■ピエール・マッコルラン『真夜中の伝統 夜霧の河岸』■


 アルトー、クノー、セリーヌ、ヴィアン、澁澤龍彦らを魅了したフランスの奇妙な作家マッコルランのコレクション全3巻が完結した。第2巻『北の橋の舞踏会 世界を駆けるヴィーナス』も、ミステリの要素を含んだ作品集だったが、本巻もミステリファンにも見逃せない作品揃いとなっている。3編いずれも、本邦初訳。いずれも、時代の現実に即しているが、詩的で、映像的、さらに哲学的思惟を含んだ独自の文章で綴られている。
『真夜中の伝統』(1929) は、久生十蘭「金狼」の下敷ともなった作品だ。
 パリのダンスホール・パピヨンに集められた見ず知らずの五人の男女。彼らは、驚くような多額の遺産の相続の件で、呼び寄せられていた。しかし、伝言の主は現れず、多額の金をため込んでいた店の主人の死体が発見される。
 探偵小説としては、魅力的な冒頭だ。読み進めるうちに、意外な犯人や探偵が明らかになるし、その意味で、本書は探偵小説といえなくもない。ただし、作品の眼目は、謎解きやサスペンスにあるわけではない。作品の主軸をなすのは、店に集められた一組の男女の結婚とその後の物語だ。感じのいい垢ぬけた青年シモン・サン=ティエリーは、場末の歌手マリ=シャンタルと結婚する。司法警察の捜査官だと彼女に打ち明けていたサン=ティエリーだったが、やがて嘘がばれ、何やら危ない仕事に手を染めていたらしいことが明らかになる。サン=ティエリーは定職に就かないため、夫婦はやがて借金まみれになり、貧困にあえぐことになる。なまじ、パピヨンで知り合った友人たちに祝福され、花嫁が最高の歌を歌った結婚パーティのシーンが輝いているだけに、食べるパンさえ失い、マリ=シャンタルが真剣に売春を考えるほどの窮状は痛々しい。
 本書の帯には、「暗黒小説」とあるが、二人が貧困に墜ち、彷徨う姿には、まさに黒々とした夜の闇を感じさせる。しかし、最も悲惨な二人の運命にしても、どこか寓話めいたところがあり、マッコラン特有の諧謔味も添えられている。世に大犯罪が起こるたびにその犯罪を主題にした詩を詠んでいる古道具屋といった奇矯な人物も登場する(彼は、使い走りの女の子を「シェリ=ビビ」(ルルーの創造した怪人)と呼んでいるのがおかしい)。
 本作は、探偵小説の枠組みに、過剰なまでの転落譚を抱えさせた異形の小説だ。

 久生十蘭の「金狼」(1936) は、初めて久生十蘭名義を使用して「新青年」に発表した作品。東京・深川の飲食店を冒頭の舞台にし、五人への招待状、主人殺しという設定や人物配置は『真夜中の伝統』を踏襲しているが、五人の容疑者が互いに互いを疑う展開、新聞記者の卓抜な推理、登場人物の複雑な思惑が絡んだ真相など、より探偵小説らしい造りになっており、一級の換骨奪胎ぶりをみせる。十蘭としては、原作の探偵小説としての不徹底に不満があったのではないだろうか。サン=ティエリーとマリ=シャンタルに相当する久我と葵の関係はより純愛に近いものになっている。

 「赤線地区」(1931) は、マルセイユの公娼街を舞台にした探偵小説。街のカフェの女主人で詩人でもあったアナが首と胴体を切断され殺される。現場には首だけ残され、胴体は行方不明になっている。彼女は、町に教皇のように君臨している刑事の愛人だった。やがて、胴体が出てくるが、それは別のジプシーの少女の胴体だった。彼女も首を切断され殺されていたのだ。
 主人公の「俺」(バルタザール)は、この街のレコード店の権利を買い、移り住んできたばかり。やがて、警察の捜査が主人公の店にも及んでくる。
 娼婦をはじめとした公娼街の人物や街の風物、世捨て人めいた主人公の孤独が密度濃く描かれる中での思いもよらぬ猟奇的事件、その結末はというと、これが唖然。意外極まる真相を提示しているとしか、読めないのだ。しかし、読み直してみると、優れた伏線らしきものもあれば、結末が指し示すと思われる真相と整合しない記述もある。また、話の真実性について、エクスキューズめいたものもある。作家がノンシャランな書き手であったからかもしれないし、そうではないかもしれない。自分なりに納得できる読み方をしてみたが、あまり自信はない。
読者は、この結末を読んで何をどう思うか。書かれた時代を考えると、相当な実験的な作であり、フィクションの或る趣向の好例でもある。

