60年代半ばに『黄金の七人』というイタリア映画があった。綿密な計画の下、名うての大泥棒である七人の男女がチームで黄金を狙う犯罪コメディ。60年代的にお洒落で華やかな雰囲気をみなぎらせていたが、そのシャバダバ音楽とも相まって、後年、再評価されたのも理由なきことではない。

 今回は、クラシックミステリ的にビッグネームが揃った。名付けて新・黄金の七人。一部妄想を交えつつ個性豊かな各メンバーを紹介とともに、彼らの新着のたくらみにご案内する。

 ニューヨーク出身、ソルボンヌ大学卒業。国際派、知性派の眼鏡美女(眼鏡は妄想)。心理学に造型が深く、幻視能力ももつという。

 ヘレン・マクロイ 『ささやく真実』(1941) 。

 マクロイ作品の発掘が急ピッチで進んでいる。『二人のウィリング』に続き、今年2冊目の本書は、ベイジル・ウィリング博士シリーズの第3作目。ごく限られた登場人物の中で殺人事件の犯人を捜すストレートな謎解き物だ。といっても、マクロイらしさは、この初期作にも刻印されている。

 悪趣味ないたずらで騒動をもたらす美女クローディアは、強力な自白作用をもつ新薬を入手。彼女は自宅で催したパーティで飲み物に新薬を混入し、その夜を大暴露大会に代えてしまうが、悪ふざけが過ぎたのか彼女は何者かに殺されてしまう……。

 『死の舞踏』では、新型のダイエット薬というのが出てきたが、本書でのフックの役割を果たすのは、自白薬。スコポラミンという自白薬は現存するが、本書では意識混濁を招くという欠点を克服した新薬という設定だ。クローディアを取り巻く元夫婦、会社経営者ら一筋縄でいかない人間関係の中に「真実の血清」を投げ込んだときに、何が起きるかという一種の思考実験のようでもある。というように、本書の表のモチーフは、「真実」なのだが、ある医学的知識を事件の裏地として使っているのも、マクロイらしい。例によって文学趣味も豊富で視野が広く、謎解きの鍵は、大胆すぎるのも含めて、ちりばめられている。欲をいえば、「真実」という表のモチーフと謎解きが呼応しあうようなふくらみが欲しかったところだが、それは『暗い鏡の中に』『逃げる幻』といった後年の作品を待たねばならなかったというところか。

 ウィリング博士の調査は、例によって俗物たちの心理に切り込んでいくが、それは殺されたクローディアの過去の探索にも及び、彼女の悪意の動機は物悲しい。後年の作のアイデアを思わせる一節もあるので、この面からも見逃せない作。

 それにしても、海辺のコテイジから水上飛行機でニューヨークに出勤するウィリング博士、かっこ良すぎるぞ。

 放浪癖があるのか世界各地を転々とし、職業も次々と変えるエキセントリックな人物。周囲を驚かす創意と手練のテクニックには定評がある。

 レオ・ブルース 『ハイキャッスル屋敷の死』(58) 。

 レオ・ブルースも、関係者の尽力で刊行が進んでいる一人。英国本格ミステリを語る上で欠かせない作家の一人だろう。本書は、歴史教師キャロラス・ディーン物の第5作。邦訳のあるものの中では、『ミンコット荘に死す』(1956)と『ジャックは絞首台に!』(1960)の間の作に当たる。『ささやく真実』は、絵解きの場面での参加者は数名だったが、こちらの場面では、使用人も含めて無慮20名を超える人物が集う。解決編が40頁に及び、ディーンが「13の条件」を提示して犯人を指摘するという大謎解き絵巻で、発想の質においてクリスティに近いとされるブルースだが、本作はクイーン作品すら思わせる。

 ディーンはゴリンジャー校長直々に捜査の要請を受ける。貴族のロード・ペンジが謎の脅迫者に狙われているというのだ。数日後、ペンジの住むハイキャッスル屋敷で主人のオーヴァーを着て森を歩いていた秘書が射殺される。不承不承、現地の屋敷に赴いたディーンが見出したものは。

 これといった捜査手段をもたず、現地の警察からも疎んじられているディーンは、屋敷の中をインタビューして歩くことになるが、これが非常に民主的というか、ペンジの家族のみならず、屋敷の従僕や家政婦らに分け隔てなく接するし、こうした使用人のキャラクターもくっきり書き分けられている。家族らが皆感じがよく、これといった悪意のありそうな人物も見当たらないのが、かえって定石破りだ。 

