みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
◆日本文学をギリシャ語に翻訳しつつ
嬉しいことに、日本文学のギリシャ語訳が少しずつ増えてきたようです。ミステリ寄りの作品で言うと、ながらく横溝正史『犬神家の一族』と松本清張『点と線』だけでしたが、近年になって東野圭吾『容疑者Xの献身』『聖女の救済』、桐野夏生『OUT』『リアルワールド』、中村文則『銃』、桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』などの訳が出ています(エッセイ第5, 17, 21, 31回)。
松本清張『東京エクスプレス』(『点と線』ギリシャ語訳) アロイ・シデリ訳、アグラ出版社、1992年。 |
しかしながら、これらは英語やフランス語からの重訳で、日本語からの直接訳はほとんどありません。もちろん重訳にも大きな意義がありますが、細かな部分が漏れ落ちてしまうのは致し方ありません。日本へ留学・滞在して、日本語が話せるギリシャ人は少なくないでしょうが、日本の言語や文化に通暁し、文学作品を流麗なギリシャ語に翻訳するのはなかなか至難の業です。
そんな中、日本語の原書から直接訳を発表してこられた優れたギリシャ人翻訳家三人の講演会が開かれました。
シンポジウム「日本文学をギリシャ語に翻訳しつつ」(Μεταφράζοντας Ιαπωνική Λογοτεχνία στην Ελληνική Γλώσσα)です(2024年9月30日にアテネ中心の
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特にミステリというわけではないのですが、貴重な貢献をしてこられた御三方をご紹介しておこうと思います(これまで本エッセイでも少し触れてあります)。
まず、パナイヨティス・エヴァンゲリディス氏(Παναγιώτης Ευαγγελίδης)は永井荷風『雨瀟瀟』の翻訳で知られています。1991年に発表され、ギリシャ初の直接訳として記念碑的な作品となりました。
永井荷風『雨瀟瀟』 パナイヨティス・エヴァンゲリディス訳、アレクサンドリア出版社、1991年。 |
この作品については、現代ギリシャ文学研究者の佐藤りえこ氏が報告しておられます。それによると、エヴァンゲリディス氏は幼い頃に川端康成『雪国』を英語からの重訳で読み、日本文学にのめり込んでいったのだそうです。いつかは自分流の翻訳を出したいと思っていたのでしょうね。氏の最新作の『雪国』直接訳(2024年)は、そんな執念の結実なのでしょう。
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川端康成『雪国』 パナイヨティス・エヴァンゲリディス訳、アグラ出版社、2024年。 |
他には、谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』『富美子の足』『鍵』『陰翳礼讃』、川端康成『美しさと哀しみと』『掌の小説』、三島由紀夫『サド侯爵夫人』など、翻訳は大変だろうと推測される作品を次々に訳しておられます。新しいところでは、『ホテル・アイリス』『博士の愛した数式』『凍りついた香り』など小川洋子氏の作品が多いです。
谷崎潤一郎『鍵』 パナイヨティス・エヴァンゲリディス訳 アグラ出版社、1993/2023年。 |
小川洋子『博士の愛した数式』 パナイヨティス・エヴァンゲリディス訳 アグラ出版社、2010年。 |
次に、アテネ大学神学部教授で、宗教学がご専門のステリオス・パパレクサンドロプロス博士(Στέλιος Παπαλεξανδρόπουλος)。以前にも本エッセイ第22, 28回に登場願ったことがあります。もちろん宗教関係の著作も多数ありますが、志賀直哉の諸短編(私はこの訳で初めて志賀作品「剃刀」や「妙な夢」を読みました)、上田秋成『雨月物語』、太宰治『人間失格』、安部公房『砂の女』などを訳しておられます。最新作は安部公房『他人の顔』(エッセイ第22回では未訳と書いておきましたが、この傑作やっぱり翻訳が出ましたね)。
