個性を競うホームズのライヴァルたちの中でも、その並外れた天才ぶりと奇矯さでひときわ異彩を放つ「思考機械」の【完全版】第一巻が大冊で登場だ。
■ジャック・フットレル『思考機械【完全版】』
思考機械は、オーガスタス・S・F・X・ヴァン・デューセン(ドゥーゼン)博士の異名。哲学博士(Ph.D)、法学博士(LL.D)、医学博士(M.D)などその他諸々の称号をもち、名前と肩書だけでアルファベットのほぼすべてを使い尽くす。子どものような体格だが、巨大な頭部と黄色い髪、やぶにらみの眼を持ち、グロテスクな印象を与える。女性は地球上で唯一の苦手科目。ワトソン役は、新聞記者のハッチソン・ハッチ。
博士の人知を超える頭脳は、チェスの試合のエピソードによく表われている。
博士は、チェスのルールをまったく知らなかったが、数時間駒の動きを学んだだけで、世界チャンピオンと対戦。15手で敵を打ち負かしてしまうのだ。開発に7年を要し、1秒間に2億手を読むスパコン、ディープ・ブルーがチェスの世界チャンピオンに勝利したのは、やっと1996年なのだから、博士の頭脳はまだずっとその先を行っている。
こども向けの本で、このチェスのエピソードに続けて読んだ「十三号独房の問題」で筆者は謎解きミステリの魅力の虜になった。
鉄壁の刑務所の独房から一週間以内で脱獄できると思考機械は宣言し、見事に成功させるというこの短篇を改めて読むと、本筋のトリックもさることながら、トリックを隠す偽の手がかりを散りばめ、脱獄失敗をちらつかせてサスペンスを高めていく構成も見事だ。探偵自身が不可能犯罪を演じるという変わった型のミステリでもある。
作者ジャック・フットレルは、米国のジャーナリストで小説家としての活動期間は、1905年からのわずか7年。タイタニック号遭難の犠牲者であったこともよく知られている。
本書には、思考機械物の長編1と短編18を収録。6編が印刷媒体では初めての訳というのも嬉しい。全2巻で思考機械物の全作品を収録するとともに、作品数を確定し版による異同をも確認した、英米の思考機械の書籍よりも詳しいものという。初出との異同も詳細な注で明らかにされており、初出紙誌から豊富な挿絵も収められている。新聞連載時には、謎解きの懸賞がつけられており、読者の解答が解説で読めるのというオマケもついている。
作品としては、佳作と平凡な作品が入り混じっているが、「十三号独房の問題」を筆頭に、不可能犯罪物が多いのが特に眼を惹く。
「燃え上がる幽霊」(幽霊屋敷)、「百万長者の赤ん坊ブレークちゃん、誘拐される」(雪上からの消失)、「赤い糸」(密室でのガス死)、「絞殺」(密室での絞殺死) 「楽屋「A」号室」(劇場からの消失)、「水晶占い師」(水晶球の中の予言映像)、「ロズウェル家のティアラ」(密室からの宝石消失)、「行方不明のラジウム」(監視下のラジウムの消失)。
思考機械は、「不可能などというものはない」と言い放ち、不可能ということばを聴くと、気分が悪くなるという。
それだけ作者が不可能犯罪物に執心していたことの表われでもあり、中には、ポーやドイルの作品からのいただきのようなトリックもあるが、思考機械シリーズは、ミステリの青春時代に不可能犯罪の領域を拡大していった作品群ともいえよう。創意ある密室物「赤い糸」、奇想天外な犯罪を盛り込んだ「水晶占い師」は佳品。「百万長者の赤ん坊ブレークちゃん、誘拐される」は誘拐物プラス消失物の異色作だが、結末で唖然となる怪作。Aと思わせてBというのが作者の得意とするところで、暗号物にして意外な犯人を擁する「命にかかわる暗号」は、そんな作者の手つきが良く出た短編。
ハッチ記者は博士の手足担当で、博士の不可解な要求に首をひねりながら走り回るが、最後には必ず、博士の頭脳により特ダネを手に入れる。
思考機械の決め台詞は「二+二は常に四なのだ」。彼にとっては、論理がすべてである。さほど論理的な解明といえない作もあるが、それは置いておこう。この臆面のないほどの超天才の謎解きが、もう一巻続くのは実に楽しみだ。
