・Les nouvelles enquêtes de Maigret, Gallimard, 1944/3/30[原題:メグレの新たな事件簿]中短編集、メグレシリーズ17編収録[1-17] ・『メグレ夫人の恋人』長島良三訳、角川文庫、1978[10, 6, 3, 1, 7, 9, 2, 5, 13]* ・『メグレの退職旅行』長島良三訳、角川文庫、1981[4, 8, 11, 14, 16, 15]* ・同名, Folio policier (Gallimard), 2012[1-17] ・The Short Cases of Inspector Maigret, introduced by Anthony Boucher, translated by Lawrence G. Blochman & Anthony Boucher, Ace, 1959[7, 13, 11]他に「メグレ警視のクリスマス」「世界一ねばった男」収載[米][メグレ警視の小事件簿] ・Sämtliche Maigret-Geschichten, 翻訳者複数名, Diogenes, 2009[独][メグレ全短編] ・Tout Simenon T24[1-9], T25[10-19], 2003 Tout Maigret T10, 2008 ▼収録作 邦題は角川文庫版より ▼他の邦訳 ▼学年誌付録の邦訳 ・Œuvres completes Maigret IX, Éditions Rencontre, 1967[原題:全集 メグレ 第IX巻][1-19] ▼1967年版全集への増補作品 ▼他の邦訳 |
メグレ警視シリーズ第二期へと入る。作家ジョルジュ・シムノン第二期の始まりでもある。
ざっとこれまでを振り返っておこう。
シムノンは多数のペンネームを駆使した習作期間を経て、1930年7月、メグレシリーズの第1作『怪盗レトン』(第1回)新聞連載時に本名の「ジョルジュ・シムノン」名義を初めて用いた。1931年2月20日、メグレシリーズ『死んだギャレ氏』『サン・フォリアン寺院の首吊人』(第2回、第3回)をファイヤール社から同時刊行。初の本名名義による書籍である。その後は毎月1冊というハイペースでメグレの長編を発表し、たちまち人気作家となった。この成功によってシムノンはペンネームの仕事を精算し、本名名義の執筆に移る。
最初のうちシムノンはメグレシリーズに集中していたが、徐々に単発の心理小説(後に硬質長編小説=ロマン・デュールと総称されるようになる)も発表し始め、第17作の『紺碧海岸のメグレ』(第17回)後は積極的に世界旅行へ出かけ、その体験を小説のなかに取り込むようになっていった。最初の世界旅行であるアフリカ旅行から戻ると、『仕立て屋の恋』(第35回)を皮切りにロマン・デュールの傑作を次々と刊行してゆく。一方でメグレシリーズの発表は減り、メグレ退職間際の物語である第18作『第1号水門』(第18回)と引退・隠居後の物語である第19作『メグレ再出馬』(第19回)を書いて、シリーズを事実上終了させる。同時にシムノンはファイヤール社から離れてガリマール社と契約し、その後はロマン・デュールを中心に発表した。
その間、フランスの政情は大きく変化しつつあった。欧州はファシズムの波に覆われようとしていたのである(第60回参照)。それに対抗して1935年にはフランス人民戦線が結成され、翌1936年の総選挙で左派が圧勝。6月にレオン・ブルム内閣が成立する。
しかし1936年7月にスペイン内戦が勃発。この影響を受けて1937年6月、ブルム内閣は総辞職。フランス人民戦線も終わりを告げる。
シムノン第一期の総決算といえる大長編『ドナデュの遺書』(第58回)の冒頭には、「ドナデュ家の物語を書くのに、一九三六年七月はまだそれほど時期を失していない、とわたしは思う」(手塚伸一訳)という一文が掲げられた。シムノンがスタヴィスキー事件やプランス事件に作家としていくらか関わっていた(第60回)ことを知ったいま振り返ると、この一文はかなり重要なものだったのではないかと改めて思う。
この『ドナデュの遺書』を書き上げた後にシムノンがおこなったのが、久しく放置していたメグレシリーズの新作を書くことだった。
なぜシムノンが再びメグレものを書き始めたのか、はっきりしたことは私にはわからない。
シムノンの伝記は多数出ているが、いまのところ私は英語で出たパトリック・マーナムPatrick Marnham『The Man Who wasn’t Maigret: A Portrait of Georges Simenon』(1992)と、もっとも信頼が置けると思われるピエール・アスリーヌPierre Assouline『Simenon: A Biography』(英訳版1997)のふたつを、本連載の進行ペースに合わせて読んでいるのだが、シムノンがメグレものを再開した動機については書かれておらず不明である。
よってこれは私の憶測だが、まずなぜそもそもシムノンはメグレシリーズを『メグレ再出馬』でいったん終わらせたのか。1934年1月から2月にかけてスタヴィスキー事件とパリの大暴動が起こり、警察組織も大幅な改革を余儀なくされた。なにしろ当時の司法警察局長は辞任し、警視総監は更迭されたのである。今後もどうなるのかわからない不安定な時期だ。こんなときに司法警察局が舞台の警察小説を書くことはかなり難しいと感じたのではないか。これが第1の理由ではなかったにせよ、執筆の続行を当時躊躇わせる要因のひとつになったかもしれないと思う(私はまだ未読だが、メグレ第三期の『メグレ激怒する』では、メグレが一度警察組織内部の政治的問題に巻き込まれて地方に飛ばされたことがある、という設定が出てくるらしい。後の作品ではそうしたことも物語に取り入れられたのだ)。
それにスタヴィスキー事件とプランス事件で、シムノンは小説上の架空人物であるメグレ警視の代弁者として事件についてしゃべったり書いたりしなければならない状況に陥った。フィクションと現実の混同である。これにはうんざりさせられたかもしれない。ただ一方で、このような状況はシムノンに再びメグレを思い出させる契機になった可能性もある。そしてメグレが科学的捜査法よりも心理的捜査法を採用していたことを自分のなかで改めて確認し、整理する機会となったかもしれない。それまでシムノンはメグレの特徴が心理的捜査法であることなどエッセイでまったく書いていないのである。ところがスタヴィスキー事件が起こってから、突然そのようなことをエッセイやルポに書くようになった。つまり新聞や雑誌媒体からの要求を介して自分の創造したメグレ がどのように大衆に受け止められているか振り返ることになり、それによってシムノンのなかでメグレのキャラクターが再構築されたのではないか。
