男のロマンという言葉が好きではない。男がなにか特権的な生物であるかのようなニュアンスが嫌だし、安っぽい自己陶酔の響きがある。だいたい、己の道を突き詰めるのは、ときに凄愴な結果すらもたらすものだろう。自らも、周囲の人も不幸に引きずり込むような修羅の道が待っているかもしれないことに無自覚にすぎる。『コックファイター』は、その辺に十分自覚的で、凡百の「男のロマン」小説を超える感銘を与えてくれる。

■チャールズ・ウィルフォード『コックファイター』


 名手ウィルフォードがこの小説で描き出すのは、「闘鶏」という知られざる世界だ。
 米国で行われる闘鶏は、雄鶏に鋼鉄製の鉤爪をつけて闘わせる血腥い競技だ。二羽は死ぬまでか、逃げ出すまで闘わされる。敗者は、容赦なく掘られた穴に放り込まれる。
 プロの闘鶏家は数えるほどしかいないマイナーな競技だが、二羽の美しい雄鶏が息絶えるまで闘う様にスペクタクルを見出す熱心なファンも存在し、専門誌もある。小説が書かれた時代には闘鶏自体はフロリダでは合法だが、賭けは非合法。しかし、命のやりとりとともに金も行き交うのが常だ。動物愛護家なら悲鳴をあげそうな競技だが、その歴史は人類の歴史同様、古い。この小説では、筋の展開に沿って、闘い方から、育て方、トレーニング、闘鶏に生きる男たちの詳細が緻密に書き込まれており、綿密な取材があったことが窺われる。
 ミステリかと問われればミステリではないのだが、未知の世界の情報小説的側面と骨太のストーリーラインが相まって圧巻の面白さ。闘いに不適な鶏の膝から下を斧でぶった切るような強烈なシーンもあるが、クールながら饒舌な語り口もあって、奇妙な明るさを湛えている。 

 時は1960年代、アメリカ南部。サシの勝負で敗れ、鶏を失い一文無しになったフランクは、南部連盟トーナメントの「最優秀闘鶏家賞」のメダルをめざして、再起する。

 闘鶏という世界が特殊なら、主人公の造型もかなり「いびつ」だ。フランクは、闘鶏の世界で1ダースもいないという数少ないプロの闘鶏家であり、メダルを手にするまではと、誰とも口を利かない「沈黙の誓い」を立てている、という奇妙な設定だ。その分、一人称の地の語り口は饒舌。西部の誇り高い男の系譜に連なるようでもあり、そのファナティックな情熱や家族への容赦なしのふるまいはノワール小説の主人公たちに近接しているようでもある。フランクは、誇り高き男であり、ファナティックな男であるという危ない均衡の上に成り立つ存在だ。
 師匠格の老闘鶏家はいう。
「鶏たちを育てて闘わせる、これ以上の人生なんてもんがあるなら教えてほしいね」
 フランクはいう。
「闘鶏はイカサマできない唯一のスポーツであり、おそらくこの国に残された最後フェアな競技さ」
人が価値を認めないもの、いや、さらに進んで嫌悪、忌避されるものに無私の情熱を注ぎこむ人たち。この小説は、ギャンブラー小説やアウトサイダーアートの作り手のように、他人からみたら無価値のものに本能的に心惹かれ、没入していく人間たちの幾多の物語を思い起こさせる。
「いびつ」な主人公像をもつ一方で、小説のストーリーラインは、力強い。すべてを闘鶏に賭けた男が栄光を勝ち得るかという、ボクシングのヒーロー物語に通じるシンプルな興味に支えられているからだ。
 人物配置も巧みだ。主人公を一文無しにしたライバル、師匠格の老闘鶏家、「あなたは間違っている」と言い続ける幼なじみの婚約者、安定した地位を捨て闘鶏の世界にのめり込んだ相棒……。これらの人物が織りなすストーリーが南部の風景、風俗の中に自然に溶け込んでいる。
 小説が求心力をもった物語として維持される一方で、作者が『オデュッセイア』に緩く材を求めた(滝本誠・解説)というように、遍歴小説の一面ももっている。一見、物語の迂回のようでいて、ギターの腕を生かして金を稼ぐ成行きや未亡人とのラブアフェアといったエピソードも興味をつなぐ。ギター演奏の場で、即興の曲を弾き、フランクの過去が鮮やかに回帰してくる場面は、実に出色だった。
 フランクと相棒は、選手権各試合を転戦し、物語は、南部連盟トーナメントの最終戦になだれ込んでいく。最後のクライマックスにフランクが関わった主要な人物が集結する構成も心憎い。
 主人公は、「生まれてこのかた三十二年間、誰かのために働いたことなどない」と述懐する。この小説は、特殊な舞台を描いていても、結局のところ、自由の希求の物語でもあるのだ。
 フランクは、「鶏たちを育てて闘わせる」最高の人生、最高の自由を希求する。幕切れ近く、自らの自画像をつきつけられ、大きな代償を支払うことになるとしても。