 本書に特徴的なのは、全体の半ばを過ぎた辺りで、ディーンが犯人の正体を突き止めたと公言してしまう点で、読者としては、もどかしくてしかたがない。これが単に読者をじらすテクニックとして使われているのではなく、謎解きの構造や物語の組立ての面からも、意味ある遅延になっているところが本書の大きな面目だ。他のシリーズ作に比べ、ユーモアは控え目だが、その理由も、真相解明で明らかにされるディーンの苦悩によって納得させられる。

 解決は、犯人を指し示す「13の条件」に決定打が欠けている点がやや惜しいが、解決は、意外性を原理的に追求したこの作者らしいものだ。混じり気なし、すべてが結末に向けて奉仕していく純度の高い本格ミステリであり、その厚みのある謎解きはファンを堪能させるだろう。

 一見英国紳士だが、暗黒街のあれやこれに精通。交友範囲が広い座談の名手で、ハリウッドでは巨大ゴリラも巧みに扱う。

 エドガー・ウォーレス『J・G・リーダー氏の心』(1925) 。

「ウォーレス風」というのが一つの代名詞になっている20世紀前半の犯罪スリラーの巨匠で、最近では、

『淑女怪盗ジェーンの冒険』『真紅の輪』が紹介されているが、本作は、ウォーレスの作品集の中では最も高く評価されており、ミステリ短編集の殿堂『クイーンの定員』にも選出されている。8編収録。

 主人公J・G・リーダー氏のキャラクターが実にユニーク。馬面に白髪交じりの頬髯、飛び出した耳をもつ貧相な男。叱責されれば泣き出してしまいそうな物腰。山高帽に黒いフロックコート、いつもずり落ちた金縁の眼鏡。常に雨傘を持ち歩いているが使用しているのを見た人はいない。52歳独身。とまあ、ブラウン神父を思わせなくもないリーダー氏だが、実は、鋼鉄の刃を忍ばせている彼の傘同様、銀行強盗や贋金づくりに対するのっぴきならない知識と推理力を発揮する探偵なのだ。

 本書は、フリーランサーだったリーダー氏が公訴局長事務所の役人として勤務することになってからの一連の事件を扱っている。劈頭を飾る「詩的な警官」に、まず驚かされる。単純な銀行強盗殺人と思える事件だったが、リーダー氏は、一見無関係で些細な事実を関係づけて、まったく意想外の構図を明らかにする。「宝さがし」も同様で、複線で進行する話がいつの間にか交わり、ブラウン神父譚のような魔術的な展開がある。さらに、「大理石泥棒」は、大理石の塊を集める女という奇妙な挿話が、結末で犯人の凶悪すぎるたくらみに結びつく秀作だ。このままいけば、傑作パズラー短編集になったと思われるが、さすがに謎解きのテンションは持続せず、それはそれで面白いものの、リーダー氏がヒーローとして立ち回りをみせる短編が多くなる。

 リーダー氏は自ら「犯罪者の心を持っている」といい、その経歴にもほの暗い影があるのもシリーズの特徴の一つ。「緑の毒ヘビ」事件では、温和な毒ヘビと称される氏の冷酷な一面も明らかにされる。

 しかし、そんなリーダー氏にも春の訪れか、「大理石泥棒」事件で、知り合った若い娘マーガレットとの交際が始まる。(訳者あとがきに「頑張れ、じいさん!」とあるが、52歳でじいさん呼ばわりはお気の毒) 淡いロマンスの行方も作品集を通じてのお楽しみだ。

