【写真1】

L’homme de Londres, Fayard, 1933/12(1933/10執筆)[原題:ロンドンの男]
・« Le Journal » 1933/12/18号-1934/1/9号
倫敦ロンドンから来た男』長島良三訳、河出書房新社シムノン本格小説選、2009*【註1】
『倫敦から来た男』『倫敦から来た男』所収、伊東鋭太郎訳、サイレン社、1936/5/19(倫敦から来た男/自由酒場)【写真1】
『倫敦から来た男』『自由酒場』所収、伊東鋭太郎訳、アドア社、1936/11/9(倫敦から来た男/自由酒場) 内容はサイレン社版と同じ(国立国会図書館デジタルコレクション)
『ロンドンから来た男』伊東鋭太郎訳、春秋社シメノン傑作集、1937/5/20* 【写真1】
『倫敦から来た男』『倫敦から来た男』所収、伊東鋭太郎(鍈太郎)訳、富文館、1942/5/20再版(1937/8/15発行)(倫敦から来た男/下宿人) 表紙・扉は伊東鍈太郎表記、奥付は伊東鋭太郎表記 【写真1】
『倫敦から来た男』伊東鍈太郎訳、京北書房、1946/12/18 【写真1】
Tout Simenon T18, 2003 Les romans durs 1931-1934 T1, 2012
Newhaven-Dieppe, Affairs of Destiny所収, translated by Stuart Gilbert, Georges Routledge & Sons, 1942(Newhaven-Dieppe/The Woman of the Grey House)[英]【写真2】のカバージャケットは1947年増刷版
Newhaven-Dieppe, The Man from Everywhere and Newhaven-Dieppe所収, translated by Stuart Gilbert, Penguin Books, 1952(The Man from Everywhere/Newhaven-Dieppe)[英]
・映画『倫敦ロンドンから来た男(The Man from London; A londoni férfi)』、タル・ベーラ Tarr Béla、フラニツキー・アーグネシュ Hranitzky Agnes監督、ミロスラヴ・クロボット Miroslav Krobot、ティルダ・スウィントン Tilda Swinton出演、2007[ハンガリー、独、仏](http://www.bitters.co.jp/london/index.html) 本邦DVD付録の解説冊子は、下記掲載パンフレットの判型縮小・内容抜粋版
・映画パンフレット『誘惑の港』英国映画文庫(発行年記載なし)* 清水千代太「『誘惑の港』について」(《キネマ旬報》48号より転載)p.3、作品解説・ものがたりpp.4-5、「「誘惑の港」に出演のスタアの横顔」p.6 【写真2】
・映画パンフレット『倫敦から来た男』発行=ビターズ・エンド(発行年記載なし)*
・記事『倫敦から来た男』トークショー 2009/12/25(金) OUTSIDE IN TOKYO(http://www.outsideintokyo.jp/j/news/tarrbela.html)* 田中千世子×市山尚三「“監督タル・ベーラを語る”〜世界の映画人を魅了する孤高の芸術家〜」、堀江敏幸×長島良三「“文豪ジョルジュ・シムノンを語る”〜驚異のベストセラー作家、隠された素顔〜」 1933年時点でカミュはまだ本格的な文芸活動に入っていないため、シムノンの編集者がカミュを知っていたとは思えず、カミュとの比較部分の対話内容は疑問。カミュ『異邦人』の出版は1942年。
【写真2】
 

「フランスのエドガア・ヲーレス」という標語がいけなかったのだと思う。私は早くからシムノンの名も聞いていたし、その叢書本も目にしていたのだが、フランス文が読めないものだから、人の噂によって、ヲーレスのような多作家の意味で有名なのであれば、マア大したことはないと読めないことを残念に思わなかった。
 ところが、昨年「モンパルナスの夜」の映画輸入が機縁となって、それの原作「男の頭」が翻訳出版され、初めてシムノンに接するに及んで、私は驚きに近いものを感じた。謎を解く論理の興味では英国作家などに及ばないけれど、しかし、この作にはそれ以上のものがある。探偵メーグレが人間の感情をもって生きて動いている。犯人の性格に、人生観に、我々の心を揺るものがある。巧みに計画された犯罪のトリックそのものに、何かしら犯罪者の芸術が、死もの狂いの遊戯というようなものが感じられる。私は低調なスリルは軽蔑するけれども、こういう人の心の奥底の秘密にふれたスリルには、高い価値を置きたいと思う。(中略)
(一部を現代表記に改めた。以下も同様)