『ドナデュの遺書』という畢生の大作を書き終えたシムノンは、きっと相応の手応えを感じたことだろう。そしてフランスは激動の時代の最中にあった。
だからその後シムノンがメグレの短編を次々と書いていったのは、たぶん自分にとっての気分転換のため、もう一度懐かしい世界で遊びたかったためではないかと思うのだ。
ガリマール社から執筆要請があったのかどうか、いまのところ私にはわからない。ここで書かれた短編群はガリマール社系列の読み物誌に掲載されてゆくのだが、掲載の順番は後の単行本収録版とまったく違ってばらばらである。
これも私の直感だが、たぶんシムノンは後の単行本版『メグレの新たな事件簿 Les nouvelles enquêtes de Maigret』(1944)の収録順に短編を書いたと思う。
シムノンは1936年から終戦間際までの第二期の間に、メグレの中短編22作と長編6作を書いた。第二次大戦に入ったためか、中短編の単行本収録状況はやや複雑な結果となり、中編3作が未収録のまま放置され、とくに最後の1編は長らく忘れ去られることとなった。そのことは今後触れる。
ただ、シムノンは、ある程度まとまった時期にメグレの中短編を集中して書いた。その執筆時期から4つのグループに区分できる。本連載ではこれをメグレ第二期中短編の第1〜第3シーズン、そして特別編と呼ぶことにしよう。
・第1シーズン:1936年10月執筆。「首吊り船」から「メグレの失敗」までの9編。
・第2シーズン:1937-1938年冬に執筆とされる。「メグレ夫人の恋人」から「メグレとグラン・カフェの常連」までの10編。ここまでのうち17編が『メグレの新たな事件簿』(1944)にまとめられた。残る2編はジルベール・シゴー編纂『全集』(1967)刊行まで単行本未収録となった。
・第3シーズン:1939年執筆。「街を行く男」「愚かな取引」の2編。戦後の中短編集『メグレとしっぽのない小豚』(1950)に収録された。
(この間にメグレものの長編4作を執筆)
・特別編:1941-1942年冬に執筆。「死の脅迫状」の1編。長らく単行本未収録のまま忘れ去られ、幻の作品となった。『シムノン全集』(1992)で初めて単行本に収録された。
(この後にメグレものの長編2作を執筆)
これから3回に分けて、第1シーズンから第3シーズンまでの中短編21作を読んでゆくことにしよう。今回は第1シーズンの9編である。読む順番は『メグレの新たな事件簿』掲載順、すなわち執筆順と推測される順番だ。
読んでいるうちにわかったのだが、単行本の掲載順にはとても重要な意味があった。というのは、作中の時間もほぼこの掲載順に沿って流れているからだ。メグレの現役時代の活躍→引退間際の事件→隠居後に出会った事件、ときれいに並んでいる。だからこの順番で読むとメグレの人生がそのまま辿れるようになっている。
これはフランス語圏の読者ならずっと前から自明のことだったろうが、いままで日本でちゃんと指摘した評論家や翻訳家がいなかったことが驚きでさえある。メグレは第一期の長編全19作で次第に年齢を重ねて引退し、田舎に隠居したわけだが、第二期中短編群でも同様の流れが繰り返されていたのである。
■1.「首吊り船」1936■
11月。メグレ警視は50人ほどの憲兵や警察官らとともに、セーヌ川沿いのクードレイ[註:パリから南、フォンテーヌブローとの中間に位置するル・クードレイ゠モンソーであろう]で水門管理人の男から事情聴取をしていた。彼は二日前、水門で《アストロラブ号》のクラッサンじいさんが「助けてくれ!」と呼ぶのを聞いたのである。いまにも堰に乗り上げそうな平底船pénicheには酔った老馬方のじいさんと番犬の他、男女ふたりの首吊り死体があった。
事件発覚前夜、船は上流のシタンゲットの水門で停泊し、船長アーツやクラッサンじいさんはそこの居酒屋で飲み食いをしていた。メグレはその状況に思いを馳せる。翌朝、船はクードレイの水門で発見され、キャビンのなかには犬の鎖で首を括った船長と妻の遺体があり、船長の所持金が消えていたのだ。シタンゲットでは別の船の釜焚きであるグラデュという若い男が姿を消しており、彼が犯人だと誰もが思ったが、メグレは引っかかった。殺されたふたりは夫婦仲が悪かったらしい。妻はグラデュとしばしば逢引をしていたようだ。グラデュは森をさまよっているところを拘束されたが、「おれは何もしていない!」という。事件の真相は明白であるかに思えたが、メグレの推理は?
もちろんそれはありうる。すべては可能だ。ただメグレは──どういったらいいのか?──あの平底船のことを、人間と同じように考えたかった。(長島良三訳)
まずは肩慣らしの小編。事件のあらましが説明された後、さてメグレ警視の推理の始まりだという段になって上記の一文が登場し、「ああ、メグレの世界に還ってきたなあ!」と感慨が湧いてくる。大柄で無骨なメグレ像がたちまち心に甦ってくるではないか。さらにメグレは容疑者グラデュに強い口調で語りかけ、そして「パリに帰る時間がなかったから、ここに寝る」といって《アストロラブ号》に上がり込み、殺された船長のベッドに入るのだ。
ストーリー自体は「事件の概要説明」→すぐさま「メグレの推理披露と解決」という単純な流れで、かつてシムノンがペンネーム時代に書いていたフロジェ判事ものの『十三人の被告』シリーズ(第30回)と大差ない。だが上述したように中盤の短い文章でメグレの人物像が鮮やかに浮かび上がってくるため、ちゃんとメグレものの一編として印象づけられる開幕作となっている。平底船の構造がちょっとしたネタになっているのもシムノンらしい。
■2.「ボーマルシェ大通りの事件」1936■
ひどく冷え込む日。パリ司法警察局賭博捜査班のマルタンは、同僚のメグレが女の尋問を終えるのを待っていた。部屋から出てきたメグレはいまにも怒りを爆発させそうな勢いで、「今夜中にこの事件を解決できなかったら、おれは事件から手を引く」とまでいう。控室のソファには顔色の悪い男が座っている。
先週11月11日、すなわち万聖節の日曜日、ボーマルシェ大通りのアパルトマンで、ルイーズという女がジギタリス中毒で死んだのである。アパルトマンには夫フェルディナンと18歳の妹ニコルが同居していた。メグレは司法警察局でこのニコルを尋問していたのである。控室にいるのがフェルディナンだ。
妹のニコルはまだ若いのに、義兄であるフェルディナンと愛人関係にあった。そのことが姉に見つかってから、5ヵ月も姉妹は口を利かずに同居していたのだ。
姉は以前から夫に毒殺されるかもしれないとの手紙を友人に書き送っていた。事件後、浴室から重層に見せかけたジギタリスの包みが発見され、コップに残っていた水からも検出された。ニコルはフェルディナンが毒殺など企てる人ではないと主張して譲らないが、メグレの推理は?
