Christian Brulls, Train de nuit, Fayard, 1930(1929/9/30契約)[夜の列車] 「マルセイユ特急」松村喜雄訳 《探偵倶楽部》1956/3(7巻3号)pp.313-350* (雑誌表紙・目次・柱・本文は「マルセイユ」表記。タイトルページのみ「マルセィユ」表記=「ィ」の字が小さい) Georges Sim, Train de nuit, Les romans d’amour de Georges Sim, Fayard, 1955*[ジョルジュ・シム恋愛長編小説集]【写真は連載第26回の1】 Francis Lacassin監修・序文, Georges Simenon (Christian Brulls), Maigret avant Maigret I: Train de nuit, La Seconde Chance, Julliard, 1991/4[セカンド・チャンス叢書]【写真1】 Georges Sim, La maison de l’inquiétude, Tallandier, 出版年記載なし(1932)(1929-1930冬執筆か。1932/2契約)[不安の家] Georges Sim, La maison de l’inquiétude, «L’Œuvre» 1930/3/1号-4/4号(全32回) Georges Sim, The House of Anxiety, translated by Stephen Trussel, 1999(http://www.trussel.com/maig/maison.htm)* ウェブ掲載の同人英訳 Francis Lacassin監修・序文, Georges Simenon (Georges Sim), Maigret avant Maigret IV: La maison de l’inquiétude, La Seconde Chance, Julliard, 1992/4[セカンド・チャンス叢書]【写真1】 Francis Lacassin編, Simenon avant Simenon: Maigret entre en scène, Omnibus, 1999[シムノン以前のシムノン:メグレ舞台に立つ]【写真2】 同上 新装版, Omnibus, 2009【写真2】 |
シムノンが初めて本名の「ジョルジュ・シムノン」名義で発表した小説は、《リックとラック》紙の連載『怪盗レトン』だった。本連載第11回の「ジョルジュ・シムノン情報」で紹介した通り、1930/7/19号(71号)から1930/10/11号(83号)までの全13回。名実ともにメグレ警視シリーズの第1作である。
1931年2月20日(金)にファイヤール社から『死んだギャレ氏』『サン・フォリアン寺院の首吊人』の2冊が同時刊行され、これがメグレ警視の書籍デビューとなった。シムノンはこの2冊の刊行を宣伝するため、刊行日の夜にモンパルナスの《Le Boule Blanche 白い球》で多くの著名人を集めてどんちゃん騒ぎのダンスパーティを開催した。書籍は犯罪実録写真風の表紙のインパクト【写真3】もなかなかのもので【註1】、以後怒濤の如くに毎月1冊刊行されるメグレ警視シリーズは大成功を収めることとなる。【註2】
シムノンが本名で生涯のうちに発表したメグレの長編は75作、中短編は28 作ある(この他、オリジナルラジオドラマ脚本『Le soi-disant M. Prou』[プルー氏と呼ばれた男]がある)。しかしこれらの前にペンネーム時代のシムノンは、「メグレ」という探偵役の登場する長編を4作書いていた。
メグレの前史を読みたいと思うファンは多いのだろう、これまでも本国では《セカンド・チャンス》叢書で全作復刊されたことがあり【写真1】、現在はオムニビュス社の『Simenon avant Simenon: Maigret entre en scène』という合本ですべて読める【写真2】。『メグレ舞台に立つ』ないしは『メグレ登場』と呼びたい1冊で、巻末に編纂者のフランシス・ラカサン氏が56ページに及ぶ大論文を寄稿している。
『シムノン以前のシムノン:メグレ舞台に立つ』収録作
- Christian Brulls, Train de nuit, Fayard, 1930(1929/9/30契約) 抄訳「マルセイユ特急」松村喜雄訳 [夜の列車]
- Christian Brulls, La jeune fille aux perles Fayard, 1932(旧題La Figurante)(1929秋執筆か。1932/2契約) [真珠の少女(エキストラ)]
- Georges Sim, La femme rousse, Tallandier, 1933(1929終盤執筆か。1933/4契約) [赤毛の女]
- Georges Sim, La maison de l’inquiétude, Tallandier, 出版年記載なし(1932) «L’Œuvre» 1930/3/1号-4/4号(全32回)(1929-1930冬執筆か。1932/2契約)[不安の家]