パパレクサンドロプロス訳の志賀直哉「范の犯罪」、「剃刀」、「母の死と新しい母」、「城の崎にて」を掲載。 |
上田秋成『雨月物語』 ステリオス・パパレクサンドロプロス訳 アグラ出版社、2022年。 |
安部公房『他人の顔』 ステリオス・パパレクサンドロプロス訳 アグラ出版社、2024年。 犬神佐清風の表紙がちょっと怖い。 |
最後に、マリア・アルギラキ氏(Μαρία Αργυράκη)は宮沢賢治『銀河鉄道の夜』、池澤夏樹『イラクの小さな橋を渡って』、村上春樹『1Q84』『アフターダーク』などの翻訳があります。
アルギラキ氏の最初の翻訳作は1999年の宮沢賢治『よだかの星』です。となると、「がらがら」「みしみし」「のっしのっし」「かぷかぷ」といった宮沢童話独特の奇妙な擬音語・擬態語がギリシャ語でどう処理されるのか、興味を引かれます。以前ちょっと調べたことがあるので合わせてご紹介しておきます。
宮沢賢治『よだかの星』 マリア・アルギラキ訳 オルコス出版社、1999年。 他に「双子の星」、「注文の多い料理店」、「猫の事務所」など9篇を含む。 |
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 マリア・アルギラキ訳 プシホヨス出版社、2014年。 |
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なお、アルギラキ氏は多年にわたる翻訳の功績により、2024年9月に「旭日双光章」を 叙勲されています。おめでとうございます。
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◆ルネサンス絵画の見立て連続殺人
さてさて、ここからミステリの話題に入りましょう。
今回のメニューは、ルネサンス絵画が引き起こす見立て連続殺人と雪の吹き荒れる孤島スリラーの取り合わせです。
上の章題はちょっと曖昧ですが、舞台はあくまで現代で、ルネサンスの絵がキーとなる連続殺人のお話です。
《見立て殺人》はギリシャ・ミステリではあまり見かけません。エッセイ第21回のエレナ・フスニ『黄金の復讐』に出てくる、殺人現場に残されたセフェリスの詩の断片くらいでしょうか。
ご紹介するのはカテリナ・ニコライドゥ『死に至る七つの徳』(Κατερίνα Νικολαϊδου, Οι επτά θανάσιμες αρετές, 2022)です。(前回エッセイの『惑星プレスパ』のソフィア・ニコライドゥとは別人)。
ニコライドゥ女史はテサロニキ出身で、短編アンソロジー『テサロニキ・ノワール』紹介の時にすでに名前が出ています(エッセイ第30回)。その作品「べンスサン旅館の犯罪」は20世紀初めのテサロニキの旅館を舞台にした群像劇で、アンソロジー中で私が一番気に入った歴史ミステリです。
なので、ルネサンス絵画にからむ彼女の新作長編(まだ二作目ですが)は読んでみたいなとずっと思っていました。
カテリナ・ニコライドゥ『死に至る七つの徳』 アルヘティポ出版社、2022年。 |
主人公デスピナはテサロニキで美術史を専攻する大学院生。ベルリンに仕事が決まりかけていたのですが、コロナ禍で断念する羽目に。何とか食いつながねばと、ネット運営の友人交流クラブでバイトを始めます。初対面の相手と数時間友だちのように付き合って報酬を得るという、なんだか怪しげな仕事です。今回は、どう見ても付け髭の不審な男とブリティッシュバンドEditorsのコンサートに行くことに。
ところが(読者の予期した通り)、この男がコンサート会場で刺殺されてしまいます。その素顔はアテネの議員にして、二か月前の組閣で大臣となったばかりの政治家ラメラス氏。しかし最近スキャンダルで雲隠れしていました。
問題になるのはその怪しげなクラブの正体……ではなくて、死体の背に刃物で留められていた古い絵画の写真です。専門の畑だけにデスピナは夢中になって元の絵を探し、十五世紀フィレンツェのフランチェスコ・ペセッリーノ工房で作られた「七つの徳」の部分《
「七つの徳」は本書の表紙絵にも使われている絵です。
