• Les fiançailles de Monsieur Hire, Fayard, 1933/3(1932/10-1933/春執筆)[原題:イール氏の婚約]
  • 『仕立て屋の恋』高橋啓訳、ハヤカワ文庫NV656、1992*
  • ・「群衆の敵」秘田余四郎・松村喜雄訳 《映画ストーリー》1954/7-9(3巻8-10号)(全3回)抄訳* 1954/7で共訳者・松村喜雄氏の名前が未掲載。1954/8にお詫びあり(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • Tout Simenon T18, 2003 Les Romans durs T1 1931-1934, 2012
  • The Engagement, translated by Anna Moschovakis, afterword by John Gray, New York Review Books, 2007[米]
  • Mr. Hire’s Engagement, translated by Anna Mosvhovakis, Penguin Classics, 2014[英]
  • ・映画『パニックPanique)』ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、ヴィヴィアーヌ・ロマンス、ミシェル・シモン出演、1946
  • ・Blu-ray/DVD/冊子『Panique』 Christophe Lemaire冊子編纂・提供、Collection Héritage, TF1 Vidéo、2015[仏](https://www.amazon.fr/dp/B015X01HC6
  • ・プレスシート『その手にのるな』松竹株式会社大阪支局宣伝課(1958)*【写真】
  • ・シナリオ 沢村勉「その手にのるな!」pp.38-65 《シナリオ》1958/2(14巻2号、通巻116号)*【写真】
  • ・映画『仕立て屋の恋Monsieur Hire)』パトリス・ルコント監督、ミシェル・ブラン、サンドリーヌ・ボネール出演、1989
  • ・映画パンフレット『仕立て屋の恋』 《CINEMA SQUARE MAGAZINE》98号(1992/7/17発行)、シネマスクウェアとうきゅう*
  • ・大木充、Marie-Christine Barthonnet『仕立て屋の恋』駿河台出版社、1995 映画シナリオを基にしたフランス語教材。別売テープもあったようだが未入手。

 再読だったが、やはり素晴らしい小説だ。シムノンのメグレものではない硬質長編小説(ロマン・デュール)を読み始めるならどれがいいか、と問われたら、迷わずに本書『Les fiançailles de Monsieur Hire[イール氏の婚約]を挙げる。本作は作家シムノンの特徴と魅力が存分に表現された、戦前の第一期を代表する傑作のひとつだと思う。
 本書はフランスのパトリス・ルコント監督による映画『仕立て屋の恋』(1989)も有名で、映画版から興味を持って原作を手に取る方も多いのではないか:主人公のイール氏が仕立て屋であるという設定はルコント映画版独自のもの。ハヤカワ文庫版は映画の日本公開に合わせて刊行されたため、題名は映画に倣っている]
 実は私も今回ようやく気づいたのだが、ルコント映画版の筋立ては意外と原作に近い。だからこそ、原作の持つシムノンらしさをぜひ併せて読んで味わっていただきたいと思う。シムノンへの入口として絶好の作品であるし、そしてきっとかつての私と同じように、この原作とルコント監督の映画版でフランスに興味を持つようになる海外小説ファンは、これからも絶えることなく出てくるはずだからだ。

 この『仕立て屋の恋』はシムノンがメグレシリーズで成功を収めて以来、たぶん初めて本気を出して、真の勝負に打って出た記念すべき作品でもある。1931年2月刊行の『死んだギャレ氏』『サン・フォリアン寺院の首吊人』以来、シムノンはファイヤール社から毎月1冊のハイペースでメグレシリーズを刊行し、それらは大成功を収めた。
 作家として成功したシムノンは、次に何をしたか。
 まず家を買ったのだ。1932年2月に東の港湾都市ラ・ロシェル近くのマルシリーに、《ラ・リシャルディエール La Richardière 》という邸宅を買った。ただしすぐには住み着かず、ラ・ロシェルのホテルに滞在したりしていた。これらの場所で『メグレを射った男』『紺碧海岸のメグレ』などを書いた。いかにもバブルな感じだ。
 だが毎月1冊の連続刊行は、メグレ17作目の『紺碧海岸のメグレ』(1932/7刊行)の後にペンネーム時代の『13の被告』『13の謎』『13の秘密』の3冊を蔵出しして(1932/10まで刊行)、そこでいったん途絶えたことを以前にも述べた。こうして時間稼ぎをしながら、シムノンは何をしていたのか。
 1932年5月から8月終盤、9月初めにかけて、シムノンは地中海・アフリカへ旅に出たのである。アフリカはヴィジュアル誌《Voilàヴォワラ》にルポルタージュ記事を書くためだった。
 これはシムノンにとって、人生初の大冒険旅行だった。写真もたくさん撮った。それまで机上の秘境冒険小説を書いていた作家は、ここで初めて自ら本物の秘境と異郷を旅して回った。
 一連の旅行はシムノンを大きく変えたのだと思う。トーマ・ナルスジャックの分類に倣って戦前のメグレの時代を第一期とするなら、本書から始まる怒濤のロマン・デュール攻勢はシムノンの第一期後期、あるいは新生第一期とでも呼べるもので、たぶんこの前後で小説の質はぜんぜん違う。
 次の連続刊行は5ヵ月後に本書『仕立て屋の恋』(1933/3刊行)から再び始まる。旅行の前後にシムノンはロマン・デュールを何作か並行して書いていたようだが、満を持して最初に出版されたのが『仕立て屋の恋』だった。シムノンは本書に絶対の自信があったに違いない。

