・Christian Brulls, La figurante, Fayard, 1932/2(原題La jeune fille aux perles)(1929秋執筆か) [真珠の若娘(踊り子)]
・Christian Brulls, La jeune fille aux perles, Julliard, 1991/4 再刊《セカンド・チャンス叢書La Seconde Chance》
・フランシス・ラカサン編, Simenon avant Simenon: Maigret entre en scène, Omnibus, 1999 [シムノン以前のシムノン:メグレ舞台に立つ]
・同名, 新装版, Omnibus, 2009*

 1929年9月30日、シムノンは初めてメグレ警視が登場する長篇小説『マルセイユ特急(夜の列車)』(第27回)を、ファイヤール社と出版契約した。ペンネーム時代に4つ書かれたメグレ前史の第1作である。ファイヤール系列の週刊新聞《リックとラック》に連載され、翌1930年にクリスチャン・ブリュル名義で単行本出版された。メグレ警視とトランス刑事が登場する。
 実はこの同日、9月30日に、シムノンはもうひとつ、『L’inconnue(見知らぬ女)』(クリスチャン・ブリュル名義、1930)という長篇もファイヤールと契約を結んでいる。こちらはリュカ刑事とトランス刑事が登場するらしい。後のメグレファミリーの一員、コメリオ判事の名はすでに『花嫁衣装』(第31回)などで挙がっているので、これで初期ファミリーが揃ったことになる。リュカやトランスはその後もいくつかのペンネーム作品で、ソンセット刑事やL.53と共演を果たす。
 それらの作品もクラシックミステリー探訪の観点からは興味深く、いつかは目を通しておきたいが、いまはひとまずスキップして、メグレ前史の残り2冊を読みたいと思った。今回は2作目の『La jeune fille aux perles(真珠の若娘)』(1932)を取り上げる。
 ミシェル・ルモアヌ氏やフランシス・ラカサン氏の研究に拠ると、本作は1929年に書かれたのだが、ファイヤール社に送って没を食らっていたらしい。しかし翌年、メグレシリーズが本格的に起ち上がることが決まると、この原稿も改めてファイヤール社の大衆文学部門責任者に取り上げられ、日の目を見ることになった。ただし本名のシムノン名義での刊行ではなく、前作『マルセイユ特急』と同じくクリスチャン・ブリュル名義で、やはり粗悪な雑誌形態の読み捨て叢書の1冊としてである。刊行は1932年2月だから、すでにメグレ正典シリーズの毎月刊行が始まって1年が過ぎていたことになる。
 契約締結に際してシムノンがつけた原題『La jeune fille aux perles』は、編集部によって『La figurante』へと変更された。このfigurante(フィギュラントゥ)とはfigurantの女性形で、手元の辞書を引くと「(演劇、映画などの、普通はせりふのない)端役、エキストラ」「〔古〕(バレエで幕の初めの)群舞を踊るダンサー」などと出てくるが、ウェブ検索するとふつうに「女性バレエダンサー」の意味もあるようなので、つまり「踊り子」ということだろう。
 シムノンはこの変更を嫌ったのか、後年の『メグレの回想録』(1951)では本作のエピソードを原題で紹介しているそうだが(順番に合わせてまだ積ん読中なので未確認)、私は『踊り子』もそんなに悪いタイトルではないと思っている。この踊り子とは本作に登場する「真珠の若娘」、ナディーヌ・ランジュヴァン(愛称ナディ)のことだ。
 彼女は成功した実業家エクトール・ランジュヴァンのひとり娘としてなにひとつ不自由なく育てられ、その美しさによってパリの若者たちの間では人気の的で、男なら誰もが夢中になるような、若さ弾ける女性だった。しかし彼女はエレガントなドレスに身を包みつつも、人生の本当の意味など考えたこともない、中身の空疎な人形であった。それゆえに事業の失敗で一日にして財産を失い、父が自殺を遂げて初めて、彼女は自分がたんなる空っぽの美しさでしかなかったことに気づくのである。
 本作はメグレ警視こそ登場するものの、ペンネーム時代のシムノンの典型的な感傷小説だ。主人公はこの若娘ナディと、彼を慕う技術者ジャック・モルサンのふたり。そしてシムノンは感傷小説として無難に本作をまとめ上げている。相変わらず起承転結の「転」は存在せず、物語の後半3分の1は犯人による独白で埋め尽くされ、犯人は誰かなどといった謎解きは端から作者が関心を抱いていないことも明白だが、私はペンネーム時代のこうした類型的なシムノンの感傷小説が決して嫌いではない。
 シムノンの感傷小説には「踊り子」がよく似合う。私がこの時代のシムノン作品を読んでしばしば連想するのは村下孝蔵の楽曲「踊り子」だ。その適度な甘さと感傷が、そして「つま先で立ったまま 君を愛してきた」「写真をばらまいたよに 心が乱れる」という歌詞に代表される鮮烈な比喩表現が、私のなかではこのころのシムノンとぴったり重なり合うのである。日本で今後シムノンを映像化することがあるなら、主題歌は村下孝蔵にするべきだ。
 あるいは本作でいえば、フランス・ギャルのフレンチポップ「夢みるシャンソン人形」だ。作詞作曲はあのエロ親父、セルジュ・ゲンズブールである(第36回)。いたいけな10代の娘に「私は音が出るただの蠟人形」と歌わせるこの倒錯ぶりはどうだ。本作の若娘ナディをキャスティングするなら当時のフランス・ギャル以外にあり得ないだろう。こういう娘を描かせると、シムノンは若いころから異様な冴えを見せたのである。
 本作のナディは19歳。シムノンは「jeune(fille)」という言葉が好きだったのか、ペンネーム時代から小説のタイトルに用いる傾向があり、たとえば後年の『メグレと若い女の死』(1954)も原題は『Maigret et la jeune morte』で、「若い女性死体」と「jeune」が使われている。シムノンにとって10代後半ころの女性が「jeune fille」なのだ。もっと若い「少女」の場合なら、シムノンは「petite fille」と表記する。