メグレは尋問の途中で同僚のリュカにサンドイッチの出前を頼む。ビヤホール《ドフィーヌ》から生ビールとサンドイッチが届く。こうした描写が出てくることから、シムノンが第二期の開始にあたって積極的にメグレの世界観を復活させようとしていたことがわかる。ちゃんと読者に思い出してもらえるよう工夫していたのだ。万聖節という季節もシムノンっぽい。ずっと前に漫然とメグレの邦訳短編集を読んでいたとき、私はこうしたことが読み取れなかったから、やはり単行本収録順に読んでみるのは大いに意味がある。
ジギタリス中毒が扱われているのもシムノンらしさのひとつなのだといまならわかる。シムノンはペンネーム時代、薬物を題材にした謎解きものをいくつか書いている。一度は医学を志したシムノンならではの持ちネタだ。『十三人の被告』第8話「フィリップ」がやはりジギタリスを扱っていてよく似ている。
本作もやはり「事件の概要説明」→すぐさま「メグレの推理披露と解決」という単純なストーリー展開だが、ショートコントのかたちで書かれたペンネーム時代の『十三人の被告』シリーズの発展型であることがよくわかる。そして筆致はペンネーム時代より向上しているのだ。ラストはフロジェ判事ものの面影はあるがしっかりとメグレらしさが出ている。作家シムノンの履歴を辿った上で読むと旨味がわかる小編だ。
■3.「開いた窓」1936■
TVドラマ『開いた窓(Maigret et la fenêtre ouverte)』ブリュノ・クレメール主演、ピエール・グラニエ゠デュフェールPierre Granier-Deferre監督、2001(第36話)[メグレと開いた窓]
寒い季節。メグレはオスカー・ラジェという男を逮捕するため、午後4時にモンマルトルの彼の事務所に赴いていた。事務員はまだラジェは戻ってきていないという。だがそのときラジェの部屋で爆音が轟いた。メグレは咄嗟に廊下に出る。奥の窓が開いてすきま風が入ってきているのに気づく。そしてラジェの部屋に入ると、彼はこめかみを撃ち抜かれて死んでいた。カーテンの影から出てきたのはラジェの若い妻だった。
だが彼女は自分もいまちょうど夫の死体を見つけたところで、メグレの足音に驚いてカーテンの後ろに隠れただけだという。事務員はデシャルノーという50歳の男で、戦時中はラジェの上司だったようだが、その後は共同で仕事をしてきた。ラジェはたびたび資金繰りに窮し、金回りに不審なところがあり、それがもともと逮捕状の出る原因であった。
ラジェの遺体のそばには拳銃が落ちていた。彼は自殺したのだろうか?
リュカだけでなくジャンヴィエ刑事も登場。脇役が揃ってきた。
アリバイトリックを扱った小編だが、あいかわらず事件解決までの“溜め”がないので、本格ミステリーと呼ぶほどのものではない。ペンネーム時代にG.7ものやフロジェ判事ものなどで物理トリックも書かれていたからその延長だ。外は寒いのに室内は暖房が効いて暑いほどであったとか、電話や爆薬が小道具になっているとか、そんなちょっとしたディテールにはシムノンっぽさが感じられる。
《宝石》掲載時の訳者・日暮良氏は、長島良三氏と同一人物であろう。
メグレは長編だけでなく短編作品もいくつかTVドラマ化されている。今回、久しぶりにメグレもののドラマを観た。フランスでもっとも知られたメグレのTVシリーズ、ブリュノ・クレメール版である。
さすがにこの短い原作では90分保たないので、部下のポール刑事(オリジナルキャラクター)との会話や、増やした容疑者らへの尋問、近隣への聞き込みなどで間を持たせている。また原作のままでは非現実的だと判断されたのか、トリックは変更されている。
本邦DVDの解説記事で元NHK欧州総局長の荻野弘巳氏がドラマ版での無茶な設定についてフォローしている。ただ、このような単純な作品にさえ「人間ドラマ」を見て取るのは、正直なところ先入観に囚われた過大評価ではないか。
■4.「月曜日の男」1936■
TVドラマ『Maigret chez le docteur』ブリュノ・クレメール主演、Claudio Tonetti監督、2004(第50話)[医師宅のメグレ]
雨。メグレはパリ郊外ブーローニュの森の、ピュトー島があるセーヌ川を背に立っていた[註:邦訳は「ビュトー島」となっているがPuteauxであるから誤り]。メグレは小さな館にアルマン・バリオン医師を訪れる。医師は妻子や3人の召使いと暮らしていたが、召使いのひとりであるオルガが3週間前に不可解な死を遂げたのだ。娘は妊娠4ヵ月半だった。娘の両親は、彼女がバリオン医師に殺されたのだと訴えたのである。
バリオン医師はメグレの質問に対して持論を披露し、自分は犯人ではないと伝える。そして月曜日ごとにやって来る物乞いの老人について語り出した。《月曜日の男》と渾名されたその老人は、医師の子供たちにエクレアを与えていたという。医師はエクレアをもらうことを子供たちに禁じたが、先週月曜も老人はエクレアを持参しており、オルガはそれを食べたのではないか。エクレアには特殊なしかけが施してあり、食べると死ぬようになっていたからだ。つまり本当に狙われていたのはオルガではなく医師の子供たちだったというのだ。
オルガの両親は、医師が娘の愛人だったのではないかと疑っているが、実際のところ彼女は運転手の愛人であり、また医師は隣家のイギリス人令嬢に惚れられていると思い込んでいた。
《月曜日の男》はどこでエクレアを入手したのか。またいつエクレアに細工が施されたのだろうか? メグレは次の月曜を待つことにした。
エクレアにライ麦の
シムノンはこういう読者の興味を掻き立てる奇妙な人物像をつくるのがうまいのだ。印象的な一編である。
ブリュノ・クレメール版のメグレTVシリーズは全54話あるが、日本では第42話までしかDVD発売されていない(しかも終盤12話分のパッケージには「Final season」と銘打たれているが、本当は54話まであるのだから、これはまったくの誤り)。いま54話すべてを観るなら、近年ようやくフランスで発売されたDVD-BOX『Maigret: L’intégrale』か、あるいはアメリカ版で英語字幕つきのDVD-BOX『Maigret: The Complete Series』(ただしリージョン1)を購入するのがよい。