カトリックの七つの徳を象徴する七体の女神像で、向かって右端で左手を挙げている女神が問題の《節制》。左へ《勇気》、《希望》と並びます(背と裏表紙に残り四体が続きます)。
それぞれの女神の足下には同じく七体の男性像が控えています。女神の服装や持ち物、男性像の正体なども気になりますが、デスピナが専門の学芸員ばりに懇切なガイドをしてくれます。
《節制》の足下で楽器を持つ帽子の男性は誰だかよく分かりませんでしたが、ギリシャびいきで知られるローマのスキピオ将軍ではないだろうか、とデスピナは推測します(カルタゴのハンニバル将軍を破ったあの人)。ルネサンスの画題として「スキピオの節制」(婚約者のいる捕虜を寛大にも釈放)が知られているからです。さてそこから、死んだラメラス大臣を何かの点で当てこすっているのではないのか、と推理が膨らんでいきます。
その後アテネとテサロニキで殺人事件が続きます。もちろん死体には《勇気》、《正義》の絵の写真が……
《勇気》の絵とともに殺された女性はさる議員の妻で、複数の会社を経営し、カジノで豪遊を続ける女傑ですが、会社の巨額の受注には違法の疑いがもたれていました。汚職告発を恐れた内部の仕業か? それとも汚職の渦中にある女社長に正義の鉄槌が下されたのか?
さらに、女神の足下の男性は誰なのか? ロバの骨を手にしたサムソン(髪を切られて力を失った旧約聖書のヒーロー)? ならば、犯人の意図は?
《正義》の殺人ではテサロニキに舞台が移ります。被害者は引退した鬼判事。四十年前に妻を亡くし、寂しさからデスピナと件のクラブの契約を結びます。三権分立の重要性などに熱弁をふるい、デスピナのほうはフンフンと相槌を打つだけの関係。ところが、思いがけず元鬼判事に司法副大臣任命の話が転がり込み、子供のように喜びます。と思ったのもつかの間、デスピナが居眠りをしている間に書斎で殺害されてしまい、当然デスピナが容疑者に……
ここで彼女を助けるべくフラリと登場するのが考古学者メルクリオスなる男。こっちが真打ちの探偵なのでしょう。デスピナの元カレのようで、事件担当のアイドニス警部にも貸しがあるみたいです(警部は「お前さんのおかげで何人かの命が救われたよな」とか言ってますが、前作のエピソードのようでよく分かりません)。
当然のように殺害事件と《七つの徳》のメッセージは続き、メルクリオスとデスピナは警部の捜査に手を貸すことになります。
見立て連続殺人ですから、ミッシング・リンクものか、「賢い人なら木の葉を……」式になるような気もしますが、はたまた新趣向が飛び出すのか? 期待が高まります。
作者ニコライドゥは大学では歴史・考古学専攻で、英国やベルギーで博物館学を学んだそうです。二十年間ギリシャ文化省の考古学部門に勤め、退職後は有識者として、ユネスコなどに協力しています。
そういう経歴を反映してでしょう、『死に至る七つの徳』でも次々に語られるルネサンス絵画、ラテン作家、ギリシャ神話などの豆知識が楽しませてくれます。時に力が入りすぎて蘊蓄に圧倒されることもありますが。
とにかく一番の興味は《七つの徳》の絵が暗示する秘密。その謎解きに最後まで引っ張られました。
デビュー作は2021年の『マスクの後ろの年』(Η χρονιά πίσω από τις μάσκες)です。題名が示すように、コロナ禍が猛威をふるう八か月間の話。別々の場所で六つの事件が起きる(ブリュッセルのEUセンター、テサロニキのロックダウン中のマンション、アテネでコロナ発生の病院、パトモス島の豪奢な別荘等々)が、一人の考古学者と一人の警官だけが事件を結びつけるリンクに気づく。しかし両者は出会う機会がなかった!(書籍紹介文より)のだそうです。メルクリオスとアイドニス警部のことなんでしょうね。これも読みたくなりました。
カテリナ・ニコライドゥ『マスクの後ろの年』 ミハリス・シデリス出版、2021年。 |
◆雪吹き荒れる島のスリラー
次の作家もテサロニキ出身です。
上で述べた『テサロニキ・ノワール』は好評だったようで、その続編『テサロニキ・ノワール 脅す花嫁』(Θεσσαλονίκη νουάρ: Απειλητική νύμφη)が2023年に同じアルヘティポ社から出ました。作家の顔ぶれを一新し、10人の力作短編を収めています(「花嫁」とはセルマイコス湾に臨む都市テサロニキの愛称)。
