第十三回翻訳ミステリー大賞受賞者のコメントが届きましたので掲載いたします。紀蔚然『台北プライベートアイ』を翻訳された舩山むつみさんからの、受賞のおことばです。
 本来なら贈賞式の壇上でお話しいただくところでしたが、今年も会場に集まっての開催はかないませんでした。受賞作の訳者、編集者という壇上のお二人を想像しながらごらんください。

大賞受賞作『台北プライベートアイ』(紀蔚然)翻訳者・舩山むつみ

 

第十三回翻訳ミステリー大賞受賞の御礼

 たいへん名誉な賞を頂戴しました。この賞は予備投票が読者による投票、本投票がプロの文芸翻訳者による投票ということで、二重の意味で名誉なことだと思っています。

『台北プライベートアイ』は、40代後半の大学教授で劇作家の呉誠(ウーチェン)が、演劇仲間との酒席で暴言を連発した後で自己嫌悪に苦しんだり、妻に逃げられたりして、すべてをご破算にして新しい人生を始めよう、と引越しして、「私立探偵」の看板を掲げるところから始まります。呉誠の経歴は作者の紀蔚然さんとほぼ同じで、これは半自伝小説でもあります。

 今だから正直に言ってしまいますが、この本を翻訳するのは本当に困難な仕事でした。まず、台湾語や、大陸の中国語には存在しない台湾独自の表現が多かったことです。ひたすら検索して、使用例を読んで考えているうちに、さまざまな質問サイトで中国人が「台湾のドラマでこんなことを言ってたけど、どういう意味?」などと質問しているのを見つけることがありました。台湾人が(あるいは、台湾語のもとになっている福建南部の閩南語由来の言葉であれば、その地方の中国人が)親切に回答を寄せていて、ありがたく思うと同時に、中国人にもわからないものが私にわかるか、とふてくされたこともありました。

 また、台湾でも台湾語の話者は減っているので、台湾人に質問すれば誰でもわかるとは限らないのです。私はいくら調べてもわからないことは必ず著者に質問することにしているのですが、あまりにも数が多かったので、最初から全部を質問するわけにもいかず。

 もうひとつ難しかったのは、主人公の探偵・呉誠があまりにもインテリで理屈をこねるタイプなので、話はアメリカの連続殺人鬼の話から、台湾、チベットの仏教の高僧の話にまで発展するので、もう外国語力の問題ではなく、自分の知性を試されている状態になりました。

 というわけで、一日に半ページしか訳せない日もありましたが、なにしろ、自分で翻訳したいと言って企画を持ち込んだ本ですから、今さら無理ですと言うわけにもいかず、泣きそうになりながら翻訳していました。そういうときは、パニック症候群や、うまくいかない人間関係に葛藤する呉誠の苦しみがそのまま自分の苦しみとも感じられ、もはや、自分と主人公の区別がつかなくなっていました。そもそも、この小説を訳したいと思ったのも、この小説が優れた作品であるというだけではなく、初めて読んだときから、主人公の呉誠がまるで自分のように思えたからでもあります。

 とはいえ、訳文はとにかく読者にストレスを与えないように、はじめから日本語で書かれていたらこういう文になるはず、というレベルをめざして、楽しく読めるようにとこころがけました。ユーモアのあふれる作品でもあるので、それをだいなしにしてしまってはいけないからです。

 ところで、刊行されてから、読者の反応が気になったので、SNSを覗いたりしていたところ、おもしろいことがありました。まず、読者が自分の心に響いた言葉として本文中の一行を引用されている例がとても多かったことです。呉誠の哲学的な考察に賛同する方、登場人物たちの暖かい言葉に共感する方、ユーモアと機知にあふれたやりとりを面白がっている方など、読者によってまったく違う一行を引用されていました。翻訳者としては、一行一行どれも心をこめて訳しているので、どの一行を気に入っていただいてもうれしいのですが、読者の感想を読んでいるうちにハッと気がつきました。

 作者の紀蔚然さんは、この作品が小説としては初めての作品ですが、劇作家として多くの作品を発表し、高い評価を受けています。限られた時間のなかで上演される演劇の脚本を書くということは、一行一行のセリフに深い意味をもたせることなのだな、小説を書くにあたってもそういうふうに書いているのだと思い当たりました。劇作家としての呉誠が「人間を描く」ことを重視していたのと同じく、このミステリー小説でも一行一行で人間を描こうとしているのだと思います。