 『夜霧の河岸』は、マルセル・カルネ監督『霧の波止場』(1938) の原作として知られている。
 雪の夜、主人公格の無職の若者ジャン・ラブ、ドイツ人画家、脱走兵、肉屋、ネリーの五人の男女がモンマルトルの店〈兎停〉に入り、数人が自らの来歴と哲学的想念を披露する。ここで語られる想念が奇想の域にまで達しているものもあって面白い。ヤクザ者による店への銃撃もあるが、やがて、朝が来て、五人は店を去っていく。その後の五人に待ち受けている運命が描かれる。といっても、一貫した力強いストーリーがあるわけではない。
 途中、残虐な殺人事件などもあるものの、犯人の意外性もなく、作者の力点はそこにはない。では、何があるのかというと各々の思想(人生哲学のようなもの)のディスコミュニケーションがあるばかりだ。ある者は逮捕され、ある者は自殺する。少女ネリーは、ラブと数日行動を共にしたあと、正真正銘のプロの女に生まれ変わり、揺るぎない力を得る。一次大戦直前の敗れ去るインテリ・芸術家の精神風土のスケッチのようでもある。
 映画『霧の波止場』は、原作の要素をうまく抽出し、組み合わせながら、原作を大きく変えて、ジャンとネリーの恋愛を軸とした筋の通った犯罪メロドラマに仕立てている。脚本は、詩人のジャック・プレヴェール。ジャン役のジャン・ギャバンの野性味、ネリー役のミシェル・モルガンの美しさがともに素晴らしい。
 映画『霧の波止場』は、詩的リアリズムという1930年代のフランス映画の傾向を代表する映画になったが、この詩的リアリズムは、米国の「フィルム・ノワール」と呼ばれる映画ジャンルの源流の一つとされている。この意味で、本作『夜霧の河岸』は、「ノワール」と呼ばれる小説作品の先達ともいえるだろう(訳者の解説によると、「フィルム・ノワール」という映画用語を発明した脚本家ニーノ・フランクとマッコルランは親しく、1955年には、対談形式で連続のラジオ放送を行っているという)。
 本巻の小説は、「夜の三部作」とでもいいたいほど、黒々とした夜に覆われている。
 酒場であったり、性愛であったり、犯罪であったり、眠りであったり、死であったり、これらの作品で、夜は様々な人間の営みを喚起する。

「おのおのが自分の夜を創造する。あなたの夜の生き方は私の生き方ではない。夜は人間の知性の発明品なので、まったく互換可能ではないという結果になるわけだ」(「赤線地帯」)