 1936年に出版されたサイレン社『倫敦から来た男』(『自由酒場』併載)に江戸川乱歩が寄せた「序」の冒頭である(同年のアドア社版にも同じ序文が掲載されている)。長くなるがさらに後半の一部を紹介しよう。

 その後、同じ作者の「黄色い犬」が翻訳され、私はこれも愛読したが、その面白さは「男の頭」に比べてはやや劣るように思われた。一方英訳本を探して、丸善で売れ残りの三つの作品を手に入れたが、それらの内、「聖フォリアン寺院の首吊男」は色々な意味で面白く読んだけれど、他の二作は殆ど取るに足らぬもののように思われ、やはり一ヶ月一冊の多作家には屑も多いのであろうと考え、それきり英訳本を本国へ注文する熱意を失っていた。
 ところが、この頃伊東鋭太郎君が見えて、シムノンの「倫敦ロンドンから来た男」の感想を書けということで、その訳文のゲラ刷りを借りて一読したのだが、この作はすっかり私を堪能させてくれた。これが一年に十冊以上も書く作品の内の一つであるとは、何という作家であろうと、驚きをあらたにしたことである。
「倫敦から来た男」は犯罪小説である。したがって、探偵小説のための謎とかトリックとかがないために、筋に少しも無理がなく、所謂純文学に近い作風であって、作者は思うさま彼の心理的手法をふるうことが出来た。殆ど夾雑物の感じられない純粋な作品である。
 先ず、作中の二人の主要人物が、共に犯罪者で、しかも善人で、お互に相手の目を恐怖し合っているという取材に、十分の創意がある。(中略)ドストエフスキイの作中から犯罪者の恐怖倫理の部分だけを取り出して、私の所謂高級なるスリルの粋のみを以て渾然と組立てられた、純粋犯罪小説としては殆ど比類なき名作である。
 訳者の伊東君はドストエフスキイの熱心な研究家で、又翻訳者でもあるが、その同君がシムノンに着眼し、最もドストエフスキイ的な作品を撰んで紹介しようとしたのは決して偶然ではなく、それだけに訳文は犯罪恐怖心理を描き出して申分もうしぶんがない。この訳者の手になるこの原作、シムノン未読の人々にこえを大にしてお勧めしたいと思う。

 江戸川乱歩がシムノンのどこを評価していたのか、とてもよくわかる推薦文である。『黄色い犬』『サン・フォリアン寺院の首吊人』よりも『男の首』、そして本作『倫敦から来た男』を積極的に評価しているのは大変に興味深い(取るに足らない屑とされた2作が何であったかも知りたいところだ)。この乱歩の評価は21世紀の現在までずっと私たち日本人ミステリー読者の心に、絶えることなく植えつけられてきたものだろう。たとえ乱歩のこの推薦文を知らなくても、シムノンを読もうとする人はまず『男の首』『倫敦から来た男』にシムノンの作家的特徴を見ようとしてきた。日本におけるシムノンの代表作は、メグレものなら『男の首』、ノンシリーズなら『倫敦から来た男』だった。上掲の推薦文が書かれたのは、繰り返すが1936年である。いまから80年以上も前のことだ。
 私たちは無心で本を読むことはできない。無垢な心で物事を見ることは難しい。G・K・チェスタートンのブラウン神父が教えてくれるように、私たち人間はイノセンスな心で何かを評価し、判断することが極めて難しい社会的生きものなのである。
 だから私は自分が社会的な生きものであることを自覚しつつ、できる限り無心に本を読みたいといつも願う。誰かの顔色をうかがって本を評価したり、世間や業界の雰囲気に従って自分の感想をにこやかに述べたりすることはしたくないと思う。私は江戸川乱歩の作品が大好きな読者のひとりではあるが、乱歩とは別のひとりの人間として、無心に本作『倫敦から来た男』を読んだつもりだ。
 乱歩が本作を読んだ時代でさえ、すでにシムノンは「フランスのエドガー・ウォーレス」というレッテルを貼られていたのだ。たんに多作家であるということしか共通点がないにもかかわらず、このようなキャッチフレーズがひとたび出来上がると、人はエドガー・ウォーレスを連想しながらシムノンを読むことになっただろう。乱歩でさえその呪縛を受け、それはいけなかったのだと自戒している。
 私が乱歩と違うのは、作者シムノンの執筆順に読んできたということである。映画『モンパルナスの夜』から入ったのではないということである。だから『男の首』と本作『倫敦から来た男』の共通点も少しは見える気がする。これら2作はどちらも登場人物の内面が、読者にとってわかりやすい書き方をされているのだ。乱歩がそこに敏感に反応し、絶賛したのはわかるような気がするのである。
 