- Georges Sim, L’homme à la cigarette, Tallandier, 1931(1929/1または1929/2執筆か。1931/3契約)[煙草の男]
- 最後の1作はメグレの登場しない関連作。
当時シムノンは原稿をファイヤール社に持ち込んだのだが、意外なことに1作目の『マルセイユ特急』以外はボツを食らったらしい。このなかでは4作目の『不安の家』が1930年3月1日号からの紙面連載と比較的早く発表の機会を得ており、読者側から見ればこれがメグレの実質的デビュー作ということになる(ただしタランディエ社からの書籍化はやや遅れた)。1作目の『マルセイユ特急』の刊行月は、ミシェル・ルモアヌ氏の書誌『ジョルジュ・シムからシムノンへ』には1930年9月とあり、契約から刊行まで約1年かかっている。2作目の『真珠の少女』は正編のメグレが人気を得てからようやくファイヤール社に買われ、また3作目の『赤毛の女』は本家メグレに似た犯罪実録風の表紙でタランディエ社から出版された。
メグレの誕生秘話として、シムノンがオランダのデルフゼイル(デルフザイル)に滞在中、自船の《オストロゴート号》の修理を余儀なくされ、そこで近くの平底船にタイプライターを持ち込んで執筆したのがシリーズ第1作の『怪盗レトン』だとよくいわれる。これは後年のシムノン自身の回想から広まったエピソードなのだが、うまく時期が合わないらしい。近年の研究だとこの伝説はメグレ前史の『マルセイユ特急』のことだと考えられている。『怪盗レトン』の執筆時期はいまなおはっきりしないが、フランス国内に戻りつつまだ船の生活をしていた1930年春ともいわれる。いずれにせよデルフゼイルでメグレは生まれたので、かの地にメグレ像が建っているのはよいことだ。
シムノン愛好家だった松村喜雄氏は、戦後に復刊で出た《ジョルジュ・シム冒険長編小説集》全6冊(1954)【写真は連載第22回の4】と《ジョルジュ・シム恋愛長編小説集》全8冊(1954-1955)【写真は連載第26回の2】を読んだのだろう。このなかから『海賊島』と『マルセイユ特急』を《探偵倶楽部》誌に訳出紹介した。
『マルセイユ特急』1930
ベレー帽を被った船員姿の20歳の青年ジャン・モネは、故郷の北の港町イポールから列車を乗り継いで仏南東部のトゥーロンへと向かっていた。ジャンは船乗りである父の影響を受けて13歳からニューファンドランドのニシン漁に携わっていたが、この年は父の乗った《フランセット号》が臨港のフェカンに戻ってこない。母アンリエットや妹たちも父の安否を心配していたが、ジャンは不安を抱えつつ、トゥーロンで軍用艦《ブルターニュ号》の船員として出稼ぎをするためにフランスを北から南へと縦断していたのだ。
寒い冬が始まっていた。パリ、リヨンを経由して、列車はマルセイユへと向かいつつある。ジャンは車内で黒服の少し年上の女に出会う。彼女は財布をマルセイユのサン=ティポリット通りへ届けてほしいと願い出てくる。すでにこの寒さでトゥーロン行きは遅れていたが、ジャンは女の願いを聞き入れてマルセイユ駅に降り立った。珍しい雪のマルセイユだ! 指定の昼まで時間を潰すためカフェに入り、財布を確かめてジャンは驚いた。1万フランの小切手が100枚以上も入っている!
店主に通りの場所を訊くと、逆に「トゥーロン行きの列車で何があったのか?」と尋ねられた。新聞に《列車で惨劇》の見出し。悪漢がリヨンで旅行者ジョン・ベラミを襲って金を盗み、死体を線路に投棄したという。
サン=ティポリット通りはマルセイユの旧港(ヴュー=ポール)近くだった。狭い道でアラブ人やボヘミア人がいる。フェカンにもこのような貧しい場所はあったが、ここはフェカンと違って生活感もない。届け出先にいたのは、なんと列車で財布を預けたあの女だった。いま彼女はピンクのローブを着ている。彼女はリタと名乗った。「あなたは20歳?」だが、ならばどうだというのだろう? キスでもしたいというのだろうか? 彼女はグラスにカシスワインを注いでくれる。
ジャンには故郷に許嫁のマルトがいた。ジャンは船で外国へ出ていたとき大人の女も知ったが、マルトと結婚したいと思っていた。いま目の前にいるリタは彼女とは違うタイプの女だ。リタの部屋に次々と来客が現れる。「伯爵」と呼ばれる若いエレガントな男はかつてのリタの愛人だったらしい。急行列車強盗殺人事件の捜査に進展があったことを新聞で示しつつ、まだリタに未練があるようで、狂気じみた言動も見せリボルバーをちらつかせる。伯爵はリタがバラフレという悪党と繋がっていることを指摘した。伯爵はかつて医学生で、マルセイユの病院に研修生として勤めており、リタへの愛情にほだされて麻薬を持ち出していた過去があった。リタはバラフレの指示で伯爵を利用していたのだ。