 
■サリー・クライン『アフター・アガサ・クリスティー 犯罪小説を書き継ぐ女性作家たち』■

 
 サリー・クライン『アフター・アガサ・クリスティー 犯罪小説を書き継ぐ女性作家たち』(2022) は、クリスティー以降の女性ミステリ作家の系譜を辿る意欲的な評論。
 著者は、1938年生まれの英国の女性の文学者、作家であり、ダシール・ハメットの伝記の著作もある。昨年、惜しくもこの世を去り、本書は彼女の遺作となった。
全12章からなるが、最新の研究書だけあって、第1章「議論をはじめる前に」で概観される現在の犯罪小説シーンが興味深い。
 犯罪小説やスリラーは、英国では現在最も人気のあるジャンルで全書籍の売上げのなんと三分の一を占めているという。こうした小説の売上げは、2015年から2017年にかけて19%増加し、ついに一般小説を上回るまでになった。このブームを牽引しているのは、女性で、その読者の8割が女性を占めるという。「生きていく上でかなりの時間を怯えることに費やしている女性たち」が恐怖をリアルに描くストーリーに惹かれるというパラドックスを前にして、女性の犯罪作家とは何者なのかというのが本書の主要な関心だ。
 著者は、女性の犯罪作家の源流を1920年代から30年代にかけて、絶大な人気を博した五人の作家にみている。すなわち、アガサ・クリスティー、ドロシー・L・セイヤーズ、マージェリー・アリンガム、ナイオ・マーシュ、ジョゼフィン・テイだ(前の四人は、ビッグ4と呼ばれることもあるが、現在では、それにテイも加わっているようだ)。この五人の作家の驚異的なところは、いまだに売れ続け、広く読まれ続けていることだ、と著者はいう。
 とりわけ、クリスティーだ。本書の取材で話を聞いた読者の多くは、若い頃から犯罪小説を読むのが好きで、ジャンル愛に火をつけたのは、クリスティーだったと答えている。
 こうして、黄金時代の作家、とりわけクリスティーの考察に本書は進む。
 世界で30億部も売れたこの作家の特徴を、著者は「(男性たちが体系化した)ルールの境界線あたりで実験を開始し、好きなようにルールを曲げたり壊したりしはじめた」点に見ているようだ。ポッドキャスト〈シーダニック〉の制作者の女性の「クリスティーは、伝統の親しみやすさと、大胆な実験の不条理の間にスイート・スポットを見つけたんです。彼女の小説には、ほどよい反骨精神があるんです」という言葉を引いている。また、その作品の重要性については、女性主人公をはじめて完全に自立した主体性のある人間として描いたところにある、としている。結婚や家庭内の危険性を暴いているという点で、保守的というよりもむしろ急進的であるとも。
 他の四人の作家の記述は、あっさりしたものだが、ジョゼフィン・テイに関しては、闇に踏み込み、人間の信念や暗黒面を探求することで、パトリシア・ハイスミス、ミネット・ウォルターズらに道を開いたと評価している。テイのカメレオンのような性質に興味をそそられた作家ニコラ・アップソンは、テイ自身を主人公にしたミステリを書き継ぎ、彼女をレズビアンとして描いたというのだから驚きだ。アップソンは、クリスティーに言及し、「クリスティーの作品はあからさまで生々しく、そしてタフです。いまや、黄金時代の作品がコージー・ミステリだとはだれもいわないでしょうね。わたしにとって重要なのは、自分の本を“コージー”と見なされないことです」と述べている。
 かつては、お茶とケーキに象徴される閉じられた世界の居心地のいい作品と思われたものが、生々しくタフな作品として読み直されている。時代は変わるのだ。
 第5章「私立探偵」の章では、1977年のマーシャ・マラー『人形の夜』、1982年スー・グラフトン『アリバイのA』、同年のサラ・パレツキー『サマータイム・ブルース』で始まった女性私立探偵の系譜を辿る。この辺りは、筆者にとっては、つい昨日のことのように思えるが、既に40年以上が経過していることを思えば、今やクラシックになっていることを痛感させられる。以降、イギリスの警察の女性たち、アメリカの警察の女性たち、レスビアンの主人公(現在レズビアン・ミステリは千タイトル以上出版されており、レズビアン・ミステリを書く作家は250人を超えるという)、黒人、身体障がい者、法医学に携わる女性たち、刑事司法出身者の手によるものなど、多くの現代の作家・作品名が挙げられ、その百花繚乱ぶりが描出されている。
 第11章では、2015年に立ち上がった英国の女性犯罪小説家グループ〈キラー・ウィメン〉の活動について触れられている。メンバーの多くは、「ドメスティック・ノワール」という近年絶大な人気を博しているジャンルの小説を書いている。この語は、英国の小説家ジュリア・クラウチがサイコ・スリラーというレッテルに限界を感じて作った造語という。ドメスティック・ノワールの舞台は主として家庭や職場であり、閉ざされた領域は女性にとって苦しく、しばしば危険な場所になりうるというフェミニスト的視点に立っているという。この観点から、シャーロット・アームストロング、マーガレット・ミラー、パトリシア・ハイスミスといった米国の作家の業績に言及される。また、女性作家について、男性作家より陰湿で暴力的な犯罪小説を書いているのではないかという論争も起こっているという。
 最後には、いまだに女性作家たちが受けている差別――賞の候補にあがりにくい、書評のスペースが割かれない――についても言及されている。