だが本連載を始めたころは、fnac限定版『Maigret: L’intégrale』(きわめて入手困難だった)や、あるいはオランダで発売された『Maigret Complete Collection』(オランダ語字幕つき)を購入するほかなかった。年月の経過はときにありがたいものである。
本作のドラマは第50話なので、本邦DVDでは観ることができない。
ドラマでは医師宅の運転手マルタンを庭師に変更して見せ場を増やすなど各人物のキャラクターを掘り下げたり、また被害者の婚約者をメグレの若い部下が捜し出す新規エピソードをつけ加えたりして、90分に見合うよう話をうまく膨らませている。結果的に《月曜日の男》以外にも焦点が当たるようになった。ブリュノ・クレメール版のシリーズは後年のものになるほど生気がなくなり退屈になってゆく印象が強いのだが、今回は割とアダプトが成功した作品だと思った。
■5.「停車──五十一分間」1944■
TVドラマ『ジュモン51分の停車(Un meurtre de première classe)』ブリュノ・クレメール主演、クリスチャン・ド・シャロンジェChristian de Chalonge監督、1999(第31話)[一等車の殺人]
朝3時、メグレ宅に電話があった。相手はメグレ夫妻からポポールの名で呼ばれている、甥のポール・ヴァンションだ。彼はベルギー国境で税関検査官をしているのだが、ジュモン駅に停車した列車の一等コンパートメントから男の死体が発見されたという。メグレは翌朝の列車でジュモン駅に向かった。
被害者はユダヤ人のオットー・ブラウン。座っているところ心臓を針で刺されたようだが周りの誰も気づいておらず、ヴァンションがパスポート検査に回ってきたところで初めて死んでいるのがわかったのである。同じ一等コンパートメントに載っていたのは国籍も違う5人の男女。このコンパートメントを切り離して列車は発車したのだが、オールノワイエ駅に着いたときひとりの男が逃げ出そうとして、取り押さえられた。
すなわち容疑者は計6名。メグレは各人の素性を洗い出し始める。
メグレ夫人が登場。さらに甥の存在もわかり、サブキャラクターが増えて賑やかになってくる。メグレは甥のヴァンションから「トントン」と呼ばれており、ちょっとかわいい。
物語構成はまるっきりペンネーム時代の『十三人の被告』と同じで微笑ましい。容疑者が揃い、ひと通り各人の属性が確認された後、一行空いてメグレがいきなり長台詞で人間関係を暴き立て、快刀乱麻を断つがごとくに事件を解決してしまう。事件編と解決編の2回に分けて掲載されていた13シリーズの体裁が、そのまま再現されているわけである。いやいや、この事件編の手がかりだけですべてを推理するのは無理でしょ、という感じも13シリーズそっくりで、かえって爽快でさえある。最後のオチ(犯人に対する誘導の仕方)まで『十三人の被告』の番外編「運河の事件」とよく似ている。それでも物語に旅の雰囲気があり、筆致にメグレらしさも出てきた。なお《別冊宝石》訳者の遠山宇氏も長島良三氏の別名であろうと思われる。
ジュモン駅は『メグレと死者の影』(第12回)のラストにも登場した。フランスとベルギーの国境に位置し、フランス人にとっては旅情を掻き立てる場所なのだろう。
ジャン・リシャール主演のメグレドラマは全88話のうち第70話までと第73, 78, 81話しか映像ソフト化されておらず、第86話の本作はDVDが出ていないので、リシャール版でのジュモン駅を見てみたかったなと残念に思う。ジャン・リシャール版のDVD-BOXは6巻まで出たが、最後の7巻は予告されたもののついに発売されなかった。
ブリュノ・クレメール版のドラマは、ジュモン駅を特急列車が発車し始めたそのとき、一等車で男が殺されているのが見つかる。列車は急遽ジュモン駅に再停車し、殺人のあった2車両を切り離した。要請を受けてメグレがやって来て、甥の若手刑事とともに捜査に当たる。ただしここから先の展開は原作と大きく異なる。凶器はすぐさま特定され、それを元に容疑者が早いうちから取り調べを受ける。ということは、つまりこのドラマ版では犯人が原作とは異なるのだ。それだけでなくメインのトリックも動機も違う。
甥の刑事とメグレとのかけ合いは楽しいが、ほとんど原作とは別のストーリー。国境間際のジュモン駅そのものの風情はあまり感じられない。演出もそこには焦点を置いていなかった。
▼他の映像化作品(瀬名は未見)
TVドラマ『Jeumont, 51 minutes d’arrêt』ジャン・リシャール主演、Giles Katz監督、1989(第86話)
■6.「死刑」1936■
寒い雨の日曜日。メグレはずっと見張りを続けていた若い男女を追って北駅へと向かった。カップルはブリュッセル行きの特急列車の切符を買った。メグレも同じ切符を買って列車に乗り込む。もう18日も前からメグレは彼らふたりのことを考え続けてきたのだ。
若い男はベルギーの名家の親戚で、パリに出てきていた叔父の伯爵を頼りながら放蕩な暮らしを続けていた。彼は叔父に自分の愛人を紹介することさえした。だがその2日後、叔父は何者かに鈍器で殴られて殺されたのである。金銭も盗まれていた。だがそのとき彼と愛人の女にはアリバイがあった。
メグレはこの男が犯人だと直観していた。しかし証拠がない! そこでメグレはいつもの戦術に出たのである。四六時中相手にぴったりと貼りつき、相手がうんざりするまで執拗につけまわすのである。そしていまメグレは彼らふたりを追って、車両の向かいの席に座っているのだ。
いま証拠が整えば、フランスの法律に則って彼を死刑に持ち込むことができる。だが列車が国境を越えてベルギーに入ってしまえばそれは叶わない。列車は進んでゆく……メグレに勝算はあるか?
「神経の消耗戦」「自分の首が賭けられている」「根気くらべだ!」といった書きぶりが、なじみの読者に第一期長編『男の首』(第9回)を連想させる。メグレのキャラクターがいま一度確認されることで、メグレらしさが際立つこととなった。メグレシリーズの入門編として格好の短編に仕上がっている。実際、雨、日曜日、パリ、列車、国境、突然の発砲と、メグレシリーズに特徴的なアイコンがたくさん出てくる。
フランスだと殺人者は法律により斬首刑だが、隣のベルギーでは死刑がなく終身刑にしかならない、という本作の肝となるネタは、『下宿人』(第42回)でも使われた。
■7.「蠟のしずく」1936■
翻訳が2種類ある。北村太郎訳「過去をたずねて」は英語(アメリカ版《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》1956年6月号、ローレンス・G・ブロックマン訳、Journey Into Time)からの重訳、北村良三(長島良三)訳「蠟の涙(蠟のしずく)」は仏語からの直接訳であろう。
メグレはパリから百キロメートル離れたヴィットリー゠オー゠ロッジュ Vitry-aux-Logesに到着した。オルレアンの近くである。彼はここから40キロほどの、ロアール河の畔で生まれたのだ。彼はトラックに乗せてもらい、森を抜けてポトリュ姉妹の家へ行く。姉妹は65歳と63歳。家のなかでは隣に住む女マリー・ラコールがぼんやりと赤ん坊を胸に抱いていた。そしてメグレは気づいた。この家は電気が通っておらず、灯りに石油ランプを使っている。
5日前、この家で姉アメリイが血まみれの重体で、また妹マルグリットがナイフで刺されて死んでいるのが見つかったのである。登記証書などが盗まれていた。姉は一命を取り留めたが、何も話そうとしない。3日後、妹の私生児マルセルが逮捕された。大酒飲みの粗野な男であり、箪笥や折鞄に指紋が残っていた。
メグレは独房で彼と会った。事件当日、彼は姉妹の家を訪れており、確かに母親から箪笥の書類を取ってくるよういいつけられてそのようにしたと供述したが、書類は戻しており、母を殺してはいないという。「おれよりユーゴを調べればいいんだ」と彼はいう。ユーゴとは姉妹の隣家に棲むユーゴスラビア人ヤルコのことだ。姉妹から借金しており、嫌われている。
暖炉の灰のなかから凶器とおぼしき包丁は見つかっているが、指紋は残っていない。一方、テーブルの上にあった蠟燭立てには姉の指紋しかない。ただし、鑑識課員は物置の酒樽に蠟涙を見つけており、それが部屋にあった蠟燭のものだと指摘している。マルセルが酒を飲みに物置へ来て、この蠟涙を残したことは間違いない。
メグレは家のカウンターの上に新聞が山積みになっていることに気づき、姉妹が新聞の購読者であったことを知って真相に辿り着く。
「しかし、メグレは農夫[旧訳では百姓]の倅だった!」(長島良三訳)という途中の一文がとてもよく効いた佳編。メグレというキャラクターと謎解きのキモが表裏一体となっているところはポイントが高い(この感覚は英訳からの重訳版「過去をたずねて」だとうまく伝わってこない)。
事件はヴィットリー゠オー゠ロッジュという町で起こっている。ここから40キロのロアール河畔でメグレは生まれたのだと書かれている。メグレの故郷はサン・フィアクルであり、そのモデルは多くの研究家によるとロアール河上流域のパライユ゠ル゠フレジルParay-le-Frésilだろうとされている(第13回参照)。地図を見るとヴィットリー゠オー゠ロッジュからパライユ゠ル゠フレジルまでは40キロよりもずっと離れているが、おおまかな地理感覚は正しいだろう。
メグレは農夫の倅であるために、こうしたロアール河畔の田舎町の暮らしぶりがよくわかる、と作中で述べられているわけである。そして実際、そうした人生の蓄積がメグレに事件解決への鋭い直感をもたらす。実際にはこれだけの直感からすべてを推理し解決に導くのは不可能だろうが、メグレの着眼点がなかなか素晴らしいためにその先の推理も説得力があり、さほど飛躍を感じない。シムノンは単発のロマン・デュール作品では登場人物の個性や背景を一般的にあまり書こうとしないが、メグレものだけはむしろ積極的にキャラクター性を押し出し、有効活用していたことがわかる。メグレという人物像がはっきりと見えていたことがうかがえる。それは作者であるシムノン自身にとっても楽しいことだったろう。
■8.「ピガール通り」1936■
いまにも雪が降りそうな寒い朝。ピガール通りの小さなレストラン《マリナ》にメグレがやって来る。ふだんは常連客の集まる、どこにでもあるような店だが、その日はメグレが突然コートかけのオーバーのポケットに手を突っ込み、棍棒を取り出すといった。「おい、クリスティアニ、相変わらず私を殴った棍棒を持っているのか?」
30分前、オルフェーヴル河岸(パリ司法警察)に匿名の電話があり、メグレはこの店を訪れたのである。メグレはクリスティアニを10年前から知っていた。一度は逮捕しようとしたとき棍棒で殴られた。そしていまクリスティアニは、向かいのバーからやはりやくざに見張られていた。
その理由は? クリスティアニは仲間のマルティノと仲違いをしていた。マルティノはこの《マリナ》に来るはずだが、姿を現さない。クリスティアニはふたりの仲間、フレッド、クレールと店に留まっている。やがて店の前に運送会社の車が止まり、そして走り去っていった。ある直感からメグレは司法警察局のリュカに電話し、その運送会社を調べさせる。はたして、建物の4階から大型トランクが運び出されて、そのなかにマルティノの死体が入っていた。
クリスティアニの持っていた銃は、マルティノの死体から見つかった銃弾と合わない。では、マルティノを殺したのは誰なのだろうか?
いまひとつ冴えの見られない凡作。「ピガール通り」という抽象的なタイトルが、物語の焦点の合わないさまを象徴している。ピガール通りの風俗が印象的に綴られているわけでもない。
ピガール地区はモンマルトルにあるやや物騒な夜の歓楽街で、パリ在住者なら名前を聞いただけでいかがわしいイメージが湧く場所だと思われる。だから物語内でも記されているように、朝からピガール通りで店を開けている《マリナ》は珍しい存在なのだろうし、その店にやくざたちが集まっているというのもそれらしい設定なのだろう。だが残念ながら、その地区を代表するほどの名作にはなり得なかった。
■9.「メグレの失敗」1937■
第一期メグレ最終作の『メグレ再出馬』[原題:Maigret](第19回)以来、初めて「メグレ」という名がタイトルについた作品。
その日メグレはいらいらしていた。パリのサン゠ドニ通りで特殊書籍商の主人──つまり猥褻本を売っているユージェンヌ・ラブリの足取りを追って彼の書店へ行き、店内を調べさせてほしいと申し出たところだった。2日前、このラブリという男は自分の店を売る手配をしたのだが、昨夜、この店の地下で、売り子のエミリエンヌ嬢がひとり死んでいるのが発見されたのだ。毒殺だった。
こうした特殊な本屋には秘密がある。愛好家が来ると、売り子であるエミリエンヌ嬢はその客を地下室へ誘い、ふたりきりになって猥褻本を開いて見せるのである。客の欲情をそそるのが狙いだ。しかし店主のラブリは地下室の壁に穴を空けて、隣室からその様子を覗き見るという下世話な趣味を持っていた。
メグレは店主のラブリこそ娘に毒を盛って殺した犯人だと考え、「白状しろ、卑怯者!」と詰め寄る。だがラブリは「自分は潔白だ」と主張する。実際、メグレは間違っていたのだ。いったい真相は? しかし機嫌の悪かったメグレは、自分の失敗に気づいた後も、怒りをぶつけるかのように置き土産をしていった……。
──「手がめり込んでしまうんじゃないかと怖れるあまり、人の顔さえなぐれないような人間がいるものだ」(北村良三訳)という奇妙で印象的な一文から始まる本作は、全体を見ればどうということもない凡作なのだが、「特殊書籍商」という聞き慣れない場所が取り上げられていることもあり、妙に心に残る一編だ。サン゠ドニ通りは移民が多く暮らすいわゆる風俗街であり、いかがわしい界隈だということはフランス読者ならぴんとくるだろう。ロマン・デュール作品『仕立て屋の恋』(第35回)の主人公イール氏はエロ本出版の前科があったが、イール氏の出すような本を扱っているのがこうした店なのだろう。シムノンもペンネーム時代にプリマ社というところから性愛小説を何冊も出していたが、やはりこんな店に並んでいたのだろうか。
冒頭の印象的な一文が、物語の最後に効果的に思い出される構成となっている。失敗してこんなふうにいらついているメグレもどこかかわいい、と微笑ましくなる、淡彩スケッチ風の小編である。
私はむかし、メグレの短編の面白さがわからなかった。
角川文庫版のメグレ短編集『メグレ夫人の恋人』(1978)と『メグレの退職旅行』(1981)が出たとき、私は小中学生。すでに海外ミステリーの翻訳は読み始めていたから、きっと新刊当時に書店の棚で見かけたことはあったはずだ。高校に入ってからは古書店巡りをしたので、やはり手に取る機会はあったと思う。それでも当時、私はこの2冊を買うことがなかった。
たぶんタイトルが自分の趣味でなかったからだ。『メグレ夫人の恋人』は不倫話のように思えたから、家に持って帰るのが躊躇われた(我が家は狭くて、個室や子供部屋などなかった)。『メグレの退職旅行』は高齢者が隠居後にのんびり旅行する光景が目に浮かんで、いまの自分が読む話ではないと想像し、敬遠していた。颯爽と事件を解決する名探偵の話だとはとても思えない。エラリー・クイーンや江戸川乱歩を読む方がずっと楽しいと感じていた。
いま思い出したが、あれは書店だったか、図書館でのことだったか、小学生のとき、私はポプラ社のルパン全集がずらりと並ぶ棚の前に長いこと立って、まず何から読もうかと真剣に悩んでいた。本当ならルパンが大活躍する胸のすくような物語を読みたい。だがそのとき結局私が手に取ってしまったのは『ルパンの大失敗』だった。
家へ持ち帰ってからひどく後悔したものだ。なぜわざわざ最初に読む本が「大失敗」でなければならないのだろう? 失敗することが最初からわかっている本を手に取ってしまうなんて! 自分は考えすぎて判断を鈍らせてしまったのではないか?
だが結果的にはそれでよかったのだと思う。『ルパンの大失敗』はルパン初期短編集『怪盗紳士ルパン』『ルパンの告白』からの抜粋編であって、実際は良作が揃っていたからだ。もしあのとき、タイトルの派手さだけで『ルパンの大作戦』(原作は『オルヌカン城の謎』)あたりを手にしていたら、はたして後年ルパンシリーズを全冊読破したかどうかわからない。
ともあれ、私は『メグレ夫人の恋人』と『メグレの退職旅行』をかなり後年になってから古書で入手した。
通読しても当時はぴんと来なかったことを憶えている。さらに後年、集英社文庫の《世界の名探偵 コレクション10》で『メグレ警視』を読んだときも感想は変わらなかった。訳者あとがきや巻末解説で、心理小説としての面白さが強調されていたことも混乱に拍車をかけた。
メグレは人間に対していつくしみの心を持っている。彼の最も著しい特徴は非常に忍耐強いことである。(『メグレ夫人の恋人』長島良三氏「訳者あとがき」)
(前略)ここではすでに、メグレが絶対に間違いを犯さない探偵マシンではないことがよく描かれているし、いくつかのちょっとした描写でメグレの人間性を浮きぼりにしている。
メグレの座右の銘は《裁かず、理解せよ》であり、実際、ミステリの主人公のなかでメグレが一段と高い位置を占めるのは、人間の心を知ろうとする情熱のためだ。
(前略)そのときメグレが決心したことは、人の病気を治すことはできなくなったが、そのかわりに人の心の病いを治そうとした。間違った人生を歩いている人間を、もとの正しい方向にもどしてやろうというのである。
したがって、メグレは犯罪人にたいして、かぎりない悲しみと、怒りと、温かいいたわりの心でもって接する。この《運命の修繕人》的態度は、メグレ・シリーズの全編につらぬかれている。そこには、温かくて、じめじめしている人生の襞がほの見える。辛口のぶどう酒に似た、ほろ苦い一幅の人生がある。(『メグレ警視』長島良三氏「解説」)
このように繰り返し説かれても、かつての私にはメグレの短編集から人生の悲哀や、いつくしみの心や、いたわりの心といったものをちゃんと感じることができなかった。だから納得できなかった。「わからないのはやはり自分の人生経験が少ないからなのだろうか」「精神的に大人にならないと理解できない小説なのだろうか」と、他人に悟られないようこっそり首を傾げるほかなかった。
だが今回初めて、フランス語版短編集の順番通りに読んで、これまでのもやもやが一気に晴れた気がしている。順番通りに読めばこんなにもメグレの短編は面白く読めるのだ、と初めてわかったからだ!
これまで日本で編纂された短編集はどれも順番を無視して並べられていたので、シリーズ中での時間の流れがつかみにくかった。だが、これからメグレの短編を読む人には、今回紹介したフランス版『メグレの新たな事件簿』の収録順に辿ることを強くお薦めしたい。「もうメグレの短編はたくさん読んだよ」という人も、もう一度順番通りの再読に挑戦していただきたい。きっといままで以上に、思っていたよりも遥かに楽しく読めるはずだ。読者自身に「人生経験」や「大人の渋み」が必要かどうかはほとんど無関係だったのだ。たんに順番の問題だったのである。今回紹介した第1シーズンだけでは納得できないかもしれないが、この後続けて第2シーズンを読めば必ずわかる。
よくミステリーのシリーズものに関して、「どんな順番で読めばいいの?」といった会話が交わされる。たぶん多くの先輩読者は「どこから読んでも面白いよ。だからまず目についたものを手に取ってごらん」と諭すだろう。出版社や翻訳者ならなおさら、営業努力の一環として、「まずは入手しやすい最新作から手に取って」というだろう。
だが、メグレに限っては絶対に違う。ぜひ順番通りに読んでほしい。ばらばらに読んだのでは面白さがわからない。理由はこれから詳しく述べよう。決して後悔はさせないから、どうか順番通りに読むことを一度やってみてほしい。
今回取り上げた第二期第1シーズンの9編は、どれもおそらくシムノンが昔なじみの世界観に再び還って浸り、ゆったりと遊ぶことで生み出した短編群だ。シムノンはこの9編をわずか1ヵ月で書き上げている。
それは何を意味するのか? 1編ずつにさほど長い時間をかけなかったということだ。さっと一筆書きのように書いたはずだ。この第1シーズン9編はどれもごく短い。シムノンは書きながら、ペンネーム時代の自分を思い出していたのではないか。すなわち『13の秘密』『十三の謎』『十三人の被告』(第28, 29, 30回)を書いていたころの自分を。
つまりこの第1シーズン9編は、かつての《13シリーズ》の発展型だと位置づけるとその特徴がはっきりとわかってくる。
第1シーズン9編は《13シリーズ》を引き継いだパズル小説だと思えば読みどころが明確になる。
実際に《13シリーズ》を思い出してみてほしい。未読の方は、まず《13シリーズ》を『秘密』『謎』『被告』の順番で読んでみよう。それから今回のメグレ第二期第1シーズンへと読み進めば、《13シリーズ》の雰囲気が濃厚に再現されていることがきっとおわかりになると思う。
それはつまりパズル小説、狭義のミステリー短編としての雰囲気である。やや奇抜とも思える謎が提示され、後半で一気に名探偵が解決をまくし立てる。人生の奥深さ、悲しみやいたわりの心などほとんど関係ない。パズルを楽しむと割り切るのだ。そうすると第1シーズンの短編群はさほど悪いものではないと感じられるようになってくる。
最初の「首吊り船」「ボーマルシェ通りの大事件」はたわいもないパズル小説だ。そのたわいもなさが、いかにもペンネーム時代の《13シリーズ》を彷彿させるではないか。「開いた窓」には物理トリックが出てくる。正直なところ、しょぼいトリックであり、もしもミステリー短編のアンソロジーに入れたら他作家の作品と比べてかなり見劣りするだろう。だがペンネーム時代のシムノンならいかにも書きそうな話だと思わないだろうか。「月曜日の男」もごく初期のシムノンに接した人なら既視感があるはずだ。先にも書いたように、シムノンは奇抜な設定の人物をミステリーのなかに登場させて読者の興味を掻き立てるのがペンネーム時代から得意なのである。ここでもその得意技のバリエーションが披露されているわけだ。
シムノンは旅の作家でもあった。“国境”に郷愁を抱いていたと思う(第59回)。「停車──五十一分間」と「死刑」はまさに国境にまつわる話である。ここでようやく“旅情”というものが文面に現れる。この寂寥感と、そして犯人は国境を越えられるのかというサスペンスがうまく融合して、どちらも第1シーズンの白眉となっている。この2編に至ってようやく私たちは邦訳の解説文に繰り返し書かれた「かぎりない悲しみと、怒りと、温かいいたわり」や「人生の襞」といったものに触れた気持ちになるだろう。
だがそれは決して人生経験の多寡で感じ方が変わるわけではないことに注意したい。ここまでの作品ではそもそも「人生の襞」など書かれていなかった。なにしろパズル小説だったのだから。「開いた窓」を読んで人生の機微を感じろといわれても最初から無理な話である。決して読者のせいではない! そのことをいままで誰もちゃんと指摘してくれる人はいなかった。
「死刑」「蠟のしずく」あたりからメグレのキャラクター性が明快になってくる。ポイントを押さえた簡潔な描写がメグレを際立たせる。小説としての醍醐味が出てくる。そして第1シーズンラストの「メグレの失敗」はサン゠ドニ通りの特殊書籍商のいかがわしさが妙に心に残る、さしずめ珍品のような味わいの小編となっている。メグレシリーズの世界観の広がりが感じ取れる。
第1シーズンの9編は、どれもメグレが司法警察局の現役警視だったころの物語だ。ならばどんな順番で読もうと構わないではないか、と思われるかもしれない。だがこれも私の感想に過ぎないが、この順番で読むとシムノンの作家としてのうまさ、成長ぶりが追体験できる。6年にわたったシムノン第一期の業績を、一気に駆け抜けてゆくような、タイムマシンに乗ったかのような印象を抱くことができる。実際、文章も1編ごとにうまくなってゆくようにさえ感じられる。
そしてこの後に書かれた第2シーズンで、メグレは警視としての経験をさらに重ね、ついに引退の日を迎え、そして隠居する。1編進むごとにはっきりと時間の流れがある。つまり第1シーズンはそこへ至るためのステップであり、この9編があるからこそ次の第2シーズンが生きてくる。続けて読めばペンネーム時代を経て『ドナデュの遺書』のような傑作を生み出すまでのシムノンの作家人生をそのまま辿ることができる。
[註:中編「メグレと消えたオーエン氏」を初紹介した《ハヤカワミステリマガジン》1990年3月号の解説には「メグレは執筆時期や順序と関係なく、齢をとったり若返ったりするようだ」(p.55)とあるが、これは当時の書誌情報不足がもたらした誤り]
そうした流れが存在していたことに気づくと、順番に読んだ方がよい理由はいっそう明らかになってくる。
「他人の家の台所に立って、それでちゃんと料理をつくることができたなら、その人は料理がちゃんと上手だといえる」──大人になって自分で料理をやり始めたころ、そんな話をある人から聞いた。私は若いころ、ほとんど毎日、大学の学食かコンビニ弁当しか食べず、自炊をすることはなかった。だがあるときからすべて自分でつくるようになって、なるほどこのアドバイスは大切だなと折に触れて思い出すようになった。
自分の家で食事をするだけならそれなりに簡単だ。冷蔵庫に何があるかわかっているし、調理器具も調味料もいつものところに置いてある。適当にあり合わせのものをつくることは可能だろう。
だが初めて他人の家に入って、そこで料理をつくれといわれたら? どんな食材があるかをまず調べ、つくれそうな料理を頭で考えなければならないし、適切な調理器具がどこにあるかも確認が必要だ。コンロのつまみの調節も自宅と同じだとは限らない。自宅でやるように手際よくできるだろうか? それでもちゃんと料理がつくれるなら、その人は本当に料理の手順がわかっている、一人前だといえるということだ。
実はこのタスク(課題)は昔からロボット学でもよくいわれてきたものだ。人工知能(AI)を搭載した自律ロボットを初めて家に入れて、そして料理をつくらせるタスクがちゃんと遂行できて、初めてそのロボットは人間社会に溶け込めるだけの知能を持っているといえるのではないか──ということだ。第一線のロボット・AI研究者はこんなことを飲み屋で毎日話し合っているのである。
シムノンの小説には、このタスクと似たところがある。
「そのシリーズ、途中からでも大丈夫?」──これからシリーズを読もうとする読者にこう訊かれたら、たいていは「もちろん、途中からでも大丈夫」と答えるだろう。既存のファンなら「まずは1冊手に取って読んでほしい」と思うからだが、実際に途中から読んでも差し支えないシリーズは世のなかにたくさんある。
《ニューヨークタイムズ》のベストセラーランキングを見ると、ここ数年、アメリカのベストセラー小説は多くがシリーズキャラクターものである。いまはその方が売れるとおそらく出版社が判断しているのだろう。逆に「スタンドアローン」という言葉まで生まれて、「これはシリーズものではありませんよ。1冊で完結する本ですよ」とわざわざ読者に説明する必要さえ出てきた。私の愛読するディーン・クーンツは出版業界の流行に敏感な作家で、分厚い小説が売れるときには分厚い作品を書き、逆に短めの長編が売れるときには一気読みできる短いスリラーを書き、シリーズものが流行り出したらシリーズキャラのミステリーを書く人だ。それでもちゃんと、どれもクーンツならではの小説になっている。
近年出版される多くのシリーズは、どこから読んでも大丈夫なように、それなりに計算されて書かれているはずだ。文章のなかでそれとなく過去の出来事やこれまでの人物関係を紹介したりして、読むストレスを減らす工夫をしているはずである。だから「途中からでも大丈夫」なのである。
(もちろん私は理解しているつもりである。「そのシリーズ、途中からでも大丈夫?」といった会話をするとき、私たちは実際にその答がほしいわけではなくて、それをきっかけに人と本について話したい、コミュニケートしたいのだ。それが本当の目的である。だが話を進めよう)
古典のシャーロック・ホームズは「どこから読んでも大丈夫」だといって構わないだろう。金田一耕助も、別に長編最終作『悪霊島』から読み始めたって何の問題もないと思う。エラリー・クイーンはどうか? まあなるべくなら国名シリーズをいくつか読んでからライツヴィルシリーズへと進んだ方がいい。盲点なのはアルセーヌ・ルパンで、これは絶対に執筆順に読んだ方がいい。なぜならクイーンやルパンは全作を通してひとつの大きなサーガ、人生譚になっているだけでなく、それが“作者自身のサーガ”にもなっているからである。作風や文体も初期と後期ではずいぶん違ってくる。
ではメグレはどうか。なるほど、実際に読むと、メグレはシリーズのなかで歳を取り、引退し、隠居する。その意味では人生のルートが順を追って書かれている。だから順番に読んだ方がいい──のだろうか? 実はそれが本当の理由ではないのである。
シムノンの小説は、「他人の家に入って料理をする」かのように読む小説なのだ。いきなり上がり込んでも台所の場所がわからない。どんな食材があるかも、どこに調理器具があるかもわからない。それほどシムノンの文章は簡潔で、省略が多く、過去の経緯を説明してはくれないのである。いきなりの初読者に「これを読んでパリの風景を感じろ」「登場人物の心の襞を感じろ」といっても無理なのである。
だから私たちはシムノンの小説を読むとき、まずはAI搭載の自律ロボットとなって、シムノンの描く世界を探索し、徐々に馴染んでゆかなければならない。これには読者としてある種の力量が求められる。“知能”が必要なのである。
だが少しずつシムノンの描き出す世界に馴染んでゆくことで、私たちは実に美味しく彼の料理を堪能することができるようになってゆく。
シムノンを読むときにはこの過程が絶対に必要なのだ。
調味料の瓶がどこにあるかわかるようになって自在に適量を振りかけられるようになったとき、あなたはシムノンの簡潔な描写でもパリの街並みが鮮明に目の前に浮かんでくる。
これが人間の読書なのである。
ロボットやAIの研究者は、つまりシムノンが読めるロボットをつくろうとしているのだ、といっていい。それが実現したときにもしあなたがシムノンを読めなかったら、あなたはAIに負けたことになる。
私はずっと前から『デカルトの密室』『第九の日』『魔法を召し上がれ』のように、小説を読むロボットの物語を書いてきた。これらはすべて人とロボットの
次回、私たちは第二期第2シーズンへと読み進む。ここでメグレは再び引退し、田舎へ隠居する。物語は短編ではなく中編の長さになる。シムノンの筆は見違えるほど冴え渡り、傑作、佳作が連打される。さあ、胸を躍らせながら先へと進もう。
【ジョルジュ・シムノン情報】 |
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メグレ全作品をすべて収録したフランス語のオムニビュス社版《メグレ全集Tout Maigret》全10巻は、書き下ろし解説を追加して2019年1-4月に新装再刊された(https://www.toutsimenon.com/oeuvre/tout-maigret.html)。今回表紙を飾るのはイラストレーターでバンドデシネ作家のルスタル Loustal。彼はこれまでもシムノン作品のイラストを長年にわたって手がけてきたので、満を持しての全集イラスト担当ということになる。 日本のAmazon.co.jpには登録されていないようだが、フランスのAmazon.frなどで簡単に注文できる。私は旧版を持っているので今回の再刊は購入しないが、これから集める人はもちろん新しい2019年版の方がいいだろう。 各巻の構成が以前と同じなら、中短編は最後の第10巻にまとめられているはずである。 |
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。 『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。 ■最新刊!■ ■解説:瀬名秀明氏!■ |
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