前編「巷に霜の降るごとく」

 2月25日、土曜日。第2回名古屋読書会当日。

 まるで当日の名古屋の空さながらに、幹事の大矢の心は曇っていた。

 有能なスタッフたちの獅子奮迅の活躍で素晴らしいレジュメが完成してるし、二次会のセッティングもばっちりだし、経理事務専門OLが会計をやってくれるし、ケータリングのコーヒーは15分前に届くしで準備は万端。参加者は続々と集い、東京から越前敏弥氏と芹澤恵氏も到着した。皆で手分けしてコーヒーやお菓子(コーヒーにお菓子がつくのは名古屋のデフォルト!)を配ったあと、12名ずつ2グループに分かれて着席し読書会の開始を今か今かと待っている。

 だが、しかし。実は事ここに至っても、幹事の心の中には一片の不安があったのである。

 課題図書は本当に『クリスマスのフロスト』で良かったんだろうか。

 だってさ、女性が多いのよ。全参加者24名中17名が女性なのよ。確かにフロストはおもしろい。そりゃもうどえりゃあおもしろい。しかしなんつーか、まあ、ぶっちゃけ下品でございましょ? ちょっと日常会話では口にしないような直接的な単語がたくさん出てきますでしょ? 事件も児童誘拐だのレイプだのでございましょ? たとえどんなに面白かろうと、保守的な名古屋の奥様お嬢様たちがあの小説について具体的な感想を述べるというのはやはり抵抗があって当然で、感想を言いたくても恥ずかしくて口を開けず、きっと沈黙が続──

 「ねえ、イギリスのカンチョーって指は何本使うの?」

 おおおおお奥様? いきなり何をおっしゃっておいでで? ああっ、しかも奥様方がこぞってご自分の白魚のような手で例のポーズをなさって……奥様いけません、いけませんてば!

 「レジュメに原文が載ってるけど、stubby finger って単数でしょ? ってことは片手しか使わないってこと?」「太くて短い指ってあるから親指かと思ったんだけど」「親指ならthumbでしょ。fingerだから他の指だよ」「どの指だろう」「人差し指?」「でも1本だけだと突き指したり骨折したりしそうだよね」「え?」「え?」「日本式なら手を合わせることで強度が増すのに、片手だとねえ」「それに指1本だとホントに入っちゃったりするよね」「え?」「え?」「え?」「芹澤さん、知り合いのイギリス人に訊ねたって書いてらっしゃいますけど、実演はして貰わなかったんですか」「あ、してないです…」「実演さえしとけばどの指かも分かったのに!」

 かつて「カンチョーの実演を受けなかった」というだけでこれほどまでに責められた翻訳者がいたろうか。

 「娼婦が1回30ポンドって安すぎない?」

 おおおおお嬢様、嫁入り前の娘さんが何てことを! しかも「安すぎない?」って何ですかお嬢様は相場をご存知ということですか。お嬢様はアホでいらっしゃいますか?

 「ポンドのレートがよくわからないんだけど」「この当時だと1ポンド300円かな」「じゃあ1回9千円?!」「安っ!」「安っ!」「安っ!」「でもこの人んちって調度品も上等で、けっこう儲けてるっぽいよね」「固定客がたくさんいるってことかなあ」「クライヴのスーツが100ポンドがそこらして、高いって書いてる」「それ考えても1回30ポンドは破格だよねえ」「よほど数をこなさないとねえ」

 保守的な名古屋の奥様&お嬢様、存外フリーダム。

 下品な言葉は口にしづらかろうと、ここはやはり「警察小説」「モジュラー型」というあたりで議論を進めるべきだろうと、比較対象としては87分署かしらダルジール警視かしらギデオンは古過ぎるかしらといろいろ用意していたあたしの立ち場は。あたしの努力は。

 A・Bの2チームに分けてそれぞれにホワイトボードを用意し、出た意見をあとで突き合わせられるよう司会者がどんどんボードに書いて行くという手法をとったのだが、Aチームのボードには「日英でカンチョーの形が違う」、Bチームには「dickprintをどう訳すか?→○○紋とか○○紋とか」というフレーズが……。い、いや、いいんですけどね……。

 「dickprintって科学捜査の手法としてホントにあるんですか?」

 んなワケねーだろっ! ナニを、いや、何をどうやってどうすればそんなプリントがとれるというのか。仮にとれたとして、それをどうするというのか。てかそんなプリントが残ってる現場って何だよ!

 「魚拓みたいな?」

 もういいっ! キサマら黙れっ!

 あ、ちなみにdickprintのくだりは『クリスマスのフロスト』ではなく別の巻の話なので、これから続刊を読む人は探してみてください。これは名訳です。しかし女性翻訳者の名訳の例としてdickprintが挙がるって、それはどうなの? いいの?

 もちろんカンチョーとdickと娼婦の相場だけで話が終わったわけではない。ちゃんとした(?)意見交換もたくさんなされたので、それは後編で。ほ、ほんとに真面目にやったんだからねっ!

大矢博子(おおや ひろこ)。書評家。著書にドラゴンズ&リハビリエッセイ『脳天気にもホドがある。』(東洋経済新報社)、共著で『よりぬき読書相談室』シリーズ(本の雑誌社)などがある。大分県出身、名古屋市在住。現在CBCラジオで本の紹介コーナーに出演中。ツイッターアカウントは @ohyeah1101