 もうひとつ、読者の反応でおもしろかったのは、「フィリップ・マーロウを思い起こさせる王道のハードボイルド」という意見もあれば、「帯に『ハードボイルド』と書いてあるのはおかしい。どこがハードボイルドなんだ」という意見もあったことで、皆さんの「ハードボイルド」の定義がまったくバラバラだということがわかりました。一人称の探偵ものの場合、主人公が心に思うことがどんどん語られていくので、実際にしゃべっている以上に饒舌な印象を与えるわけですが、その「饒舌な印象」についても、「いかにもハードボイルド」、「ハードボイルドじゃない」という相反した意見がありました。

 それでは、「ハードボイルド」とはなんなのか。私としては、「ハードボイルド」の定義は、主人公が一度は殴られることかな、というのは冗談として、探偵の目をとおして、ある都市(いや、田舎でもいいはずですが)、ある社会、ある世界を語っていくものであって、この小説は「正統派ハードボイルド」であると同時に、「ハードボイルドのパロディー」でもあると思っていますが、どうでしょう。この本を読んでいただいた後に、「ハードボイルド」の定義とはなにか、お友だちと話しあってみるとおもしろいかもしれません。

 さて、この作品は「華文ミステリー」としては初めての受賞ということになります。実は私は中国語の勉強を始めたのが遅く、大学ではフランス文学を学び、フランス語を使う職場で働いたり、長年、ジャーナリズムの分野を中心に日英・英日の翻訳の仕事をしたりして、中国語は30代になってから、のんびり楽しみながら勉強してきました。ですから、中国語作品の翻訳でこのような名誉な賞をいただいたこと、そもそもこのような素晴らしい作品の翻訳をまかせてもらえるチャンスにめぐりあったことが自分でも不思議に思われます。

 逆に言えば、このようなチャンスに恵まれたのも、中国語から翻訳されてきた作品の数が少なく、素晴らしい作品がたくさん翻訳されずに残っているからではないかと思います。中国語話者の人口は世界最大ですし、ミステリー作品もそろそろ「華文ミステリー」という言葉ではひとくくりにできないくらい多様なものになっています。

 台湾、中国、香港だけを見ても、「中華」という共通の文明に根っこをもちながら、まったく異なる歴史をもっているわけで、まったく異なるタイプの優れた作家が出現しているのも当然のことです。たとえば、拙訳による『辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿』(莫理斯/トレヴァー・モリス)も、香港が長く英国が統治した国際的な都市だったという歴史から切り離して考えることはできません。

 著者の紀蔚然さんには開票の日をお知らせしていなかったのですが、杉江松恋さんによる開票速報を見ているうちに、これは大変なことになってきたと思って、あわてて「見て下さい。今すぐ」と台湾にいる紀さんにお知らせし、最後の部分はいっしょに見ていました。本当に光栄なことだと喜んでいらっしゃいました。私もうれしくて、心のなかで紀さんと主人公の呉誠と三人で輪になって踊りながら、ビールで祝杯を挙げていました。

 さて、ここで、すてきな装画を描いて下さったYouchanさんにお礼を申し上げたいと思います。私は自分が翻訳をするときだけでなく、読者としても、よくGoogleのストリートビューを使って作品の舞台となった場所をぐるぐる歩きまわるのですが、Youchanさんも作品の舞台となった台北市内の臥龍街、六張犁のあたりを徹底的に歩きまわったというのです。一枚の装画を描くために、そこまでやってくださるとは思っていなかったので、感動しました。

 夜中にメールをやりとりして、あれが見つかった、これが見つかった、と言っていっしょに喜んでいたのですが、呉誠が事務所代わりにしている「珈比茶(ガービーチャ)カフェ」がどうしても見つかりませんでした。Youchanさんはあきらめず、ストリートビューのタイムマシンの機能を使って、この店が何年か前に閉店したことをつきとめ、作品が書かれた当時の店の様子も確認したのです。というわけで、表紙の絵をよく見れば、絵のなかの一つひとつの建物が実際に呉誠の歩いた街並みのなかに存在することがわかるでしょう。

 また、読者の手引きとなる地図を作って下さった文藝春秋のデザイナーさんにも感謝しています。日本の読者にも、台湾の読者と同じように物語の世界を楽しんでもらうためには地図は必要だと考えました。何度も何度も描きなおしてもらって、ご苦労をかけました。

 そして、最後になってしまいましたが、「翻訳ミステリー大賞」を創設し、このサイトを運営してこられた先輩方にお礼を申し上げたいと思います。本当にどうもありがとうございました。

                            舩山むつみ                            

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