Hecates Tholus賞 (幻想詩) 6 Space 2150賞(外国人作家作品、長編) 7 Venera 13賞 (SF エッセイ) 8 9 新宇宙飛行士賞(18歳以下の幻想文学、短編中編を分けず) |
最初の頃は1~3の三部門だけでしたが、次第に4以下が追加されていきます。わざわざ「スチームパンク」賞を2020年から独立させたのが面白い(このサブジャンルをギリシャでも発展させようという出版社の意気込みのようです)。短編は千語~三千五百語、中編は三千五百語~一万語の制限。6の長編ははっきり規定に書かれていないので、よくわかりません。SF俳句と幻想詩の規定はけっこう厳密で、それぞれ5・7・5の17音節の作品を3句、220行以下の詩、と明確に設定されています。
手元にある2020年版を見ると、1~3が短編と中編に分けられ、それぞれの第一席から第三席、プラス佳作が、さらに加えて4のSF俳句、5幻想詩、8「蒸気の神賞」から2篇が入っているので、全46作品、636頁とけっこうなボリュームになっています。手ごたえのある作品はできるだけ読者に提供しようという方針なのでしょう。
作品の内容については、また改めてご報告する予定です。
『ラリー・ニーヴン幻想文学賞2020』 万有の通路出版、2022年。 |
出版社主催の賞なので、受賞者たちはまずは同社から次作を出しながら育っていくのでしょう。この賞がギリシャのSF界全体でどういう広がりを持つのか、筆者にはまだ分からないのですが、10年も着実に活動を続けてきたからには、国内のSFや幻想文学の認知普及に貢献してきたのは間違いないようです。
ちなみに、ギリシャ語では「幻想文学」は「ファンダシア」(φαντασία)、「SF」は「エピスティモニキ(=科学の)・ファンダシア」(επιστημονική φαντασία) で、「幻想」と「空想」が微妙に分かれることなく、言葉では同一の地平上に捉えられています。
◆ 国外を目指す作家たち
さてここからが本題です。
ギリシャでパルプマガジンの発行が始まったのが1930年代。最初はアメリカやイギリスのミステリ・アクション・冒険ものを翻訳掲載していました。後になると翻訳者自身がオリジナル作品を書くようになりますが、読者は(同じく編集者も)独裁制・占領・内戦に苦しむ国内の暗い事件ではなく、憧れの遠い外国を舞台とした娯楽作を求め続けます(《ギリシャ・ミステリ六歌仙》の一人アシナ・カクリは登場人物を英国人風の名前にするように出版者から依頼を受け、「知らない場所は書けない」と困ったとか)。
これが変わり始めたのは、1950年代に《ギリシャ・ミステリの父》ヤニス・マリスが登場し、新聞の連載小説を通じてリアルな故国の様子を描くようになった頃からです。いかにもギリシャのおやじという風貌・気質のベカス警部が難事件を追って、アテネの街角、ペロポネソス半島、中部テサリア平原、エーゲ海の島々を疾走する姿に読者は熱狂しました。
その後の《ギリシャ・ミステリ六歌仙》たちも同様にギリシャの土地にこだわります。クリスティーに影響されたアシナ・カクリの素人探偵トゥーラ夫人は近所にいそうなギリシャのおばちゃんだし、マリスの後を継ぐペトロス・マルカリスの主役ハリトス警部もアテネ中心部のアッティカ警察本部を根城にしています。
しかし、2000年代になって国産ミステリ作品の出版数が劇的に増え、作風もあらゆる方向に分岐拡散していく中で、再び外国を舞台にした作品が現れ始めます。それも以前のように憧れのニューヨークやロンドンではなく、作家自身の経験をもとにしたリアルな設定の作品です。
その筆頭は《一匹狼のイタリア派》ディミトリス・ママルカスΔημήτρης Μαμαλούκαςでしょう(エッセイ第19回)。イタリア留学の経験があり、代表作に登場するのもイタリア人にイタリアの町ばかり。主役はイタリア人青年コンビのガービとニコラ(ただしニコラは父親がギリシャ人)がホームズ&ワトスンばりに活躍します。
