やはり、本は読んでみないと判らない。
 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、本は読んでみよ、とつぶやきながら多少興奮気味なのは、イザベル・B・マイヤーズ『疑惑の銃声』(1934)を読んだからだ。読む前の期待値は高いものではなかった。けれど、これは、傑作とはいわないが、佳品以上といっていい。大げさにいえば、1930年代米国ミステリの秘宝といいたいくらいだ。最近、制作予算300万円という映画が口コミで広がって評判を呼んでいるが、事前に一切情報を入れない方が愉しめる。本書も内容に関する情報がないほうがより愉しめるのではないかと思われる。というわけで、この本に関しては、これくらいにしておこう。
 

■イザベル・B・マイヤーズ『疑惑の銃声』


 というわけにもいかないので、以下はまっさらな状態で読みたい方にはまったくの蛇足。
 イザベル・B・マイヤーズ。我が国でも、本国・米国でもほぼ忘れられたミステリ作家だろう。彼女がミステリ史に名をとどめるのは、エラリー・クイーンが初女作『ローマ帽子の謎』で応募した小説コンテストにおいて、クイーンの作品と争い、彼女の処女作『殺人者はまだ来ない』が一位の座を射止めたからだ。(本当は、クイーンの作品が入賞していたが、コンテスト主催雑誌の廃刊などにより変更されたという事情がある。本書『疑惑の銃声』『ローマ帽子の謎』を意識しているフシがあるのが面白い)
 『殺人者はまだ来ない』は、戦前にも井上良夫が誉め『トレント殺害事件』等のタイトルで邦訳され、1980年代には山村美紗訳が出ている。富豪の屋敷を舞台にした本格ミステリだが、禁じ手ともいえる趣向が出てくることもあってか、さしたる評判も聴かなかったように思う。クイーンの評伝を書いたネヴィンズは、「古色蒼然たる〈古い陰鬱な館でのメロドラマ〉」と切り捨てている。(個人的には、ドラマティックな場面が連続してかなり楽しめたが)
 マイヤーズの第二作で最後の作品になった本書は、前作と同様、劇作家のジャーニンガムと助手のマックのコンビが活躍する。
 銀行家ダーニールが愛用の銃で瀕死の重傷を負う。銀行家の息子スティーヴンは、ジャーニンガムに現場を見せ、「殺人に見せかけてほしい」という。奇妙な依頼の意味は何か? やがて銀行家は死に至り、続けて第二、第三の銃声が邸に鳴り響く。
 全編に悲劇のトーンが強い。銀行家には、息子スティーヴンのほかに、アンドレアという娘がおり、スティーヴンはシスリーという娘と、アンドレアは銀行幹部のグラントと結婚を控えている。本来幸福のさなかにあるはずの若者たちに災厄はじわじわと押し寄せていく。人物描写はさりげないが、朝食をつくり溌剌と振る舞っていたシスリーが事件の影響からスティーヴンを失う予感に震えるシーンは出色だ。第三部の終りのドラマティックな展開で物語は一挙に悲劇の度合いが増していく。
 ジャーニンガムは、謎を解くというよりも、ダーニール家の人々の陥った窮地から救うべく奔走するが、事態打開への扉は次々と閉まっていき、彼の苦悩はより深いものになる。
 そして、終章。一筋の手がかりからの反転が鮮やかで、一見迷走したようなこれまでの筋が一挙に輝き出す。悲しみと容赦なさに満ちた結語も決まっている。
 登場人物の言動には現代の感覚と相容れない部分があり、本国での再評価は難しいかもしれないが、この時代の限界と捉えるべきだろう。
 本書は、ヴァン・ダイン流の本格ミステリから抜け出した、ドラマ性豊かに展開する本格ミステリの可能性を感じさせるだけに、作者にはさらに書き続けて独自の境地を切り開いてもらいたかった、と残念に思うのだ。
 それにしても、本書解説に詳しいが、『殺人者はまだ来ない』の単行本において、その後の活動がまったく不明とされていたマイヤーズが心理学者として大きな功績を残し、専門書の邦訳も2冊ある大家になっていたとは、意外だった。
 

■フランク・グルーバー『はらぺこ犬の秘密』■

『はらぺこ犬の秘密』(1941)は、ジョニー・フレッチャー&サム・クラッグ物。論創海外ミステリでは、『噂のレコード原盤の秘密』に続く第二弾となる。
 この本については、〈訳者自身による新刊紹介〉 で白須清美&森沢くみ子の両氏が楽しく紹介してくださっている。
 編集担当者も初耳だったという本シリーズの全点刊行が、仁賀克雄氏の恩義に応えるために、実現の運びに至るという。論創社も太っ腹だ。続刊を楽しみに待ちたい
 本書は、シリーズ3作目。ジョニーとサム、今日も今日とて、実演販売でインチキな肉体改造本を売りつけていると、体力担当サムのところに、彼の裕福な伯父が死んで遺産が転がり込んでくるというおいしい話。二人は、さっそくセントルイスに向かうが、伯父の大邸宅では200頭のセントバーナード犬を飼っており、様々な金銭トラブルが待ち構えていた。さらに、伯父は殺害の死は殺人だったことも知らされる。
『噂のレコード原盤の秘密』でもそうだったが、やはり犯人探しより面白いかもしれないのが、頭脳担当ジョニーの金銭トラブル対処術。不動産には抵当が設定されており、現金はほぼない。犬の餌代の借金が膨大に貯まっており、餌はほぼ尽きている。そこへ32000ドルの取り立て屋も登場。このお金がない状態からのサバイバルも本書のお楽しみだ。そして当然のごとく、再び殺人が。
 競馬場での錬金術やピンボールのシーンもあり、見所も豊富。魅力的美女とジョニーのラブアフェアもある。軽妙な会話に地の文の洒脱(「マーチン・ファラデーは、タンポポの花束を手渡す六歳の子供に見せるような表情をジョニーに向けた」)はいつもどおり。
莫大な遺産を相続したはずのサムとジョニーの貧乏生活は終わりを告げるのか、200匹の犬の運命は? そして犯人は誰か? 物語を駆動させていくエンジンをいくつも搭載した語りは今回も快調だ。
 