『テサロニキ・ノワール 脅す花嫁』 アルヘティポ出版社、2023年。 |
その中で異彩を放っていたのがソーニャ・サウリドゥ「人生にレモンがあれば」(Σόνια Σαουλίδου, “Αν η ζωή σου δώσει λεμόνια”)です。
語り手は七十代の男性。余命わずかと宣告されながら、何年も生き抜いてきました。ねぐらの古いマンションは住民たちが次々に立ち退いたり自殺をしたりして、幽霊屋敷さながらの状態です。各部屋のドアの合い鍵を作って自由に出入りするうちに(オイオイ)、語り手はかつての隣人たちの忌まわしい秘密を知るようになり、最後にはとんでもない行動に出ます。結末はけっこう残虐でグロい内容なのに、描写がサラッとしていて、妙に心に残りました。
ミステリ短編がずらりと並ぶ中で、このような一風変わった作品に出会えるのもアンソロジーの愉しみです。
そこで長編も読みたくなり、面白そうな(勘です)『ケネベックの灯台』(Σόνια Σαουλίδου, Ο φάρος του Κένεμπεκ, 2022)を選んでみました。
ソーニャ・サウリドゥ『ケネベックの灯台』 ベル出版社、2022年。 |
灯台が立つのはコーンウォール州の沖合……ではなく(それはP・D・ジェイムズ)、米国メイン州の島です(つまりスティーヴン・キング風か?)。
この州を流れるケネベック川の中に広がる《
土砂降りの秋の日、リディアとアーロン夫妻が小学生の息子を連れて、島の新居に移って来ます。リディアは昆虫学者、夫アーロンは株式仲買人でけっこう裕福そうですが、わざわざこんな辺鄙な地に家を購入しようというのですから、もちろん訳アリです。
語り手となるのは妻リディア。
夫婦間が最初からギクシャクしていて、ことあるごとに喧嘩になってしまいます。リディアは夫の携帯の通信記録から不倫に勘づきますが、正面切って責めようとはせず、その分夫婦関係が陰に籠って歪になっているようなのです。
さらに、最近大変な事件がもう一つ起きています。リディアは息子イーサンと娘メギーを車に乗せて山中の道を運転中、交通事故を起こしてしまいます。リディアと息子はひどいけがを負いますが、同乗していたはずのメギーが何と車中から姿を消していました。
この二つの事件で精神的に参ってしまった夫妻は、辺鄙な島に新居を購入して、新しいスタートを切ろうとしています。
夫はポートランドまで車で通勤し、イーサンはボートで対岸の小学校へ通う毎日が始まります。ほとんどの時間を島で一人過ごすリディアは隣家の不思議な女性ドロシーと親しくなります。このドロシーから聞かされたのは島の奇怪な伝説。百年前にある教師夫婦が島へ越してきますが、幼い娘が川に落ちて溺死してしまい、夫は心労から死亡、妻は狂ったように森を彷徨したというのです。話自体も怪談めいていますが、ドロシー本人の振る舞いも異常です。リディアを悲惨な運命から救いたいなどと口走ったり、川面に向かって何ごとか囁いたりしています。
語りが進むにつれて、謎が少しずつ解かれていきます。いえいえ、むしろ異様な展開になってきます。
悲惨な教師夫妻というのは、実はドロシー自身と彼女の夫のことだと明かされるのです。教師夫妻が島に来たのは1899年のことらしい。で、リディアの語る現在は2016年……ホラー染みてきました。
山中の交通事故と娘の失踪についてもじわじわと進展があります(このへんは警察ミステリ風に進みます)。事故の後、心を閉ざしていたイーサンが、教師との筆談によってようやく明かしたところでは、ある謎の女が事故の車から妹メギーを連れ去ったというのです。でもこれ、進展と言えるのか……
その後さらに途方もないショックが。リディアが子供部屋を覗くと娘メギーがすやすや寝ていて、ああ失踪したのはイーサンの方だったのねなどと嘆じ、物語はホラーに突入していきます。
この辺ですでに読者は、この語り手は信用ならないと感じます。夫の不倫と事故から深いトラウマを受けたという彼女は真っ当に思考できているのか? 記憶が改竄されてはいないのか? ここまで語られてきた内容はどこまでが真実なのか?