ジャンはリタの部屋で暮らすようになる。彼女はジャンに新しい服も買ってきてくれる。部屋の囚人のようだが、奇妙な愛のかたちが生まれつつあった。隣人のデヴェーヌおやじという老人が、部屋にやって来ては酒をあさって飲む。彼もかつて船乗りで、ニューファンドランド漁に出向いた時期もあったらしい。偶然にもジャンとは話が合った。
リタの部屋に悪党バラフレが現れる。長身で、陽気な笑顔も見せるが、油断のならない雰囲気もある。バラフレはベッドのジャンの姿を認めつつ、リタに新しい新聞を見せた。リタは驚く。《殺人者、特定か? ジョン・ベラミ殺害事件で機動隊 Brigade mobile のメグレ警視 commissaire Maigret はマルセイユのカフェで船員が財布を持っていたことを突き止めた。彼こそ列車に乗り遅れたイポール出身の男性だと考えられる。事件には女の影があるのだろうか。しかしトランス刑事inspecteur Torrenceは一貫して、その男性は犯人ではなく、2番目の被害者になる可能性を示唆している。当局はフェカンとイポールにも調査担当者を派遣した。》
後日、また伯爵がやって来る。リタはバラフレと共犯であり、きみを利用して財布を安全に駅から運び出したのだと主張する。ジャンは父が外洋から戻らない不安と相まって自分がどうしたらよいかわからなくなり、リタの部屋を飛び出して列車に乗ろうとする。だが金がない! 彼は途方に暮れてベンチに崩れる。
ジャンが消えたリタの部屋にバラフレがやって来る。彼はそこで伯爵と鉢合わせし、相手を殴り倒す。「追っ手が迫っている。車でマルセイユを離れよう。夜、カヌビエールの角に車を停めて待っている」と伝えて出て行く。リタは意を決し、警察にバラフレのことを伝える匿名の手紙を託した。
その夜、警察はバラフレが待ち合わせ場所に姿を見せるのを待ち構えた。だがバラフレは銃撃戦を経て逃走する。バラフレのなかにリタとジャンへの憎しみが燃え上がりつつあった。リタたちはデヴェーヌおやじの忠告を受けて逃げる。だが駅にも憲兵の見張りがあり、さらには町中でバラフレの手下がふたりの行方を捜している。ふたりは宿屋《スプロンディド》に身を隠す。偶然にもその隣室には、ジャンの身を案じた母アンリエットと許嫁のマルトがいたのだ。父の乗る船からベルギーのオステンド港に連絡が入っており、父は無事である可能性があった。母はジャンにそのことを伝えたいと願っていた。彼女は「息子は殺人者ではない」と新聞にも健気な主張を続けていた。アンリエット夫人とマルトは涙に暮れながら想い出を振り返って語る。その声は隣室のジャンにも聞こえており、ジャンはやるせない気持ちに囚われていた。
リタは告白する。自分はバラフレと父親の違う兄妹だったのだという。彼女は幼いころからバラフレの指示で不幸な人生を歩んでいたのだ。
バラフレが居場所をかぎつけてやって来る。ふたりは宿の屋根へと逃げる。バラフレは屋根までふたりを追う。メグレ警視の指揮する機動隊は、そのバラフレを追っていた。包囲網が宿へと狭められてゆく。屋根でジャンは復讐に燃えたバラフレに組み伏せられる。追い詰められるが必死の力を振り絞るジャン。だがそのときバラフレを撃ったのはリタだった。ジャンとバラフレはもつれ合って落下し、バラフレは死亡、ジャンも重傷を負う。
メグレ警視の指示により、ジャンは病院に搬送される。アンリエット夫人、許嫁のマルト、そしてリタはジャンの安否を気遣う。ジャンはインフルエンザにも罹り、高熱にうなされ、譫言を呟く。
メグレ警視がリタにシンパシーを示した。警視はリタから事情を聞いた後、「唯一の犯罪者バラフレは死んだ。きみはパリ行きの列車を選べ、さもなくばきみは牢屋入りになる」と諭した。デヴェーヌおやじがやって来て、リタにいくつかの驚きの事実を告げる。おやじはかつて船員時代に喧嘩の仲裁のはずみでブルトン人(ブルターニュ地方の人のこと)を殺してしまった過去があり、その後アメリカを放浪し、フランスへ戻ってきたこと、かつて愛した女は別の男と息子をもうけていたこと、その女と自分は後に結婚し、そこで生まれたのがおまえだったこと。リタはにわかに信じられなかったが、デヴェーヌおやじは彼女の父だったのだ。リタが生まれて再び彼は遠ざかっていたが、母親が亡くなりリタの面倒を見たくてマルセイユに戻ったのだという。しかも驚くべきことに、彼が船乗り時代に殺めてしまった男性は、ジャンの許嫁マルトの父親だった。
「ふたりでパリへ行こう……」とデヴェーヌおやじはいう。リタはメグレ警視の温情とともに、その言葉を受け入れた。リタは父とパリ行き列車の3等車に乗った。彼女はもう泣いてはいなかった。ジャンは自分の相手ではなかったのだ。兄がこれ以上他人を苦しめないことが救いだった。車内には民族衣装を着た女がいる。「なんて寒いんだ!」という人や、眠った赤子を抱く母親もいる。「抱かせていただけないでしょうか?」とリタは申し出て、不意にその母親がうらやましくなった。ここでは誰も愛のことを話していない! 愛とは人生のなかで、そんなにも居場所のないものなのか? 彼女は病室にいるジャンとその母親や許嫁のことを思いつつ、父親デヴェーヌに微笑みかけ、「生きていきましょう。幸せになる努力をしなくては……」と誰にも聞こえない小声で囁く。