「男性作家の中には、いつも裏表紙に同じような素晴らしい宣伝文を載せている人たちがいます。まるで男性限定の社交クラブであるみたいに。お互い宣伝文を書きあっているんです」(フランセス・ファイフィールド)

 いまだにいわゆる純文学が高尚なステータスが与えられているのに、ジャンル小説が文学的価値がほとんどない「低俗」な娯楽とみなされていることに憤る作家の声も多い。
 本書は、卓抜な論考の書というより、女性ミステリ作家の隆盛という社会現象を取り扱ったルポルタージュといった感が強い。異例なほど豊富な現代女性作家のインタビューに基づいているのもその印象を強めている。多くの女性作家の生の声が本書には反映され、現代に犯罪小説を書かれる意義を伝えている。
 ジャンル愛好家的には、特にクラシックに関しては英国ミステリに偏りすぎていること、クリスティー以前・以降の一部の重要な女性作家へのまなざしが欠如していることなどの不満があるに違いない。女性私立探偵を主人公にした探偵小説に関するフェミニズム的、歴史的分析である先行研究キャスリーン・グレゴリー・クライン『女探偵大研究』について言及されてもいいはずだが、参考にした形跡はない。
 しかし、これらは、マニア的言いがかりに近いのかもしれない。本書は、現代女性犯罪作家の隆盛を黄金時代まで遡って太い線で描き出し、その百花繚乱と現代的意義、課題を伝える類書のないクロニクルだ。

■アーサー・コナン・ドイル 武田武彦訳・北原尚彦編『名探偵ホームズとワトソン少年』■


 論創海外ミステリが本巻で300巻に到達した。2004年に刊行開始以来、19年目での達成だ。ほぼクラシックミステリだけのマイナー叢書が300巻を超える一大叢書になろうとは刊行開始時に、誰が想像しただろうか。今後も、末永く続き、ファンの期待に応えていってほしい。
本書は、ワトソンを少年にするという大胆な改変を施した武田武彦訳のホームズ譚ジュブナイルを集める。200巻目が同じ北原尚彦編の『シャーロック・ホームズの古典事件帖』だったから、節目はホームズでという、平仄は合っている。
 元本は、偕成社の名作冒険小説全集33巻『名探偵ホームズ まぼろしの犬』(1958)、『名探偵ホームズ(3)』(1959)。
 訳者の武田武彦は、作家・翻訳家・編集者・アンソロジストで、探偵小説雑誌「宝石」の編集長も務めた。児童向けの翻訳にも注力。筆者のように、集英社コバルト文庫のアンソロジーで、その名を知った人もいるだろう。編者によるとホームズ正典60編の63%の翻訳を手掛けており、ホームズ翻訳史上、重要なポジションを占めているという。
「まぼろしの犬」は、『バスカヴィル家の犬』。編者解説に原作との異動が仔細に書かれてあるので、詳しくは、そちらを参考にしていただきたい。この長編には、ワトソン単独で、ダートムアのバスカヴィル家に派遣されるという趣向があり、それをそのまま踏襲しているのだが、さすがにワトソン少年単独では無理があるのでは。ヘンリー卿はじめ、周囲も呆れたに違いない。ホームズは、謎の男に扮して、荒野の洞窟に身をひそめ、やがて正体が明らかになる。「きみのことがしんぱいなので、ここで見はっていたんだよ」というが、心配なら最初から一緒に来てほしいものだ。ワトソンが謎の男をホームズと推理する設定になっているが、ここは原作どおりのほうが意外性があった。と、突っ込みながら読むと、ラストは、底なし沼に沈んでいく男、炎上するメリピット荘、乱舞する昆虫という原作にないスペクタクルが盛り込まれていた。
「四つの署名」は、ワトソンが結婚相手のモースタン嬢と出会う話でもあるが、少年だけあって、恋愛話は全面カット。ベイカー街イレギュラーズは、ワトソン少年との役割の重複をおそれたか、「テームズ川の少年隊」とされている。事件の来歴の部分は、あまり詳しく語られていない。
「金ぶちめがねのなぞ」は、原作「金縁の鼻眼鏡」。犯人に関し、かなり大胆な改変がされている。「賞金をねらう男」は、原作「三人ガリデブ」 少年ゆえの配慮か、ワトソンが銃で撃たれるシーンがカット。後にも先にもないホームズがワトソンに対しただ一度だけ真情をみせる名場面がカットされているのは惜しい。
 ワトソンが少年ゆえに、改変を余儀なくされた面が目につくが、原作の推理や冒険の妙味はうまく伝えており、ここを入門編としてミステリの大空に巣立っていった少年少女も多いはずだ。
訳者ご子息による「父のことを回想する」も収録。