似たタイプの身の毛もよだつ心理スリラー作品にイリニ・ヴァルダキ『風船ガム』があります(エッセイ第18回)。ただあの場合は三人の女性の語り手がいて、その内容の食い違いが謎とサスペンスを生み出しますが、その分誰かの言い分の中に真実があるはずだという保証になっていました。しかし、『ケネベックの灯台』ではリディアただ一人が滔々と語り続けます。彼女に対する読者の猜疑心が次第に増す一方で、ハラハラするというよりは、頭がグラグラしそうです。
章の終わり頃、ようやく真相らしきものが提示されたと思いきや、何とまだ物語の半分です。
第二章ではいきなり百年前に話が飛び、19世紀初めの島へ。
今度は教師の妻ドロシー(隣家の不気味な女性)が語り手となり、リディアと同じような狂気の悲劇が繰り返されます(繰り返されると言っても、時系列ではもちろんより過去の話)。魔術師、霊媒、窓ガラスにぶち当たる鳥の群れなどが次々に登場し、吹雪の中墓地の傍らを死者の霊が飛び交います。森に木霊するのは少女たちの異様な笑い声。不気味な灯台守の家では降霊会が開かれ、前章以上におどろおどろしい内容になっていきます。
はたしてミステリ的に解決されるのか、あるいはオカルト世界にどっぷりと突入してしまうのか。ディクスン・カー? M・R・ジェイムズ? それとも『ねじの回転』式? グラグラ感がますますひどくなって、読者は悪酔いしそうです。
いずれの方向に収束するにしても、二つの章のあちこちで身の毛もよだつイメージが執拗に繰り返されます。窓越しに凝視する隣家のオウム、川面に向かって囁き続ける人物、少年が描いたゾッとする犯人像、荷解きしていない箱から聞こえる人形の声、突然走り出すおもちゃの機関車。そして吹き荒れる吹雪と灯台の影。全てが死の匂いと避けられない宿命にまみれ、異様で陰鬱な雰囲気から読者は抜け出せなくなってしまいます。
しかもです。まだ第三章が残っているのです。ホントに決着がつくのでしょうか? これはもう読み続けるしかありません。
雪に閉ざされた川中の島に起きる、百年を隔てた二つの物語。目くるめく妖しい悪夢を堪能させてもらいました。
サウリドゥ女史はペンシルヴェニアの大学に留学し、情報学と企業管理を専攻しています。帰国後はテサロニキとアテネで雑誌に寄稿しながら、テレビ・ラジオ番組の制作に関わります。2013年フロリダのケイプ・コーラル(ギリシャ系移民の多い町ターポン・スプリングスの南)ヘ移住し、仲介業に携わりながらデビュー作『珊瑚の岬』(Το Ακρωτήρι των Κοραλλιών, 2019年)を書き上げました(この仕事の経験からでしょうか、『ケネベックの灯台』にもいわくありげな女不動産屋が重要な役で登場します)。
その後『レミック夫人の過ち』(Το αμάρτημα της κυρίας Ρέμικ, 2021年)、『ケネベックの灯台』を発表し、『私を忘れないで』(Μη με ξεχάσεις, 2023年)が最新の第四長編です。いずれも女性が主人公の心理スリラーのようです。
現在はギリシャ在住。
ソーニャ・サウリドゥ『レミック夫人の過ち』 ベル出版社、2021年。
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◆訃報
突然のことで驚いています。
エッセイ第28回「《ギリシャ・ミステリ作家クラブ》もう一人の会長」でご紹介したセルギオス・ガカス氏(Σέργιος Γκάκας, 1957-2024)が、この10月に亡くなりました。