近年の大ヒットなら、何と言ってもスウェーデンのギリシャ人移民二世イコノミディス警部のシリーズです(エッセイ第12回、第35回)。作者ヴァンゲリス・ヤニシスΒαγγέλης Γιαννίσηςはスウェーデンで教師の勤務経験があり、肌で直接感じたであろう異国の空気をスピード感あふれるストーリーの中に描き込みます。ストックホルムではなく、地方都市エレブルーを舞台にしたところがちょっと異色。現在まで6作が出ています。
エレブルー署イコノミディス警部シリーズ第4作『影』 ディオプトラ社、2018年。 https://biblionet.gr/%CE%B7-%CF%83%CE%BA%CE%B9%CE%B1-483847 |
◆ ベルリンの凄惨な連続殺人
さて今回ご紹介したいのは、同じように外国を舞台にした最近の作品二点です。たまたまですが、いずれも女性作家の手になるものです。
まずは、クレリ・セオドル『三つの問い』(Κλαίρη Θεοδώρου, Τρεις ερωτήσεις, 2023) から。
事件の舞台はベルリン。お気づきの通り、カバー絵はかつて町の東西を隔てていた壁がモチーフになっています。
クレリ・セオドル『三つの問い』 プシホヨス社、2023年 https://biblionet.gr/%CF%84%CF%81%CE%B5%CE%B9%CF%82-%CE%B5%CF%81%CF%89%CF%84%CE%B7%CF%83%CE%B5%CE%B9%CF%82-546091 |
ベルリンのテーゲル刑務所にベルニーなる人物が収監されています。身分は元警視という大物ですが、その罪は実の娘と孫娘殺しという忌まわしいもの。精神を病んでしまったのか、三つの奇妙な質問をうわ言のように呟き続けます……
「雨は好き?」
「アンズのマーマレードをどう思う?」
「風呂でこっそり歌うことがある?」
時代は四十年さかのぼり、1961年8月31日の東ベルリンへ。《ベルリンの壁》が築かれたばかりです。東西間の通行が遮断されるなか、ある女性が
と、ここまでがプロローグ。
本編は2000年10月3日ドイツ統一記念日から始まります。かつて両ベルリンの境界だったエルナベルガー通りに記念碑として残る監視塔で、勝手に持ちこまれた段ボール箱の中から出てきたのはおぞましい死体。頭部以外をハンマーでたたき割られてなぶり殺しという凄惨な手口です。(こちらの通りはブランデンブルク門より南で、「ベルリン脱出」でボンドが敵方のスナイパーと交戦した場所の近く。)
事件捜査の担当は殺人課のマルクス警部。ですが、この人物が大問題です。四か月前、妻子を殺されて精神を病み養生していました。殺したのは(先に出てきた)収監中の元警視。彼の義父です。仕事こそ最大の養生とばかりに、上司を説得し復帰しますが、大丈夫なわけがありません。容疑者の訊問にあたっても個人的感情をむき出しにし、稚拙な失敗を繰り返します。元切れ者の捜査官だったらしいけどホントなのか? 彼とコンビを組むのは冷静なヴァネッサ警部。「日本のコミックキャラのような黒い目」の才媛として登場するのですが、彼女も壮絶な過去を抱えており(だんだん明らかにされます)、訊問相手に当てつけの嫌味な質問をしたりと、精神的にすこぶる不安定です。要するに、刑務所内の元警視だけでなく、捜査する二人の相棒も極めて危ない状態です。
被害者は十年前までベルリンの壁の監視所に勤務していた男。元は忠実な東ドイツ体制の信奉者で、亡命者を射殺した過去もあります。ベルリンの壁崩壊後は失業し、失意のなか家庭内暴力に走り妻とは離婚。とは言え、三年も経った今になって元妻が恨みから殺害したとは考えられません。検死からは強烈な殺意が浮かび上がります。なぜ細心の注意を払ってまで犠牲者の骨を叩き割り、わざわざ監視塔の上へ運び上げなければならなかったのか?