 主人公ルイ・マロワンは夜勤の転轍手である。彼は港町ディエップで働いている。ここには英国のニューヘイヴン港との間を行き来する連絡船が入り、またディエップ‐パリ間の列車が通っている。
 彼はいつも見張り台から港を見下ろしているのだが、その夜、不審な光景を目撃した。船の甲板から男が岸へ鞄を投げ、もうひとりの男がそれを拾ったのである。煙草か酒の密輸入だろうか。ロンドンから来た男は鞄を受け取った男と合流し、いったんはカフェに入ったが、出てくるとふたりで口論を始めた。そして受け取った側の男が殴られ、鞄と共に海へ落ちるのをマロワンは見たのである。
 ロンドンから来た男が為す術もなく立ち去った後、マロワンは密かに現場へ向かい、海へ飛び込んで鞄を拾い上げた。そして見張り台に戻って鞄を開けたところ、中にはポンド札の大金が入っていたのである。換算すれば54万フランにも相当する。マロワンは鞄を自分のロッカーにしまい入れ、家に戻る。だが気持ちは落ち着かない。
 あのロンドンの男が自分を狙ってくるのではないか。その不安が膨らんでゆく。
 
 私はまず長島良三訳の新訳で読んだのだが、何かちょっとシムノンらしくないなと感じ、また最初期のメグレの雰囲気を思い出して、なぜだろうと考えて理由がわかった。主人公マロワンがいちいち自分の心情を言葉に出して呟くからなのである。訝る、独りごちる、呟く……そうした地の文と共に、常に「 」(カギカッコ)でマロワンは言葉に出す。そんな行動が初期のメグレに似ているのだ。
 己の心情に関して主人公が饒舌なのである。ひとつ前の作品『てんかん』が完全3人称叙述形式で、一歩も登場人物たちの心に入り込まなかったことと極めて対照的だ。逆にいえば、主人公はすべての心の揺れ動きを声に出して説明してくれるので、とてもわかりやすい小説になっている。主人公の心に入ってゆきやすい、共感しやすい、というより、そうなるようわざわざ作者がすべて包み隠さず教えてくれるのである。映画評論家の柳下毅一郎氏が「副音声映画」と揶揄するタイプの作劇法だ(副音声のように、すべての内面や自分の見聞きしていることをキャラクターが声に出して説明する映画のこと。頭を空っぽにしていても展開がわかるようにしたつくり手側の工夫)。
 この違和感は、旧訳の伊東鋭太郎訳を手に取って少し解消された。伊東訳では内面の呟きと思える部分を「 」(カギカッコ)ではなく( )(カッコ)で記述しており、文面にめりはりがついているからである。
 原文を確認すると、マロワンの言葉はすべて「──」の後に記述されている。一般的なフランス文芸の記述法だが、こちらはよりニュートラルな感じで私の目に入ってくる。読み手側の方で「これは内面の言葉」「これは声に出した台詞」と自由に選択し納得できるためかもしれない。具体的に3種類を並べてみると雰囲気がおわかりいただけると思う。

・「ドックに落ちた男は、きっと死んだにちがいない」(長島訳)
・(確かに、死んだんだ!)(伊東訳)
・──L’autre est sûrement mort !(原文)