3月になり、不意に春は訪れた。ジャンの乗るはずだった《ブルターニュ号》もトゥーロンに帰港した。ジャンはインフルエンザから回復し、またイポールから父の消息に関する朗報も届いた。メグレ警視は彼のことを「キッド」と親しみを込めて呼んでいた。軍法会議は不在判決でジャンの罪もごく軽いものになった。警視は彼にいった、「きみの父が会いたがっているぞ!」
列車は走る。マルセイユからアヴィニョン、リヨン……。パリを経由して、さらにルーアン、特徴のあるブレオテ駅……。ついにフェカンに到着し、ジャンは父と再会を果たす。そしてそこにはマルトの姿もあった。彼女は口数が少ない。リタという女がマルセイユにいたからだ。ジャンはいったん店の軒先へ煙草を買いに行こうとしたが、しかし勇気を出してマルトのもとへと駆け戻った。キスをする。唇がひとつに重なる。
涙でキスの味が塩辛くなることを、彼はいままで知らなかった。あるいはこの味は、海が近いからか。父は店の脇でパイプをくゆらす。息子たちを見ていたアンリエット夫人の影が暖炉へと向かった。なぜならまだ火をくべていなかったから。夕食の支度がまだだったから……。
読み終えてから改めて《ジョルジュ・シム恋愛長編小説集》版の表紙を見てみる。何と素敵な表紙だろう!
初めてメグレがその名を書かれたのは、作中の新聞記事でのことだった。彼は機動隊 Brigade mobile の警視であり、ようやく姿を見せたとき、「穏やかで、粗い声の持ち主で、冷厳な振る舞いの男だった」(第3部第6章)と記される。まだパイプは持っていない。それでもジャンに“シンパシー”を示し、一部のどうしようもなかった運命には目を瞑って、彼をあえて解き放ってやる。後のメグレの片鱗がすでにある。
部下のトランス刑事は最初からまっすぐな正義感を示して、ジャンの無実を主張している。トランスはメグレの再来といわれるほど優秀な刑事でありながら、シリーズ第1作『怪盗レトン』でいきなり凶事に見舞われ、その後しばらく姿を消してしまうキャラクターだ。そのトランスが登場していることに、シリーズのファンは嬉しくなってしまうだろう。
正編のメグレシリーズ第一期でいちばん本作に近いのは『ゲー・ムーランの踊子』だ。屋上の死闘も興味深い。後の『仕立て屋の恋』(1933)を彷彿させる。
本作は感傷小説の枠組みで展開される。前回紹介した『運命』にあったような、いまなお読者の心をぐっと掴むほどのシムノンらしい印象的な描写は残念ながら出てこない。小説としては凡作の部類かもしれないが、冒頭と最後でフランスを縦断してゆく急行列車に託された感傷は、これがメグレの初登場作だという特別な感慨とともに読むと、やはり胸に残るものがある。
続いて前史第4作の『La maison de l’inquiétude』[不安の家]を読んでみた。英語圏における最良のメグレファンサイトのひとつ「Maigret」( http://www.trussel.com/f_maig.htm )を運営するスティーヴン・トラッセル Stephen Trussel 氏(以前は自由が丘産能短期大学の英語教授だったようだ!)が、サイトで試訳を公開しているのでありがたくそれを読んだ。メグレ前史のなかではいちばん評判もよいらしいので期待が高まる。
おお、グーグル翻訳でない英語はこんなにも読み応えがあるのか。グーグル翻訳もここ半年ほどで劇的によくなっているのだが(以前に出てきた文章と比べると明らかに質が違っていて驚く)、やはり人が翻訳したものはいい。
『不安の家』1932
11月8日(土)の真夜中過ぎ、オルフェーヴル河岸 Quai des Orfèvres のオフィスで当直をしていたメグレ警視 commissaire Maigret のもとへ、ひとりの若い金髪女がやって来た。寒さで手がかじかんでいる。「私はたったいま、人を殺しました」。メグレは驚いたが、そのときちょうど電話交換室でベルが鳴り、メグレはいったん席を外した。「警視庁 Préfecture です」──だが電話を終えてオフィスに戻ると、女は姿を消していたのである。急いで外へ出て捜したが、夜は深い霧に覆われていた。
いったい彼女は何者なのか? 殺人事件の知らせはない。だが当直上がりの休憩から戻ると、モントルイユのアパルトマンで殺しがあったとの報告が入り、メグレは現場に向かった。被害者は3階に住む通称「船長」のジョルジュ・トルフィエ氏40歳。ナイフで刺されて床に倒れているのを、朝になって管理人のフクリエ夫人が発見したのである。被害者の財布がなくなっていた。犯行は真夜中ころと思われるが、夜10時以降は誰も出入りがなかったはずだと夫人は証言する。ただ夫人の飼っている黄色い犬が吠えていただけだと。
フランスの建物は地上階の上が1階になるため、「3階」とは日本における4階である。この建物は屋根裏部屋まで含めると5階(日本でいう6階)建てで、さまざまな家族が住んでいる。昨夜の金髪女の告白は、この事件のことを指していたのだろうか?