その後、児童福祉センター職員、精神科医夫人、スポーツ・コーチ、と陰惨なハンマー殺人が続きます。ほぼ全員がかつて社会主義思想に染まり、国家体制に忠誠を誓った人物でした。その周囲には虐待を受けていた人も少なくないはず。このあたりに殺意が胚胎しているのでは、とマルクスとヴァネッサは過去から帰って来たシリアルキラーの影を意識します。
この忌まわしい連続事件の合間に、謎の男ガブリエルの行動が挿入されます。シドニーを発ち、ロサンジェルスへ向かうこの男、機内の乗客たちがミレニウムを祝う傍らで、ひとり無常観を漂わせています。脳裏によぎる「死への旅」っていったい? 南米系とアジア系の組織が抗争するロスの無法地帯である仕事を済ませた後、四十年ぶりのベルリンへ帰還します。果たしてこの異様な人物の目的は?
最後は、雨のそぼ降るベルリンの中央墓地で、因縁ある二人の人物の一騎打ちとなりますが、どちらか勝利したのか作者はすぐには語ってくれません。最後の最後になって、飛行機の乗客の何気ない一言でその正体が明かされる、というスタイリッシュなエンディングです。
一番描写に力が入っているのはやはり、欝気味の二人の主役警官が心に抱える葛藤ですが、それ以上に、東独の全体主義体制下での異様な抑圧の風景は読んでいて息が詰まりそうになります。国家の名誉と体制の維持が第一に優先され、教育やスポーツの現場が歪められていきます。
もう一つ、迫力があるのは1945年の終戦直前、ドレスデンの緑丸天井博物館が空襲を受け倒壊する大スペクタクル場面。その後のある人物の行動を決定づける要因にもなっています。
外国人読者にとって少々残念なのは、ギリシャもギリシャ人も全く登場しない点です(わずかに、容疑者の一人が食堂でドネルを食べるシーンがありますが、トルコ料理と明言されています)。ギリシャ人作家の描くドイツであれば、ガストアルバイターの問題とか、戦時中の占領とか織り込めそうですがね。純文学作家たちはこういったテーマを盛り込みますし、歴史ミステリ作品でもドイツ占領の話が出てきます。フィリップ・カーは『ギリシャ人の贈り物Greeks Bearing Gifts』でベルニー・グンターと(実在の)ナチ戦犯を対決させています(エッセイ第26回)。
まあ、そもそも作家自身がその方向を目指していないのは明らかなので、無いものねだりではあるのですが。ギリシャ人の筆になるかどうかなど考えずに、四十年にわたる残酷でスリル溢れる犯罪の物語を楽しめばいいのでしょう。
セオドル女史は純文学作品を多く発表していますが、ミステリ作としては、2022年刊の『王はつねに最後に死す』(Ο βασιλιάς πεθαίνει πάντα τελευταίος) があります。
最近『彼と彼女』(Εκείνος και εκείνη, 2024) が出ました。
クレリ・セオドル『彼と彼女』 プシホヨス社、2024年。 https://biblionet.gr/%CE%B5%CE%BA%CE%B5%CE%B9%CE%BD%CE%BF%CF%82-%CE%BA%CE%B1%CE%B9-%CE%B5%CE%BA%CE%B5%CE%B9%CE%BD%CE%B7-567515 |
ビブリオを見ていて目を引かれたのは、純文学の作家レーナ・マンダΛένα Μαντάとの共作があること。この『女の事件』(Γυναίκεια υπόθεση, 2021) は全三部作の構成のようです。ギリシャが舞台で、二人の警部補と一人の私立探偵(いずれもギリシャ人)が猟奇的な連続殺人を追跡する話らしい。こういう共作は作風の化学反応が楽しみなので、ぜひ読んでみたいと思っています。
