本年度のアカデミー賞で6部門(主演女優・助演女優・作曲・脚色・撮影・衣装デザイン)にノミネートされて話題となったのが、トッド・ヘインズ監督(「エデンより彼方へ(Far From Heaven)」〔2002年〕など)による映画『キャロル』。結果的には6部門とも惜しくも受賞にはいたらなかったのだけれど、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラのダブル主演(と言っていいでしょう)で、女性の同性愛者同士の恋愛を真っ向から描いた作品ということもあって注目を集めた。

 そして、なぜにミステリーについてのこの連載で恋愛小説を、ということになるんだけど、映画の原作となったのがかのパトリシア・ハイスミスの作品で、クレア・モーガンという別名義で発表した『キャロルCarol)』(1952年、The Price of Salt を改題)だから、なのであります。そう、名匠アルフレッド・ヒッチコック監督によって映画化されたデビュー作にしてすでに名作となった『見知らぬ乗客Strangers on a Train)』(1950年)に次いで発表され、次作『妻を殺したかった男The Blunderer)』(1954年)の前に刊行された、長篇小説の第2作ということになる。そもそもトレヴェニアンの自伝的小説『パールストリートのクレイジー女たち』もすでに取り上げちゃっているということで、お許しを。

 物語のあらすじは、いたってシンプルなものだが、ハイスミス本人によるあとがきにもあるように、作品発表当時の世相を鑑みると、かなり挑戦的な内容だ。LGBT(性的少数者——レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)というものがまだまだ理解されていなかった当時には、そうした題材を取り上げた小説や映画やドラマは、概して悲惨な結末を迎えるものと相場が決まっていた。ところが、この作品にはハッピーエンドと言っていいラストが用意されていたからだ。そうした性向の人々も含めて絶賛を博し、別名義ながら第2作もまた100万部を超えるベストセラーとなったわけである。

 幕開けは1950年代のニューヨーク。高級百貨店で玩具売り場のアルバイト販売員として働きながら、舞台美術の仕事に就くことを夢見ている(映画では写真家志望)21歳のテレーズがヒロイン。家庭に恵まれず施設出身の彼女にとって親しい人間はほとんどいなくて、身体の関係は許しながらもいまひとつステディな恋人として見ることができないリチャードという画家志望のボーイフレンドと、彼の友人たちだけが彼女の交友関係のすべてだった。

 そんなテレーズに運命を一変させる瞬間が訪れることになるのは、クリスマスを間近にひかえたある日。プレゼント商戦でにぎわう売り場に忽然と現れた女性に、テレーズは目を奪われてしまう。一目で上流階級とわかる毛皮のコートを着たグレイの瞳のブロンド美女。しばし互いに見つめ合ったその女性がキャロルだった。彼女の無理をきき、ショーウィンドウのなかのディスプレイ用のスーツケースと人形を売ったテレーズは、配送伝票の住所をひそかに憶えてしまう。

 一度会ってわずかなか言葉を交わしただけのキャロルのことが頭から離れないテレーズ。衝動を抑えられずに彼女宛にクリスマスカードを送ると、しばらくしてキャロルからその御礼の電話が売り場にかかってくる。お返しに昼食をご馳走したいというキャロル。このあたり、支払い時に名前やクレジットカード記録をチェックするキャロライン・ケプネス『YOU』の書店員ばりにストーカーっぽいのだが、テレーズはますますキャロルにのめり込んでいく。

 キャロルには離婚の危機にあるハージという夫がいて、娘の親権をめぐって争っている最中。さらに10歳の頃からの幼なじみだという親友アビーがいて、どうやら彼女との間には何か特別な関係があったようなのだ。

 プライベートに謎めいた部分を残しながら、キャロルもまたテレーズに特別の眼差しを送るようになり、アメリカを縦断する旅へと彼女を誘い出すことになる。が、二人だけの自由気ままで愉しい旅行に、やがて不穏な影が投げかけられる。キャロルの言動に疑いを抱くハージが私立探偵に彼女らを尾行させていたのだ。同性愛という当時の禁忌を楯に、親権を有利に手に入れようというのだった。

 旅先での盗聴記録によって公にされたくない秘密を握られてしまったキャロルは、苦渋の果てにテレーズのもとから立ち去ることを選択する——。

 あとがきによると、キャロルとテレーズとの出会いのシーンはほぼ実話だそうで、そのたった一度の出会いの体験だけで、ハイスミスはこの作品のプロットをほぼ一晩で書き上げ、その直後、水疱瘡による高熱を発症し寝込んでしまったという。映画では、クリスマスカードを送りつけるのではなく、キャロルが売り場に忘れていった手袋を送ってあげるという、もう少し控えめで説得力のある穏やかなエピソードに代えられていたけれど、それは、ハイスミス自身が出会った謎の美女が手袋を片手に軽く叩きつけていたという実話を、忠実に再現しようとしたからに他ならないだろう。

