昨年4月に上海でオープンしたミステリー小説専門店・孤島書店が3月12日に閉店してしまいました。上海在住の中国ミステリー小説家・時晨が開いたこのお店は、このコラムでも以前取り上げたことがあります ☞「第83回:上海の孤島書店と民国ミステリー」
とても内装に凝っていて、店主の時晨もほぼ常駐しているからいつでもサインをもらえ、さらに定期的にミステリー業界関係者を招いてトークショーや講座を開くなど、精力的に客を呼び込んでいました。しかし一方、今の中国、しかも地価が高い上海で書店経営は可能なのかという不安は私にもありました。
上の記事にも書いている通り、中国は本が書店で割引されて売られているばかりか、タオバオなどのネットショップだとさらに安く手軽に買えます。実際私も、もし上海に住んでいたらミステリー小説を買う際はタオバオからではなくわざわざ孤島書店に行って買うか? と聞かれたら、答えはノーだったでしょう。もちろん、作家のトークショーがあってサイン本がゲットできる機会があれば、孤島書店を選んだとは思いますが。
また、新型コロナの影響かどうかは分かりませんが、中国で本の売上が全体的に下がったという話も聞きましたし、ブックフェアなども、規模が縮小したり延期・中止になったりしましたので、中国の出版業界もかなり向かい風です。だからこそ、業界関係者を友達感覚で呼べて集客が見込める孤島書店は、コロナ下の上海で貴重な存在になると思ったのですが、現実はやはり厳しかったようです。
ちなみに時晨といえば、短編「臨死体験をした女」の和訳が、2022年1月号のミステリマガジンに掲載されています。交通事故に遭って死にかけた女性が語るおどろおどろしい地獄巡りの様子と、実在する上海の地理を比べ合わせ、その臨死体験談の裏に隠された殺人事件を解き明かすという内容です。
また、民国時代の上海を舞台にして、当時の探偵小説に描かれた探偵たちを登場させる中華風パスティーシュな新刊、『偵探往時』もあります。こちらは、「第86回:民国時代の名探偵が集結!『偵探往時』」でも取り上げました。
今回の1年足らずの書店経営が時晨の今後の創作にどのように活かされるのか、静かに注目していきたいと思います。
さて、出版業界の景気が悪くても、新刊は出るので、いっそう応援しなければいけません。というわけで、今回は中国ミステリー小説を2冊紹介します。
1.両親と共に消えた島の謎を追え
『再見、安息島』(さよなら、安息島)(著:王稼駿)
15年前の嵐の夜、安息島という小島が消失した。島とともに両親を失った沈括は、安息島があった海域で漂流していた男が発見されたという知らせを聞き、それが父親なのではという希望を抱く。だがその男は、両親と一緒に行方が分からなくなっていた葉好龍だった。彼は15年間どこにいたのか? 沈括は彼に話を聞きに行こうとするが、葉好龍は自殺し、彼を発見した漁師は殺され、沈括も何者かに襲われる。安息島消失に隠された謎とは? |
小さいとはいえ、島一つが消えた謎を追うというのは結構スケールが大きいです。また、15年前の自殺の手法が現代で再現されるという事実から、過去の自殺も実は殺人だったのでは? という疑問が浮かび、物語に連続性を持たせています。しかも探偵役の沈括が事件の当事者でもあるものだから、とっくに消えてなくなった安息島に対して「本当はまだあるんじゃないか? 両親もまだ生きているんじゃないか?」と疑うほど推理がブレて、「信用できない探偵」になっている点が面白い。
とは言え、消えた島が実はありましたなんてオチが許されるわけなく、安息島が消えた原因はちゃんと語られるのですが、そんな当たり前の事実を最後に解く謎として残していたのはちょっと弱いなと思いました。
2.香港のカオス感漂うハードボイルド小説
『床下的旅行箱』(ベッドの下のスーツケース)(著:巫昴)
香港に呼び出された私立探偵の以千計は、写真に撮影された背中同士を縫い合わされた男女の死体の行方と、それを実行した犯人を見つけるよう依頼され、あの有名な重慶大厦(チョンキンマンション)に住むことになる。用意された部屋のベッドの下には頑丈な鍵のかかったスーツケースが。写真に写る男女は、実は不倫関係にあった。以千計は二人の生前の足取りをたどる中で、事件の鍵はやはり重慶大厦にあると悟る。 |
まだデモが起きる前の2016年を舞台にしていて、さまざまな人種が入り乱れて国際色にあふれ、ややイリーガルな雰囲気を帯びた香港が描かれます。例えば私立探偵は中国大陸だと違法なので、創作物に登場させてもリアリティがないのですが(だから、本業がちゃんとあって副業で探偵みたいなことを頼まれるというキャラが多い)、香港が舞台だと、香港の法律はともかく、探偵が依頼人からお金をもらって関係者に事情を聞き回る光景も自然に浮かびます。そういった包摂性と許容性を感じさせる香港は、ハードボイルド小説にはピッタリの舞台なのかもしれません。
そんな狭く濃密な香港という街をアルコールが入った頭で闊歩し、海千山千の者たちと渡り合う以千計という探偵、とある中国人の感想では、フィリップ・マーロウやマット・スカダーを思わせると書かれています。そしてなぜか、日本滞在経験があって日本人女性との間に娘がいるというよく分からない設定もあります。おそらく、現実で酔っ払って千鳥足になっているのと同様、どこに身を落ち着けたらいいのか分からない寄る辺のなさを表しているのだと思いますが……。
ハードボイルド小説として一気読みできる強さがある本ですが、後味がちょっと悪かったです。結局、ベッドの下にあったスーツケースもそこまで物語に絡んできませんでしたし。
他にも手元には、第4回島田荘司推理小説賞受賞作品『黄』(和訳有り)の著者・雷鈞のゾンビものミステリー『希望你是人類』や、中国の伝統的な書画をテーマにした連続殺を描いた『画語戮』(著者・沙硯之)など、紹介したい作品があるのですが、まだ全然手を付けていない有様です。
特に『希望你是人類』は、表紙に「ラスト10ページで全てが覆る」と書かれているほど自信たっぷりな叙述トリックなので、ネタバレと事故ってしまう前に読み終わらなければいけないのですが、なにせストーリーの舞台が中世ヨーロッパ、出てくる人物がみんな外国人、だけど人名も地名も全部漢字という構成に悪戦苦闘しています。愛徳華・布莱亜兹(エドワード・ブレイヤーズ)、費倫茨(フェレンツ)、盖夫頓(グラフトン)……と、馴染みのない名前が次々に出てきて、読み進めるのが本当に大変で……
きちんと読み終わったらここで取り上げたいと思います。
阿井幸作(あい こうさく) |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ |
●現代華文推理系列 第三集●
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