レーナ・マンダ&クレリ・セオドル共作『女の事件』 プシホヨス社、2021年。 https://biblionet.gr/%CE%B3%CF%85%CE%BD%CE%B1%CE%B9%CE%BA%CE%B5%CE%B9%CE%B1-%CF%85%CF%80%CE%BF%CE%B8%CE%B5%CF%83%CE%B7-517555 【この後『同士討ち』(2022年)、『 |
◆霧深きスコットランド山中の怪異
次の舞台は英国へと飛びます。マルガリタ・ハンジャラのデビュー長編『幻想の仮面』(Μαργαρίτα Χαντζιάρα, Η μάσκα της ψευδαίσθησης, 2019) です。
マルガリタ・ハンジャラ『幻想の仮面』 フィラトス社、2019年。 https://biblionet.gr/%CE%B7-%CE%BC%CE%B1%CF%83%CE%BA%CE%B1-%CF%84%CE%B7%CF%82-%CF%88%CE%B5%CF%85%CE%B4%CE%B1%CE%B9%CF%83%CE%B8%CE%B7%CF%83%CE%B7%CF%82-464645 |
とは言っても、この作家はすでにエッセイ第30回に登場しています。ギリシャ第二の都市出身の作家たちが集結して作り上げた短編アンソロジー『テサロニキ・ノワール』(Θεσσαλονίκη νουάρ, 2021)には彼女の「黒き岩の道」(“Η οδός Μαύρης Πέτρας”) が載っています。いちおうミステリ・アンソロジーなのですが、深夜広大な森の中に人々が消えていく、幻想譚ともホラーともつかない摩訶不思議な話でした。
アレクサンドロス・ミロフォリディス編『テサロニキ・ノワール』 アルヘティポ社、2021年。 https://biblionet.gr/%CE%B8%CE%B5%CF%83%CF%83%CE%B1%CE%BB%CE%BF%CE%BD%CE%B9%CE%BA%CE%B7-%CE%BD%CE%BF%CF%85%CE%B1%CF%81-518875 |
それにしてもこの思わせぶりなタイトル、一歩間違えば凡庸なコケ脅しですが、しかし気になります。『幻想の仮面』とは何かの比喩でしょうか? ミステリ小説なら、犯人が何らかの仮面をかぶっているのは当然ですが……
舞台はロンドン東部のグリニッジ。天文台で知られるあの町です。
12月の厳冬の朝、この町のリヴァーヴュー高校で生徒マイクの撲殺死体が見つかります。執拗な打撃を受けており、深い怨恨を匂わせます。
捜査担当はエミリー・ハジペトル主任警部。強い胆力と冷静な推理で犯罪者と対峙する、たくましいキャラです。彼女には正反対の内向的な双子の妹アンナがいます。アンナは同校の教師をしていてマイクの担任でした。この二人が協力して事件に立ち向かうことになります。『若草物語』で言うと(最近たまたま読んでるので)、活動的な次女ジョーと
その後、亡くなったマイクのガールフレンドのジェシカからある証言が飛び出します。三年前に失踪したはずのジェシカの兄が最近黒服をまとい(もちろん学生服ではありません)校門の前に現れたのを見て、ジェシカは驚いてマイクに相談したのですが、マイクは自分でも情報を収取しながら、信用できるアンナ先生に頼るべきだと答えたらしい。その直後マイクは殺害されてしまいました。しかしこの二件、そもそも関連しているのでしょうか?
さらにマイクの部屋から、実に異様で忌まわしいコラージュが発見されます。はたして本人が作ったものなのか?