 田園生活になじんだ温顔なご婦人で編み物が似合いそうだが、実はあらゆる業界事情に通暁した自由な女性。中年の色気みたいなものが感じられる(乱歩談)。

 マージェリー・アリンガム 『幻の屋敷 キャンピオン氏の事件簿II』

 優雅な社交家にして名うての素人探偵アルバート・キャンピオン氏の『窓辺の老人』に続く事件簿。30年代から50年代の短編が時代順に並べられている。

 相変わらず、キャンピオン氏は社交家ぶりを発揮し、広い交友関係から情報を拾い集め、友人のオーツ警視らを驚かせる推理を連発する。

 キャンピオン物短編の魅力は、tale(お話) の魅力だろう。そこでは、帽子のミニチュアをみせるだけでレストランの料金が無料になってしまったり(「魔法の帽子」)、火星からやってきた男たちを見たという老人が現れたり(「奇人横丁の怪事件」)。屋敷が消える(「幻の屋敷」)、監視された部屋での殺人(「見えないドア」)といった不可能犯罪物に分類される短編も、そうした不思議なtaleの魅力を思い起こさせる。市井の奇譚を拾い上げ、盲点を突く解決を示す作者は、世情に長け、人の情に通じている。この温雅で澄んだ作品世界の魅力がつまった短編集。

 ここに挙げた短編はもちろん、骨太の謎解き小説「ある朝、絞首台に」、個性的な事件関係者の視点から綴られた面子めんつの問題」、犬が年に一回話せる奇跡を描いたクリスマス・ストーリー「聖夜の言葉」など、一編一編に工夫も怠りない。

 エッセイ「年老いてきた探偵をどうすべきか」で、キャンピオン氏が作者の手を握っても「もうわたしの胸はきゅんとうずくことはなかった」というくだりには、クスっとしてしまう。やはり、女性ミステリ作家は、作中の探偵と恋に落ちる傾向があるのかな。予期せぬ『III』も予定されているということで、こちらも愉しみ。

 四人の子育てに奮闘中の眼鏡ママ(眼鏡は本当)だが、舌鋒鋭く、人の心を見抜く達人。ずっとお城で暮らしているという噂あり。

 シャーリイ・ジャクスン『絞首人』(1951) 。

どうやら本格的なシャーリイ・ジャクスンのリバイバルが到来したらしい。この1年で、初邦訳作が、短編集『なんでもない一日』『日時計』に続き、3冊目だ。訳者あとがきによれば、この小説は、現実に起きた女子学生の失踪事件をモデルにしているという。1946年ヴァーモント州の女子大(当時)の学生ポーラ・ジーン・ウェルデン18歳が森にハイキングに出かけたままふっつり消息を絶つという事件が起き、生死不明のまま未解決事件になっている。この事件に触発されて書かれたのが、ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』(1952)であり、もう一つが、この『絞首人』ということだ。といっても、本書は捜査小説ではなく、幻想的要素も持ったストレートノベルに近い。ウォーの作品が、捜査という外側から真実に近づこうとしたのに対し、本書は失踪少女の内面に切り込んでいった小説といえようか。『なんでもない一日』にも、「行方不明の少女」という事件を淡々と扱った失踪少女の短編があったのも想い起こされる。

 中流家庭に育った17歳のナタリーは、それまで育った家を離れ、こじんまりした女子大に進学する。豊かすぎる感受性ゆえ、周囲の学生ともなじめず、プライベートは独り、寮の自室に引きこもっている。そんなある日、彼女に転機らしきものが訪れるが、事態は悪い方へと転がっていく。

 ナタリーが育った家庭は中流の家庭だが、ナタリーの父は文芸評論家で、ナタリーは文章修行をさせられている。母は、生活能力のない父に、結婚を悔いている。両親は、ナタリーにとって、煩わしい桎梏でもあるが、情愛を注いでくれる唯一の存在でもある。そのアンビバレンツを生きなければならないナタリーは、多かれ少なかれ、我々の似姿でもある。その上に、ナタリーは文芸修行により人一倍感受性が鋭く、幻聴も度々起きる。人と打ち解けることができない。自分宛てに手紙を書く。ときに、自らの才能に酔う野心家であり、ときに絶望の谷に落ちる。常に死ぬことを考えている。本書は、そんな多感な少女の内面の振幅を、周囲の人々への怜悧な観察を交え、余すところなく描いている。その少女の姿には、失踪事件の再現というよりは、少女時代のジャクスンの内面が反映されているように思われる。

 ここまでなら、少女の心理を端正に描いた小説だが、ある事件を契機に、ナタリーは自らの鏡像めいた友人と小旅行に出る。この部分の描写が、それ自体幻想であるような、浮遊感覚漂うものであり、後の作品に通じるものを思わせる。作者としては、シュールレアリズム的な技法をことさらに使ったわけではないだろう。ナタリーが出会う異景が、彼女の内面を裏返したらこうなるといった、心理と地続きになっているところが、作者の持ち味でもある。その世界で、彼女は「ただ一人の相手……ただ一人の敵」を自覚する。結末のつけ方には、いささか戸惑いも憶えるが、それがハッピーエンドでないことは明らかだ。