 本作は、1974年に、ロジャー・コーマン製作、モンテ・ヘルマン監督、ウィルフォード自身の脚本で映画化されている。闘鶏シーンの残虐性から英国では上映禁止、本国でも忌まわしい作品とされた不遇な作だが、カルト作として長く語り継がれているという。米国のカウンターカルチャー的文脈の中で、本書が映画化されたのは興味深い。
 DVDで視聴したが、それほど残虐と感じさせるシーンはない。前半部のエピソード(ギター弾きや未亡人のくだり)がカットされているのは残念だが、小説では、伝わりきらなかった闘鶏場の雰囲気や鶏の美しさが鑑賞できた。声を失ったフランクをウォーレン・オーツが好演している。

■ヒュー・ペンティコースト『シャーロック伯父さん』


 ヒュー・ペンティコースト『シャーロック伯父さん』(1970)は、アンクル・ジョージとその甥っ子ジョーイを主人公にした連作短編集。米国ミステリ史には、伯父さん探偵?として、M・D・ポーストが創造した偉大なアブナー伯父物があるが、同作が甥っ子マーティンからみた伯父の探偵譚であったように、この作品集も、12歳のジョーイとジョージ伯父の活躍譚だ。アブナー伯父が活躍したのは、19世紀半ば。こちらは1950~60年代のニューイングランドの片田舎の小さな街レイクビュー。
 作者は、この連作について、10歳になる息子が楽しめて大人にも読み応えのあるものを心がけ、とりわけ若い読者にアピールしたことを「ささやかな奇跡」と書いている。日本の読者にも好評だったらしく、60年代の日本版EQMMには、本書収録9編中の6編が翻訳されている。
 ジョージ伯父さんは、将来を嘱望された州の検察官でありながら、無実の罪の人間を電気椅子送りにしてしまったことで、そのキャリアを投げ打って、森小屋に隠棲する人物。愛犬ティミーと暮らしている。皮肉なユーモアの持主であり、森に精通した最高のハンターでもある。
 ジョーイは、中学生。母の兄であるジョージ伯父さんの小屋に入り浸っているが、薬局を経営している父親は、伯父さんのことを怠惰な男として嫌っている。
 豊かな自然に囲まれ四季が美しい、のどかな街にも、犯罪は起こる。そこで、伯父さんがホームズ、ジョーイがワトソンとなって事件を解決していくというのが基本パターンだ。
 事件のほうは、「ハンティング日和」「カーブの殺人」のように、本格ミステリの味が強いものもあるが、女教師の視点から描いた「ミス・ミリントンの黒いあざ」、ジョーイの父が詐欺に巻き込まれるというユーモア編「へクターは本気」のように、語り口で読ませるのもある。「人の内側」では、自ら悲劇の人物であるジョージ伯父が人の立場になって考えることの大切さを知るという内省的なもの。「レイクビューの怪物」は、22歳の巨漢だが頭脳は3歳児という青年の奇行の謎に意外性ある決着を付け、ハートウォーミングな結末を添えている。
 数多くの長編があるペンティコーストは、『狂気の影』(1964)のようなサスペンスに本領があると思われるが、「らしさ」が良く出ているのが「どこからともなく」。大洪水により周囲から孤絶したレイクビューに逃走中の犯罪者辿りつき、ジョージ伯父とジョーイに山中を案内させるというサスペンスフルな一編だ。唯一の中編「我々が殺す番」も、殺人を目撃したジョーイ少年を中心に据えた読み応えのあるサスペンスで、犯罪と倫理の関係も問いかける。
 ジョーイはジョージ伯父を信頼し英雄視しているし、伯父さんのジョーイに寄せる愛情には曇りがない。その関係に揺るぎがないのが、心地よい。伯父さん、ジョーイに限らず、犬のティミーやジョーイの両親、イーガン保安官といった街の人々も好きになってしまう。願わくは、このほのほのとした小天地にもう少し滞在したいものだ。