 パリ郊外の町、ヴィルジュイフ。物語はアパルトマンの女管理人がイール氏の部屋へ郵便物を届けに行ったとき、そこで血のついたタオルを見てしまったところから始まる。2週間前にこの近くで女性の死体が発見されていたが、犯人は見つかっていない。金の入った女の鞄が現場から消えていたという。女管理人は街角に立つ刑事にタオルのことを告げた。
 刑事はイール氏の行動を見張り、尾行する。このイール氏は口髭を生やした小太りの男で、何か詐欺まがいの内職で生計を立てているようだが、実態が知れない。刑事はイール氏を呼び止め、顔に貼られていた絆創膏をいきなり引っぺがす。殺された女は直前に犯人の顔を引っ掻いていたはずなのだ。イール氏の傷口から生々しい血が出て、刑事はむしろ狼狽する。
 イール氏にはエロ本出版の前科があった。いまもいかがわしい泡風呂で裸の女に身体を洗ってもらうことがあった。父はユダヤ系ロシア人の仕立て屋、母はアルメニア人。イールとは本名ではなく通名だ。町の人々は彼が本当は何者なのか知らない。彼はボーリングが得意で、唯一ボーリング場にいるときだけは人々から喝采と尊敬の眼差しを浴びる。そこでは彼は警察関係者だと思われている。
 彼はアパルトマンの窓から向かいの下階に住む女をいつも見ていた。彼女の名はアリス、ヴィルジュイフの十字路の乳製品屋で働く娘だ。イール氏は彼女の部屋にエミールという修理夫が通っていることも知っている。彼女がエミールと外で会っていることも。
 あるとき彼女は、イール氏が自分を見ていることに気づく。
 彼女は自らイール氏に接近してきた。イール氏は、彼女の男が殺しの犯人であることを知っていた。被害者の鞄を彼女の部屋に持ってくるのを見ていたのだ。イール氏の部屋で彼の子供のころの写真を見て無邪気な素振りで喜ぶアリスに、彼はいう。「よく考えたんだ。解決方法はひとつしかない。私と旅に出よう」
 ありったけの金を下ろし、ふたりでスイスへ旅立ち、人生をやり直すのだ。そして警察にはエミールを告発する電報を出しておく。アリスもそれで過去から逃れられるはずだ。
 翌日、イール氏はアリスへの伝言をボーリング場のギャルソンに託した。明日の早朝、リヨン駅で待っていると書いたのだ。
 イール氏はじりじりと一夜を過ごす。そして早朝、列車の横でアリスの姿を待つ。アリスは現れるのか。