「この建物に金髪の女はいるか?」「それならエレーヌさんです」とフクリエ夫人。彼女は1階のギャストンビド家の娘で、父のエヴァリスト、兄のクリスチャンとともに住んでいるという。さらに昨夜8時、船長のもとへ甥のアンリ・ドゥマシ25歳が訪れていたこともわかった。アンリがやって来たのでメグレは問い質すが、自分はただ昨夜挨拶に来ただけで、殺していないという。エレガントな外観の男だ。しかし彼は昨夜、この部屋で「42局」というメモ書きをしたためていた。これは何を意味するのだろう?
メグレはギャストンビド一家に目星をつけていた。父エヴァリストは「またひとり!」と意味ありげに溜息をつく。息子のクリスチャンはシャンゼリゼで自動車のショールームを営んでおり、メグレの前で陽気に振る舞うが、何か奇妙だ。そして金髪のエレーヌはおどおどして、「自分はやっていません」という。翌朝、メグレはこの一家を見張った。娘のエレーヌが出て来たので追うと、彼女はバスティーユ通りの第42郵便局で青い封筒をふたつもらい受けたのだ。
やはりこの女がオルフェーヴル河岸の深夜の客だ! メグレはタクシーに乗ろうとする彼女をつかまえて問い質す。「会ったことを忘れたのか?」だがエレーヌは近くの警官に助けを求め、逃げるように去ってしまう。メグレは郵便局の男性局員に「司法警察局 Police judiciaire の者だ」と名乗り、事情を聞いた。「彼女にはいつも同じ封筒を渡しています」「恋人からの手紙か?」「わかりません。同じ筆跡です。ええと、彼女とは《ムーラン・ルージュ》で2、3度会いました。一昨日の夜も彼女と踊りました……」「本当か!」
土曜の深夜まで彼女は《ムーラン・ルージュ》で踊り、午前3時にオルフェーヴル河岸に「人を殺した」と告白しに来たことになる。その間にトルフィエ船長は殺された。だがその日の夜から翌朝まで彼女は自宅にいたはずなのだ。そして彼女はアンリ・ドゥマシからの手紙をもらっていた。
メグレは再びモントルイユの建物に行き、エレーヌと話す。だが彼女はメグレのことなど知らないという。そこへ父のエヴァリストが出てきた。「機動隊 Brigade mobile のメグレ警視さん、お待ちしていました……」彼はピクピュス地区で百科事典を売り歩いている男で、被害者のトルフィエ氏を知っている様子だった。トルフィエは「船長ではなく二等航海士に過ぎなかった」などという。
メグレは家で昼食を摂り、午後にオルフェーヴル河岸に戻った。コメリオ判事 juge Coméliau からギャストンビド家の捜索許可証をもらいたかった。神経質そうなエレーヌ嬢が《ムーラン・ルージュ》で踊っているとは不可解だ。トランス刑事 inspecteur Torrence から調査報告が入る。エヴァリスト・ギャストンビドはもともと裕福な家の生まれだったが、一時はエジプトやアジアを放浪し、フランスに戻ってからも投資で資産を失ったりしていたらしい。この一家は怪しい。
メグレはモントルイユの《オーヴェルニュの仲間たち》という店で、アパルトマンの動向を見張る。エレーヌ嬢が兄のクリスチャンと出入りする。もう一度メグレはエレーヌ嬢に問い質す。「きみはアンリ・ドゥマシの愛人だったのか?」相手は驚くかと思ったが、何も反応はない。「きみは土曜の夜に私のオフィスへ来て、たったいま人を殺したといったんだ! 答えてほしい、もう遊びは終わりだ」「でも、あなたのおっしゃっていることがわからないんです! どうしていじめるのです?」「この午後、どこへいっていたんだ」「ルピック通りの《シラノ》です……」
そこへ兄のクリスチャンがやってくる。顔に大きな引っ掻き傷があった。「きみは《シラノ》でよく妹と会うのか?」「いいえ! 偶然です。妹は買い物で街に出てきただけですよ」
フクリエ夫人から新たな情報が入る。アンリは自分が疑われていることを知って不安に思ったのか、身の潔白を証明するために自らこの建物を調べようとしたというのだ。アンリは古物商を営んでいる。彼は親戚から小切手を強奪するほど金に困っていたのだろうか?