続いて第二の惨劇が起きます。高校はマイク殺害事件で悲しみに包まれたまま、クリスマスの慈善バザーの準備を続けます。アンナ先生は割り切れない気持ちのまま手伝っていますが、突如外から悲鳴が。走り出たアンナは慄然とする光景を目にしてしまいます。
こうして、校内での殺人事件の捜査と並行して、行方不明のジェシカの兄の捜索も再開されることになります。背後にはある集団の影がちらつき始めますが、二つの事件をつなぐキーとなるのか?
ストーリーの途中で突然挟まれる異様な告白の断片が不気味です。「邪魔者は殺した」「もはや妨げられる心配はない」とはいったい誰のことばなのか? 隠れたどこかで進行する事件がもう一つあるということ?
犯罪事件の捜査と並行して描かれるのが、グリニッジのジョージア式の家に住むハジペトル家の様子です(もちろんこれも読みどころ)。元判事で妻に先立たれた父トムはアルツハイマー病を発症し、エミリー主任警部とアンナ先生の姉妹が同居して世話をしています。一家はギリシャ移民の第五、六世代で、英国の生まれ育ちですが、セオドル『三つの問い』よりはずっとギリシャへのこだわりが出ており、例えば、アンナはトムに「パパ、お茶と蜂蜜入りのクルラキアはどう?」と訊いたりします(クルラキアはねじれた形のクッキー。ペレケーノス・ミステリの主役ニック・ステファノスが食べてました。エッセイ第14回参照)。また、事件の情報を求めて、エミリーとアンナが町のギリシャ正教区内のマカリオス神父を訪れるシーンもあります。姉妹はこの教会で洗礼を受け、日曜日ごとに典礼に通っています(クリスティーだと移民一家は『ねじれた家』のように完全に英国人一家になってしまう)。
ストーリー中もっとも忘れがたいのは、エミリーと部下のストーンが、ある秘密を追ってスコットランド山中の霧深き城に潜入する場面です。嵐に閉ざされた禍々しき城で二人は驚くべき人物と対決します。「黒き岩の道」でもこういうホラー・幻想的な場面では、作家の筆はひたすら冴えていました。
ついでながら、このストーン警部はなかなか味のある脇役で、推理力もけっこう光る一方、エミリー主任警部に対して何かの借りがあり、さらに夫人も障害をかかえて苦労しているようです(後半になって事情が明かされます)。新年の最終シーンではハジペトル家に招かれ、皆でヴァシロピタを切って祝っています。たぶん常連キャラになって行くのでしょう。
https://el.wikipedia.org/wiki/%CE%92%CE%B1%CF%83%CE%B9%CE%BB%CF%8C%CF%80%CE%B9%CF%84%CE%B1#/media/%CE%91%CF%81%CF%87%CE%B5%CE%AF%CE%BF:%CE%92%CE%B1%CF%83%CE%B9%CE%BB%CF%8C%CF%80%CE%B9%CF%84%CE%B1_%CE%BC%CE%B5_%CE%B6%CE%AC%CF%87%CE%B1%CF%81%CE%B7.jpg 【ヴァシロピタΒασιλόπιτα(砂糖でコーティングしたタイプ)。新年に切り分けて食べるパイ。取り分けられた中に硬貨が入っていればその年の幸福に恵まれます。一月一日の守護聖人は聖ヴァシリスなので、そのピタ(パイ)ということです。】 |
ちょっとだけ引っかかったのは、姉妹が少々理想化されている点でしょうか。特に妹アンナは、最初は気弱なベス風に登場し、お気に入りのグリニッジ公園を自転車で走るのが好きな静かな人物だったのに、いつの間にかエミリー捜査班の主要メンバーになって推理面をリードしています。一人学校に忍び込んで重要な書類を探し出したりと、突然ジョー化するのにはビックリさせられました。それくらいなら、もうちょっとエミリー主任警部の部下たちを使ってほしい。せっかく六名全員の名前が挙がっているのだから。マルカリスの警察ミステリならあり得ない展開です。