■ウィリアム・ル・キュー他『英国犯罪実話集2』■


(https://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca15/1060/p-r15-s/)
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 2021年の『英国犯罪実話集』が好調だったようで、ヒラヤマ探偵文庫から、その第2集が出た。前著は、一編を除き、ジョージ・R・シムズの手によるエッセイを掲載したものだったが、本巻では、「ストランド・マガジン」に掲載された記事を独自編集。執筆者もそれぞれ異なっている。また、本書の三分の一を占めるのは、ウィリアム・ル・キューの著書『私の知っていること』(1923)から犯罪実話に関する部分を抜粋したもの。
 内容も、犯罪実話のみならず、ベルチョンの肖像写真の新分類法、変装の技術、各国探偵方法の比較、テムズ川警察への密着記事(テムズ川警察はドイル『四つの署名』にも登場)、阿片窟のルポと幅広い。雑誌のイラストを多数収録しているから、ホームズと同時代の犯罪の諸相を身近に感じられるだろう。
以下、いくつかご紹介する。
 ジョゼフ・ゴロム「ウィーンのラッフルズ」は、ヒューゴー・ブライトワイザーという現代のロビン・フッド、紳士強盗ラッフルズのような犯罪者の逸話集。ロビン・フッドに憧れた彼は、グラーツ大学で工学を専攻したが、それは、金属の引っ張り強度や金庫・金庫室の作り方など押し込み強盗の方法を学ぶためだった。大学を出た彼は、暴利をむさぼる石炭商人に寄付して貧しい人々に石炭を配った上で、商人の金庫を破り寄付額以上の金を回収し、大衆の喝采を浴びる。彼は、強盗と貧しい人々への寄附を続け、逮捕された後には、独房から脱走もした。
 同じ著者の「犯罪者の追跡 各国の探偵方法の比較」は、組織化・組織行動に優れるスコットランド・ヤード、単独捜査にはしりがちなパリ警察、厳格な住民登録制度に基づく自動化した機械のような組織捜査によるドイツ警察、大学の捜査学研究室が素晴らしく発達しているオーストリアの警察といった特徴を実際の事件に即して比較している。
 アンナ・キャサリン・グリーン「なぜ人間は犯罪に惹かれるか」は、『リーヴェンスワース事件』(1878 )の著者であり、「アメリカ探偵小説の母」といわれる著者のエッセイ。彼女は、四十年ほど探偵小説を書いてきて、ほぼ全員が犯罪に惹かれていると信じるようになったと書き出す。「犯罪がわれわれの想像力を刺激するのは、自分たちと同じような人が、何かとんでもない動機で驚くほどの変化をとげてしまうからに違いない」と述べている。また、女性は男性に比べ事件の真相を見抜く直観に優れており、探偵になりたいという女性の声をしばしば耳にする、殺人がすべての犯罪のうちで最も興味をそそるのは、最悪の犯罪であることに加えて、二人の人間が関係するものの、死人の口が秘密を語ることはないので、大いに想像力を刺激するから、といった興味深い指摘をしている。
 ウィリアム・ル・キュー『私の知っていること』は、同書のうち、犯罪やスパイ行為にまつわる回想部分を抜粋したものだが、これがなんとも興味深い。ル・キューは、「外套と短剣」と称される古いタイプのスパイ小説や冒険小説などで知られるが(ヒラヤマ探偵文庫で『秘中の秘』の邦訳あり)、自らが大英帝国の秘密諜報部員として活躍したことを告白している。「私は犯罪者を惹きつける魅力があるようだ」として、実際に交友のあった、フランス社交界の女詐欺師、名うての宝石泥棒、逃亡殺人犯などを紹介。毒薬に興味があると近づいてきて著者と交友した医師が後に、著名な殺人者クリッペン博士として逮捕されたという話などは、眉に唾をつけたくなるほど。
 また、1905年にドイツがイギリス中に大スパイ網を構築していることを発見したと著者は書いている。この危機を知らせよう努力したが、その努力は実ることがなく、さらに後年独自情報からドイツの侵略戦争の企てを知り、広く伝えようとしたが、ほとんど誰も聞く耳をもたなかったと無念そうに語っている。著者は、この企てを『侵略』と題する未来小説として書いて大成功を収めることになる。
 ミステリファンとして、最も気になる部分は、切り裂きジャックの正体のくだりだろう。著者は、ロシア革命政府の依頼で、大量の資料の提供を受け『ラスプーチン』という本を発表。ラスプーチンの遺した原稿の中に、世界で最も有名な殺人鬼の正体が書かれていたというのだ。その正体は、本文に委ねるが、ル・キューの記述は切り裂きジャックの正体に関する古典的な文献になっているという。