【注意:ここから先、物語の結末に触れます。気になる方は小説か映画をご覧になった後にお読みください】

 再読してはっきりとわかったことがある。本作はシムノンのロマン・デュール第1作である『アルザスの宿』の発展型だ。そして『アルザスの宿』はメグレ警視シリーズ第1作『怪盗レトン』と表裏一体の物語であるから、シムノンが初期キャリアのここぞというタイミングで放った3つの勝負作は、どれもはっきりと繋がっていたことになる。すなわち『怪盗レトン』→『アルザスの宿』→『仕立て屋の恋』という流れは、そのままシムノンの作家としての成長と、テーマの発展・深化を示していたのだ。
 このことを語るため、本作の結末に触れることをお許しいただきたい。イール氏は世間から胡散臭く思われており、殺人容疑もかけられている。運命の底がいまにも抜けようとしている。だからアリスと逃げて、人生をやり直したいと考えている。この状況はロマン・デュール第1作『アルザスの宿』の主人公と同じだ。しかしその逃避行は成功するか。
『アルザスの宿』ではあっさりメイドと逃げることができた。しかし本作はそれができないのである。現実は『アルザスの宿』ほど甘いものじゃない。本作の方がはるかに現実的で、痛ましい。『アルザスの宿』の結構のつけ方は通俗探偵小説的で(まるでルパンとガニマール警部の対決のようだ、と書いているウェブ感想記事もあるが、その通りだと思う)、そこが一種、歌舞伎の大見得のような痛快さを演出していたのだが、本作のイール氏は物語のフォーミュラにさえ逃避できない。シムノンの新生第1作と見なせる所以だ。
 本作はこれまでのシムノン作品と違うところがいくつもある。まず驚くのが、エロスの解禁だ。シムノンはペンネーム時代にあっけらかんとした明るい艶笑コントをたくさん書いてきた。だが書き下ろし長編でこのような暗いエロスを書いたことは、私の知る限りなかった。今回、イール氏は泡風呂に行く。アリスは決して純情な女ではない。物語の途中で唐突に見張りの刑事を誘惑している。アリスはコートの下にネグリジェしか着ていない。刑事がアリスの胸をまさぐるシーンは異様だ(文庫版139ページ)。これまでも何度かシムノンにはサイコパスの気質に近いものがあると書いた。こうした場面には心の乖離した人間の凄みを感じさせる。
 シムノンの文体はカメラアイのようだと訳者の高橋啓氏も「訳者あとがき」で指摘しているし、映像的であると多くの人が指摘している。確かにその通りなのだが、ここではさらに突っ込んだ感想を述べたい。パトリス・ルコント監督はシムノンのことを映画作家にとって「faux ami 油断のならない友達」だといったそうだ(訳語を含め、シネマスクウェアとうきゅうの映画パンフレットより。直訳すれば「間違った/うわべだけの友達」)。至言だと思う。その意味を考えてみる。
 たとえば本作の冒頭部、女管理人がイール氏の部屋で血のついたタオルを見てしまい、町の刑事にそのことを告げ、そのことを知らないイール氏がどこかへと出勤するまでの下り。私は何度読んでもこの一連のシークエンスがうまく頭に入らない。確かにカメラアイのように書かれているが、「カメラの視点」が定まっていないと感じる。映画の文法的に見ても、前後の編集がうまくできていないのである。訳者の高橋氏はシムノンの文体が「女は泣きそうになった。女は泣いていた」とぶつ切れだと書いているが、そのレベルではなく、フィルムそのものが繋がっていないと感じる。
 このことによって、私たち読者はイール氏をどこまで信用してよいものかどうか、冒頭からまったくわからなくなる。実際、物語はその後、刑事がイール氏の足取りを追うことに枚数を費やすのだが、ずっとイール氏は自分の本心を私たち読者に伝えない。これは『アルザスの宿』でも同じだった。主人公は確かにイール氏のようだ。しかしこの男にどこまで感情移入していいものかどうか、私たちはまったく距離感が掴めないのである。イール氏は読者にさえ甘えない。「なあ、わかってくれよ」などという態度を取らない。真に孤独に生きている。
 イール氏は名前さえ通名を使っており、ユダヤの血筋である。日頃から偏見に晒されていたのではないか。ヴィルジュイフという町はパリから見て南の郊外に位置する。パリまで出るには路面電車に乗る。イール氏は毎日そこからパリのサン=モール通りの仕事場へ通っている。いまも移民の多い地区のようだが、ひょっとすると当時の彼にとっては、生きにくくてもそこで生活をするしかない場所だったかもしれない。ただ彼自身にも周りの人々から偏見を受けて仕方のない側面があるのだ。だから事態はすっぱりと割り切れない。
 メグレものの『黄色い犬』のテーマもここには含まれているのであり、実際にジュリアン・デュヴィヴィエ監督はこの部分をはっきりと前面に押し出して映画『パニック』(1946)をつくった。私は未見だがラディスラオ・バホダ監督版の映画『Barrio』(1947)も、そのタイトル[バリオ:下層居住区]を見る限り、同様のテーマが掘り下げられたのではないかと思われる。
 さあ、ここからが本作の素晴らしいところだ。本作の最初の衝撃はハヤカワ文庫版159ページでもたらされる。アリスがイール氏を裏切ったのだと、はっきり読者がわかるシーンだ。その後、イール氏はアリスとの逃避行までの長い一夜を町で過ごす。まだイール氏は私たち読者に本心を見せない。彼の内面は描かれない。彼は早朝にリヨン駅へ行くまでの間、キャバレーで酒を飲んで一夜を明かす。ここで初めて彼は横に座るキャバレーの女に本心をいうのだ。
「ぼくは婚約しているんだ!」
 これが本作のタイトルの由来だ。イール氏はアリスと自分が婚約したと信じたがっている。婚約とはイール氏の願望、夢に過ぎない。イール氏はそのことを承知していて、しかし酔いに任せてキャバレーの女にいう。初めてイール氏の想いがくっきりと表現される。しかしここに至ってもなお、それは台詞という客観的な事実においてなのだ。
 イール氏は早朝のリヨン駅へ行く。このあたりで私は悟った。メグレ警視はよく、自分は対象を観察するだけだという。いま私は、自分自身がメグレ警視になっているではないか。いま読者である私は、まさにメグレのようにイール氏を観察しているのだ。シムノンの筆致はカメラアイのようだといわれる。その意味は私たち読者をメグレにすることなのだ。
 読者をメグレにできるかどうか。それが作家の「スタイル」なのだ。これが確立できないのにカメラアイだけを振り回しても、私たち視聴者はメグレに成り切ることができない。心を打ち明けない登場人物の内面に入り込むには、原作者シムノンを「faux ami 油断のならない友達」だと映像作家が自覚しなければならない。
 リヨン駅でイール氏はずっとアリスの到着を待つ。ルコント監督の数ある映画の中でとりわけ『仕立て屋の恋』が素晴らしいのは、ここでルコント監督にありがちな甘ったるい予定調和のメルヘンに転ばないことだ。原作もそうなのだ。アリスは現れない。ここからのシムノンの文章を見よ。
 初めてイール氏は地の文でおのれの内面を語り出す。混乱したイール氏は、なぜアリスが現れなかったのかとあれこれ考え始める。ひょっとしたら何か事情があって遅れたのではないか。エミールに邪魔されたのではないか。ここへ来て、初めてイール氏は私たち読者が共感し、くっきりと感情移入できる人物になる。だが見よ、そうなるのは文庫版182ページ目だ。残りはあと20ページしかない。
 この後、一気呵成に物語は進む。クライマックスのシークエンスは屋上への逃走だ。すでに私たちは類似のシチュエーションをペンネーム時代の『運命』連載第26回)や『マルセイユ特急』連載第27回)で見た。実はシムノンの故郷リエージュで、実際に犯罪者が屋上を逃走して警官が追うという事件があったのだそうだ。1919年7月27日のことで、当時《ガゼット・ド・リエージュ》の記者だったシムノンはこのことを記事に書いているという(ミシェル・ルモアヌ『Liège dans l’œuvre de Simenon シムノン作品におけるリエージュ』Université de Liège Faculté Ouverte, 1989)。シムノンはこれを憶えていたのではないかとの推測もあるが、実際のところはわからない。
 ラストシーンはどうか。いままでシムノンがペンネーム時代に書いてきたような感傷的なハッピーエンドではない。コントの手法を応用した初期メグレの一部にあったような小賢しい皮肉でもない。はっきりと悲劇で終わるのはいままでのシムノンになかったことだが、それ以上に注目すべきなのは、最後の一文がまさに町を俯瞰するカメラアイのショットで終わることだ。再び私たち読者の感情を突き放して、作品は終わるのだ。素晴らしい余韻がもたらされる。
 私たち読者はずっとイール氏に感情移入もできないまま物語を追っていた。ようやく後半になって、私たちこそがメグレなのだと気づいた。そう思った直後から、私たちはイール氏の気持ちがくっきりとわかるようになる。いきなりイール氏は胸の内を開いてくるからだ。私たちはもはやイール氏と一体だ。しかし最後の最後で、私たちはイール氏と一体であることは不可能となり、彼を観察していたメグレの頭上さえも越えて、ただの機械のカメラアイとして本を閉じることになる。この感情の揺れ動き具合はどうだ。
 多くの作家や編集者は、主人公が心を動かせば、それに読者もついてくると思っている。私たち読者でさえ、下手をすると読書の本質はそのようなものだと見誤っている。だが本当に心が動くのは私たち読者だけなのであり、作家はそうやって図らずも心を動かしてしまった読者さえ突き放すことができる。本作『仕立て屋の恋』の凄みがおわかりいただけることと思う。
 シムノンのロマン・デュール作品は光文社古典新訳文庫にぴったりだと思うのだが、いつか出してくれないものだろうか。