作家の方向性としては、ハジペトル家の居間で父親の世話をしながら、姉妹が事件を推理するというパズラー型のコージーミステリを目指しているのでしょう。
一番最後になって、タイトルは単なる思わせぶりの装飾ではなく、ひじょうに深いテーマを突いていることが明らかになります。
同じ双子姉妹がやはり英国で活躍する続編『敗血症』(Σήψη, 2021) と『見えざる線』(Αόρατη γραμμή, 2023) がすでに出ています。書籍紹介を見ると、今度の敵はより手ごわそうで、姉のエミリー主席警部の方が前面に出てくるようです。
◆ 欧米ミステリ中のギリシャ人(31)―― アン・ズルーディのギリシャ人(3)――
今回はお久しぶりのアン・ズルーディです。
デビュー作『アテネからの使者』と第二作『ミダスの汚れた手』については以前に書きました(エッセイ第19回、第20回)。《白いテニスシューズの太った》調査員ヘルメスが活躍する人気シリーズです。これまで、トルコ寄りの島やペロポネソス半島の片田舎が舞台でしたが、三作目ではギリシャ中部のテサリア平原の鄙びた町を訪れます。
2009年刊行の『テッサリアの医師』(The Doctor of Thessaly)です。
夕闇迫る海岸を一人歩く女性の姿。結婚式で花嫁がかぶる
それでも花嫁クリサの愛情は変わらず、未練を募らせています。彼女には町の図書館に勤務する姉がいて、自活した自分の人生に誇りを感じており、その分他人に甘えすぎる妹クリサに批判的です。妹は妹で、堅物で未婚の姉が自分に嫉妬しているのではと疑心に駆られ、婚約相手への犯行を疑うまでになっていきます。
今作のエピグラフはラテン詩人オウィディウス『変身物語』から《嫉妬》に関する一節が引かれます。「《
いつも通り意味深な引用ですね。この姉妹間の不和もさらに蝕まれていくのでしょうか。
たまたま仕事で町を通りかかった主役探偵ヘルメスの捜査が始まります。
薬品による攻撃という、派手さはない事件ですが、逆に陰湿などす黒い悪意を感じさせます。ヘルメスは羊飼いの少年や母親の介護で苦労する主婦などから話を聞きながら、悪意の源泉に迫ります。
それにしても相変わらず不思議で魅力的な探偵ヘルメスです。事件の謎は解いてくれますが、未婚だけど孫がいるとか、警察よりもっとずっと高い権威のもとで働いているとか、本人に関してはむしろ謎が深まっていきます。教会で羊飼いに「イコンの聖女がここを占拠する以前は、別の所有者がいたんだよ」と語るあたり、やはり神話世界から抜け出してきた人物でしょうか。彼が古代遺跡で見つけた鉛の板には、自身と同名の神への願いが彫り込まれています。「偉大なるヘルメス、わたしを破滅させた者に未来永劫に渡る苦しみを与えたまえ」。呪詛を聞き入れる探偵は、正義の裁きを下すべく遣わされた伝令の神のようにも見えます。
ストーリーの主軸となる医師襲撃事件の他に、もう一つ展開が気になるのが、町の新旧勢力の対立です。若い町長ペトリデスは新しい下水道設備を整えるなど、住民生活の改善に奔走していますが、一方で保守的な前町長ディノスたちは既得権にしがみつき、急な改革に反対しています。そんな折アテネから大臣一行の視察が決まり、町民たちは盛大に歓迎しようと準備を始めますが、その陰で卑劣な陰謀が刻々と進んでいます。
果たしてこの抗争はどこに行きつくのか? これも読みどころです。
という風に、猟奇的な連続事件とか大アクション劇にはなりませんが、見た目は平穏で牧歌的な片田舎の奥底を流れるドロドロした人間の愛憎や執着が炙り出されていきます。
最後には(本人曰く「怒らせると怖い」)ヘルメスによって神の鉄槌が落とされますが、悪人への罰だけではありません。それぞれの人物に応じた癒しが与えられます。