2017年~2019年にギリシャ・ミステリ作家クラブの会長を務められ、2023年に二度目の同職を引き受けられたばかりでした。主に舞台の脚本や演出で活躍し、ミステリ長編は多くはありませんが、社会の闇と悪魔的な芸術が結びつく『カスコ』(2001年)と『灰』(2008年)を遺しました。
フェイスブック上にも多くの作家や読者から追悼の言葉が寄せられています。アテネのハランドリ区の副区長(文化担当)を長年務め、書斎の外でも人望のある方だったようです。
ご冥福をお祈りします。
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◆欧米ミステリ中のギリシャ人(33)―― アリステア・マクリーンのギリシャ人(1)――
ギリシャでは1949年に内戦が終わり、50年代に入って冷戦下の西側陣営として復興するなかで、欧米ミステリ界からもこの同盟国を舞台にした戦争冒険小説が現れ始めます。
60年代のギャビン・ライアル『ちがった空』やジャック・ヒギンズ『裏切りのキロス』『地獄島の要塞』などは、後に冒険小説界の大御所となる作家たちがエーゲ海を舞台にしたスリラーに挑んでいますが、一番の大傑作は、何と言ってもアリステア・マクリーン『ナヴァロンの要塞』(1957年)でしょう。
まさに戦争冒険小説の《金字塔》!
いまさら私がゴチャゴチャ書くまでもないのですが、読んだ後(最近読みなおしました)周囲のだれかれをつかまえて感動をぶつけたくなるような魔力を秘めています。
第二次大戦が勃発し、1941年春にギリシャがドイツ軍に占領されてから一年半余り。トルコに近いドデカニサ諸島は枢軸国側が押さえており、その一つケロス島(架空の島)に立て籠った連合軍の将兵千二百名は脱出できずにいます。これを阻んでいるのは対岸のナヴァロン島(これも架空)に据えられた二門の巨砲。レーダーと連動して抜群の命中力と破壊力を誇ります。救出作戦に向かった空海軍の特殊部隊もことごとく撃退されてしまいました(ジェンセン大佐曰く「われわれが送りこんだのは世界最高のレンジャー部隊だったのに!」)。ドイツ艦隊の精鋭がいよいよケロス島に迫り、千二百名の命が絶望的となるなか、唯一残されたのはとんでもない作戦でした。
不滅の傑作となっている理由は数え切れないくらいありますが、あえて絞るなら三つです。
【1】単純明快な目標
やるべきことはただただ単純。空海軍の攻撃をまったく寄せつけない難攻不落の要塞に備わる巨砲を破壊せよ。これだけのために、すべての謀略と冒険の伏線が仕掛けられ、怒涛のクライマックスに向かって突き進む骨太のストーリーを作り上げます。
【2】次々に立ちはだかる強大な敵
傑作冒険小説ならもちろん必須の要素です。とにかくこの作品のドイツ軍は有能すぎます。冒頭からすでに始まる謀略戦も含めて、何手も先を読んで攻めて来る。嵐の中でさえ断崖上の歩哨は欠かさないし、よりによって「最強のアルプスの山岳兵団」なんかを投入します(「これほど不撓不屈の戦闘部隊は全ヨーロッパを探してもいない」と煽ること煽ること!) 戦闘能力だけではなく、人間としての資質も最高で、(最初から死亡フラグが立ってるような)サディスト将校も出てはきますが、マロリーを捕まえた独軍中尉は相手の正体を知って「戦前ならあなたと知りあえたことを誇りに思っただろう」と敬意を表したりします。ここ、しみじみとさせるいいシーンです。
