現在、新型感染症により、世界各地で、多数の死者が単なる数字として積み上がり、多くの都市が封鎖されている。これまで見たことのない圧倒的光景の中で、何もなし得ない無力感と崩壊感覚、何よりも自らへの感染のおそれ、他人に感染させるおそれを抱いている方が多いのではないだろうか。
 こんなときに、ミステリでもないのかもしれない。それでも、あえて、ミステリを読みたい。それは最高の気散じという以上に、もっぱら推論で謎を解明し悪を打ち負かすという神話的構造をもっているからだ。このひどく傷ついた世界もそうあってほしいという我々の願望、祈りそのものなのだ。

■M・R・ラインハート『憑りつかれた老婦人』


 M・R・ラインハート『憑りつかれた老婦人』(1942) は、昨年、ヒラヤマ探偵文庫で紹介された『ミス・ピンカートン』(1932) に続く看護師探偵ヒルダ・アダムス物の第二長編(過去には、『おびえる女』のタイトルで抄訳がある(『別冊宝石112号』))。
 ヒルダは有能な看護婦だが、殺人課のパットン警視と協力関係にあり、問題のある家庭に住み込んで調査することで、警察の捜査に協力する役割を担っている。〈ミス・ピンカートン〉は、ヒルダの探偵能力を買っているパットン警視が彼女につけたあだ名だ。
 前作では、もっと若い印象だったが、本作でヒルダの年齢は三十八歳とされ、髪は白髪になりかけていると描写される。一方で、肌は薔薇色で目が澄んでいて、「天使さながらに見える」とも。仕事に明け暮れ、「自分自身の人生をあまり生きていない」と時にわびしさを感じる女性でもある。
 『ミス・ピンカートン』では、落ちぶれた名家に潜入したヒルダだが、今回は、より奇妙な邸宅で過ごすことになる。
 その邸宅の主である裕福な老婦人は、自らの完全に閉め切った寝室に出没する蝙蝠や鼠に悩まされていると訴える。家族は彼女の訴えを老人の妄想として信じないが、その身を案じた孫娘がパットン警視に相談、ヒルダに住み込みを要請する。
 しかし、ヒルダが邸宅に行くや否や老婦人と、蝙蝠が出没している「証拠」をつきつけられ、老婦人が以前に砒素で毒殺されかけたことも知る。誰が何の目的でどのようにして小動物を寝室に持ち込むのか。ヒルダが探りを入れているうちに、最初の殺人が発生…。
 家庭の人間関係は複雑で、息子夫婦、娘とかつての夫と現在の妻、孫娘と彼女が愛する医師、曰くありそうな使用人たちは、誰もが容疑者でもあり、殺人犯ともみえない。ヒルダは殺人が起きたことは、自らの失態と感じ、有能さと感じの良さを武器に、家族や使用人に接し、真相を探りだそうとする。
 次々と発生する登場人物たちの不審な行動に、読者はヒルダ同様に困惑させられ、真相は霧の中。登場人物の不審な行動が頻発するのは、作家の作風ともいえるが、いささか煩瑣にも感じるし、一方で、どのように収拾をつけるのか興味も増すところ。
 ラインハートは、サスペンスの女王のようにみられているが、本書は、謎解き小説としての結構にも注力している。蝙蝠の出没などの密室的な謎は、半ばで明らかにされるが、真相はラストまでひっぱりながら、意外な犯人像を提示するし、ヒルダは、犯人が用意したアリバイのトリックまで暴いてみせる。
 『ミス・ピンカートン』に関しては、読みどころを「事件の捜査に没頭する女探偵の肖像」と書いたが、本作のヒルダには、前作のように、泣き出したり、ヒステリックになったりするような場面はない。前作と違い、真相も自らの力でたどり着く。確実に、プロフェッショナルとしての力量を上げているわけだが、単なる警察の手先ではなく、独立心旺盛で自らの判断で動くところは揺るがない。
 前作ではヒルダのロマンスの香りはゼロだったが、本書ではやや違っている。そんな違いを楽しめるのも、一作目、二作目と続けて訳されたゆえ。既に予定されているという未訳作の訳出を待ちたい。

■フランク・グルーバー『ポンコツ競走馬の秘密』


 フランク・グルーバーは、自らつくりあげた〈ミステリ小説十一の要素〉として、[1]カラフルな主人公、[2]テーマ、[3]悪漢、[4]背景、[5]殺人方法、[6]動機、[7]手がかり、[8]トリック、[9]アクション、[10]クライマックス、[11]感情、を挙げているという 。(各務三郎「フランク・グルーバー論」(フランク・グルーバー『探偵人間百科事典』/番町書房)
 飢えにさえ苦しみながら、パルプ小説業界をサバイブして、成功した作家の挙げるミステリ作法の11項目だけに、含蓄がある。
 ジョニー・フレッチャー&サム・クラッグ物の6作目、〈論創海外ミステリ〉としては4冊目となる『ポンコツ競走馬の秘密』(1942) も、なるほど前記の11項目を遵守していると感じさせる。
 [2]のテーマには、〈物語の特殊な舞台〉という注釈があるが、これまでの『はらぺこ犬の秘密』(ブリーダー業)、『おしゃべり時計の秘密』(時計蒐集)、『噂のレコード原盤の秘密』(レコード業界) といった特殊な舞台同様、競馬界が選ばれている。1940年代のアメリカ競馬界を舞台としたミステリとしても貴重だろう。
 勝馬情報を得て競馬場に繰り出したジョニーとサムは、車の接触事故で若い女性とひと悶着を起こすが、その場を切り抜け、生業であるボディビル本の実演販売で軍資金を増やす。ユリシーズという馬に有り金を託すが、案の定オケラに。そんな二人のところに、朗報? が転がり込んでくる。ユリシーズの馬主が死亡し、ユリシーズと勝った場合の賞金、馬が死亡したときには20万ドル以上がジョニーに遺贈されるというのだ。
 いつも以上に突飛な設定であり、物語の行く末に期待を持たせるに十分。競馬場で遭った若い女性が本来の相続人として名乗りを挙げ、さらに、ポーカー勝負に手を出したジョニーとサムは、強大な力をもつ私設馬券屋の一味に追われる羽目に。
 馬主は殺されたのか、正当な相続人は誰か、ユリシーズは勝てるのか、ジョニーとサムは悪漢一味から逃げ切れるのかという骨太の興味に、細かいエピソードをつないで、軽快にページをめくらせる技量はいつもどおりの安定感。もちろん、頭脳担当ジョニー、体力担当サムのベストコンビ([1]カラフルな主人公) が、義務感ではなく個人的理由から事件に関与していく([11]感情) のは、いつもどおり。
 NY中に網を張り巡らせる私設馬券屋が、ジョニーとサムに対し圧倒的優勢を誇っていること([3]悪漢)、NYの街なかの追跡戦が長く続くこと([9]アクション)、ユリシーズの出走シーンと関係者を集めての謎解きというダブルクライマックス([10]) の魅力は、いつも以上。多少、計算違いのようなところが目についても、物語の疾走感で乗り切ってしまう。
 真相というか背景に秘められた悪巧みは、かなり意外なものであって、無茶ともいえるが、[4]背景、[5]殺人方法、[6]動機、[8]トリックのいずれにおいても、〈異常性〉が重要と強調する作者にしてみれば、これも作者の公式どおりというところだろうか。グルーバーは、[7]手がかりに関しては、〈必要〉とやや気乗り薄にコメントしているが、これも及第だろう。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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