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Les Pitard, Gallimard, 1935(1932/夏-1934/9執筆)[原題:ピタール家の人々]
・« Les Annales » 1934/10/15-12/10号
・同名, illustrations de Robert Joël, Librairie Gründ, 1945 限定1000部【写真1-4】
The Pitards, translated by David Bellos, Penguin Classics, 2017*
・A Wife at Sea, A Wife at Sea所収, translated by Gregory Sainsbury, Routledge & Kegan Paul, 1949(A Wife at Sea/The Murderer)[英][海にいる妻]【写真5】
Tout Simenon T19, 2003 Les romans durs 1934-1937 T2, 2012

【写真5】

《ルーアン新報》は港の動向欄で報じた。出港:《神の雷鳴(トネール゠ド゠デュー)号》、ラネック船長、ハンブルク行、積荷500トン……。
 ルーアンの水先案内所はヴィルキエ[ノルマンディー地域、セーヌ川沿いの町]の案内所に電話した。「2時間のうちに、乾舷(かんげん)3メートル50の《神の雷鳴号》がそちらに到着予定。甲板長(ボスコ)に、パンポル[仏西部の港町]のいとこがそちらに着いて、挨拶をしたがっていると伝えてくれ……」
「了解! ところで前に連絡した《ピカルディ号》が川上から来て、ラ・ヴァクリに錨を下ろしているんだが」
「そちらは嵐か?」
「いい具合に吹いているよ」
 
 3度、マティルド・ラネックは口に手を入れて、自分の噛んだ豆からできた緑の糸の丸まった粒を皿の隅に置いた。
 ラネックはそんな妻の振る舞いや彼女の溜息に気づかぬ振りをしていたが、主任技官のマティアスが夕食中まったく口を利かないので、やがて目を向けなくてはならなくなった。
 この四角いテーブルには4人がついていた。マティアス、エミール・ラネック、妻のマティルド、そして義眼の通信士ポールで、他の者よりもさらに無口だった。
 雨の暗い幕が迫っており、二等航海士のモワナールは船のブリッジに出て、もうひとりの航海士は見張り台に上った。
「もっと明るい光でないと」とマティルドはビーフシチューが出てきたところで声を上げた。
 実際のところ、この部屋の照明は強くなく、電球の黄ばんだフィラメントは目を眩ませることなく直すことができた。ラネックは技官を見た。相手は頭を引っ掻いていた。
「船に他のランプはないんだ!」
「だったらハンブルクで買えばいい」
「フィラメントが弱すぎるのを心配しているんだ!」
 ラネック夫人は黙っていたが、眉をひそめて、何を思っているか示そうとした。彼女はここにいて楽しいだろうか? 厳密に言えば否。だがここにはある種の空気があった。
 彼女の夫は奇妙な気分だった。

(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)

 
 おお、がつんとしたものが来た。いい感じの作品だ。船好きシムノンが北の海を舞台に描いた船舶小説である。
 舞台は全編にわたって荒れた冷たい海と彼らが立ち寄る港に限られており、しかし各シーンにはつねに動きがあり、緊迫感がある。匂い立つような克明な海の描写は、これまで読んできたシムノン作品の中でもずばぬけて素晴らしい。
 本作の英訳はつい最近ペンギンクラシックスから新訳が出たが、それまでは1949年に英訳がハードカバーで出たきり再刊されていなかったものだ。長く読み継がれているかどうかと作品の出来映えは必ずしも両立しないのだということもわかって興味深いが、ペンギンもこの作品を初期の佳作と判断したから新訳刊行したのだと思うと、作品というものはそれ自身の力で、まさに半世紀単位で、復活を遂げたり読み直されたりするものなのだと再確認させられる。
 