強敵の中にはもちろん過酷な大自然も含まれます。そもそも島に着くまでに、嵐の中でボロ舟は沈みかけているし、侵入ルートは四分の一マイルも続く四百フィートの垂直な絶壁。さらに越えなければならない島一の高峰では豪雪に襲われます(マロリー「永遠の太陽をうたうギリシャの島にこんな大雪が降ろうとはな」)。
息継ぐ間もなく次々に現れる敵の群れには、このミッションやっぱりインポシブルでしょ、読者でさえ諦めそうになります。
【3】チームによる作戦
しかもこのケタ外れの難題に挑むのはただ五人のメンバー。ちょっと少ないかなと思っていたら、島のギリシャ人レジスタンス二人が加わります。「四方の備えで四名、後詰めに二名、少なく見積もってもわしを入れて七名が必要じゃの」……定番ですね。
一人っきりの全肯定ヒーローではなく、スペシャリストたちが協力して任務を遂行するのがいいです。伝説的な登山家マロリー大尉がいちおうリーダーで、見せ場の一つ、断崖登攀では超人的な活躍を見せます。ただし、知力・体力・胆力・魅力などを一人に集中させるのではなく、うまく分散させているのが読んでて心地よい。個人的な戦闘・ゲリラ能力では元ギリシャ軍機械化師団アンドレア中佐がすでにデューク東郷の域に近づいており、爆薬エキスパートの《
私はやはり「用心棒」派より「七人の侍」派です。
ギリシャ的要素について少しだけ触れておくと、極秘ミッションの話なので、美味しい料理などはもちろん登場しません。ただし、ナヴァロン島は巨砲のみが設置された孤島というわけではなく、港の要塞の麓には人口五千の町が広がります。冒頭でチラッと登場するヴラホス氏はかつてこの島の大地主で、占領軍に捕まったところを救出されてミッションに協力(「神が与えたもうた島をどんなに愛していたことか」と嘆じています)。
最終シーンでマロリーたちはタヴェルナに潜入し、やっと町の日常シーンが登場。店の壁には堂々たる髭の革命戦士たちの色褪せた写真とフィックス・ビール(19世紀半ば創業の老舗)の派手なポスター。
◆名前の問題
名前にまつわる些末な問題を二つほど。いつもながら、作品の鑑賞には関係しません(申しわけない)。
まずは、「ス問題」です。
マロリー・チーム中最も戦闘能力に長ける巨漢「アンドレア」は、ギリシャ語風に言うと「アンドレアス」(Ανδρέας)です。ギリシャ人男性のファーストネームは、英語などに翻訳される場合、最後の「ス」(ς)が落ちることが非常に多い。原書でもAndreaなので、邦訳もそれに従っているのでしょう。他にも「ニコ」、「スピロ」、「コスタ」などが出てきた場合はもともと「ニコス」(Νίκος)、「スピロス」(Σπύρος)、「コスタス」(Κώστας)です。ギリシャ語は名詞や動詞がコロコロ変化する屈折語型タイプで、人に呼びかける場合の変化形(呼格)がΝίκο、Σπύρο、Κώσταなので、この「ス」なしの方が翻訳では選ばれるようです(短くて覚えやすいから?)。そこで、ハイスミス『殺意の迷宮』のスポンジ売りニコ、スチュアート『この荒々しい魔術』のイルカと戯れるスピロ少年、ペレケーノス『硝煙に消える』の好人物コスタおじさんなどが生まれることになります。
他愛ない話ですが、ギリシャ語をかじった者としては、この「ス」なしが、落とし物をしたようでちょっと気になってしまいます。
二つ目は、もうちょっと内容にかかわる(かもしれない)ことです。
名づけて「一人だけファーストネーム問題」。