 19歳のナディは裕福な実業家ランジュヴァンの美しい娘で、その日もセーヌ河岸の堤に係留してあるヨットでパーティに興じ、快楽的な日常を過ごしたのだが、自宅のホテルへ戻ると見知らぬ男たちが待ち構えていた。彼らは警察や検察局の者で、保安部のメグレ警視と名乗るそのひとりからナディは驚愕の事実を知らされる。父の財産が一夜にして破綻し、父は自室で自殺を遂げたというのだ。
 父は15歳でアメリカに渡り、貧乏暮らしからなんとか這い上がり、パリに戻って成功をつかんだ男だった。しかしナディにとって、この破産は寝耳に水の話だった。「知らせておくべき友人はいるか」とメグレに問われて、咄嗟にナディは半年前から知り合いである32歳の技術者、ジャック・モルサンの名を思い出す。彼は父から融資を受けていた既婚者で、決してナディにとって恋愛の対象ではなかったが、信頼できる人物だと感じていた。しかしそのモルサンの妻は、なんと父と愛人関係にあったらしいという噂があった。
 もうすぐ債権者らがやってきて、家具も何もかもすべてを持ち出していってしまうだろう。銀行口座も凍結されるはずだ。そのときそっとナディのもとに、ジャンという若いポーターの男が声をかけ、父の資産である真珠の宝石を手渡した。隠しやすい宝石を密かに手元に置いて、生活の足しにしてください、という心配りだった。しかし自分のような小娘がひとりで真珠など持つわけにはいかない。ナディは世間知らずではあったが、ちょうどその日、技術者モルサンがかねてから父に願い出ていた融資金を受け取りに来たので、ナディは真珠を現金に換えてモルサンに渡した。その金がなかったらモルサンは研究所を運営できないところだった。モルサンは妻を奪われたと人から聞いてランジュヴァンを憎んでいたものの、ナディのこの配慮には深く感じ入った。
 その夜、ランジュヴァン氏のホテルから、こっそりと抜け出した人物がいた。ランジュヴァン氏が数年前から雇っていた秘書、ジョゼフ・モルニエである。彼は銀行家の老人アイザック・レイズウィックのもとへと向かった。ふたりは悪魔的な笑みを浮かべて語り合う。「すべてうまくいきました。期待通りにランジュヴァンは自殺しました」「娘はどうしている?」「モルサンが助けてくれると思っていたようです」「本当かね?」「ナディにモルサン夫人の手紙を見せて信じさせました。その後、彼女の目の前で手紙の束は焼き捨てておきました。大事な一通は残したままですが……」「私のことは話さなかっただろうな。召使いたちは?」「みんな判事に追い出されましたよ。あとはジャンのみで」
 つまりふたりは実業家ランジュヴァンを破産に陥れ、自殺に追いやった共犯者だったのである。だがメグレ警視の観察は鋭かった。彼はその夜、ホテルに残るふりをして密かに秘書モルニエの後を追い、銀行家レイズウィックと会ったことをはっきりとつかんでいたのである。
 だが銀行家レイズウィックの悪魔的策略は終わらなかった。密かにナディと会い、無一文になった彼女に向かって、「私の愛人になれ。そうすれば助けてやる」と脅迫してきたのだ。明日から海岸町ドーヴィルへ行く、それについて来いとナディに迫った。
 そしていくらか月日が経って7月、モルサンはドーヴィルで不意に呼び止められた。相手はかつてランジュヴァン氏の秘書であったジャック・モルニエだ。なぜ彼がこんなところに? なぜ声をかけてきたのか? モルニエは、いま自分は銀行家レイズウィックの個人秘書として雇われているのだといい、悪魔的な笑みを浮かべつつビーチを指し示した。そこで日光浴を愉しんでいたのは、なんとレイズウィックとナディではないか。ナディは半裸で、以前とはうって変わったような愛人ぶりを周囲に見せつけている。いったい彼女に何が起こったのか。
 レイズウィックとナディはドーヴィルの連棟のヴィラに暮らしているのだという。ナディはいまやドーヴィルの女神的存在で、レイズウィックの愛人で、夜な夜なカジノで放蕩する、“生きた贅沢品”なのだとモルニエは嘯く。モルサンにとってはショックだった。そして彼は、レイズウィックが主催するヨット船上パーティに招待される。半信半疑ながらもモルサンは後日、ヨットのパーティに足を運ぶ。だがそこでモルサンは、金に群がる大勢の若者に囲まれながら、しかし「女神なら半裸になって見せろ!」と嘲笑される彼女の姿を目の当たりにした。ナディの真意はどこにあるのか? モルサンの心のなかに、彼女を救ってやりたいという愛の気持ちが芽生え始める。
 だがある夜、レイズウィックがヴィラの自室で頭を凶器で殴られて殺されるという事件が起こった。パリから機動隊のメグレ警視がやってきて捜査に当たる。隣の棟に暮らしていたナディはまさに第一容疑者であった。秘書モルニエはつねに悪魔的な存在として、モルサンの周囲に現れては、彼の心を揺さぶるような不安の言葉を残してゆく。ナディが銀行家を殺したのか? メグレの地道で辛抱強い聞き取り捜査が続く。モルサンはさらにナディへ愛を募らせつつあった。そしてある夜、モルニエがモルサンに囁いた。「第3の犠牲者が出るぞ」と……。堪りかねてモルサンはナディのヴィラへと向かった。そこで彼は真実を知る……。メグレはモルサンとナディの運命を救えるのか? 

