L’Assassin, Gallimard, 1937(1935/12執筆)[原題:殺人者]
・« Le Figaro » 1936/1/10-2/15号
The Murderer, translated by Geoffrey Sainsbury, Penguin Books, 1958[英]
The Murderer, A Wife at Sea所収, translated by Geoffrey Sainsbury, Routledge & Kegan Paul, 1949(A Wife at Sea/The Murderer)[英]【写真】
Tout Simenon T20, 2003 Les romans durs 1934-1937 T2, 2012

 クペルス医師にとって日常生活のなかでそれはとても個人的に雑多な、習慣的な行為で、そしてもっともすばらしい冒険であり、スネーク(オランダ、フリースラント州)に住むハンス・クペルスはほとんど官能的な興奮を感じており、それはたとえばカフェインの効果を思い出させるものだった。
 彼はいつもの第一火曜日と同じようにアムステルダムにいた。1月だった。雪が降っており、彼は毛皮のコートを着て、靴に革を巻いていた。
 こうした詳細は重要ではない。つまり物事はふだんの毎月第一火曜日と同じだったということだ。この日程が繰り返されるまで──美しい赤煉瓦の駅を離れ、向かいで一杯のジンを飲み、その間彼は誰にも話しかけず、それは朝10時にそうするのはふさわしくないからだった。彼は朝、酒類販売許可の下りたカフェにひとりで入り、アルコールを消費するのだった。
 ひと晩中雪が降り、なおも降っていた。だが雰囲気はとても明るかった。雪片はゆっくりと舞い降り、とても少なくなって、空気中で触れることもなくなり、そしてときおり青白い太陽が顔を出した。地面に雪が残っていた。人々は雪を掻き集めていた。土手の近くの運河では氷の膜ができて、船体は霜の結晶で輝いていた。(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)

 素晴らしい。見事である。本作『L’Assassin[殺人者]はシムノン第一期を代表する傑作だ。
 以前に絶賛した『運河の家』第37回)と対をなす作品だといっていいだろう。『運河の家』ないし本作『殺人者』の少なくともいずれかは、いつか必ず邦訳紹介されなければいけないと思う。それほど優れた小説である。そして本作をさらに深く考えるには、『倫敦から来た男』第41回)と比較するのも有効に違いない。
 
 オランダのスネークという町に暮らす45歳の外科医、ハンス・クペルスは、毎月第一火曜日に医師会の集まりでアムステルダムに行く。そして義理の姉の家で一泊し、翌水曜日に家に戻る。だが1月のその日、クペルスはいつもと違う行動を取った。アムステルダムに着いてから彼はリボルバーを買い、そのまま列車と船でスネークに戻ってきたのである。駅と駅の間で列車を飛び降り、彼は雪のなかを運河そばのバンガローへと向かった。そこは知人で地元の名士であるシュッテルの家だった。
 クペルスは匿名の手紙をもらっており、そこには彼がアムステルダムに行く日、妻のアリスはシュッテルの家に泊まっていると不倫の事実が書かれていたのである。はたして妻のアリスはシュッテルの家で寛いでいた。ふたりが家から出てきたところで、クペルスはふたりを撃って殺し、死体を運河に投げ入れた。彼は自分もその銃で自殺するつもりだった。だができず、彼は銃を運河に棄てて町へと戻った。
 クペルスやシュッテルはビリヤードクラブ《ライムの木の下》の会員だった。クペルスは《ライムの木の下》に行き、旧知の人々と会い、アリバイをつくる。誰もその日が第一火曜日だとは気づいておらず、クペルスがいることを疑っていない様子だった。クペルスは家へ戻り、メイドのネールを誘い、ベッドをともにする。
 妻がいなくなってから2日後、クペルスは警察に通報する。シュッテルも失踪したことはすでに知られていたが、クペルスが殺したという証拠は何もない。
 ようやく2月下旬になって、警察が運河の底を攫い、ふたりの遺体を発見した。だがリボルバーは見つからず、またクペルスはシュッテルの財布も抜き取っていたため、警察は物盗りの犯行の線も捨て切れなかった。あるいはふたりは愛の逃避行で自殺したのかもしれない。いずれにせよクペルスは調査判事の質問を受けたものの、放免された。
 完全犯罪の成立である。だが匿名の手紙が誰からのものだったのかという謎は残った。クペルスはメイドのネールを愛し始めていた。彼女と結婚してもいいとさえ思うようになっていた。だが彼女が匿名の手紙を書いたのかもしれない。彼女にはカールという男がおり、クペルスの知らないうちに彼女はその男を家にまで入れていた。カールはアムステルダムに引っ込んだが、やがて金を無心してきた。手紙は彼が書いたのかもしれない。
 3月、久しぶりに医師会の集まりのためアムステルダムに赴いたクペルスは、カールと会って話をする。そこでクペルスは、カールがかねてから自分をアリスとシュッテル殺しの張本人ではないかと思っていたことを聞き出し、不安に陥る。妻が死んでからビリヤードクラブの面々を始め、町の人々はクペルスに同情してくれていると思っていた。だが実際は誰もが彼を殺人者だと心のなかで疑っているのではないか。
 家に帰ってネールに問い質すと、やはりネールもそう思っていたことが明らかになる。クペルスがスネークの町を歩くと、街路で遊んでいる少年たちが、彼を殺人者だと騒ぎ立て、恐れの目で見つめてくる。殺しの証拠は何ひとつ出ていない。だが町の皆はクペルスが殺人者だと思っているのだ。そのことを知ったクペルスは、徐々に心が壊れてゆく。