■馬場孤蝶訳『林檎の種』■


(https://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca15/1061/p-r-s/)
(画像をクリックすると〈書肆盛林堂〉の該当ページに飛びます)

『林檎の種』(ヒラヤマ探偵文庫)は、馬場孤蝶の訳で、大正11(1922)年創刊された「週刊朝日」に連載した作品。
 孤蝶は、慶応義塾大学教授ととして、欧州文学を教え、評論、翻訳、詩、随筆、小説に健筆をふるった。早稲田大学出講時の教え子である『新青年』編集長の森下雨村が探偵小説のことを尋ねたことがきっかけで、探偵小説にのめり込んだという。2、3年で240~50冊のミステリ原書を読んでいたというから、その熱中ぶりに驚かされる。江戸川乱歩が作家デビュー以前、「二銭銅貨」「一枚の切符」を最初に孤蝶に送った話は知られている(結局、その時点で読まれることはなかったが)。
『林檎の種』は、草創期の読者の嗜好に合うものとして、選定されたものと思しい。
 ロンドン中の新聞社にZを名乗る男から銀行家を殺した、という電話がかかってくる。イヴニング・スタンダアド社の記者シャムウエーが駆けつけてみると、重役室で頭取が惨殺されている。現場には、Zの紙片と林檎の種が落ちている。続けざまに、銀行家殺しが起き、いずれも同様に犯行声明ないしは犯行予告がなされる。シャムウエーは、犯人を罠にかけることとするが…
 なかなか派手な展開の小説で、現場にZのサインを残すところは、「ジゴマ」のようでもある。連続殺人の動機は不可解だし、犯行声明や予告の目的も不明であるが、残念ながら解決は予想の範囲を超えるものではない。林檎の種の含意も日本の読者にはストレートに伝わらなかったのではないか。シャムウエーの仕掛けた罠がなかなか大掛かりで、機知があるが、現実的な有効性となるとはなはだ怪しくもある。
 訳者としては、銀行家連続殺人というスリルと展開のスピーディなところ、記者の快活明朗な探偵ぶりを買ったというところだろうか。
 解説の湯浅篤志氏の調査によると、原作者は、後の「ウィアード・テールズ」初代編集長であるエドウィン・ベアードの「Z」(1921)という作品と判明したという。本作執筆時は、パルプライターだったようだ。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
ツイッターアカウントは @stranglenarita
note: https://note.com/s_narita35/


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