■M・R・ラインハート『ヒルダ・アダムスの事件簿』


 どういう巡りあわせなのか分からないが、立て続けに紹介される看護婦探偵ヒルダ・アダムス(ミス・ピンカートン)の探偵譚。『ミス・ピンカートン』(1932)、『憑りつかれた老婦人』(1942)に続いて、紹介されるのは、初期作の中編二編を収録した『ヒルダ・アダムスの事件簿』(1933)。
「バックルの付いたバック」は、ヒルダ・アダムス初登場の一編。彼女とパットン(警視)の出逢いは、捜査中に脚を撃たれたパットンがヒルダの勤務する病院に入院したことから。ステーキを食べたいというパットンと口論になったのが、ファースト・コンタクト。その後には「君が別嬪すぎる」とか警視は言い出して、なんだ、最初から警視はラブラブだ。看護婦としての潜入捜査をもちかけられ、ヒルダは決意する。

「他人の命令に従うように訓練された従順さの代わりに、自分の頭脳を使うことができる機会を想像して、みるみる紅潮したわたしの顔。冒険への期待」

 こうして、ヒルダは看護婦兼潜入捜査員となったのだ。『憑りつかれた老婦人』では、38歳のヒルダは、このとき29歳。(小説は5年後の回想であり、パットンは、今は民間機関の所長をしているとある。『憑りつかれた老婦人』の記述と異なっており、作者は初期の設定を忘れてしまっているようだ)
 事件は、富裕な家庭の娘の失踪事件。誘拐も疑われている。ヒルダは、潜入した家庭で、深夜、見知らぬ老婆が歩いているのを目撃するなど、怪事に遭遇したりするが、日をおいて、娘は心身ともにボロボロになって帰って来た。しかし、娘の説明は疑わしいことばかり。彼女に何があったのか。
 真相を知ると、様々な疑惑が一挙に解消する話で、一種の奇譚的な趣をもっている。
「鍵のかかったドア」は、最初の事件から6か月後の事件。この時点で、ヒルダは6件の事件に遭遇し、5件の犯罪を解決している。捜査が板についてきた感じだ。
 今回の事件は、前任の看護師が家庭の異様な雰囲気に逃げ出したという曰くつきの案件。
四日間のうち、ほとんどが部屋に閉じ込められ、食べ物もほぼ与えられず、電話線は切られているという異様な家庭。使用人はいなくなり、すべてのドアには鍵がかけられているという。
 後任の看護婦として勤務したヒルダは前任者と同様の経験をし、家の夫妻も怯えきって家の中の何かを監視していようだ。深夜に自室からなんとか出たヒルダは、階段で首しかない人間と遭遇する……。
 常軌を逸した恐怖と謎が展開するわけだが、ヒルダの直感の一撃で真相が浮上する。解かれてみれば、家の異様さは、すべてに合理的な説明がつくものであり、もともとの発想を恐怖の家という舞台に変換した作者の構想力には敬意を表したくなる。
 ここまできたらヒルダ・アダムス物の最後の作品も邦訳してほしいところだが、中編ゆえに紹介は難しいだろうか。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita



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