 ミステリー読者ならばご存知だろうけれど、『太陽がいっぱいThe Talented Mr. Ripley)』(1955年)が、1960年にアラン・ドロン主演で名匠ルネ・クレマン監督によって映画化されたのがきっかけとなってか、ハイスミスが書き継ぐことになったリプリーものは、『贋作Ripley Under Ground)』(1970年)、『アメリカの友人Ripley’s Game)』(1974年)、『リプリーをまねた少年The Boy Who Followed Mr. Ripley)』(1980年)、『死者と踊るリプリーRipley Under Water)』(1991年)と5作ものシリーズ作品になった。シリーズの主人公となったトム・リプリーは、ある種のソシオパス(社会病質者)。リプリーの持つ独特の歪んだ視線は、物語に独特の不穏感を醸すわけだけれど、『キャロル』が孕んでいる空気もまた、テレーズという若い女性特有のある種歪んだ視線が見た世界観に彩られていて、そこにはたんなる恋愛小説と一線を画するものが存在している。それは、ハイスミスのがハーパース・バザー誌に発表した最初の短篇「ヒロイン(Heroin)」(『11の物語Eleven)』〔1970年〕所収)の主人公である年若い家政婦と通ずるものでもあるだろう。愛する雇い主の家族にその仕事ぶりを認めてもらいたいあまりに、とんでもない悲劇を引き起こしてしまうあの妄想癖と、である。

 さてさて、本題。この小説では、ハイスミスらしからぬというか、ひょっとしたら彼女が若かったからこそなのか、ロマンティックな音楽が重要な役割を果たしている。ラルフ・レインジャー作曲、レオ・ロビン作詞による「イージー・リビング(Easy Living)」である。

 オリジナルは、『ローラLaura)』(1940年)で知られるヴェラ・キャスパリ原作、ミッチェル・ライゼン監督、ジーン・アーサー主演による同名のコメディ映画(1937年、邦題は『街は春風』)のために書かれたインストゥルメンタル曲だったのだけれど、その後、感傷的ながら情熱的な歌詞がつけられた。テディ・ウィルソン楽団の演奏をバックに歌い上げるビリー・ホリデイの歌唱(1947年)が発表されるや一躍人気を博し、のちに数々のシンガーにとりあげられるスタンダード・ナンバーに。ペギー・リーの名盤『ブラック・コーヒー(Black Coffee with Peggy Lee)』(1953年)収録のカヴァーを始め、エラ・フィッツジェラルド、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロス、ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーやらアート・ガーファンクルやら、ボズ・スキャッグスまでも、こぞってこの名曲を取り上げているのだ。

 あなたに尽くすことこそが私にとって気ままな暮らしなのだと、いささか屈折した愛の歌で、小説では、キャロルの屋敷に招かれたテレーズが、蓄音機から流れてくるラヴソングの歌詞に一目惚れならぬ一耳惚れしてしまう。それは、キャロルに心奪われている自分の心情と重ね合わせてのこと。テレーズに何という曲なのかと訊ね、もう一度かけてほしいとねだる。

 ところが映画では、キャロル宅のピアノを戯れに弾くテレーズがこのメロディを奏でる。つまり、最初からテレーズのお気に入りの歌という脚色がなされていて、後日、この曲が収録されたテディ・ウィルソン&ビリー・ホリデイの10インチEP(1949年版)をキャロルにプレゼントする場面もある。どころか、旅行先の二人きりの部屋でじゃれ合いながら、何度もこのレコードをかけるシーンもある。映像化スタッフもまた、この作品で「イージー・リビング」が果たしている役割の重要性を感じ取ったのかもしれない。とりわけ、1950年代当時が舞台ということもあって、そのEP盤もどこで入手したのか極美の状態(ミント・コンディション)のものを撮影に用意しているところに、映画スタッフの意気込みが感じられた(ちなみに、クリフォード・ブラウン・セクステットによるブルーノートでの同曲演奏の名演、10インチEP盤『New Star on the Horizon』〔1953年〕は再発売された)。オリジナル・サウンドトラック盤には、まさにそのEP盤の音源が収録されている。ちなみに小説では、テレーズはドメニコ・スカルラッティのハ長調ソナタを弾く。

 また、ジョージ・ガーシュイン作曲、アイラ・ガーシュイン作詞による人気の高いスタンダード曲「エンブレイサブル・ユー(Embraceable You)」が流れる場面も、小説のなかにはある。テレーズが「イージー・リビング」に出会うより前、キャロルの屋敷を訪れたベッドルームで、蓄音機から流れていたのがこのバラード。やはりビリー・ホリデイの名唱で知られ、彼女はこの曲でグラミー賞の殿堂入りを果たしている。

