Le haut mal, Fayard, 1933/10(1933/夏 執筆)[原題:てんかん]
« Radio-Magazine » 1933/9/24号-11/12号
Tout Simenon T18, 2003 Les romans durs 1931-1934 T1, 2012
The Woman of the Grey House, Affairs of Destiny所収, translated by Stuart Gilbert, Georges Routledge & Sons, 1942(Newhaven-Dieppe/The Woman of the Grey House)[英]【写真】は連載第41回に掲載予定

 少年が扉を押して、家政婦を見て告げた。家政婦は兎の皮を剥いでおり、手には血がついていた。
「牛が死んだよ」
 少年は栗鼠のような目で台所をくまなく見渡し、聞いてくれる人、反応してくれる人、あるいは何か食べられるものを探し、そして人形の髪の毛を巻いている妹のもとへと行った。
「外で遊びなさい」とポントロー夫人が諭した。
「牛が死んだんだ!」
「知っています」
「知ってるはずないよ、たったいま死んだんだ」
 ポントロー夫人は立ち上がり、少年に向かって声を上げた。
「あなたも外で遊びなさい」と少女にも大声で言った。
 そして彼女は扉を閉めた。外では子供たちが様子を窺っていた。
 ポントロー夫人が言ったことは本当だった。彼女は牛が死んだことを知っていた。この農場で起こったことはすべて見逃さないのだ。台所の窓からは広い景色が見えた。前方には脱穀機があり、荷車があり、20人もの男たちが忙しく働いている。右手には畜舎が見え、ジャン・ナリエがちょうど少し前に出てきて、牛が死んだことは訊かなくてもわかった。
 すべてが悪い方向へと進んでいた。今朝から、昨夜から、3日前に脱穀を始めてから、ずっと。(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)

 
 本作『Le haut mal[てんかん]はシムノンの“田舎もの”とでも呼びたい作品のひとつだ。以前に読んだベルギーの片田舎が舞台の『運河の家』連載第37回)に似た雰囲気だが、今回はなんとフランス西部の港湾都市ラ・ロシェルやニュルの近く、エスナンドとラ・パリスの間というから、まさにシムノンがメグレシリーズの成功で購入した屋敷《ラ・リシャルディエール》が建つ地域そのものである。シムノンは自分が住んでいるまさにその場所を舞台に本作を書いたのだ。陰鬱な感じも『運河の家』に似ている。シムノンの“田舎もの”にはなかなかの凄みがある。
 
 港町ラ・ロシェルからほど近い場所に広がる「プレ=オー=ブー」は、ジャン・ナリエ28歳とその妻ジルベルトを中心に、彼女の母や姉などポントロー一家が全体の世話をしている農場である。未亡人である母ポントロー夫人は50歳ほど。長女のエルミーヌ30歳はまだ未婚だ。ポントロー一家は海の近くにある灰色の家に暮らしており、農夫たちの面倒を見るために毎日農場へやって来て、家政婦の老ナケ夫人と共に食事の用意をする。末娘のジュヌヴィエーヴ(通称ヴィエーヴ)18歳はラ・ロシェルの書店で働いており、彼女だけは毎日自転車で町へと通勤する。
 この数日、どうも農場の雰囲気がよくない。その日も脱穀機の修理の支払いを巡ってジャンが町から来た機械工と口喧嘩をして、その様子は台所のポントロー夫人にも見えていた。このいざこざでジャンは地元の警官を呼び、彼らがもうすぐやって来ることになっていた。
 ジャンにはてんかん発作の持病がある。ジャンが怒って煙草を吸いに行くのを見て、夫人はそっと台所を抜け出した。そして発作を起こしつつある義理の息子を見て取るや、黙って上階の窓から石敷へと突き落としたのである。そして彼女は台所へ戻り、やって来た警官らに何食わぬ顔で応対する。農夫のひとりが庭に倒れているジャンを発見した。夫人らや警官が駆けつけると、ジャンがわずかに動く。それを夫人たちは見る。だが医師が急いで呼ばれたときには、もう彼は息を引き取っていた。
 誰もが発作で誤って窓から落ちたのだと思った。
 次の火曜に葬儀が執りおこなわれた。亡くなったジャン・ナリエの父はエグファイユ[トゥールーズの近く]で最大の農場を営んでいる。老ナリエは宿の経営者ルイを相手に内情を話す。あの農場「プレ=オー=ブー」を買ったのは自分だと。家具や日用品を調達したのはポントロー夫人だが、息子が結婚するときちゃんと証書を残しておかなかった。夫人は農場を共同売却するのを拒否している、と。夫人は農場を競売にかけるべきだという。つまり義息ジャンの遺産で自分たちには農場の権利があると主張しているのである。実際、夫人は競売取引を強行した。
 そのころから老ナケ夫人の行動に変化が起きた。彼女はあちこちで、自分にはその気になれば大金が手に入ると吹聴し始めたのである。さらに新たな事件が起こった。ルイの宿にジェラール・ノワールオンムという若者が住み着くようになったが、彼はときおりナケ夫人の家に行っている様子なのだ。そのジェラールがあるとき郵便局へ泥棒に押し入り、捕らえられる際に重傷を負った。彼は病院で驚くべき告白をする。自分はジャン・ナリエを殺したが、ポントロー夫人はその共犯者だというのである。
 この告白は新聞に大きく報道された。ポントロー夫人は町へ買い物に出掛け、その途中で記事を見た。だが彼女は何も動じない。銀行から多額の金を引き出し、大量の買い物をして家に戻る。村の人々が家の周りに集まってじっと夫人を見つめている。隣家の女はこの騒ぎで息子が車に轢かれたと、夫人に激しい怒りをぶつける。家では長女が狼狽している。予審判事から夫人へ呼出の手紙が届いていたのだ。それでも彼女は動転しない。そればかりか、彼女は指定の日に法務局へ赴くと、驚くべき発言を始めたのだ……。
 