 
 物語の展開は単純である。いままで読んできた新生第一期のロマン・デュール作品に比べてもひねりがなく一本調子のストーリーで、シムノンが割と最初のシチュエーションだけを考えて後は筆任せに進めた作品であるように感じられる。それがかえって主人公マロワンの心情を逐一読者に伝える構成となった。読みやすく、わかりやすい。江戸川乱歩が『男の首』と本作『倫敦から来た男』を推したのは、登場人物の心情がわかりやすくサスペンスがすっと胸に入ってくる作品だったからではないかと思われる。
 だが、わかりやすいこととそれがシムノンの入門編として適切かどうかはまた別問題だ。これまでも見てきたように、むしろシムノンはエンパシーの優れた使い手であって、本作のように最初から最後まで主人公の心の動きに〝寄り添う〟作品は、いまのところむしろ稀だ。本作は読みやすくてもシムノンの代表的作品とはいえないのではないか。これがシムノンらしさだと思い込んでしまうと、他の作品を読んだときに訳がわからないと投げ出してしまう可能性がある。
 マロワンには妻と娘と息子がいる。娘は肉屋で働いている。思わぬ大金を手にしたマロワンは、娘が肉屋でみじめな清掃作業をしているのを見て、すぐにこんな店は辞めろといって強引に連れて帰ってきてしまう。妻とはもちろん口論になるが、いざとなれば大金が使えるとなったマロワンは引き下がらない。娘と町へ繰り出してたくさんの衣服を買い与える。
 その一方で、マロワンはロンドンから来た男がときおり自分を見張っているような気がしてならない。ロンドン警視庁から刑事もやって来て事件の内情もわかってくる。あの金はロンドンの男ブラウンが雇い主から盗んだ金だったのだ。ブラウンは刑事が接触してきたために姿をくらましており、いまはどこで寝起きしているのかわからない。そんな折り、マロワンの娘が小屋で不審な男を見たと報告してくる。咄嗟に娘は小屋の鍵を閉めてしまったという。マロワンはそれを聞いて娘にかたく口止めするが、男のことが気になって仕方がない。彼は食べるものもなく小屋に閉じ込められているのだ。忘れようと思っても忘れることができない……。
 乱歩が指摘したようにマロワンは善良な男である。ロンドンから来た男ブラウンも、決して根っからの悪党ではない。マロワンは意を決して食料品を買い込み、それを持って小屋へと向かう。小屋の鍵を開け、ブラウンの名を呼びかける。
 マロワンが鞄を拾わなければ、ロンドンから来た男ブラウンが相手と口論にならなければ、鞄が海に落ちなければ、そうなるはずのなかった決着へと物語は進む。
 