事件から8日が経った。クリスチャンはアメリカンバー《シラノ》で日中から飲んだくれの生活をしている。メグレはアンリの動向も追っていた。一時、彼の所在は不明になり、母親も息子のことを心配していたのだ。
ついにトランス刑事からアンリ発見の知らせが入る。彼はバティニョル通りの《ホテル・ボーセルジュ》に偽名で宿泊し、それから街へ出たという。メグレはアンリを追った。彼はモンパルナスに神経科医のシュヴー教授を訪ねた後、サン=ラザール駅へ向かった。ル・アーヴル行きの急行、一等車だ。メグレもその列車に乗った。
夜にル・アーヴルへ到着する。メグレの尾行にアンリは気づいている。ついにメグレは怒りを抑えきれなくなり、彼を問い詰めた。「ぼくを捕まえるんですか?」「何が望みだ!」「いっしょに行ってもいいです。でもぼくは無実だ」「いいか、もう逃げないといえ」格闘になりかけて、メグレは自分のパイプがなくなっていることに気づいた。パイプは折れて壊れていた。
ふたりはしばらく黙って歩く。メグレはこのパイプを12年も使ってきたのだった。数百の逮捕に参加してきた。「逃げないなら、おまえはどうするんだ?」「さあ……、パリに戻ります」「ならばなぜおまえはここにいる? 自分のやっていることがわからないのか?」メグレはアンリを地元警察署に預け、一夜を過ごした。アンリは夜通し泣いていた。
翌朝、メグレは彼を連れて列車でパリへ戻った。なぜ彼は事件後エレーヌに会おうとせず、彼女に手紙も書かなかったのか? この男はなぜ事件に巻き込まれたのだろう? メグレは彼をオルフェーヴル河岸のトランス刑事に預け、彼の泊まっていた《ホテル・ボーセルジュ》に向かった。アンリがホテルで会っていたのは金髪女で、その女はトロゼ通りで別の女と共同生活をしていたという。メグレはその住所に向かう。女は見つけられなかったが、メグレはそこの隣人から驚愕の事実を知る。彼女はニニと名乗るダンス好きの娘で、しかもエレーヌにそっくりなのだ!
もうひとりのエレーヌがいたのだ! エレーヌとニニは同一人物なのか? 「あり得ない!」とメグレは呟く。ニニ、エレーヌ、どちらがオルフェーヴル河岸を訪れたのか? どちらが殺した? どちらがいま小銭だけでパリを逃げている?
メグレがオルフェーヴル河岸に戻ると、アンリはオフィスの隅に座っていた。「何も口を割りません!」とトランス刑事。
《オルフェーヴル・ブラッセリー》から食事と飲み物が届く。煙草がしばしの憩いとなる。メグレはグラスのビールを一気に半分飲み干し、アンリにもすすめ、パイプの灰をストーブに落としながら会話する。「彼女はどこです?」「彼女は25フランも持っていなかったそうだ!」
アンリは少しずつこれまでのことを語り始める。彼は自分の疑いを晴らしたくて、しかし奇怪な事態に混乱していたのだ。事情を聞いてメグレはいった。
「この8日間……、エレーヌは狂っていたのか?」
「わかりません!」
「彼女が殺したと思うか?」
アンリは肩を落とす。いま彼女はパリの街を、一夜をしのぐ金もなしに彷徨っているのだ。
ふたりの目が合う。すでに両者の間に敵はいなかった。「よし始めよう!」と警視はいって、外套を取った。「来ないか?」
──ふたりは彼女を探しに出て行く。アンリの運転する車でメグレはいった。「きみは私のパイプを壊したんだぜ」するとアンリは車を停め、英国製の上等のパイプを買ってきた。「どうぞ受け取ってください」彼もいまは楽観的になりたかったのだ。
モントレイユに住むギャストンビド家の苦悩が、やがて明らかになってゆく。
しょっぱなからメグレ警視が登場、しかも場所はオルフェーヴル河岸、霧の夜! がつんと冒頭で謎が提示され、そこからどんどん捜査が始まる。メグレ警視シリーズの定跡がすでに出来上がっている。いや、これ、正編に入ってもまったくおかしくない作品ではないかと、途中までは本当に驚きながら読み進めていた。
しかもトランス刑事に加えて、メグレシリーズの常連キャラクターであるコメリオ判事がすでに名前を見せている! 後半には部長 chef(あるいは directeur de la Sûreté)も出てくるので、もう雰囲気は正編シリーズそのままだ。なんとメグレはリシャール=ルノワール大通り boulevard Richard-Lenoir に住んでいて、45歳の妻は嫉妬しやすい性格だという記述まで出てくる。オルフェーヴル河岸にはオフィスボーイがおり、メグレたちは勤務中にも出前のビールを飲んでいる。彼らの昼食はサンドイッチ。正編で何作もかけて少しずつ明らかになっていった設定が、この前史にはすでに書かれている!