 作家の小林信彦氏が、読書エッセイ集『読書中毒 ブックレシピ61』(文春文庫、2000)で本作を取り上げている(「シムノンの語り口」pp.204-208)
 小林氏は敗戦後の焼け跡の本屋で『男の首』『黄色い犬』『聖フォリアン寺院の首吊男』[サン・フォリアン寺院の首吊人]など「一通りは読んだが、どこが面白いのかわからなかった」そうだ。もっぱら初期の印象はジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画『モンパルナスの夜』(原作『男の首』、1933)で培われたようだ。

 少年時代にシムノン作品をパスしてしまったのは、単純にいって〈謎とき小説ではない〉からであった。
 その〈謎とき小説ではない〉ところがジイドに絶賛されたり、アカデミー会員にえらばれたりするのが、どうも納得がいかない。もともとフランスの推理小説は肌が合わないので、それきり読まずにいた。
 (中略)久々に本気で読む気になったのは、「仕立て屋の恋」という映画が近々封切られるために、原作が訳されたからだ。
 (中略)ぼくが生れたころの小説だから、当然、古い。古いことは古いが、予想していたよりは新鮮な部分が多かった。

 と書き出している。シムノンの小説が謎解き小説ではないので面白いと感じられない、もっぱらイメージは戦前の映画『モンパルナスの夜』だ、というのは、いまなお日本のミステリー読者の一般的印象に近いと思われる。シムノンのイメージは戦後からほとんど刷新されずに21世紀まで来てしまった。
 さらに小林氏は続ける。

  この小説について、ある作家が〈犯罪小説でありすぎるのが、私には気に入らない〉と書いていた。
 ぼくも、〈密告〉で始まるのはちょっと、と思った。もてない中年男が若い女をのぞき見している──この発端で充分ではないか、と思う。たとえば、パトリシア・ハイスミスなら、そこから始めるだろう。
 こうした不満はいわばゼイタクなのだが、この五十数年間に小説じたいが大きく変ってきた事情があると思う。つまり、〈密告〉がなくても、異常な男と変った女の性格のドラマだけで、サスペンスは充分なのである。『イール氏の婚約』程度の長さだったら、みえみえ・・・・のサスペンスはいらないのではないだろうか。ラストのパニックの部分まで読むと、こうした結末はちょっと古いなと思ってしまう。では、どうすればよいのか、と急に言われても困るのだが……。