 数々の伝説に彩られた斯界の暴れん坊将軍。身長は低いが、五度結婚。「ハリウッドのもっとも好ましい独身男性四人」に選ばれたこともある。危険なヴィジョンの持主。

 ハーラン・エリスン『死の鳥』

 ハーラン・エリスンは、アメリカSF界の生きる伝説。ミステリファンには、アシモフ『ABAの殺人』の主人公のモデルといったほうがとおりがいいだろうか。このSF作家の日本オリジナル短編集を取り上げるのは、ほかでもない。MWA最優秀短編賞受賞作が二本も含まれているからだ。

 「鞭打たれた犬たちのうめき」(1974年受賞作)は、それまでの受賞作とまったく相貌の異なる作品で、時を置かずに紹介された邦訳(1974)も衝撃的だった。MWA賞をこの作品に授けるのは、選考委員たちにとっても賭けだったに違いない。フォーミュラ・ノベル〜約束のある形式の小説、ミステリを狂気と猥雑さが充満するNYのストリートのど真ん中に放り込んでしまったからだ。炸裂する暴力と性、殺されていく人間をただ見つめる無関心、孤独とディスコミニュケーションの支配する街に、新たなる神が顕現する…。今なお、そのヴィジョンの強烈さに目も眩む。これに比べれば、1988年受賞作「ソフト・モンキー」は、ミステリ雑誌に掲載されたもので、まだ、まろやかだ。ギャングから逃走し、奮戦するバッグ・レディ(女性浮浪者)の姿には、ユーモアすら漂うが、暴力描写は凄まじく、最底辺の眼から大都市の苛烈な現実を描き出していることには変わりない。

 他の収録作は、すべてがヒューゴー賞受賞などSF短編の名作揃いであり、奇抜で破格の構成、華麗なる比喩と語彙が乱舞する文体、権威の虚飾をはぎとる怒りにも似たまなざしを共有している。ミステリファンにとっては、時を往還する切り裂きジャックを描く「世界の縁にたつ都市をさまよう者」、複雑な構成で鮮やかな収束に着地する「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」なども必殺の一撃だ。

 この種のメンバーには、誰も知らない人が紛れ込んでいるのが通例だが、今回の七人では、さしずめこのご婦人。皆に愛想のいいこの女性はいったい誰?

 ヘレン・ウェルズ『エアポート危機一髪 ヴィッキー・バーの事件簿』(1953)。

 ヘレン・ウェルズは、少年少女向けのミステリ・シリーズで有名なアメリカの作家。中でも、スチュワーデスを主人公としたヴィッキー・バーと看護婦チェリー・エイムズが活躍する二つのシリーズがよく知られているとのこと。ヴィッキーのシリーズは少年少女向けに4冊ほど邦訳があるようだが、本編は本邦初公開のシリーズ8作目。

 好奇心が強くいつも溌剌としたスチュワーデス、ヴィッキーは、ふだんはニューヨークで暮らしているのだが、今回は、イリノイ州の実家の小さな町で事件に遭遇する。飛行機操縦の免許をとるため、パイロットが経営する貧乏飛行場に通ううちに、飛行場の利権にまつわる陰謀が浮上してくる。ヴィッキーが次第に陰謀を明らかにしていく過程が中心で、謎解き的にはこれといった綾はあまりないのだが、免許を取るためのヴィッキーの悪戦苦闘と空を飛ぶ歓び、貧乏飛行場を盛り立てるための試行錯誤、妹の高校生ジニーら家族との絆がほどよく盛り込まれているし、利権にまつわる陰謀も少年少女向けと思えないほど当時の社会相を反映している。実在した、飛行機操縦を楽しむ女性の集まり「全米女性パイロット協会」のメンバーが登場するなど、登場人物は飛行機好きの人ばかり。航空ファンにも手に取ってほしい一冊。

 さて、個性豊かな黄金の七人が何を企んでいるかって?

 あなたの時間と財布を狙っています。(それは、版元)

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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