これはマロリー・チームのメンバー名を見れば一目でわかります。登場人物表風に挙げると、次の五人なのですが、
キース・マロリー大尉 隊長。伝説の登山家。 アンドレア マロリーの片腕。チームの《守護神》。 《 アンディー・スティーヴンズ大尉 ギリシャ文学をこよなく愛する若き登山家。 ケイシー・ブラウン兵曹 機械と通信のプロ。 |
そう、明らかですね。《守護神》アンドレアだけ、姓がありません。あるのでしょうが、誰からも呼ばれることがありません。
例えば、マロリー大尉は同僚や部下から「キース」とか「ボス」とか呼ばれ、地の文では「マロリー」です。スティーヴンズやブラウンも同じで、地の文ではたいてい姓で呼ばれます。ミラーにいたってはまるで「ダーティー」がファーストネームのようで、最後の見せ場で突然「おれ様はダニエル・ブーン・ミラーだ」とフルネームで大見えを切りますが、誰も覚えちゃいないでしょう。
そんな中でギリシャ人「アンドレア」だけが、会話中の呼びかけでも地の文でも、ただ「アンドレア」。姓は不明。階級については、途中から元中佐と明かされますが。
英語圏の読者がどう感じるのかは分かりませんが、アングロ・サクソン系の英米国人の中に置かれた異質の人物を際立たせるためにあえてやってるような印象を受けます。
ギリシャ人レジスタンスのルーキとパナイスも同様で、いつもこの呼び名です。ま、二人はマロリー・チームのゲスト格なので、この点はそれほど目立ちませんが。
映画版ではもうちょっとリアルにしたかったのか、「アンドレア・スタヴロス」(ギリシャ語版ウィキペディアでは、よりギリシャ風にΑνδρέας Σταύρου「アンドレアス・スタヴル」)とめでたく姓をもらってます。
ここで思い出すのは、クリスティー『オリエント急行の殺人』です。国際列車に様々な国の客が乗り合わせる中、ヘイスティングズに代わってポワロの助手を務めるのがギリシャ人医師のコンスタンチン博士。この人、最初から最後まで「コンスタンチン」です。作者も「Dr. Constantine」と綴っています。他の容疑者や関係者は姓名がけっこう明かされるのに、これはちょっと異様です。初対面のポワロには「こちらがコンスタンチン博士です」と紹介されているので、姓でしょう。ただし、「コンスタンチン」(あるいはギリシャ語風に「コンスタンディノス」)は姓としてあり得なくはないのですが、ファーストネームの方が普通です。
この場合は、得体のしれないとまではいかなくて、敬愛すべき人物、しかしやっぱりどこか異国のお方、という感じなのでしょうかね(クリスティーはマローワンとの新婚旅行で体調不良になった際、アテネの医師に助けてもらったそうです。エッセイ第10回)。
ちなみに、わりと最近のギリシャ語訳(2018年)では、あえて現実のギリシャ人姓にある「コンスタンディヌ博士」(Δρ Κωνσταντίνου)とされています。ギリシャの読者もこのほうが受け入れやすいのでしょう(グリーン・ホーネットの助手「ケイトー」を日本人向きに「加藤」にする感じ?)。
アガサ・クリスティー『オリエント急行の殺人』 ギリシャ語訳 プシホヨス出版社 |
というわけで、いろんな意味で特別扱いの《守護神》アンドレアなのでした。
◆進捗報告
ギリシャ・ミステリ翻訳第二弾は粛々と進行中です。メールで作者にミニインタビューできたので、その回答(なかなか面白いです)も付録に入れるつもりです。ギリシャのミステリ作家はこんなこと考えてるんだよ、というのを少しでもお伝えできればと思いますので。