 本作の最大の特徴は、完全な3人称、すなわち神の視点で書かれているということである。登場人物の誰の心にも入り込むことがない。ある場面でポントロー夫人の行動が書かれたかと思うと、次の行では(1行空けもなく)いきなりナケ夫人の話が書かれる。唐突に(1行空けもなく)数年前の出来事が説明されたりする。ここまで徹底した3人称叙述形式はシムノンでは初めて読んだ。ここまで誰にも共感を強要させないというのは、なんと清々しいことであろうか。潔いとさえ思える叙述である。
 それゆえに途中から妙なねじれが作品を覆ってきて、こちらは不安にさせられ、読むのがやめられなくなってゆく。最初、確かにポントロー夫人は単独で義息を殺したはずだ。地の文でちゃんとそうなっている。彼女が遺産目当てに殺したのだ。ところが途中から出てきたジェラールという男は、自分が犯人のひとりであって、夫人が共犯者だと供述したという。地の文の説明と合わないのである。
 しかもたんなる脇役だと思っていた老ナケ夫人が、中盤から奇妙な行動を連発し始める。いつも傘を持っていて、その描写がとてもこちらの心にささくれを生じさせる。
 そして肝心のポントロー夫人はどこまでもふてぶてしい。これが倒叙ミステリーなら彼女は犯人で、罪が暴かれるかどうかという彼女の心の揺れ動きこそが重要であるはずだが、どんなことがあろうとまったく動じないのである。
 とても地味な物語であり、ほとんど一般文芸といってよく、ミステリーとさえ呼べない作品なのだが、全体が謎に満ちていて先が気になるのだ。
 終盤の展開には唸らされる。後に掲げるように本作は英国でTVドラマ化されており、そのタイトルは「The Witness」だったのだが、これは「目撃者」を意味するのではない。原文はtémoin、「証人」である。予審判事から呼出を受けたポントロー夫人はまったく動揺することなく町へ出掛け、まず弁護士を調達した後、判事のもとへ出向いてはっきりというのだ。
「私は証人としてではなく、告訴人としてここに来ました」
 なんと堂々と彼女は無罪を主張する! ジェラールなる男が虚偽の供述をして迷惑だというわけだ。この展開には異様な迫力がある。もはや読んでいる私たちにさえ、何が真実なのかよくわからなくなってくる。ここから後の展開もまた凄まじい。家に戻ると長女エルミーヌは憔悴し、寡婦となった次女ジルベルトは悲嘆に暮れて自室に閉じ籠もったままだ。だがそこから次に章が移った後、とんでもない状況が待ち受けていて、読んでいて本当に目を瞠った。こんなふうに物語が進んでゆくとは思わなかった、というのは『運河の家』のときの感想だったが、今回にもそれが当て嵌まる。
 最終章の余韻が素晴らしい。ここで末娘のジュヌヴィエーヴの存在が活きてくる。実はそこへ至るまでのシークエンスに、ペンネーム時代の通俗恋愛小説を思わせる筆致があって懐かしく感じたのだが、最後は大旅行から戻ってきて作家的成長を遂げたシムノンの筆があった。
 そしてこの最終章で、本作が完全な3人称叙述形式であったことの優れた効果に強く感じ入ったのだった。
 
 今回、ひとつ新しい発見をしたと思えることがあった。これまでシムノンはミッドポイントが書けない作家だと何度も指摘してきた。それについて別の見方ができると感じたのだ。
 ハリウッド脚本家シド・フィールドが提唱した「ミッドポイント」は、主人公が守勢から攻勢へと転じる物語の折り返し地点である。これが意識されることによって、3幕劇の2幕目はきりりと引き締まってよい物語になる。
 シムノンにはこのミッドポイントがなく、主役が守勢から攻勢に転じないとこれまで論じてきた。だが本作やこれまで読んできた新生第一期のロマン・デュール作品に接して、シムノンは「ミッドポイントが書けない」という単純な弱点から一歩抜け出して、「自分なりのミッドポイントの意味」を見つけたのではないか、と思ったのだ。
 本作ではジェラールがポントロー夫人を共犯者だと供述する、というのがミッドポイントに当たる。読者にとって惹きつけられる事態だ。物語半ばに注目すべきポイントがある、という意味では「ミッドポイント」だ。
 しかしこれは夫人を守勢から攻勢にする役目を果たすのではなく、さらに夫人の立場を追い詰める転換点なのである。なるほど、シムノンのロマン・デュールは決してハッピーエンドにはならない。ならばシムノンにとってのミッドポイントとは主役級の運命の歯車がさらに軋みを立てて、壊れてゆくきっかけを担っているのである。守勢から攻勢へ、ではなく、守勢としての環境がより過酷なものへと変わる。
 これがすなわちシムノン流の作劇術、シムノン節なのだ。ハリウッド脚本術ではないシムノン進行にも、読めばシムノンとはっきりわかる特徴があったのは、新生第一期に入ってこのような節回しがちゃんと効くようになってきたからではないだろうか。
 
 本作は未邦訳だが、読んで思わぬ拾いものをしたと感じる作品だった。小粒だがこの凄みは心に残る。こんな作品があるなら未訳を読んでゆくのも決して悪くない。
 
▼映像化作品(瀬名は未見)
TVドラマ「The Witness」《Thirteen Against Fate宿命に抗う13人》シリーズ、ジョン・ゴリーJohn Gorrie監督、Pamera Brown、Daphne Heard出演、1966[英][証人]

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。















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