■アガサ・クリスティー原作、マイケル・モートン脚本『アリバイ』
原書房から「海外ミステリ叢書《奇想天外の本棚》」が発進した。
作家・山口雅也氏が
その第一弾は、アガサ・クリスティー原作、マイケル・モートン脚本『アリバイ』(1929)。同題の既訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1957) もあるが、ポケミス版には明らかな誤訳や欠落部分があるという。
原作は、『アクロイド殺し』(1926)。いわずと知れた名作だが、小説だから効果を発揮する趣向が、舞台では望むべくもない。クリスティー自身が戯曲化していないのもそのためかと思われるが、実際に現物に当たるとなかなかどうしての出来栄えなのである。
筋立ては、いうまでもない。ロジャー・アクロイド卿殺害事件の謎に近隣に引っ越してきたポワロが挑むというもの。原作はシェパード医師の手記の形式になっているが、脚本版では、事件を三幕劇に再構成している。
その内容は、ほぼ原作に忠実だが、一部の登場人物の刈り込みが行われるなど、舞台に適するようすっきりしたものにしている。脚本は、題名どおり、関係者のアリバイに重点を置いて構成しているが、いわれてびっくり『アクロイド殺し』は、立派なアリバイくずし物なのである。犯人の例の工作は有名だが、それに関係者の様々な心理・行動が加わって、犯人のアリバイを鉄壁なものにしている。最大の趣向を剥がしてみると、そこには精妙なアリバイ物の構造があったわけで、これはクリスティーの原作の精緻さを再認識させるとともに、分刻みのアリバイくずしの部分をクローズアップした脚本家の手柄でもある。自らもミステリ劇の作者だったという脚本家モートンの面目躍如というところだろう。
劇的ということでいえば、原作を踏襲してはいるのだが、第二幕の最後、主要登場人物のほとんどが集まった場面で、ポアロが「この部屋におられるみなさんは、どなたも、なにかを隠していらっしゃいます」といい、「わたくしは、すべてを知り尽くすつもりなのです!」と畳みかける場面は、第三幕への劇的な緊張を高める名場面だ。ポアロの台詞は、他人の秘密に踏み込む容赦のなさを湛えていると同時に、真相を隠す機能も果たしている。犯人の抱える秘密はその後の場面で明らかにされるが、さらに奥深い秘密があることは初見の観客には盲点になってしまうのだ。
原作の大きな改変点は、シェパード医師の姉を12歳年下の妹に設定していること。この設定変更により、ポワロの意外な行動が生まれ、結末の余韻を深いものにしている。
この改変について、クリスティー自身は、せんさく好きな気の強い、中年のカロラインが個性をもたぬ娘さんに変えられ、「これほどつらいことはなかったといっていい」(大久保康雄訳)と後年書いてはいるのだが。ミス・マープルの原型と認めている愛着あるキャラクターの変更は作者自身にすれば、承服できないものだったのかもしれない。
実際にポアロを演じたのは、名優チャールズ・ロートン。クリスティー原作の『情婦』にも出演し、カルト的名作『狩人の夜』の監督でもあった彼のポアロ姿を是非見てみたかった。
『アクロイド殺し』に関しては、事件の「本当の犯人」を指摘するピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』という作品があるが、演劇化も一つの作品を再解釈・再構築する試みには違いない。『アリバイ』は、よくできた劇化であり、名作に新たな照明を与えてくれる作品にもなっている。
■ノーマン・ベロウ『十一番目の災い』
最近では、『消えたボランド氏』(1954)が紹介されたノーマン・ベロウは、不可能犯罪派の雄。刊行は逆になったが、本作『十一番目の災い』は、『消えたボランド氏』の前作に当たる。