 小林氏のいわんとしていることはとてもよくわかるのだが、シムノンの作品をペンネーム時代から順に読んできた後に本作『仕立て屋の恋』を読むと、感想は異なる。
「犯罪小説でありすぎる」「みえみえのサスペンス」とあるが、それまでのシムノン作品と比べれば、はるかに本作は一般文芸寄りなのだ! これでもまだ「犯罪小説でありすぎる」「みえみえ」と感じられるのかと、ちょっと驚かされるほどだ。『アルザスの宿』にジャンル小説っぽさが生々しく残っていたことを思うと、本作は明らかにステージがひとつ上がった作品として読める。
 小説は読者に読んでもらわないといけないので、どうしてもどこかに大衆的な部分が求められる。おそらく後年のシムノンはもっと枯れてくるのだろうが、30歳で本作を書いたシムノンは気力が漲っていた。本作では読ませる展開と小説としての自然さがうまいバランスで両立できている、と私は感じる。伸び盛りの時期の作家に共通して見られる、気持ちのよいバランスだ。
 小林氏はさらに本作について「ユーモアの欠如」を指摘している。『男の首』のラストが印象に残っていることを例に示し、こういうユーモアの効用がほしいと考えている。
 ところがもともとシムノンはユーモアコントの作家だったのであり、『男の首』の決着のつけ方はまさにコントのそれなのである。確かに『男の首』のあのラストは印象深いのだが、唐突にあのシーンが出てくるから読者はびっくりして印象に刻みつけられるのである。たぶんシムノンは後年、ああいうことをあまりやらなくなる。あざとい、作為的な結構だと思うようになったからではないか。
 小林氏はデュヴィヴィエ版の映画を観ていないので、本作が郊外に燻るいじめや偏見の構造を基盤にした物語であることを、いまひとつわからずに読み進めたかもしれない。冒頭の女管理人の密告は、イール氏が当初から世間の偏見に晒されているという物語上の提示なのである。
 この冒頭で、奇妙なことにシムノンは女管理人の子供たちの様子をくどくどと書く。物語には何の必要性もない記述である。だがラストでもシムノンは同じことをやる。物語とは何の関係もない乳製品屋の女将の子供が咽頭炎に罹ったという話が、なんとラストから2ページ目に出てくる。これは何の意味があるのか。
 町の無意識がイール氏の運命を壊したという提示なのである。イール氏に直直接何の関係もない子供たちもその一部であり、そしてイール氏が物語の冒頭で血のついたタオルを見られることは回り回って何の関係もない子供たちにも影響を与え、ラストでイール氏が死ぬことは回り回って無関係な子供の咽頭炎に影響するのである。だから本作のラスト2行は恐ろしいのである。
 シムノンはハリウッド脚本術のようには書かない。「小説とは普通ならこう書くものだ」という批判は、シムノンには通用しないのである。なぜなら私たちがつい油断するとやってしまいがちな「小説とは普通ならこう書くものだ」という批判自体、ルーティンでありフォーミュラだからである。
 小林氏の感想が読書好きの一般的な感想だとしたら、シムノンはずっと誤解されてきたことになる。だが私は自分自身の経験からよく知っているが、物事はどんなときでも人に誤解されるから人気が出るのであるし、売れるのである(認知バイアス)。人に誤解されるからバッシングを受け、批判されるのである。
 シムノンという作家はそのことを充分に知っていただろう。シムノンは映画作家にとって「faux ami 油断のならない友達」である。

 本作は何度か映画化されている。イール氏とアリスの関係性がそれぞれ少しずつ異なっているのは、各監督の作家性が顕れているようで興味深い。
 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の戦後フランス復帰第1作『パニック』(1946)でイール氏を演じたのは、名優ミシェル・シモン。彼は後に映画『Brelan d’as(別題Les temoignages d’un enfant chœur)』(1952)でメグレを演じている(本邦未公開。映像ソフトなし。原作は「児童聖歌隊員の証言」)。
 ミシェル・シモンのイール氏はその風貌からいかにも怪しげで、周囲の人々から胡散臭く思われているものの、実はそれなりに善良な人間だという設定である。彼はヴァルガ医師という別名で診療所のようなものをやっており、占星術も使うので変わり者かもしれないが、小島に瀟洒な別荘も持っている。孤独だが、意外と充足した一面もあるのだ。事件に巻き込まれなければ穏やかに一生をまっとうしたかもしれない。だがアリスはそんなイール氏を「使える」と思うやいなや、肩をはだけたりスカートをめくって見せたりして、あからさまな色仕掛けに出る。
 町の広場には遊園地が設けられている。アリスと情夫の後をイール氏はつけるのだが、それに感づいたふたりはゴーカートでわざと何度もイール氏の車にぶつかって嘲笑する。その様が可笑しいと、町の人たちも同調し始める。イール氏のカート一台に、他の全員が狙って大笑いしながら襲いかかる。この中盤のいじめシーンはすごい。
 町の肉屋、薬局屋、バーで、イール氏の噂話が増幅されてゆく。女子プロレスを観て興奮した観衆がそのまま町へと雪崩を打って出て行き、高ぶった感情はイール氏ひとりにぶつけられる。クライマックスは町中のみんなが固唾を呑んであちこちの物陰に隠れながら、タクシーで自宅に戻ってくるイール氏を待ち受ける場面だ。タクシーを降りたイール氏は町の異様な雰囲気に気づく。ついにある一人が路上でイール氏にぶつかる。イール氏の帽子が地面に落ちる。すかさず若者が走り寄ってきて帽子を蹴り、その弾みでイール氏も蹴られて倒れる。原作にもあるシーンだが、ここは本当に恐い。イール氏は額から血を出して惨めに顔を上げる。誰も助けてくれない。町を挙げてイール氏ひとりを潰そうとする。誰もがそれを正義だと確信しているのだ。
 デュヴィヴィエ版のイール氏は、途中から本気で無邪気にアリスに恋しているのだ。自分は世間では嫌われ者かもしれないが、自分の趣味であるカメラがアリスに認められたと喜びを見せる。それでも彼は死ぬ宿命にある。