 本作はメグレ前史の1作であるため、今後ひょっとしたら邦訳紹介の機会があるかもしれないので、いちおう犯人の名や事件の真相は伏せておこう。第一印象は、これまでのペンネーム作品と比べてずいぶん読みやすくなったなあ、というものだ。ごちゃごちゃした時系列のシャッフルもなく、登場人物も必要最小限に絞られて、小手先ではないそれなりの大衆小説をシムノンが書けるようになってきたことが伝わってくる。これまで読んだ限りだと、やはり1928年執筆までの作品は未熟で、読んでいてつらい。1929年に入ってかなり作品がこなれてきたと感じる。これなら好事家のために少部数で邦訳紹介してもよいのではないか、と感じるくらいには楽しめる小説となっている。
 なにより、評論家ラカサン氏も指摘しているように、作者シムノンが大衆小説の職業作家として、余計な夾雑物や思惑を含めず、読み捨て感傷小説の王道に徹して筆を進めているのがいい。以前のイーヴ・ジャリーものでは、若きシムノン自身の理想や願望、将来への夢といったものが小説内で主張されていた。それは青臭いテーマではあったが、当時のシムノンが抱いていた偽らざる心の叫びでもあったわけで、それはそれで好感が持てたが、本作にはそうした生硬さは微塵もなく、徹頭徹尾たんなる娯楽小説の体裁に奉じている。そういう割り切りを、私は嫌いではない。作家というものはときにそうやって小説を書くのが仕事だからだ。
 本作にメグレ警視は登場するが、犯人はほとんど読者にとっては自明であり、謎解きの興味はどこにもない。後半に犯人の長い告白によって、いくらか意外な因縁関係が明かされるが、あっと驚くほどでもない。しかし各登場人物は感傷小説の類型に則って、それぞれきちんと立場をわきまえて行動し、枠から決して外れることなく任務を遂行する。悪魔メフィストフェレスのように何度も現れてはモルサンを疑念に陥れる秘書モルニエなどその代表格だろう。
 本作のメグレは、すでに今日の私たちが知るメグレ像を確立している。今回はほぼ単独行動で、トランス刑事も登場しないのだが、それでもキャラクターの立ちぶりはしっかりとしている。前作『マルセイユ特急』より出番も増えた。
 メグレは保安部機動隊の警視で(執筆された1929年当時、まだパリ司法警察局はオルフェーヴル河岸に存在していなかった)、『怪盗レトン』(第1回)などメグレ正典の最初期の設定と同じだ。終盤、モルサンとナディはパリのメグレに会いに出向く。ふたりは(ノートルダム大聖堂の向かいに建つ)パリ警視庁Préfecture de Policeに行ったとあるので、そのころ保安部機動隊は警視庁の本庁庁舎内にあったのか、あるいは実際には違うがシムノンはそう思い込んでいたのかもしれない。