冒頭に密輸に関わる殺人は起きるものの、売り物の不可能犯罪がなかなか出てこない。物語も三分の二にさしかかるところで、ようやく密室からの消失事件が発生。
では、途中までの展開がつまらないかというと、そうでもない。
物語の軸になるのは、オーストラリア警察犯罪捜査局刑事ビル・ウェッソンと興信所所長ジミー・スプリング。二人は、冒頭の事件の謎を追って共闘することになる。
だが、筆の多くは、興信所の秘書17歳のマーリーンの住む下宿の住人の話に費やされている。この下宿の住人たちが面白い。マーリーンの叔母夫婦が切り盛りする下宿は、ナイトクラブダンサーや輸入会社社員、そしてラジオドラマの名優J・モンタギュー・ベルモアなど。『消えたボランド氏』を読んだ方なら、仕事に入れ込むあまり日常生活でもドラマ上の配役を演じる、この成りきり人間を覚えているだろう。『消えたボランド氏』では主役の探偵を務めていたが、本作では推理をするものの、サブ的存在。あまりに印象的な人物をつくり上げたために、次作で主役級に格上げしたというところだろうか。
マーリーンらは輸入会社社員との一夜のナイトクラブの冒険からマリファナ密売事件とそれに関わる殺人に巻き込まれていく。
ベロウは、イギリス出身ながらオーストラリアやニュージーランドに永らく在住した作家。本書も50年代のオーストラリアや舞台となるシドニーの風俗を外国人にガイドするかのように語り、時として「オーストラリアというのはイミテーションの国だ。アメリカが嫌いなくせに憧れずにいられない」というような文明批評が飛びだすところも魅力の一つだろう。
事件の構図は、最初の殺人を含め、麻薬密売組織の面々の会話によって物語の半ばで読者にはあっさり明かされてしまい、新たに、三分の二を過ぎたところで、刑事らが監視するナイトクラブから事件の重要容疑者が消失してしまうという謎がメインとなる。
残された衣服を着た女性が後に交通事故死するなど不可能犯罪の演出も悪くないのだが、事件の不可能性が強調されるほど、明敏な読者には真相の見当がついてしまうかもしれない。結末まで明かされないナイトクラブの真のオーナーの正体についても同様だろう。
全体としては、麻薬密売という現代の犯罪を本格ミステリに仕立てようとする意欲は買えるが、プロットは回り道が多くややごたついている。(その点は『消えたボランド氏』では解消している)でも、その回り道の細部や脇筋に味があるという、何だか困った作品だ。鼻っ柱の強いマーリーンに若いビル刑事が仕掛けた恋愛の行方が作品に花を添え、後味はいい。
■フランク・グルーバー『おしゃべり時計の秘密』
気軽に読めて、もてなしがいいが、常套じゃなく、きちんとした趣向がある。
論創海外ミステリでは、『はらぺこ犬の秘密』に続くジョニー・フレッチャー&サム・クラッグ物の第三弾となる『おしゃべり時計の秘密』、(1941/タイトル裏ページに1940と表記されているのは誤りと思われる) は、今回も快調。原著の刊行順では、『コルト拳銃の謎』(1941)に続く第5作目に当たる。
お話は冒頭から盛り沢山。時計会社の創業者で千の時計を収集する富豪には死期が迫っている。彼は、財産はすべて抵当に入っていることを告白し、最も価値あるおしゃべり時計を孫が盗んでいったことを家族に明かす。舞台は一転、ジョニーとサムはニューヨークから離れたミネソタ州で、苦境に陥っている。売るべき本が着払いになっていて払えず、素寒貧。そのまま浮浪罪で監獄に放り込まれる。そこで出会ったのが、例の富豪の孫。彼は、メモをサムに託すが、監獄の中で殺されてしまう。犯人となることを怖れた二人は逃走に次ぐ逃走、時には映画『ピノキオ』の宣伝のためピノキオに扮装し糊口をしのぐ…。
ここまでで、まだ全体の1/4にも達していない。何とかニューヨークにたどり着いた二人にふりかかる難題の数々。肉体改造本を印刷している友人の経済的危機、自らの一文無しをどう乗り切るかというサバイバル。それに、事件の謎解き。サムが、ジョニーの探偵癖さえなければ、と嘆く気持ちがよく判る。