 エミール・ラネック船長の《神の雷鳴トネール゠ド゠デュー号》は、ルーアンからドイツのハンブルク港へ向けて航海していた。この船には結婚して2年になるラネックの妻、マティルドも乗船していた。彼女が同行することに固執したのである。
 ラネックは建造されて60年になるこの古いイギリス船を購入して船長となったが、その代金の一部は銀行のローンで賄っており、マティルドの母であるピタール婦人が保証人となっていた。ラネックは毎月600フランを婦人に返還していた。そのためピタール婦人やマティルドは、この《神の雷鳴号》が自分たちの船であるという思いを強く抱いていたのである。
 船内には不穏な空気が漂っていた。「無事には着かないぞ」と書かれた匿名のノートをラネックは発見していたし、白い布を被った〝幽霊〟が現れて倉庫からハムが盗まれるという事件もあった。だが船はドーバー海峡を越え、目的地に到着した。
 着いた先のハンブルク港で、ラネックは急ぎの新しい仕事を持ちかけられる。10日以内でアイスランドのレイキャビクまで荷物を運んでほしいと言うのだ。本来は列車と郵便船を使いコペンハーゲン経由で運送予定の積み荷だったが、経費削減のために直接船で運んでほしいと頼まれ、ラネックは賭けのようなこの仕事を引き受ける。逆に到着までに10日を過ぎれば違約金を支払わなければならない約束だが、腕の鳴る仕事だ。しかし荒々しい海が待ち構えている。女性である妻を同乗させるわけにはいかない。
 だが妻のマティルドはラネックが説明しても断固として船を降りようとしない。それがなぜなのかラネックにはわからない。船は新たな航海に出発する。
 旅の途中、船員同士で話していると発見もあった。甲板長の妻はずっとカーンで商店を営んでおり、ラネック船長の妻が育ったピタール家からわずか5軒先の隣人だったのだ。ピタール家は靴屋の上階に住んでおり、甲板長の妻はカード占いをやっていて、ピタール婦人はその顧客だった。マティルドも若いときから通っていたと言う。
 もともとラネックはカーンのレストランでいい娘がいないかと探していた際、ピタール母娘と初めて出会ったのだ。そのときラネックはマティルドに声を掛け、そして結婚に至ったのである。
 ラネックはこの船に、妻のピタール一族の影が色濃く投影されていることを感じ始める。義理の母であるピタール婦人はこの船のオーナーであると自分では考えているはずだ。また婦人は息子のオスカルをとても大切にしており、まだ建築家として独り立ちできずにいるのに面倒を見ていた。婦人は娘のことは嫌っていたかもしれないが、それがいまのマティルドの行動に影響を与えている可能性もある。ピタール一家はいずれ保険の保証人稼業で生活費を得ようと考えているのかもしれない。
 そしてここへ来て、妻マティルドはラネックに、自分は故郷のバイオリニスト、マルセルのことを愛していたと告白する。ラネックと知り合う前からつきあっていたと言う。船旅の多い夫よりも惹かれている。だが母が反対したからマルセルとは結婚しなかったと言うのだ。この船は見えないピタール一家に縛られているかのようだ。
 ハンブルク港を出て以来、妻のマティルドはほとんど口を利こうともしない。ようやく喧嘩腰だがラネックと話し始めた妻は、奇妙なことを問い質してきた。
「私は全部知っているわ。あなたはアイスランドへ荷を運ぼうとしている。でもこれは偶然? 本当はすべて計算済みのことだったんじゃないの? 靴屋の上に住んでいたからといって馬鹿にしないで。あなたは本当はこの船をアメリカまで持って行って売って、女と暮らすつもりだったんでしょう! アイスランドはその途中に過ぎないんだわ!」
 馬鹿げている、とラネックは思ったが、妻は断固として意見を曲げようとしない。誰かがおかしなことを妻に吹き込んだのだ。しかしいったい誰が? 
 そのとき通信室にSOS信号が入る。フェカンの港を出た《フランソワーズ号》が28名の船員を乗せて難破しているという。その船長であるジャリュをラネックはよく知っていた。荒天の中、彼は《フランソワーズ号》の救助に向かおうと決める。そんなことをしていては10日間で積み荷を届ける契約には間に合わない。だがラネックは《神の雷鳴号》の進路を難破船へと向ける。
 海は荒れ、闇は深く、《フランソワーズ号》はなかなか見つからない。決死の救助活動が続く中、ラネックの妻が思いもよらない行動に出る。