メグレの自分のオフィスがある場所をオルフェーヴル河岸といっているが、その建物で警視庁 Préfecture だといって電話を取っている。メグレは警視庁本部庁舎ではなくパリ司法宮の河岸側にいるのだが、組織としては「警視庁」の一部だということだ。現在の警視庁と司法警察局は組織として国家警察総局のもとに並列的な感じのようだが、当時はそうだったのだろう。司法警察局 Police judiciaire の者だといっているが、保安部 Sûretéという呼び方も出てくる。機動隊 Brigade mobile 所属といういい方は後の正編のごく初期にも登場する。当時の記述の感じがかえってよくわかる。
エレーヌとニニは瓜ふたつの別人なのか、多重人格の同一人物なのか、それとも知られざる双子なのか? という謎は、メグレ第1作の『怪盗レトン』でも出てくるパターンだ。研究家のミシェル・ルモアヌ氏は本作のある部分が『港の酒場で』7章で青年ル・クランシュが倒れる場面に似ていると指摘するが、むしろ全体の雰囲気は『メグレと深夜の十字路』に近いと思う。そしてこのあたりに本作の特徴と問題がある。
シムノンのペンネーム時代の長編は、たいてい3部で構成されている。そして2部までは面白いのに、3部でいきなりだめになるというパターンが非常に多いのだ。本作も途中まで本当にいい感じなのに、3部に入って「打ち切りなのか?」と思えるほどひどい展開を見せる! 勝手に重要人物たちが死んでいったり告白を始めたりして、自滅的に事件は終わるのだ。しかも今回は感傷的なラストシーンもなく、「いやあ、真相はこうだったんですよ、あっはっは」的な感じでメグレがまとめて終わるので、余韻も何もあったものじゃない。
ペンネーム時代のシムノンは長編において、物語の起承転結の「転」が書けない作家だったのだということがわかる。本連載第17回でも指摘したが、若いころのシムノンは、ハリウッド脚本家のシド・フィールドが後に『素晴らしい映画を描くためにあなたに必要なワークブック』(フィルムアート社)で見出すストーリー構造上の重要な転換点、すなわち「ミッド・ポイント」が書けない作家だった。
「ミッド・ポイント」とは主人公が守勢から攻勢に転じる瞬間のことで、このポイントを経ることで物語は後半へ向けて動き出す。主人公は自ら事件を解決するために行動し始め、そこで初めて物語は結末へ向けて折り返すのである。シムノンはこれが書けない。物語が進行して難しい局面を迎えると、主人公は重傷を負って、意識不明となってしまう。誰かの懸命な看病で意識が戻ったときには事件が解決している。最後に主人公は感傷を抱えてどこかに旅立つか故郷へ戻るかして終わる。本来ならここにふた山くらい展開を盛り込まなくてはいけないのに、若いころのシムノンはそれが難しいので逃げている。
これは重要な問題だ。メグレを指してよくいわれるキャッチフレーズに《運命の修理人》があり、これは批評家の言葉をシムノン自身が気に入って用いたために広まったものらしいが、そこに至るまでの道は作家シムノンの技術的成長と不可分であったように思える。
しばしば、メグレは探偵役なのに何もしていないといわれる。事件は勝手に解決してしまい、メグレはただその成り行きを観察しているに過ぎないということだ。
筆力がついてきてからの作品は、それでもあまりこのことが気にならない。だがもともとこれは作者シムノンが「ミッド・ポイント」を書けず、主人公であるメグレがどこかで攻勢に転じる構成をつくれなかったことにルーツがあるのではないか。そして初期の作品では、しばしば事件は自滅的に解決してしまう。正編でさえ『紺碧海岸のメグレ』にはこの弱点が露呈している。探偵役がどうやって攻勢に打って出ればよいか作者でさえわからないので、物語が終わるために事件は自滅するほかないのである。結果的に、探偵役は何もしない、ただ物語の行方を観察するだけ、ということになる。
逆に考えれば、シムノンはこの重大なおのれの欠点から、メグレ警視シリーズの見事な定跡を生み出したのだといえる。そしてもし結末に見事な感傷が提示できたならば、鉄板といってよいほどの満足感が読者にもたらされる。ストーリー構造における素晴らしい発見ないし発明である。