 物語はハンス・クペルスの心情に寄り添いながら一直線に突き進む。第1章で彼は妻と愛人の男を殺し、死体を遺棄する。雪景色のなかでおこなわれるこの惨劇が、がつんと冒頭から読者に提示される。この緊迫感は本当に素晴らしい。
 そして物語はつねにクペルスの心象を通して語られるため、私たち読者はクペルスと同調し、彼に強く共感して、強烈なサスペンスを体験することになる。
 これまで読んできた限り、シムノンはオランダを舞台にしたとき傑作を生み出すことが多い。ペンネーム時代の『赤い砂の城』第23回)、メグレものの『オランダの犯罪』第7回)、そして『運河の家』『赤い砂の城』『運河の家』ではやはりオランダの凍えるような寒さが印象的であったし、『オランダの犯罪』『運河の家』ではオランダの風土が持つ孤立感、個人への疎外感が描かれていた。今回もオランダの情景が美しく、かつ恐ろしい。
 人を殺して、死体をオランダの運河へ投げ棄てる。冬で運河は凍るため、死体はなかなか見つからない。発見されたときには死体も損壊し、証拠不充分になっている──これは『運河の家』で描かれた展開である。この点で本作『殺人者』『運河の家』とよく似ている。だが決定的に違うのは、『運河の家』の主人公エドメが読者にとっていったい何を考えているのかわからない女性であったのに対し、本作『殺人者』では最初から主人公クペルスの心情がすべて詳細に描き込まれ、読者はそれを追ってゆくことである。共感性に対する作者の筆致が違うのだ。『運河の家』は主人公の心の内側に入り込まない。本作は主人公の心に寄り添う。
 唐突な質問だが、あなたは読書の醍醐味とはいったい何だとお考えになるだろうか? 主人公の心の動きを追体験してハラハラドキドキわくわくし、そしてほっこりしたり泣いたりすることだとお考えだろうか? すなわち主人公に“共感”することだろうか? 確かにそれは読書の一面であろう。だがそれは本を読むことの一面に過ぎない。
 現代日本では、この“共感”することに過剰な評価が与えられており、私たち一般読者さえともすれば“共感”こそが“唯一の”読書の醍醐味だと勘違いしてしまう。ウェブに溢れている読者レビューを見るとよい。「共感しました」という感想がポジティヴなものとして語られる一方、「私には共感できませんでした」という感想が、作品を全否定するネガティヴなものとして語られていることがある。まるで「共感できなければ小説ではない。共感できない小説が書かれるのは作者の責任である」とでもいうかのようである。
 この考えが暴走すると、「小説は馬鹿でも読めるものにしなければならない」「小難しい用語や舞台を採用すると共感が得られないので使ってはならない」という文芸編集者側の“忖度”(先回り服従)となる。これが文芸・物語製作の現場では非常に多い。
 共感させるにはつまり、読者にとって身近で、読者がふだんから興味を持っているような物事を書くこと、そして主人公の心を細かく書き込んで、彼らが何を考えているのか手に取るようにわかるように書くこと、あたかも“心が寄り添っている”と読者に錯覚させるかのように書くこと、が必要となる。こうした書き方にはテクニックがあり、さほど難しいものではない。
 海外ミステリーが日本のミステリーより売れないのは、日本の読者にとって海外が舞台だと馴染みがなく“共感”しにくいからだ、という考え方がある。一面では真理である。私たちはふだんから馴染みのあるものに共感しやすい脳の構造を持っているからだ。
 では、海外ミステリーの愛読者は、そうした通俗的な共感を越えて、もっと世界へ目を向けることのできる人々だといえるのだろうか? 必ずしもそうとは限らない。たとえばこの「翻訳ミステリー大賞シンジケートブログ」はTwitterアカウントを持っているが、それに対するレスポンスを子細に検討してみればよい。知り合いやコミュニティ内の仲間だと認められる人が書いた記事、自分が読んだことのある本や著者の記事には、レスポンスがつける人が多いことがわかるだろう。読んだこともない未訳の本に対してのレスポンスは少ない。Twitterで発言していない人、読書会に参加していない人の書いた記事は人気がない。共感性が脳のなかで働かないからレスポンスしないのである。人々は物語の面白さを求めて本を読んでいるのだろうが、同時にその本を媒介として他者とのつながりがほしいから、共感し合いたいから、本の感想を書き、読書会に参加し、Twitterにレスポンスしているのである。共感性は人間の感情のなかでも原始的なものであり、油断していると誰の行動にもその影響が現れる。
 これがシンパシー(共感)とエンパシー(感情移入)の違いであることは、本連載で何度か強調してきた。そしてシムノンは、このシンパシーとエンパシーの違いを鮮烈に突きつけてくる作家である。だから私はシムノンが好きなのだ。読書の精髄を教えてくれるからである。