こうして後味の悪くない、しかし人物たちが長く印象に残る作品になっています。このシリーズの魅力です。
全二作同様、忘れてはいけないのが美味しそうな料理のシーンです。
いくつかご紹介すると、まずは海沿いの
続いて「スブラキは一級品だった。炭でいぶし焼きした豚肉は、外がかりっとしてなかはとてもやわらかかった。タマネギもぴりっと甘く、ヨーグルトで作ったザジキソースはニンニクの味が効き、しっとりと温かいピタブレッドは噛みごたえがあった」。ズルーディ氏自身が舌鼓を打つ様子が見えるようです。
飲み物は松ヤニ入りワイン(レツィーナですね)、しめのスイーツはルクマデス(「揚げたてのドーナツボールの上に蜂蜜とシナモンがたっぷりとかかったもの」)。
https://el.wikipedia.org/wiki/%CE%9B%CE%BF%CF%85%CE%BA%CE%BF%CF%85%CE%BC%CE%AC%CF%82#/media/%CE%91%CF%81%CF%87%CE%B5%CE%AF%CE%BF:Loukoumades.jpg 【団子型のドーナツ、ルクマデス。中東起源のお菓子。専門に売る店もあり「ルクマジジコ」(λουκουματζίδικο)と呼ばれます。】 |
アテネからの訪問団歓迎の屋台には「綿アメ」も登場しますが、「
前作でヘルメスはブガッツァ(カスタードクリーム入りのパイ)をほおばっていましたが、今回は
リンゴが縁となって、ラストシーンでは、町を去るヘルメスがロバ引きの老人と言葉を交わします。幻想味溢れるこの場面、実に素敵です。謎の探偵はやはりゼウスの息子なのでしょうか。
■アン・ズルーディのギリシャ語講座■ |
---|
Καλησπέρα σας ! (カリスぺラ・サス!)「こんばんは!」 Καλή όρεξη!(カリ・オレクシ!)「どうぞ召し上がれ!」 (食事を始める前に。フランス語のBon appetit! 風) Ορίστε!(オリステ!)「はい、どうぞ!」(何かをさし出しながら) Παναγία μου!(パナギア・ム)「なんてこと!」(驚きの表現。原義は「わが聖母よ!」) |
橘 孝司(たちばな たかし) |
---|
台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっともっと紹介するのがライフワーク。現代ギリシャの幻想文学・一般小説も好きです。 現在、ギリシャ・ミステリ翻訳の第二弾を準備中。ギリシャ随一のトリック・パズラー派作家による長編です。また追々ご案内いたします。その作品中で賞賛されていたので読んでみたのが、クリスティー『ポアロのクリスマス』。この題名、気軽なジュブナイル物かと思ってしまいそうですが、『ABC殺人事件』『ナイルに死す』『そして誰もいなくなった』と同じノッてる時期の堂々たる本格作品です。聖夜、性根の歪んだ富豪の屋敷に一族が集まり、当然のように殺人が起きる懐かしくも愉しいストーリー。フーダニットもハウダニットもあっぱれ。騙されました! |
ラリー・ニーヴン『リングワールド』ギリシャ語訳 Ο Κόσμος Δακτύλιος, PRINTA社、1987。 https://www.politeianet.gr/books/niven-larry-printa-o-kosmos-daktulios-184831 |
【ルイザ・メイ・オルコット『若草物語』。1868年刊、アメリカ南北戦争期の家族を描いた作品ですが、くっきりと描き分けられた四人姉妹のキャラは古さを感じさせません。しかも、活動派でありながら読書の虫の次女ジョーとか、鷹揚な長女のようでいて現実に不満たらたらのメグといった風に、同一人物中に同居する異質の個性まで見事に浮かび上がらせています。】 |