 のちには『女嫌いのための小品集Little Tales of Mysogyny)』(1977年)のような徹底した人間嫌いを思わせる掌篇集を発表するこの偏屈な作家ハイスミスが、見知らぬ美しき女性に心を奪われ、一晩でこの美しい恋愛の物語を思いつき熱を出して寝込んでしまい、「イージー・リビング」に耳を傾けながら感傷的な想いにひたっていた頃があったかと思うと、感慨ひとしおである。その後の『イーディスの日記Edith’s Diary)』(1977年)なんかも大好きなんだけれどね。当時のハイスミスがいまこの時代にいたら、『キャロル』の映画化作品がアカデミー6部門にノミネートされたことを、いったいどんなふうに思うのだろうか。

 ミステリー・ファンにとってはデヴィッド・フィンチャー監督映画「ドラゴン・タトゥーの女」の主演でおなじみの新進女優ルーニー・マーラは、この映画でカンヌ映画祭最優秀主演女優賞を受賞した。ひょっとするとアカデミーでの最優秀助演女優賞ということもありうるかなと期待したのだが、残念でした。ケイト・ブランシェット扮するキャロルとドライブ旅行に出かける車内で彼女に向ける視線。おどおどとしながらも熱情のこもった視線の先を捉えるカメラも素晴らしかったが、男女どちらが対象だろうということは関係なく、揺れ動く心理をルーニーは眼だけで演じきった。その無謀なまでの献身の想いと危うい美しさは、まさに短篇「ヒロイン」での、神経症的な若きヒロインの危うさと重なって心を揺さぶるものだった。

 ハイスミス作品は、そもそもが映画化がらみが多いのだけれど、『アメリカの友人Der Amerikanische Freund)』(1977年)、『ふくろうの叫びThe Cry of the Owl)』(1987年)など、これまでに数多くの作品が映像化されてきた。いつか別の機会にそれらの作品についても語ってみたいと思う。

 毎度毎度の余談ながら、「イージー・リビング」は、『ベイカーズ・ホリデイ(Baker’s Holiday)』(1965年)に収録されたチェット・ベイカーのヴァージョンも素晴らしい。期せずして、チェットの半生を描いた、ロバート・バドロー監督、イーサン・ホーク主演による映画『ボーン・トゥ・ビー・ブルー(Born to Be Blue)』も映画『キャロル』と同年に公開されている。

◆YouTube音源

“Easy Living” by Teddy Wilson and His Orchestra featuring Billie Holiday

*おそらく小説でもテレーズが耳にするのはこの演奏かと。

“Easy Living” by Chet Baker

*チェット版のこの名唱もかなり人気が高い。

“Easy Living” by Bryan Ferry

*スタンダード曲を集めたアルバム『As Time Goes By』(1999年)より。

“Easy Living” by Art Garfunkel

*やはりスタンダード・ナンバーのカヴァー・アルバム『Some Enchanted Evening』(2007年)より。

“Embraceable You” by Billie Holiday

*ビリー・ホリデイによる1944年録音の名唱で、2005年にグラミー殿堂(Hall ofFame)賞受賞。ビリーは、1976年にも1941録音の「神よめぐみを(God Bless the Child)」でも殿堂入りを果たしている。

◆CDアルバム

“Easy Living” by Billie Holiday with Teddy Wilson and His Orchestra

“Carol: Original Soundtrack” by various artists

“Some Enchanted Evening” by Art Garfunkel

“Born To Be Blue: Original Soundtrack” by various artists

“Baker’s Holiday” by Chet Baker

◆関連DVD

『キャロル』

『Easy Living』

*「イージー・リビング」のオリジナルが流れる1937年のコメディ映画。

『見知らぬ乗客』

*ハイスミスの処女作の映像化権をアルフレッド・ヒッチコックが獲得し、御承知のように大ヒットした、彼の代表的作品。

『太陽がいっぱい』

*アラン・ドロンを一躍大人気俳優へと押し上げた名画。ニーノ・ロータによる哀しく美しい音楽でも有名。

『リプリー』

*名作『太陽がいっぱい』を、アンソニー・ミンゲラ監督、マット・デイモン主演でリメイクした1999年作品『リプリー』。

『アメリカの友人』

*リプリーのシリーズを監督がクールに映像化した1977年発表のニュー・クラシック映画。ヴィム・ベンダース監督、デニス・ホッパー主演。

佐竹 裕(さたけ ゆう)

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 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。

  好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。

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