「家族は? 友達もいないのかね?」
 警視は彼女に同情plaindreしている様子だった! 彼は巨大な幅広の人物で、首には力があり、全体的に不機嫌さと優しさを併せ持っていた。(第1部第2章)

 開幕直後から、すでにメグレは上記のように描写される。

 一階のラウンジで、彼はその男を見た。肩幅は広く、岩のように厚い顔で、しかし小さな目は輝いていた。彼はひとりテーブルでサンドイッチを食べていた。(第2部第6章)
 
 メグレ警視は部屋の中央に行って立ち、パイプに小さな暗いひと差しで火を点けると、馴れた仕草で煙草袋をポケットに戻した。(第3部第1章)

 岩のようにがっしりとして、パイプを吹かし、足を棒にすることも厭わず尾行と張り込みを寡黙に続ける。そして事件に巻き込まれた若者の心に寄り添う……。『怪盗レトン』で見られたメグレの姿がすでにある。そして彼はこのようにいう。

「落ち着け! 私は何も信じない! 私は何も考えない! ただ知りたいだけだ、それで充分だ……」(第2部第7章)

 作者シムノンのなかで、早くもメグレという男が見えてきているのだ。いままで描いてきたどんな刑事役よりも、このメグレなる男は作者である自分によく見えると、シムノンは手応えを感じていたに違いない。
 本作は結局、愛と憎しみは紙一重であるという永遠の命題を読者に提示して終わる。それ自体は平凡だが、大衆娯楽小説としては充分なテーマだ。
 最後の短いエピローグがとてもよい。わずか2ページだが、もっと正確にいえば2ページのうち、最後の1ページが素晴らしい。私たちの知るシムノンが帰ってきた、といったらおかしいかもしれないが、いつもシムノン作品はこの最後の1ページがあるからこそ、読者を満足させ、次の1冊を手に取らせる力を発揮する。その部分だけ少し明かそう。
 物語の最後にモルサンとナディは結婚する。ふたりは挙式の後、モルサンの車でパリ市内をあちこちドライブして巡る手はずなのだが、式場の前に停められた新郎の車の後部座席には、メグレ警視からのカードが添えられた白い薔薇のブーケがあった。
 そして陽が落ちてホテルへと辿り着く直前、停止した車のなかで、モルサンの腕に抱かれたナディが見上げていった。「星が見えるわ!」
「どこに?」
「二枚の葉の間に。ほら、葉の一方で、蝶が留まって休んでいる……。すてきね、ジャック」
「何がすてきだって?」
「星が……。藤色の空が……。息づく葉っぱと眠る蝶が……。そしてあなたに対して、あなたを愛する人が……」
 新妻はいった。
「動かないで! このままでいて、もう少し長く……。私は、いま生まれて初めて生きているような気がするの……。初めて空を見て、枝葉の繁みを見て……。動かないで……。私はとても幸せなの、わかるでしょう?」
 そしてホテルに着いたとき、新郎は新婦を抱きかかえて建物に入らなくてはならなかった。新婦は眠っていたのだ、彼の腕のなかで、少女のように。
 彼女はきっと星を夢見ているのだろう。バージニアの茎に留まる蝶を夢見ているのだろう。なぜなら彼女はその夜のうららかな自然のように、微笑みを浮かべていたのだから。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
 文理の枠を超えた「パンデミックと総合知」をテーマに、母校・東北大学の研究者らとの対話連載を展開中。記事構成は翻訳家・サイエンスライターの渡辺政隆氏(https://web.tohoku.ac.jp/covid19-r/people/)。

 以前『A&F COUNTRY総合カタログ 2021』に寄稿した短篇「クレアあるいは現代のパンデモス」が、なんとAmazon.co.jpの「試し読み」から全文無料で読めるようになっていた。久々のホラーなので取扱注意のこと。




 
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