 本作が3度も映画化されたのは、やはりそのわかりやすさゆえだったのではないか。
 残念ながら私は最初の2作を観ることができていない。
 1作目のアンリ・ドコアン監督はシムノン原作の『家の中の見知らぬもの』(1942)も監督している。主題歌は Nila Cara によるシャンソン「l’aventure aime la nuit」[夜の情事]。映画の冒頭で霧に煙る港を映す際に流れたようだ。
 2作目は日本でも『誘惑の港』のタイトルで公開された。面白いのはこの2作目は英国映画なので、舞台がディエップではなくニューヘイヴンになっていることだ。海に落ちて死ぬのが英国人のブラウンで、鞄を探すのは“フランスから来た男”になっている。
 そして3作目が21世紀に入ってからの作品、ハンガリーのタル・ベーラ監督による注目作である。
 これが日本公開されるとき、私のところにも試写会の案内が来たことを憶えている。ちょうど私は新聞の書評委員をやっていて、シムノンの『ちびの聖者』(河出書房新社)を取り上げたことがあった(http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071703674.html)。配給会社がそれを読んでくださったのだろう。私は仙台暮らしなので、東京の試写会の案内が来ることはほとんどない。このときも残念ながら上京できなかったが、今回DVDで観て、やはりスクリーンで接しておきたかったと思った。だが当時はこの映画『倫敦から来た男』(2007)をほとんど理解できなかったかもしれない。今回、私は本連載のためにタル・ベーラ監督の『倫敦から来た男』『ニーチェの馬』(2011)を続けて観て、ようやくわずかではあるが見所がつかめたように感じている。
 タル・ベーラ監督はモノクロの独特の長回し撮影で有名だ。映画『倫敦から来た男』でも冒頭でその特徴が存分に発揮される。カメラはまず英国から来た船の姿を海面から甲板まで実にじっくりと時間をかけて撮ってゆく。変化に乏しいぞ、と思ったその瞬間、画面に妙な黒い影が現れる。斜めの影、横の影、やがてそれらが櫓か何かの鉄骨の影なのだとわかる。これだけでサスペンスが盛り上がる。
 見張り台の中へとカメラは入り、窓の外に見える船と、室内のマロワンを映す。甲板ではふたりの男の影が英語で話し合い、やがて姿を消す。カメラはガラス張りの窓に接近して舐めてゆき、船から降りる客たちが少しずつ横づけの列車へと入ってゆく様子を捉える。英語で話していたうちのひとりが船から出てくる。カメラは反対方向へとガラス窓を舐めてゆく。甲板に残ったひとりが岸辺へ鞄を投げ、それを男が拾う。またしてもカメラは反対方向へと戻り、最後の客が列車に乗るのを見届けると、絶妙のタイミングで列車は警笛を鳴らして走り出す。
 長回し撮影はタル・ベーラ監督の特徴だと書いた。実は次作の『ニーチェの馬』を観て、本作『倫敦から来た男』の撮影の特色がわかった。『ニーチェの馬』は荒野に住む老人とその娘が、連日の嵐に見舞われて家で単調な毎日を繰り返す様を描いた不思議な作品である。少しずつ物事がおかしくなってゆく。ようやく画面に登場した隣人らしき男性は、世界が破滅に向かっていることを長々としゃべって出て行く。老人と娘の飼っている馬が草を食べなくなる。井戸が涸れる。ランプがなぜか灯らなくなる。不条理な終末SFのようである。これらがすべて3人称形式のカメラアイで撮影される。老人も娘も必要以上にはしゃべらない。ふたりの内面にカメラが迫ってゆくこともない。茹でたじゃがいもをただ食卓で食べるだけの描写、ここにはもういられないと馬を引き出して荷車に荷物を積み、いったん丘の上まで進むが、嵐がひどくて戻ってきて、再び荷物を家へしまい入れるまでの長々とした時間、どれも長回しで撮影されるが、そのカメラアイは完全に〝ただ〟老人と娘を見つめているだけなのである。
 ところが『倫敦から来た男』のカメラアイは、マロワンの視線と客観的なカメラアイの間で描写が行き来するのだ。冒頭の部分も見張り台から人々の動きを見下ろす描写は、同時にマロワンの視線でもある。つまりこのとき私たちはまさにマロワンとなり、もっといえば以前に指摘したように私たち自身がメグレとなり、マロワンの心の内に芽生える疑念や不安さえも感じつつ長回しの時間を共有することになるわけである。
 シムノンの視線は“ただ”対象を見ていることに特徴がある、とこれまで書いてきた。その意味でタル・ベーラ監督は、他の誰よりもシムノンらしい映画をつくっている人物であるように思える。作家的資質が似ているのだろう。
 それでいてタル・ベーラ版『倫敦から来た男』はマロワンの寡黙さが印象に残る。原作のようにあれこれ呟くことがない。“副音声”がいっさい省かれている。ストーリーはラストを除けばほとんど同じであり、極めて忠実な映画化といえるが、その感触は原作の『倫敦から来た男』よりもたとえば『てんかん』連載第40回)に近い。それはつまりシムノンの本質的な作家性がしっかりと映画に写し取られているということではないか。
 最後の最後で映画は原作と離れる。マロワンは原作と同じように、食料を持って小屋へ行き、ブラウンに会おうとする。原作ではここで具体的な呼びかけの会話や、何が起こったのかという描写がある。だがタル・ベーラ版にはいっさいそれがない。マロワンが鍵を開け、小屋のなかに入ると、あとは小屋の外から吹きすさぶ風の音と共に延々と閉まった扉を撮影するだけなのだ。ようやくマロワンが出てきて、その表情から何かが起こったのだとわかる。ここはシムノン以上にタル・ベーラ版が“ただ”見ているだけの描写をおこなうシーンだ。
 それでもタル・ベーラ監督は本作で“わかりやすさ”も疎かにはしない。ブラウンの夫人がやって来て、刑事の前で絶妙な間合いで涙を流す。ラストシーンでこの女性がほんのわずかに瞳を動かす。そうした部分はすべて完璧な計算に拠るものだろう。完全に最後まで突き放した『ニーチェの馬』に比べると、それを芸術としての甘さと見るか、わかりやすさと見るか、意見は分かれるかもしれない。シムノンらしさに監督は敬意を払った、ということなのだろう。
 