 日本はデュヴィヴィエ映画のよき受容国だったが、この『パニック』は東和映画が輸入したものの、当時の輸入本数の制限があったためか封切られずに終わった。
 その後シムノンの原作が、《映画ストーリー》誌で秘田余四郎氏と松村喜雄氏の共訳により、「群衆の敵」というタイトルでデュヴィヴィエ版のスチール写真をあしらったかたちで抄訳初紹介された。この訳業はこれまでミステリー関連の書誌から漏れてきたと思われる。秘田余四郎氏はミステリー小説の翻訳も手掛けているが、映画の字幕翻訳家として有名。シムノン映画では後の『殺人鬼に罠をかけろ』(1958公開)『可愛い悪魔』(1959公開)の字幕を担当している。
 この抄訳連載がおそらくきっかけとなって、松竹が『その手にのるな』(1958)という映画をつくった。シムノン原作の日本映画だ。脚色を担当した沢村勉氏は『モンパルナスの夜』以来シムノンのファンだったようで、《シナリオ》誌に次のように書いている。デュヴィヴィエ監督の『モンパルナスの夜』が、いかに当時の映画ファンの心を強くつかんでいたかわかる。

 (中略)こんどシメノンの「パニック」を松竹で映画化することになった時大船の所長室で、所長の大谷隆三、次長の小出孝氏、プロデューサーの桑田良太郎氏、監督の岩間鶴夫氏たちと、一しきり「モンパルナスの夜」の思い出話に花を咲かせたものです。それが封切られた頃、私たち一同は、みんな若い映画ファンだったのです。
「パニック」の映画化を提案したのは私ですが、そういう思い出があるだけに、みんなの意気ごみは大変なものでした。われわれの手によって、夢よもう一度というわけです。(後略)

 確かに松竹の意気込みは相当なものだったようだ。当時のプレスシートに次の記述がある。

(前略)この原作は、現代フランスに於ける最も世界的な探偵作家として知られるジヨルジユ・シメノンの代表作であり、日本映画界に於て松竹が初めて国外の原作者との直接交渉により、巨額な金額を投じて映画化権を獲得したものであり、野心に燃える岩間監督が、初の松竹グランドスコープの銀幕一杯に、現代人の心理にひそむミステリーと人間の真実を追求して描く一大異色篇で、全映画界注視の中に早くも話題を呼んでいる。

 私はこの映画を観ていないが、シナリオは読んだ。イール氏はキャバレーのギター弾き(完成映画版だとクラリネット吹き)の岸田。アリスは地方巡業から帰ってきた浅草ヌードダンサーの由美。エミールは鉛管工の牧。物語の途中まで、女殺しの犯人が岸田なのか牧なのかわからない、というのが興味深い。岸田は暗がりで牧を見たような気がすると主張するのだが、はっきりしない。牧は自分が犯人ではないという。
 脚色の沢村氏らがデュヴィヴィエ版を観たかどうか定かではないが、元となった「群衆の敵」のタイトルにふさわしく、徐々に岸田への悪い噂話が近所で広がってゆく。岸田は下着泥棒の常習犯だと見なされているのだ。証拠品である被害者の鞄の扱いも各映画で少しずつ違っていて、本作での処理はいっそう娯楽映画的だ。

 そしてパトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』(1989)である。確かルコント監督の日本初紹介作品は『髪結いの亭主』(1990)だったと思う。これが評判になったので、前年の作品『Monsieur Hire[イール氏]『仕立て屋の恋』という似たような邦題で紹介された。
 それにしても『髪結いの亭主』という邦題は秀逸だったと思う。原題は『Le mari de la coiffeuse』、これが普通に『美容師の夫』だったらたぶん売れなかっただろう。私はいまでも当時のルコント作品、『タンデム』(1987)『仕立て屋の恋』、『髪結いの亭主』の3作は大好きだ。ルコント監督はいかにも男子の充足願望みたいな物語を描くことが多く、たとえば『橋の上の娘』(1999)はそれがあからさますぎて、しょせん夢物語ってこんなものでしょみたいな手抜きのストーリー展開が私には興ざめなのだが、『タンデム』『髪結いの亭主』は夢心地な感じのバランスが絶妙であるし、『仕立て屋の恋』は緊張感が最後まで持続して何度観ても面白い。
 イール氏役はミシェル・ブラン。音楽はマイケル・ナイマン担当で、イール氏がアリスの部屋を覗き見するシーンではブラームスのピアノ四重奏曲第1番第4楽章が効果的に使われる。
 パンフレット等によると、ルコント監督はもともとデュヴィヴィエ監督のファンで、シムノンはそれまで何冊か読んでいたようだが『パニック』の原作がシムノンだったとは知らなかったそうだ。それでシムノンの原作を読んで、イール氏とアリスの恋物語に焦点を絞れば敬愛するデュヴィヴィエ監督とは別の自分の映画がつくれると感じたのだという。なお、この陰鬱な映画を準備している途中でルコント監督は次作の『髪結いの亭主』を思いつき、この明るい夢物語の脚本をわずか数日で上げたそうだ。
 本作『仕立て屋の恋』は、デュヴィヴィエ監督版とは別とはいえ、『パニック』からの引用もあるように思える。物語とはほとんど無関係に思える少女が、イール氏と交流するシーンがある。これは『パニック』で同じアパルトマンの少女が醜貌のイール氏へ唯一素直に心を開いていた描写への応答ではないか。また『パニック』ではアリスがアパルトマンの階段を上るとき、猫が降りてきてにゃあと啼くシーンがあって、何気ないが印象的だ。『仕立て屋の恋』でアリスがトマトを階段で落とすのは、このシーンへの応答ではないか。
 ルコント監督とシムノンの決定的な違いは、なぜイール氏がアリスの部屋を覗いているのかという深層意識の部分だ。ルコント版のイール氏はフェチなのだが、シムノンのイール氏はそうではない。ペンネーム時代の『運命』でも見たように、シムノンの主人公は“ただ”じっと見ているだけなのだ。ルコントはフェチだが、シムノンはフェチではなくサイコパス的なのである。これは重要な違いであって、ルコント版の最後に出てくる「ただ死ぬほど切ないだけだ」という映画オリジナルの台詞は、ルコントのイール氏がフェチだからいえる愛の言葉だ。サイコパスは愛の場面でもこういう台詞を決して吐かないだろう。
 もしルコント版の映画を観てから原作を読むという人は、この違いを念頭に置いておくとシムノンの原作がよりわかりやすくなるのではないかと思う。
 むろん、あなたはフェチだろうと、サイコパスだろうと、愛の物語が大好きであるはずだ! 

 最後にシムノンの原作へと再び戻ろう。小説版でイール氏が昔の実家を訪れたとき、そこで店を営んでいる新しい店主から、あなたは息子さんじゃありませんかと尋ねられる。そうですよと何気なくイール氏が応えると、店主は「えっ!」という声を漏らす。(文庫版150ページ)
 この一言が、その後ずっとイール氏の頭から離れない。なぜ店主は「えっ!」といったのだろう?
 この引っかかりこそ、まさにシムノンらしい描写だ。ずっとその一言が彼の耳に鳴り響く。サイコパスっぽいというのはこういうところだが、煎じ詰めればこの引っかかりが、いつもシムノンの主人公を破滅へと導くのである。何の関係もないように見える何気ない日常の執着だが、これこそシムノンがシムノンという作家となった所以であるように私には思える。
 シムノンをカミュと比較する評論は多い。シムノンのロマン・デュールはカミュの『異邦人』(1942)のようだというわけだが、まだロマン・デュールをさほど読んでいない私には、その評価が適切なのかどうかわからない。シムノンの主人公たちは太陽が眩しかったから人を殺したというより、この「えっ!」という声が耳から離れないから、そのような人々だから破滅していったのだと、いまの時点で私には思える。

     

 メグレ警視シリーズは、よく「共感」の物語だといわれる。これまで本連載では、受動的に他者の心と同調する「共感」(シンパシー sympathy)と、能動的に他者の心を思いやり忖度する「感情移入」(エンパシー empathy)は違うと述べてきた。近年「忖度」という言葉があたかも汚い大人社会における「先回り服従」の典型であるかのように揶揄される傾向が生まれてしまったが、もともと「忖度」に悪い意味はないはずだ。看護やケアの基本は empathic understanding であり、これは一般的訳語である「共感的理解」というよりも、自分とは異なる立場の患者の気持ちを思いやり忖度する「感情移入的理解」を意味している、と私は考えている。
 メグレシリーズは共感の物語ではなく、それよりもさらに先、感情移入の物語であると思う。そのことを今回『仕立て屋の恋』を読みながら感じた。
 メグレシリーズは、メグレが殺された被害者や犯人の心を探ってゆく物語である。メグレは彼らの心に同化・同調してゆくため、語義的には「共感」の物語とされやすい。しかしメグレの物語は多くの場合、対象者と同化したその瞬間に、物語は解決しているのである。相手の心がわかったとき、謎は解けて、物語は終わるのである。客観的に見れば、メグレは何も捜査していない。しかしメグレと読者の心のなかで事件は解決している。
 これはどういうことだろうか。
 最近私はデイヴィッド・D・バーンズ『増補改訂第2版 いやな気分よ、さようなら 自分で学ぶ「抑うつ」克服法』(野村総一郎他訳、星和書店、2004、原著1999)という本を読んだ。その第七章188ページに次のことが書かれてあった。
 語義をより明確にするため、原著と照合して単語を補ってみる。