本作『不安の家』の内容に戻ろう。たくさんの容疑者が最初のうちから次々と紹介される。まったく性格の違うエレーヌとニニは同一人物なのか? という謎が出てくる。終盤ではギャストンビド家に伝わる血筋の因縁が語られる。焦点となる容疑者が次々と移り変わってゆく。シムノンは事件を複雑に見せようとして、込み入った人物関係を懸命につくっているのだが、関係がぐちゃぐちゃであることと事件の謎が魅力的になることは別だ。『メグレと深夜の十字路』にも込み入った人物関係で謎を引っ張ろうとする調子が残っている。ジャン・ルノワール監督の映画『十字路の夜』はフィルムが何巻か途中で抜けているのではないかと揶揄されるほど前後関係がよくわからないといわれるが、実際はフィルムロールが欠失しているわけではない。もともとシムノンの原作が必要以上に込み入っているから余計にそう思えるのだろう。このあたりの力み、空回りぶりは作者の若さゆえと考えられる。
それでもメグレ読者なら本作のパイプの記述には「おおっ」と喜びの声を上げたくなるはずだ。シリーズ第1作『怪盗レトン』で登場した際にメグレが持っていたパイプは、つまり本作のアンリ・ドゥマシが贈ったものだったのかもしれない! シリーズの世界観に奥行きを与える味わい深いエピソードだ。この部分が読めただけで本作にトライしてよかったと思える。
ギャストンビド家の血筋の苦悩はいかにもフォーミュラ小説っぽいものの、一度は医学を志したシムノンらしい理系的なものだ。シムノンは文系作家の代表例のように思われているかもしれないが、意外と初期のプロットは理詰めであるし、医学や薬学に関する言及も多い。本作でエヴァリストは百科事典を売り歩いていることになっているが、シムノン自身も日頃から《ラルース大百科事典》を愛用して、あれこれ項目を引きながら見知らぬ異国を描写していたそうだから、わりと分析的な一面があったはずだ。シムノンのいわば“狂気”がどのようなものであったのか、垣間見られる内容にもなっている。若いころの作品には彼の気質が生のままで出ている。ここからシムノンがどのように作家として成熟してゆくか、それを見届けるのが本連載の主眼だ。
本作は第3部の展開があまりにひどいので、作品として高い評価はとてもつけられない。だが研究家のルモアヌ氏やラカサン氏が指摘するように、確かに本作でメグレは表舞台に立つ準備を整えたのだ。舞台袖でスポットライトを待つメグレの大きな背中が、この作品には描かれている。
【註1】
後に水谷準が、その表紙の「実話的な匂い」と刊行ペースのあまりの速さに当時偏見を持ってしまい、積極的に邦訳紹介できなかったことを記している。「ははア、探訪作家が警察から材料を貰って、それで小説にでっちあげ、次々に書きとばしているんだナ。それじゃ碌なものが出来っこないさ。」『サン・フォリアン寺院の首吊人』(角川文庫、1957)の「あとがき」参照。これは雄鶏社《おんどりみすてりい》版(1950)「あとがき」の改稿版である。
【註2】
同時刊行にもかかわらず各種の書誌で『死んだギャレ氏』が『サン・フォリアン寺院の首吊人』よりも前に来ているのは、執筆順ないしタイトルのアルファベ順のためだと思われる。
ファイヤール社の書籍は、同じ著者の作品としてずらりと既刊タイトルが縦にリストアップされる体裁になっていた。このリストの先頭が『死んだギャレ氏』だったことも、後の書誌に大きな影響を与えただろう。では『死んだギャレ氏』『サン・フォリアン寺院の首吊人』同時刊行の際、初刷掲載のリストはどうなっていたか? お互いの書名がそれぞれひとつずつ載っていたのである。
【ジョルジュ・シムノン情報】
▼『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX Vol.2』(ブロードウェイ)が2017年1月に発売されたが、シムノン原作の映画『モンパルナスの夜』は収録されなかった。この映画は、いまだにどの国からも映像ソフトが出ていないと思われる。
▼Murielle Wenger, Stephen Trussel『Maigret’s World: A Reader’s Companion to Simenon’s Famous Detective』[メグレの世界:シムノンが生んだ著名な探偵への読書ガイド](2017)という英語の本の出版がアナウンスされた。2017年5月刊行予定。著者のひとりスティーヴン・トラッセル氏は今回本文で紹介した世界最良のメグレファンページの管理者であり、期待が高まる。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。 |
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