 私たちは無心には本を読めない。古い時代の評価や広告を見ると、当時はこのように読まれていたのかとはっとさせられることがある。そんな例をひとつ紹介する。
 1937年に刊行が始まった春秋社シメノン傑作集は、表紙イラストもなかなか鮮やかで力強く、古書として愛着の湧くシリーズだった。各巻の巻末広告も実に名調子で、これを見るたびに私は日本におけるシムノン受容の変遷について思いを巡らさずにはいられない。

シメノン傑作集
初夏の春に生れた軽文学ライトリテラチヤア羽根飾こころいき! 罷り出たるジヨルジユ・シメノンといつぱ、三七年度巴里パリ特製・姿軽やかなるバルザツク・細身のケインの大デユーマ・心理を追えばドストイエフスキー! 肩から裾へ翻したマントルさつと開けば、ヨーロツパの名称は一望のうち。めぐるは快速三帆艇、村々を、港々を、山々を、眺め尽してつぎつぎに生れ出でたる人の世の悲喜こもごもの絵姿はまず高覧に供する名作・六。

 戦前シムノンがいかに若々しく新鮮なフランス文学として歓迎されていたのかがよくわかる広告だ。この文章の下部には既刊本と近刊リストがあり、初期には『ベルヂユラツクの狂人』[メグレを射った男]『メーグレ』[メグレ再出馬]の翻訳予定もあったことがわかる(実際は刊行されなかった)。
 もうひとつ、本来ならここで検討しなければならないことがある。それはシムノンとドストエフスキーとの比較だ。
 サイレン社版の「訳者序」で伊東鋭太郎氏は次のように書いている。

倫敦ロンドンから来た男」は、一言で云うなら、フランス人の手で書かれた「罪と罰」である。

 富文館版(1942)の訳者まえがきにも「罪と罰─訳者として─」というタイトルがつけられている。
 残念ながら私はまだドストエフスキーとの比較ができるだけの読書量がない。だがこの連載は長く続く。いつかその比較をしたい、ドストエフスキーをたくさん読んで、何かがいえるようになりたいと願っている。それが私の課題である。
 
 オムニビュス社のシムノン全集第18巻には、ミステリーの『13の謎』『イトヴィル村の狂女』『13の秘密』、そして『仕立て屋の恋』から本作『倫敦から来た男』を含め『メグレ再出馬』までの長編9作、ならびに「Nouvelles introuvables 1931-1934」[未収録短編1931-1934]として6編のマイナーな短編が収録されている。短編は「運河の事件」「シンシンまたは三段の家」「マドモワゼル・オギュスティーヌ」「モスとホッホ」「捕らわれた大盗賊」「帆船と豹」であり、すでにすべて本連載で言及した。
 よって、今回でシムノン全集第18巻の攻略を完了した。
 
 シムノンは次作の『メグレ再出馬』の刊行を最後に、ファイヤール Fayard 社時代に別れを告げる。その次からガリマール Gallimard 社でロマン・デュールの出版が始まる。
 ただしシムノンがメグレ第二期の短編群を書き始めるのは、もう少し先のことである。

▼他の映像化作品(瀬名は未見)
・映画『L’homme de Londres』アンリ・ドコアン Henri Decoin 監督、フェルナン・ルドー Fernand Ledoux、ジュール・ベリ Jules Berry 出演、1943[仏]
・映画『誘惑の港(Temptation Harbour)』、ランス・コンフォート Lance Comfort 監督、ロバート・ニュートンRobert Newton、シモーヌ・シモン Simone Simon 出演、1946[英]【写真2】
・TVドラマ「Der Mann aus London」Heintz Schirk監督、Isle Ritter、Ursula Wolff 出演、1971[独]詳細不明
・TVドラマ 同名《L’Heure Simenonシムノン・アワー》シリーズ、Jan Keja監督、Elke De Roeck、Paul Giske 出演、1988[仏]
 
【註1】
 本作は杉江松恋『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』(日経文芸文庫、2013)の1冊に選出されており、翻訳ミステリー大賞シンジケートブログ連載の「必読!ミステリー塾」第6回でも畠山志津佳・加藤篁両氏による感想が読める(https://honyakumystery.jp/1406156162)。多様な読書感想が流通するのはよいことなので、ぜひそちらもご覧いただきたい。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。






















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