 タイトルの『Les Pitard』は、ノーベル文学賞を受賞したロジェ・マルタン・デュ・ガールの大長編小説『チボー家の人々Les Thibault)』(1922-1940)と同じように、『ピタール家の人々』という意味だ。しかし実際に物語の中で姿を見せるピタール家の人は、ラネックの妻マティルドひとりのみ。その他のピタール一族はラネックの回想や想像の中で登場するに過ぎない。ところが書籍のタイトルになるほど主人公ラネックの胸中では大きな存在となってゆくのだ。ここが面白いところである。
 先にも書いたように、全編が船内と港内の描写である。ほとんど毎日のように雨が降り、食堂、海図室、通信室、あるいはデッキでの船員の会話が海の雰囲気を盛り上げる。《フランソワーズ号》からの救助要請は物語の半ばで起こり、そこから後半にかけて荒々しい海での救助活動の描写が続く。暗い海で船がどこにいるのかわからず照明弾を上げる。他にも助けに来たドイツ船があったが、彼らも事故で難破しかけている。ようやく見つけた《フランソワーズ号》にそろそろと近づき、牽引綱を投げる。《フランソワーズ号》の船員の中には、緊張のあまり海へ飛び込んでしまう若者もいる。彼ら全員を救出できるか? この辺りの息詰まる克明な描写は、いままでのシムノンになかったものだ。北の海を描いているという点で本作はペンネーム時代の作品の改稿作『北氷洋逃避行』本連載第34回)を思わせるが、そちらより断然に今回の方がいい。『霧の港のメグレ』本連載第16回)でもシムノンは高波でうねる海の匂いを存分に与えてくれたが、そちらよりもさらにいい。
 本作には広義のミステリーの要素もあり、これが緊迫感を醸し出して読者の興味を引っ張っている。すなわち妻のマティルドは夫が《神の雷鳴号》をアメリカに売り払って自分たちを裏切ろうとしているという妄想に駆られているがゆえに船を降りないわけだが、誰がそんな戯言を妻に吹き込んだのか、という謎をラネックは抱えるのである。匿名のノートがテーブルに置かれていたが、それを書いたのと同一人物が妻に忠告したに違いない。それは《神の雷鳴号》の船員であるはずだが、いったい何のためにそんなことがなされたのか。
 この謎は本格ミステリーとしてうまく機能しているわけではないが、物語の最後までラネックの心に残り、緊迫の救助活動の後も彼を急き立てる要因となる。
 
《神の雷鳴号》という船の名前の使い方がちょっと面白い。ラネック船長が購入した40年物の古いイギリス船は、もともと《バジリス号》という名がついていたのだが、彼は自分の好きな名に変えた。「神の雷鳴トネール゠ド゠デューはラネックの好きな宣誓の言葉だった、と本文に説明がある。雷の素早さ、雷鳴の大いなる轟きなどの連想から、フランス語ではちょっと威勢のいい感じの「神に誓って!」というニュアンスになるのだと思われる。ラネックは興奮したとき、何度も「トネール゠ド゠デュー!」と叫ぶのだ。
 救助活動後に訪れる静かな描写が印象深い。《フランソワーズ号》の生存者と、そして死者を乗せた《神の雷鳴号》は、ついに目的地のレイキャビク港に辿り着く。このとき教会の鐘が船上のラネックに聞こえてくる。「今日は何曜だろう?」とラネックは双眼鏡で人影のない港を眺めながら《フランソワーズ号》の船長ジャリュに訊く。すでに到着は予定よりも遅れて、日曜になっていた。日曜のミサの鐘なのだ。ラネックは15歳で初めて航海へ出たとき、港で母を含む女たちが手を振っていた光景を思い出す。船から飛び出したい気持ちに駆られたことを振り返る。この辺りの抑えた描写が素晴らしい。
 本作は最後に「誰が警告のノートを書き、妻に忠告したのか」という謎解きがある。謎は最終章で簡単に解かれてしまうため、それ自体にカタルシスはない。ここでピタール一家の思いがぐっと迫ってくるかどうかが作品の成功の鍵を握るはずだが、私にはやや弱いと感じられる。広義のミステリーであることが、かえって普段のシムノンに見られる叙情性豊かなラストシーンを失わせてしまった。
 そこが残念なところではあるが、謎への回答に至る前、すなわち最終目的地レイキャビク港に着いた後のややぼんやりとした筆の流れは、それはそれでしみじみと味わい深いものがある。
 ラネックはここへ来てようやく思う、「妻はおれのことを知らなかった。妻は結婚後2年も他人のままだったんだ……」と。だが同時に彼はここでようやく、自分は妻を愛していたのだと思うようにもなるのである。
 ラスト一章の余韻の弱さはあるものの、それでも全体を通して振り返ると、物語の躍動感といい、迫真の海の描写といい、シムノンの初期作品の中ではいま読み直すに値する佳作になっていると感じた。
 そして意外なことに『ピタール家の人々』という海とはまったく繋がりのないタイトルが、叙情性を湛えたよい語感として胸に残ったのである。

▼メディア展開作品(瀬名は聴いていない)
・ラジオドラマ A bord du « Tonnerre-de-Dieu », Georges Simenon, André Allehaut脚本, Poste Parisien放送, 1937/1/18[仏][《神の雷鳴号》の舷にて]
 

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。


















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