 感情移入Empathy はすばらしい怒りの解決方法です。(中略)
 言葉を定義しましょう。感情移入 empathy とは、人が感じることを同じように感じるということではありません。それは同情 sympathy なのです。同情は非常に押し付けがましいもので、私の見解では、過大評価されすぎています。感情移入することは、優しく理解して行動することではありません。それは支持 support なのです。これもえてして過大評価されています。
 では感情移入とはどういうことでしょう。それは他人の考えや動機を「それがまさに自分の理由だ」というように正確に理解する能力abilityのことです。これができれば、他人の気にくわない行動すら怒らずに理解し受け止めることでしょう。
 いいですか、怒りを産み出すのは人の行動ではなく自分の考えなのですよ。面白いことに、相手がなぜそう行動したのか理解した瞬間に、あなたの怒りが驚くほどおさまってくるものです。
 感情移入することで怒りを抑えることが簡単なら、なぜ人は毎日いがみ合うのでしょうか。感情移入できるようになることは難しいからです。(後略)

【注意】
 邦訳版同書第八章213ページにも、「罪悪感を道徳的な意味でもっと前向きの「共感」empathy に置きかえてみてはどうでしょう。共感 Empathy はあなたの行動の結果を、良しにつけ悪しきにつけ視覚化する力 ability をもっています。(後略)」という部分がある。ここに出てくる「共感」も、原文はすべて第七章でいうところの「感情移入」empathyであって、sympathyではない。
 翻訳担当者が章によって異なっていたのか、このように書籍全体のキーとなるような重要な訳語にぶれが生じているのは残念である。

 私たちは、理解できない他者に感情移入して、相手の行動の理由を理解した瞬間に、心が鎮まるのである。それはつまり、事件が解決したということではないだろうか。
 共感 sympathy だけでは決して物事は解決できない。だが感情移入 empathy によって、メグレと私たち読者は事件が解決に至ったと深く納得できるのである。
 メグレの物語を読むと私は自分の呼吸が整う感じがする。私たちはメグレを読むことで、人間が持つ本来の心の能力、すなわち感情移入という、普段発揮することは難しいが豊かな能力を、自然と取り戻すのではないだろうか。
 だからメグレは大人の物語なのだ。私はそう思うのである。

▼他の映像化作品(瀬名は未見)【註1】
・映画『Barrio』ラディスラオ・バホダLadislao Vajda監督、Milú、ギレルモ・マリンGuillermo Marín出演、1947[ポルトガル、スペイン][バリオ:下層居住区]
https://elgabinetedeldoctormabuse.com/2016/03/14/barrio-1947-de-ladislao-vajda/
・映画『その手にのるな』岩間鶴夫監督、沢村勉脚色、高橋貞二、杉田弘子出演、1958[日]2006年にラピュタ阿佐ヶ谷「銀幕の東京~失われた風景を探して」特集で再上映された。
・TVドラマ「The Suspect」《Thirteen Against Fate》シリーズ、Michael Hayes監督、マリウス・ゴーリングMarius Goring、Mary Miller出演、1966[英][容疑者]【註2】

【註1】
 本連載では、国内・海外でVHSやDVDが正規販売されたことのあるシムノン作品はできる限り入手に努めており、ここに掲載するのは基本的に一度も一般向け映像ソフトが出ていない(どうしても見つからない)ものである。
 ときに海外の公的フィルム保存センターに収蔵されている作品もあるので、どうしても観たい人は学術研究の一環としてそれらの施設に問い合わせることはできるかもしれない。
 まれに各国のAmazon videoや当地のテレビ局が運営するウェブアーカイヴに登録されている作品もある。ただし現状では、その土地に居住しないと視聴は難しいと思われる。

【註2】
《Thirteen Against Fate》[宿命に抗う13人]は、1966年6月から11月まで13週にわたり、シムノンのロマン・デュール作品を映像化した英国BBC1のTVドラマ番組。次の13作が制作された。映像ソフトは未発売。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Against_Fate
http://www.imdb.com/title/tt0861682/episodes?season=1&ref_=tt_eps_sn_1
ドラマタイトル、原題(発表年)、邦題または英題
The Lodger Le locataire(1934)『下宿人』
Trapped Cour d’assises(1941)Justice
The Traveller Le voyageur de la Toussaint(1941)Strange Inheritance
The Widower Le veuf(1959)The Widower
The Judge Les témoins(1955)『証人たち』
The Schoolmaster L’évadé(1936)The Disintegration of J. P. G.
The Witness Le haut mal(1933)The Woman of the Grey House
The Friends Chemins sans issue(1938)Blind Path
The Survivors Les Rescapés du «Télémaque»(1938)The Survivors
The Son Le destin des Malou(1947)The Fate of the Malous
The Murderer L’Assassin(1937)The Murderer
The Suspect Les fiançailles de Monsieur Hire(1933)『仕立て屋の恋』
The Consul Les gens d’en face(1933)The Window Over the Way

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。




































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