■ジム・トンプスン『犯罪者』■


 順調に巻を重ねている文遊社のジム・トンプスン本邦初訳長編。苛酷な労働現場を舞台にした暗黒青春物、アルコール依存症治療施設の群像劇、人間関係が絡み合った海辺の犯罪譚までその題材の幅の広さは驚きだが、今回紹介される『犯罪者』(1953)は、スモールタウンでの少女強姦殺人を扱った小品。
 この作品が刊行された1953年には、『ドクター・マーフィー』『残酷な夜(サヴェッジ・ナイト)』、本書を含め5作品(同様に、1954年にも5作品)が上梓されている。もっとも多産な時期の作品。
 主要人物の一人称の語りが交代していくという面では、『殺意』(1957)の先駆的作品でもあるが、一人が二章にわたって語り手をつとめるところもあるから、『殺意』ほど厳密化されたものではない。
 14歳の少女が殺害された事件で近隣に住む15歳の少年が拘留される。少年は幼ななじみである少女との交渉については認めるが、殺害は否定。少年が犯人である明白な証拠はなく、釈放は間近と思われたが、新聞がスキャンダラスな報道を仕掛けたことによって、捜査に影響が及びはじめる。
 語り手は、少年の父、母、少年、新聞社の主筆、記者、地区検事…というように遷移していく。現状にうまく適合している人間は誰もいない。誰もが不満を持ち、悩みをかかえ、怖れを抱き、孤独で他者を理解しえない。饒舌で細部の面白さに富んだ語りの総和からは、事件を売上げ増に結びつけようとする新聞社、新聞社への恨みからスキャンダラスな記事を書く記者、報道を気にして少年の自白の獲得に向かう捜査機構…こうした負の歯車の連鎖により、罪がつくられていく構図が浮かび上がってくる。
 多少なりとも好感をもてる人物は、海千山千の弁護士コスメイヤーだろう。『殺意』では最初の語り手だった彼は、身長5フィート、物真似がうまいユダヤ人弁護士。訳者あとがきによれば、『深夜のベルボーイ』ほか未訳の2長編などにも登場するという。依頼人への金の請求には厳しく、警察に内通者を置くなど手段もいとわないが、容疑者を解放することにかけてはプロフェッショナルな存在だ。彼は少年の釈放のために手を尽くす。少年のアリバイを得るために、黒人家族を訪れるシーン(こどもの語りは苦心の訳業)には、自らの出自を気にし、家族の生活を気にかける人間らしさがにじんでいる。
ただし、この小説は、一見、少年犯罪の冤罪事件とその結末を描いているようでいて、実は思った方向には進まない。真相が探究されるわけでもなく、不公正な社会を正面から告発する方向にもいかない。まるで、トンプスンは何通りかの結末を考え、もっともそれらしくない結末を与えたかのようなのだ。普通のミステリであることを拒み、小説は何かのタイプとして分類され、理解されなければならないといった思考のルーティンそのものを拒んでいるかのようだ。
  
 トンプスンがこの小説で扱っているのは、普通の人間がある日突然周囲により犯罪者にされてしまう、人知を超えた不条理な世界だ。
 ある登場人物はこういう。「ひどいことじゃない? いつもと同じ人間なのに、前と同じ人間なのに、急にそれじゃ駄目だってなるの。悪いってことになるの(中略)そのことで罰を受ける……永遠に罰を受けるのよ」(この台詞自体が深刻なディスコミュニケーションをはらんでいることはすぐに判明するのだが、それは少年に起きていることは誰にでも起こることを意味する) 
 永遠の罰というからには、そこには「神」の存在を想定せざるを得ない。
 さきに、「もっともそれらしくない結末」と書いたが、終幕に至って、物語の背景にいる、すべてを知り絶大な力をふるうスモールタウンの「神」的人間が再登場するのは、こうしてみると、小説内部の必然性があるのかもしれない。そして、トンプスンの世界では、その神ですら地獄の熱さで焼かれていることが暗示されているのだ。

 2017年12月の当欄ロナルド・A・ノックス『三つの栓』の項に、『三つの栓』の別題として『密室の魔術師』と記述していますが、読者の方から『密室の百万長者』の誤りである旨ご指摘を受けました。ご指摘のとおりですので、お詫びして訂正させていただきます。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita




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