本書の趣向は時計尽くし。富豪の数限りない時計コレクションに、経営する時計会社、邸宅にまで時計状に放射した道路がついている。1時間ごとに人形が出てきておしゃべりをする時計がすべての鍵を握っているのはいうまでもない。
一癖も二癖もある富豪の家族に加えて、私立探偵にギャングの親分、美女歌手も絡んできて事態は大混戦模様だが、ジョニーの頭脳は、最後にきっちり決着をつける。
おなじみのジョニー流錬金術はときに犯罪ぎりぎりで、四十五丁目ホテルのマネジャーを標的にした今回の背広発注も危なかしいのだが、一方で、時計は正当な持ち主に返還し、殺人の真犯人まで探そうとするジョニーの侠気にはそっと目頭を押さえざるをえない。
■ハーラン・エリスン『愛なんてセックスの書き間違い』
2016年の日本オリジナル短編集『死の鳥』のレビューでは、「アメリカSF界の生きる伝説」と書いているが、昨年向こう側へ旅立ち、「生きる」がとれてしまったハーラン・エリスン。時は去りゆく。
本書は、若島正氏が独自に編集したオリジナル短編集で、1950年代から60年代半ばころまでの非SF系の初期短編を集めたもの。(一編だけ70年代の作)
後年、MWA最優秀短編賞を2度も受賞した作家となれば、ミステリ方面の期待もできるわけで、実際、犯罪小説の範疇に含まれる作品も多い。
「第四戒なし」父親を殺すために4年も彷徨っているという少年に、流れ者の主人公は興味をもつが…。すべてが打ち砕かれるような真相と主人公の内省が深い余韻をもたらす。「ガキの遊びじゃない」非行少年vsエリザベス朝演劇学者。風変りな隣人物。「ラジオDJジャッキー」生放送中に音楽利権をめぐってギャングに脅かされるDJ。語りと音楽の間に事態が進行していく面白い構成で、ツイストが効いた結末が待っている。「クールに行こう」フリーの宣伝屋が落ちぶれたジャズピアニストを再起させるが。悪女ノワール風。宣伝屋の湧き出る言葉が、演奏の素晴しさ、事件の推移をクールに語る。「人殺しになった少年」15歳のポーランド系少年が銃を手に入れ自滅するまでをストレートに描いた非行少年物。
これらのクライムストーリーには異色作家短編集の手触りを感じさせるものもあり、ミステリファンも大いに愉しめると思うが、後年のエリスンの名作SF短編を感じさせるのは、それ以外の短編だろう。
「孤独痛」は放蕩生活を送る男の痛むような孤独を描いた一種の幻想小説。「ジェニーはおまえのものでもおれのものでもない」は、堕胎のため国境を超える男一人、女二人組の遭遇するカタストロフィを圧倒的筆致で綴る。メキシコのティファナの情景は、まるで別な惑星を訪れたような異世界ぶり。「盲鳥よ、盲鳥よ、近寄ってくるな!」は二次大戦を舞台に前線でドイツ兵と遭遇した米兵の物語。幼児期の暗闇恐怖から書き起こし、主人公を31歳にメタモルフォーゼさせるくだりなど、なんとも華麗な技巧。
自己戯画的な短編も。「パンキーとイェール大出の男たち」自らの才能に疑問を抱くベストセラー作家を編集者が連れ出した一夜の“人生の裏側”巡りはさながら地獄巡りの様相を呈す。「ジルチの女」は作家志望の男を主人公にしたメタポルノ。「教訓を呪い、知識を称える」中年の流行作家が18歳の娘との恋愛の顛末をノンシャランに喋り倒す。これだけ1976年の作。
手練れ的な短編からまだ見ぬ領域を描いた作品まで、助走期の作品ながら、全編初訳というのが不思議なほどクオリティが高い。
ここに収められた短編では、突発する暴力、商品化されるセックス、トラウマ、若者の反逆、キャンプ趣味といった時代の申し子的な部分と、孤独や愛の渇望といった普遍性が様々にぶつかり、せめぎあっている。リズミカルに噴出するような言葉、多様な修辞を用いた華麗な文体が、単なる意匠にとどまらず、そのきしみを十全に映し出しているのが今なお鮮烈だ。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |