Les nouvelles enquêtes de Maigret, Gallimard, 1944/3/30[原題:メグレの新たな事件簿]中短編集、メグレシリーズ17編収録[1-17]
『メグレ夫人の恋人』長島良三訳、角川文庫、1978[10, 6, 3, 1, 7, 9, 2, 5, 13]*
『メグレの退職旅行』長島良三訳、角川文庫、1981[4, 8, 11, 14, 16, 15]*
『世界の名探偵コレクション10 6 メグレ警視』長島良三訳、集英社文庫、1997[4, 1, 7, 12, 14, 19]* 他に「街中の男」収載
Œuvres completes Maigret IX, Éditions Rencontre, 1967[原題:全集 メグレ 第IX巻][1-19]
Illustré par Loustal, Ceux du Grand Café, Omnibus, 2001[19]
Illustrées par Loustal, 6 enquêtes de Maigret, Omnibus, 2014[19]
Tout Simenon T25, 2003[10-19]
Tout Maigret T10, 2008

※書誌詳細については第61回参照。

第62回【前編】はこちら

■16.「マドモワゼル・ベルトとその恋人」1938■

 本邦では次の「メグレと消えたミニアチュア」とともに、《ハヤカワミステリマガジン》1973年9月号の「シムノン引退特集」号で初紹介された作品。
 5月。すでにメグレは引退し、ムン゠シュル゠ロワールMeung-sur-Loireにあるロワール河岸の別荘で庭の手入れなどをしながら夫人と暮らしている。そのメグレのもとへ手紙が届いた。現役時代の同僚で殉職したリュカ巡査部長の姪の娘が助けを求めてきたのだ。
 メグレはひとりパリへ向かい、モンマルトルのカフェで相手と会った。彼女の名はベルト、28歳。周囲の視線を気にしてそわそわしている。彼女は有名ファッションブランドの紛い物をつくるお針子で、アルベールという恋人がいた。良家の息子だったが、職を失ってから胡散臭い連中とつき合うようになった。そしてある日、若い男4人が強盗をして、逃走時に警官をひとり撃って殺してしまった。その銃はアルベールのものだった。
 アルベールはいま逃走中で、ベルトに「カレー[北部の港町で、ベルギー国境に近い]の駅で落ち合って、いっしょに国外へ出よう。新聞の尋ね人欄で日時を連絡してくれ」と手紙を送ってきていた。だがベルトは彼の目的が彼女の金でしかなかったことにようやく気づき、怯えて、彼のもとへは行かなかったのである。彼は怒ってベルトに復讐を企てるかもしれない。だからどうか私を守ってほしい──これがベルト嬢の訴えだった。
 ずっとベルト嬢を見張っている怪しい若者がいる。メグレがその男を追うと、彼はバーに入って意外にもメグレにポーカー・ダイスを誘ってきた。そしてなんと彼はベルト嬢の弟だというのだ。姉には少しおかしなところがあるという……。
 メグレの甥のジェローム・ラクロワJérôme Lacroix刑事inspecteurが登場。『メグレ再出馬』第19回)にも甥の刑事が出てきたが、そちらの名はフィリップ・ローエルだったので同一人物だといい切れないのが惜しい。
 するすると読める滑らかな文体になってきたことがはっきりとわかる。それは登場人物たちの動きが自然になってきた一方で、狭義のミステリーとしては緩くなってきたことを示してもいる。トリックの面白さ、サスペンスの強烈さ、といったものは主眼ではなくなってきている。最後にメグレが下す判断は、徐々に定番となりつつある、いわば大岡裁きであって、人情ものとしての捕物帳に近い味わいが生まれようとしているのがわかる。メグレシリーズに捕物帳との類似を見出す人がいるのは、本作のようなまとめ方が印象に残るからかもしれない。
 実際、本作は読後感がいい。そしてテーマが心を暖かくさせる。本作のいちばんの謎は、メグレに連絡してきたお針子は本当に恋人のアルベールを愛していたのか、そしていまも愛しているのかどうか、という点なのである。彼女は怯えるような素振りをしきりに見せるが、それは嘘ではないだろうか、とメグレは考えるのだ。元恋人に怯える娘としては、彼女はあまりに利発でかわいらしく思えるからだ。この謎が読者を惹きつける。
 捜査ですっかり夕食を忘れていたメグレは、甥のラクロワを連れてバーに行き、塩漬けキャベツとソーセージを食べてビールを飲む。メグレらしさが際立つが、塩漬けキャベツは実際に司法警察局の刑事たちがふだんから食べているものであることを、このときすでに作者シムノンは知っている(ルポルタージュ「司法警察局」第60回参照)。メグレとその周囲の設定が、実際の取材体験をもとにくっきりと形成されつついる。
 メグレは久しぶりにパリに戻ってきたのだ。そして彼を迎える春のモンマルトルのコーランクール通りは明るく輝いている。燦々と太陽の光を浴びている。この眩しさがとてもいい。私たち読者も久しぶりにパリへ戻ってきた気持ちになる。
 ひとつ余談。リュカがメグレの引退間際に殉職していたというくだりにびっくりした読者はたくさんいるはずだ。シムノンの原文でもリュカ巡査部長brigadier Lucasと明記されている。だがこれはシリーズ全体の設定と整合性がつかないので、作者は本来なら別の名前にすべきであった。
 つけ加えておくと《ハヤカワミステリマガジン》掲載版の渡辺美里訳では「ファレル巡査部長」と名前が変更されている。このヴァージョンの原典があったのかどうかは不明。

■17.「メグレと消えたミニアチュア」1938■

 本作と次の「メグレと消えたオーエン氏」は、長島良三氏による翻訳が存在しない。本邦におけるメグレ短編集はどれも長島氏の翻訳作品でまとめられているので、この2作だけはいまも雑誌掲載版でしか読むことができない。
 7月の朝、ロワール河岸のメグレの別荘に来客があった。初老の男はシャトーヌフ゠シュル゠ロワールの公証人モットと名乗った。彼には3人の娘がおり、そのうちの次女アルマンド19歳が、この度絵描きのジェラール・ドナヴァンと来月結婚することになっていた。いかにも喜びに溢れた仲むつまじい家族である。ところが先月、何度も家で盗難があった。高価な象牙細工の骨董品ばかりが盗まれる。モットはジェラールが犯人ではないかと疑い、娘を盗人と結婚させるわけにはいかないということで、メグレに秘密の調査を願い出たのである。
 メグレはベルジュラックから来たモットの友人ルグロ氏だと素性を偽って、さっそく調査に乗り出すことになる。モット氏の車に乗って彼の邸宅に着いたときには、彼とその家族に対する興味が自然と湧き起こってきていた。
 メグレはモット氏の家族を紹介される。だが、この家庭はあまりに完璧すぎると感じられた。あまりにも満ち足りて、幸せすぎて、自分も知らず知らずのうちに引き込まれそうになるほどだ。それがメグレを不安にさせる──。
 第2シーズンのなかでただひとつ、時計の針が巻き戻る物語。本作のメグレは引退時期が近づいているものの現役である。ただし現役ではあるが歳を取って、しばしば別荘で休暇を取るようになっていたのだ。本作はその田舎が舞台であり、作者シムノンの筆致も回顧的で、引退後の時間軸から過去を振り返って書いているように読める。だからこの順番で読んで差し支えない。
 途中、メグレは容疑者から「即刻、ご本職に戻られた方がよろしいのではないかと」(矢野浩三郎訳)と忠告されるが、休暇中の彼は「もしそうだったとしたら、この事件を、警察の手に任せてしまったほうがいい」といって、あくまで休暇中なのだから警視として振る舞いたくはないよ、と意思表示している。ちょっと距離を置いているのだ。それに別荘の庭でトマト菜園をしているのだから、野菜が傷まない程度には頻繁に訪れていることになる。いずれにせよ別荘になじんだ高齢期時代の物語だが、周りの人たちはメグレを「警視」と呼んで親しんでいる。
 物語の半ばで、早くもメグレの素性は一部の関係者に割れてしまう。アルマンドの恋人ジェラールが登場し、窃盗犯は自分ではないとメグレに訴え出る。ジェラールの父親はかつて「コモドール(提督)」とも呼ばれた「オランダの盗賊」だった。メグレもこれまで3回逮捕したことのある泥棒だ。しかし息子のジェラールは、犯人は自分ではなく別の人物だと主張する。
 小説の雰囲気が大きく変わってきていることがわかるだろう。もはやミステリーとしてとくに見るべきところはない。物語はゆるゆると進んで、緩やかに終わる。真犯人は最後に特定されるが、あっと驚くほどのものではない。呼吸するように読んで、呼吸するように終わる、そういう小説だ。物語は最後にメグレが夢を見るシーンで幕を閉じるのだが、この小説全体が夢のようでもある。ふしぎな邸宅に足を踏み入れて、夢のような家族と出会い、夢のひとときを過ごした、ひとりの男の夢物語だ。
 第1シーズンではまだ狭義のミステリーであろうとする作者の意志があった。第2シーズンに入ってからも、ここまで読んできた引退前後の物語群には独特の緊張感とドラマ性があった。しかし本作になると、すでに作者の肩の力は抜けている。メグレと同じように作者自身が余生を楽しんで書いているかのようだ。
 それでも一編の小説作品としてまとまるのだということを、シムノンは本作を書くことで実感したかもしれない。ひょっとするとそれはシムノンにとっても意外な発見だったのではないだろうか。メグレものはこの方向で書いてもよいのだ、とシムノンは改めて気づいたかもしれない。
 だから本作はメグレシリーズのひとつの転換点であったようにも思えるのだ。
 ところで、「コモドール」という盗賊が出てきてちょっと嬉しかった。ペンネーム時代の長編『悪魔との婚約者』第31回)にも主要登場人物の父親として「ル・コモドール」という麻薬密輸団の首領が出てきた。そのことを懐かしく思い出した。
▼映像化作品(瀬名は未見)
。TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、Gérard Gozlan監督、1988(第77話)

■18.「メグレと消えたオーエン氏」1938■

・TVドラマ『美術商ミスター・オーエン(Maigret et l’improbable monsieur Owen)』 ブリュノ・クレメール主演、ピエール・コラルニックPierre Koralnik監督、1997(第27話)

 ここから先の2作は中短編集『メグレの新たな事件簿』(1944)に収録されなかった作品である。そのためフランス本国でも一時期までシムノンの全集を繙かない限り読めない作品となっていた。現在流通している一般向けペーパーバック版も初刊時と同じ構成なので、やはり収められていない。1944年の中短編集に入らなかったのは、たぶん単純に全体の枚数の都合だったのではないか。最後の2作をカットしたということだろう。
 本邦では《ハヤカワミステリマガジン》1990年3月号の「ジョルジュ・シムノン追悼特集」号で、野口雄司訳により初紹介された。長島良三訳ではないので既存の日本語版短編集には収められていない。
 3月。引退後のメグレはひとりでカンヌの豪華ホテル《エクセルシオール》に来ていた。長いことホテル勤めをしている友人のルイと旧交を温め合うためである。そのルイ氏がある日、不可解な事件が起こったことを知らせてきた。
 ホテルに3週間も宿泊していたオーエン氏なる人物の部屋で、裸の若い男の死体が見つかったのである。オーエン氏はふだんから金髪で肉づきのよい女性看護師ジェルメーヌ・ドゥヴォンをつき添わせて、規則正しい生活をしていたが、その日は朝になっても姿を見せない。看護師がいったん外出するのは見たが、それだけだ。そこで午後になってルイが合鍵でオーエン氏の412号室に入ったところ、浴室に素性の知れない死体があったのだ。死因は溺死、死亡時刻は早朝と思われた。
 看護師は隣の413号室に寝泊まりしており、両部屋をつなぐドアはいつも開いていた。第一容疑者はこの看護師だが、オーエン氏の行方がわからない。彼はいつもグレイの三つ揃いで、太陽の輝く春の地中海沿岸だというのに、いつもグレイのリネンの手袋をしていたという。メグレは引退したにもかかわらず、この奇妙な人物像を頭で再現し、すでに強い興味を持ち始めていた。メグレは「オーエン氏……」とひとり何度も呟き続ける──。
 ミステリーとしてはさらに後退。第1シーズンの初期短編と同じく謎が提示され、そして後半に入っていきなりメグレが真相を長々と話して終わる。これだけの手がかりではさすがに読者が推理するのは不可能だろうと思える大雑把さも同じである。
 だが枚数が増えたことでゆるゆるとした感じが際立ち、それが本作では残念ながら効果的な方向には昇華されていない。「メグレの退職旅行」あたりなら描写に厚みが出て読み応えがあったと感じられたのに、今回はただ無駄に長いと感じられてしまう。メグレものはつまらないと印象論で語られる際の悪い部分が初めて出てしまった記念すべき(?)作品ともいえる。まあカンヌの春の陽気を感じながら、こちらもひなたぼっこをしてぼんやりのんびりと読むのが似合う作品だ。
 メグレの経歴についてひとつ。メグレはかつてルイと知り合ったころ「機動捜査班警視」Le commissaire de la Brigade mobileと呼ばれており、ルイにとってメグレはいまもそのエースun as[第一人者]なのだ、というくだりがある。確かに第一期のごく初期作品だと、メグレは機動隊Brigade mobileに所属していたことになっている。司法警察局の警視になる前、メグレは機動隊の警視であったのだと思われる。1930年か1931年ころに、たぶん現実のパリ警察機構で組織改変か何かがあって、それが反映されていると私は思っているのだが……まだこの点については私の理解が不充分で決着がついていない。
 もうひとつ。タイトルの「L’improbable monsieur Owen」のimprobabreは「ありそうもない」「疑わしい」の意味で、初期のシムノンにとってお気に入りの表現のひとつだったと思われる。似た単語のinsaisissable「捕らえられない」はペンネーム時代のミステリー中編のタイトル『Nox l’insaisissable』[神出鬼没のノクス]第23回)に使われているし、invraisemblable「本当らしくない」「ありそうもない」はG.7ものの中編「《マリー・ガラント号》の謎」第32回)の原題「La croisière invraisemblable」[信じがたき航海]で使われていた。またこの後シムノンは『Le soi-disant M. Prou ou Les Silences du manchot』[いわゆるプルー氏または障碍者の沈黙](1943)というオリジナルラジオ脚本を書くが、その原題は『L’invraisemblable Monsieur Prou』だったといわれている。「本物とは思えない○○氏」という感覚は、きっとシムノンの好みだったのだと思う。
 クレメール版のドラマでは、オーエン氏の職業は美術商。メグレは現役の警視だが休暇で南仏に来ており、そのホテルで美術オークションが開かれているという設定である。原作には登場しないちょっとおバカなお色気たっぷりの女優が出てきて、彼女は再婚相手と南仏へやって来たのだが、彼女の飼っているマルチーズ犬がオーエン氏の部屋で正体不明の男の死体とともに死んで見つかるというオリジナル展開。またホテルのサウナでマッサージ師をやっている盲目の男もオリジナルキャラクターとして登場。この女優とマッサージ師が事件の鍵となり、後半は原作からいくらか離れた展開を見せる。このころのドラマ中期はメグレ役のクレメールがまだ若いなあ、劇伴が頻繁にかかって全体的に明るい雰囲気だなあ、という印象。
 なおシムノンの原作ではサフト氏Saftという人物が出てくるのだが、なぜかドラマ版ではシャフト氏Schaftになっていた。

■19.「メグレとグラン・カフェの常連」1938■

 本邦では《EQ》1990年1月号の「特集:さらばメグレ警視」号で初紹介された。
 隠居後のメグレはムン゠シュル゠ロワールに住み、いつしか橋のたもとにある《グラン・カフェ》の常連客として、気心の知れた他の客とカードゲームを楽しむようになっていた。店を切り盛りするのはユルバン夫妻、それに20歳の女中アンジェル。ゲーム仲間は肉屋のユベールに、シトロエンと呼ばれる自動車修理業者、それにメグレを加え、4人目はそのときどきによって変わる。
 4月初旬。常連客の肉屋のユベールが殺されたという知らせがメグレのもとに入った。その日彼はカフェを出た後トラックに乗ってオルレアン方面へ行ったらしい。だが街道で胸に弾を受けているのが見つかったのだ。トラックのタイヤはパンクしており、財布は空だった。
 肉屋は町の外でこっそりアンジェルと逢瀬を楽しんでいたらしい。メグレ夫人の話によると、アンジェルは妊娠して密かに子供を堕ろしたとの噂があるという。恋敵による犯行だろうか。町長もメグレを頼ってくる。メグレは隠居したはずの田舎で、元警視として事件に向き合わなければならなくなった。夫人の後押しを受けてメグレは捜査に乗り出す。
 作中の記述によると、メグレはすでに引退してから1年以上経っている。よく晴れた穏やかな日には、庭でナポレオン時代の警察大臣ジョゼフ・フーシェの『手記Mémoires』を読んで時を過ごす。
 物語は冬に始まり、事件発生の4月を経て、夏へと移ってゆく。事件は未解決のまま、捜査は打ち切られるのだ。行きずりの犯行かもしれないと警察側は考える。
 最終章で物語はさらに3年後へ飛ぶ。庭でリラの花が咲き始める季節。メグレは事件を思い出し、あのとき自分は肉屋の死を止めることができたはずなのに、と初めて夫人に打ち明ける。あの当時、関係者の誰も彼もがメグレの家にやって来て打ち明け話をして泣き崩れていたが、今度はメグレが打ち明け話をする番だった。ようやくメグレ夫人は夫の真意を知る。当時メグレは事件の全体像を見抜いていたのだった。

「いずれにしても、たった今、男の人がわかったような気がするわ」(長島良三訳)

 これがラスト間際のメグレ夫人の決め台詞だということになる。作品のテーマを端的に提示したひと言であるわけだが、今回はこのパンチが弱いと感じた。ここへ至るまでの描写が全般的に薄味だからである。
 女中のアンジェルは、一部の男には美人だといわれていたが、つんつんとした性格でかわいげがないとメグレは感じていた。それでもこの田舎ではそんな アンジェルに心を寄せる男が複数いたのは事実だ。死んだ肉屋にしても、人生の苦楽に翻弄された哀れな男だったのだ、とメグレは考える。大した女でもないアンジェルを好きになり、かといっていまの生活を変えることもできない……。そしてこの事件の容疑者は、誰もがメグレの知り合いなのだ。女の魅力とはいったい何なのだろう? 
 そのような思いがあったから、メグレは真相に辿り着いていたにもかかわらず、事件の解決に向けて積極的な手助けをしなかったのである。
 なるほど、理屈ではこの悲哀がわかる。だが中編の長さにもかかわらず各人の描写が弱いので、私には心から納得することができなかった。
 3年以上にわたる年月の経過が、むしろこの作品では印象的だ。これほど長いスパンを描いたメグレ作品がいままであっただろうか? その時間の重みがいちばん心に残る。そして庭に咲く花々へのちょっとした言及が、鮮やかで素晴らしいアクセントになっている。
 これが第2シーズン最後の物語だ。そしておそらくは当時シムノンが考えていた、メグレの人生最後の物語である。

 以上、第2シーズンを読んできたが、このシーズンは実にドラマチックだ。メグレの引退とともにシリーズの“ミステリーらしさ”は最高潮を迎え、そして引退後もその余韻を引きつつ、小説は狭義のミステリーから解放されて人生の余韻を味わう筆致へと変貌を遂げ、そして隠居時代の経過とともに緩やかで穏やかな陽だまりにも似た雰囲気主体の作風へと落ち着いてゆく。
 最近私は日本の捕物帳小説を意識的に読み始めた。これまでしばしばメグレものは捕物帳に似ているといわれてきた。それが本当なのか、そして似ているならどこがどのように似ているのか、ちゃんと確かめて自分なりの言葉にしたいと思ったのだ。まずは岡本綺堂『半七捕物帳』や横溝正史『人形佐七捕物帳』の傑作選あたりから少しずつ手をつけている。
 いずれ五大捕物帳の残る3つ、佐々木味津三『右門捕物帖』、野村胡堂『銭形平次捕物控』、城昌幸『若さま侍捕物手帖』もそれぞれ少なくとも1冊は読みたいし、もちろんそれ以外の池波正太郎『鬼平犯科帳』、久生十蘭『顎十郎捕物帳』、都筑道夫『なめくじ長屋捕物さわぎ』にも行きたい。創元推理文庫から出ている時代ミステリーものの傑作選集にも進みたい。私の両親はTVで時代劇を観る習慣がなかったので、私は日本人にしては珍しくNHK大河ドラマや朝の連続テレビ小説を一度も観たことがなく、時代劇のシリーズも子供のころ『水戸黄門』『大岡越前』くらいしか観なかった。つまり時代劇や捕物帳の基本を知らない。
 現時点でいえることは、まず多くの捕物帳とメグレ第2シーズンの中編群は明らかに長さ(枚数)が違う。ここは見落とされがちだが指摘しておくべきことだと思う。この長さの違いが具体的にどのような差異をもたらしているかは私にとって今後の課題だ。
 いくつかの捕物帳の文庫巻末解説をぱらぱらと見てみた。都筑道夫氏が光文社文庫版『半七捕物帳』第1巻に「解説」を寄せている。そのなかで都筑氏は、『半七捕物帳』が捕物帳という連作推理小説のスタイルをつくり上げた最初の作品であること、そしてあくまで捕物帳とは「短篇推理小説のスタイルのひとつ」なのだということを最後に改めて強調している。これがとても印象深い。都筑氏の生涯の持論だったのだろう。
 というのも、他の文庫解説をいろいろ見るとわかるのだが、評論家の末國善己氏や縄田一男氏が指摘するように、ある時期から日本では江戸情緒を盛り込むことが捕物帳の重要な特徴であるという考え方が広まったからで、都筑氏は実作者兼愛読者の立場としてこの考え方に注意を促したわけである。
 たとえば縄田一男編、横溝正史『人形佐七捕物帳傑作選』(角川文庫、2015)の「解説」で編者の縄田氏はこう書いている。

 さて、捕物帳が“季の文学”であるという説は、戦後、探偵小説専門誌『宝石』等を舞台に特異な評論活動を行った白石潔しらいしきよしが、評論集『探偵小説の郷愁について』(昭和二十四年、不二書房)の中で述べたものである。
 確かに『半七捕物帳』(岡本綺堂)以来、捕物帳を読む楽しみは、謎ときの面白さに加えて、犯人追及の過程で点描される江戸の四季折々の風物を味わうことにある、といっていいだろう。
 白石潔の評論は、とかく論理の飛躍や独断が多すぎ、にわかに首肯しかねるものが多いが、彼の名は、この定義において大衆文学史上に残るといえるだろう。

 また末國善己編、泡坂妻夫『夜光亭の一夜 宝引の辰捕者帳ミステリ傑作選』(創元推理文庫、2018)の「編者解説」で末國氏は、

 評論家の白石潔しらいしきよしは『探偵小説の郷愁について』(一九四九年)で、庶民が捕物帳に「喝采かっさい」を送った理由を「一、『捕物帳』が日本人の古来からの生活を左右する懐かしい『季の文学』であつたこと」「一、『捕物帳』が小市民生活者の郷愁性を持つていたこと(つまり人情的だつた)」と説明している。その上で白石は、横溝正史『朝顔金太あさがおきんた捕物帳』、野村胡堂『銭形平次捕物控』などを引用しながら、「『捕物帳』はそのバツクに『季』を持つて始めて成立する。永い伝統と平和と自然を愛する精神こそ『季』の精神とするならば『捕物帖』こそ『季の文学』であるといえる」(引用の「捕物帳」と「捕物帖」の混在は原文ママ)としている。

 と紹介している。だが都筑氏は先の「解説」で以下のように苦言を呈した。

(前略)しかし、綺堂の文章を勝手に解釈して、捕物帳を解説しようとするものまで、出てきたのは、困ったことだった。その文章というのが、第二十八話「雪達磨ゆきだるま」の冒頭にある。

 改めて云うまでもないが、ここに紹介している幾種の探偵ものがたりに、何等かの特色があるとすれば、それは普通の探偵的興味以外に、これらの物語の背景をなしている江戸のおもかげの幾分をうかがい得られるという点にあらねばならない。

 これを拠りどころとして、
「捕物帳は、推理的趣味を、主にした小説ではない。江戸の風物詩をえがくのが、狙いなのであって、いわば『季の文学』なのだ」
 といった説が、昭和二十年代に出たのである。引用したばかりの文章を、整理すれば、
「これは推理小説だが、探偵活動のおもしろさに加えて、江戸の生活を伝える、というおまけがついている。それが、特徴だ」
 となる。それを歪めて、探偵趣味もうすく、江戸の人物らしい人物も、出てこない捕物帳の弁護につかわれては、綺堂も迷惑だろう。そうした弁護が、捕物帳の洗練に、役立ったのなら、まだ救われる。かえって、推理小説の読者から、捕物帳が低く見られる役に、立ってきたのだから、苦にがしいのだ。(後略)

 たぶん末國善己氏や縄田一男氏を始め多くの時代小説評論家は、こうした都筑氏の文章を読んでいるはずで、その意には賛同しているだろうと推察する。その上で捕物帳を総体的に捉えているのではないか。たとえば最近オンデマンド出版された横溝正史『左門捕物帳・鷺十郎捕物帳』(捕物出版、2019)の巻末解説で、評論家の細谷正充氏は「季の文学」説に触れつつ、

(前略)岡本綺堂の『半七捕物帳』は、捕物帳の始祖である。(中略)コナン・ドイルのホームズ譚を意識しながら、消えゆく江戸の風物を紙上に留めた。白石潔がエッセイ「探偵小説の郷愁について」で使った「季の文学」が、捕物帳のイメージとして定着したのは、綺堂の描いた郷愁が、その後の捕物作家に受け継がれたからだろう。

 と、どちらにも花を持たせる書き方をしている。あくまでミステリーであるという都筑氏の意見もわかるが、歴史的経緯としては捕物帳が「季の文学」として大衆に親しまれてきた側面をやはり無視できない、ということなのだろう。
 岡本綺堂は上記のように当時の同時代小説であったシャーロック・ホームズを手本として『半七捕物帳』を書き始めたという。横溝正史『人形佐七捕物帳』の第1作「羽子板娘」は、読むとアガサ・クリスティー『ABC殺人事件』の本歌取りだとすぐにわかる。だが確かにいわれてみれば、私たちは定番の時代劇を観るとき、懐かしさや王道パターンであることの安心感に浸りたい、と心のどこかで期待していることも事実だと思う。
 シムノン作品には好んで取り上げられる“季”がいくつかある。たとえば万聖節。あるいは陽だまりの日曜日。こうした描写に再会すると私たち読者は懐かしさと安心感を覚える。シムノンが親しんだ定番の舞台もある。パリ、ラ・ロシェル、紺碧海岸。これらは“江戸”を描いた捕物帳の特徴に通じる。
 総体的に見て第二期の現時点では、まだメグレものは「季の文学」とするには至っていない。だが第1シーズンから第2シーズンへと進む過程で、メグレものは狭義のミステリー短編から、その世界の空気感を味わう緩やかな小説作品へと変遷を遂げている。最近流行のキャッチフレーズを援用するなら、いわゆる「ほっこり」小説としての需要を満たし得る作品へと変化している。この流れは捕物帳の歴史を凝縮するかのようだ。捕物帳は短編推理小説なのか季の文学なのか、という論点そのものが、第1シーズンから第2シーズンへと至る19作を読むことで浮かび上がってくるではないか。
 そして当の岡本綺堂が『半七捕物帳』の途中で、わざわざ捕物帳とは探偵興味以外にも江戸の面影をうかがい得るという特色もあるのだと書き記したのは、ひょっとしたら読者側の求めているものが作者にも伝わり、フィードバックされるかたちで実作にも影響を与えたからではないだろうか。
 メグレシリーズにもそうしたところがある。もともと初期のメグレは、警察官ならば物的証拠や論理的結論も大切だが人間としては心的証拠も考慮すべきだ、という立場で(『男の首』第9回)、ちゃんと謎解きをする心も忘れてはいなかった。心理的捜査法だとか《運命の修繕者》などというようになったのは後年のことで、読者からのフィードバックに応じてシムノンが書き方を調律し、自分の考えも無意識のうちに変えていったからだと思われる。こうした変遷も捕物帳文化の歴史的経緯と通じるところがある。

 第二期第2シーズンの中編10作は、このように多くのことを考えさせられる、ミステリーの歴史上でもきわめて重要な作品群だと思う。そして何より面白い。10作のうち最初の7作は紛れもない傑作、佳作だと断言できる。そして最後の3作もこれまでの流れを知った上で読めば味わい深い。
 ぜひ皆さまも第二期第1シーズンと第2シーズンをご堪能いただきたい。これまでメグレが苦手だったという人も、何が面白いのかわからなかったという人も、この順番で読めばきっとメグレの愛読者になる。
 改めて、ようこそ、メグレの世界へ!

【ジョルジュ・シムノン情報】
 長編『倫敦から来た男』(1934)は3回映画化されているが、その第1作『L’homme de Londres』アンリ・ドコアンHenri Decoin監督版(1943)が、本年2019年6月にフランス本国で初映像ソフト化された(https://www.amazon.fr/dp/B07PKP87SB/)。ドコアン監督は他にもシムノン原作の映画『家の中の見知らぬもの』(1942)を手がけている。
瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
《週刊新潮》2019年12月5日発売号より、AIを題材にした中編小説「ポロック生命体」を短期集中連載。
 
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