 話をもとに戻すなら、『運河の家』はエンパシーの小説、そして『殺人者』はシンパシーの小説である。シンパシーで小説を読んでいる読者には『運河の家』は難しいと感じられるに違いない。一方、『殺人者』には熱狂するはずである。現代日本は幸か不幸かシンパシー至上主義の出版情勢であるから、日本で訳出紹介するならまず『殺人者』からおこなうという戦略がよいかもしれない。日本の読者にとってわかりやすいのである。同じオランダが舞台の小説でありながら、『殺人者』は“主人公(裏を返せばすなわち読者)に寄り添う”。だから読者の心をつかみやすい。
 実際、私は本作の終盤に差し掛かり、残りのページ数が少なくなるにつれて、てのひらに汗が滲んで、心臓の鼓動が速くなっていることに気づいた。それほど主人公クペルスと同化していたのである。シムノンの小説ではあまりなかったことだ。ラストの突き放し方は凄まじい。最後の1行までまったく緊張が途切れることがない。ラストで第三者的な視点から見事な叙情を醸し出した『運河の家』とは、その点でも実に好対照であるといえる。
 だが、私は読書にシンパシーだけでなくエンパシーも求めるひとりである。『運河の家』『殺人者』を比較すると、わずかの差で『運河の家』の方が小説として総体的に優れていると感じる。読み終えて心に残る余韻の奥行きを考えると、私個人のなかでは『運河の家』の方に軍配が上がるのだ。ぜひ機会があれば『運河の家』『殺人者』を比較して読んでみていただきたい。あなたがシンパシーの読者か、エンパシーの読者か、わかるのではないかと思う。
 ここで以前に読んだ『倫敦から来た男』が思い出される。『倫敦から来た男』も主人公の転轍士の心に終始“寄り添って”書かれたシンパシーの小説だった。日本では江戸川乱歩が絶賛したこともあって評価が高く、シムノンの代表作のひとつとして紹介されることもある(「ミステリー」の枠内で推薦しやすい内容だからでもあるだろう)。今回の『殺人者』はその点で『倫敦から来た男』とよく似たタイプの小説になっている。
 私は『倫敦から来た男』をあまり高く評価していない。シンパシーが前面に出過ぎている、と感じるためでもあるが、本連載で取り上げてからそれなりの月日を経たいま振り返ると、ラストが弱いことが挙げられる。実際、いま私は『倫敦から来た男』の物語が最後にどうなったのか思い出せず、書籍を改めて確認したところである。シムノンはいつもラストシーンがよいのに、『倫敦から来た男』はその特徴が出ていない。
 ラストは力業で押し通してしまった本作『殺人者』の方がよい。その点でも私は『倫敦から来た男』より『殺人者』を推す。逆にいうなら『倫敦から来た男』が好きな人は本作『殺人者』がもっと好きになるだろう。
 今回は久々にシムノンを読み続けていてよかったと心から思える傑作であった。『倫敦から来た男』以来、どうもいまひとつ突き抜けない作品が続いていた。だがそうした不満を一蹴するだけの力を持った物語だった。
 近い将来に本作が邦訳されることを願って、今回は物語の内容の詳細をあえて書かない。フランス語の読める方はぜひ手に取っていただきたい。
 やはりシムノンは見事である。

 余談をひとつ。本作にはムルス Moers という名の警察医が登場する。メグレシリーズのレギュラーキャラクター、鑑識課職員ムルスと同じ綴りである。だが本作のムルスはオランダで勤務しているのだからメグレと同じ世界の住人ではない。
 フランス語圏では Moers を「ムルス」と発音するのはやや無理があるだろう。たぶん「ムール」ではないか。だがオランダ語圏ならムルスでよいのだと思われる。本連載第53回で紹介したように、シムノンは故郷リエージュにいたころアンリ゠J・ムルス Henri-J. Moers という記者と知り合いで、合作小説も書いていた。鑑識課職員ムルスの名はここから採られたのではないかと私は思っている。

▼映像化作品(瀬名は未見)
・TVドラマ「The Murderer」《Thirteen Against Fate宿命に抗う13人》シリーズ、アラン・ブリッジスAlan Bridges監督、フランク・フィンレイFrank Finlay、マイケル・グッドリーフMichael Goodliffe出演、1966[英][殺人者]
・映画『Der Mörder』オトカー・ルンツェOttokar Runze監督、ゲルハルト・オルシェブスキGerhard Olschewski、Johanna Liebeneiner出演、1979[独][殺人者]

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
 
■解説:瀬名秀明氏!■




















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