今回、「玉手箱」で取り上げるのは新刊の8作品で、コーナー担当者としては嬉しい悲鳴。ポアロやメグレも登場するし、通常の月なら一枚看板を張ることができそうな作品も多い。
そんな強者揃いの中で、真っ先に取り上げたいのは、フランスのミステリ、フランシス・ディドロ『七人目の陪審員』(1958)だ。
先ごろ初文庫化なった植草甚一『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』で賞賛され、「☆☆☆☆★★」という高得点を得ているほか、クラシック・ミステリファンのバイブル、森英俊編著『世界ミステリ作家事典 本格派篇』でも「法廷ミステリの傑作」とされている作品だ(『雨降りだから〜』では、結末近くまで筋が明かされているので要注意)。
グレゴワール・デュバルは、中年の薬局店の主人。ぜい肉がとれない妻と三人の子持ち。町の住人たちからは「太っちょ」と親しみをこめて呼ばれ、尊敬を集めている。息抜きは、毎日通う酒場での常連たちとのトランプ。幸福で平和な家庭を築き、まあうまく人生を渡っている、どこにでもいそうな男だ。そんな男が、河べりのレストランで家族と食事をした後の散歩中、水浴びをしていた若い女ローラと出くわし悲鳴を上げられたので、彼女を絞め殺してしまう。ローラは、その無軌道な生活ぶりで町で名を馳せていた。
しかし、グレゴワールに一切嫌疑が及ばず、ローラの恋人のアランが犯人として逮捕される事態に至る。グレゴワールはアランの冤罪をすすごうと画策するうちに、事件の陪審員として選任されそうな雲行きになる。
書評七福神の一月度ベストで酒井貞道氏が指摘するように、バークリー『試行錯誤』を思わせるようなプロットだが、主人公がヒーローになる空想癖をもっているところは、『殺意』の主人公ビグリー博士にも似ている。
罪の意識はまったく感じていないにもかかわらず、他人の冤罪を晴らそう主人公のモラルの欠落ぶりが不気味でおかしい。何やらグレゴワールは、事件を契機に「昆虫人間の偽善に満ちた人生」から目覚めたようでもある。
アランの救出作戦とそれに続く法廷シーンは、グレゴワールの心理の揺れと、事件を取り巻く関係者や家族たちの興奮や狂騒を意地悪く描きつつ、裁判の行方とグレゴワールの運命への興味で読む者を離さない。そして、アイロニーに、アイロニーを折り重ねていくような考え抜かれた結末。
本書の真の主人公は、一見善良な人たちの無意識の集合体である「町」といってもいいくらいで、次第に剥き出しになる「町」の悪意も、ユーモアの糖衣にくるまれ、活写されている。
『変身』の主人公を思わせる名前の持ち主が、「カフカを読むのが嫌い」だった若い娘を殺したがゆえに巻き込まれていく不条理の世界のおかしさ、残酷さを間然とすることなく描いており、数ある法廷ミステリの中でも、屈指の作品といっていいだろう。
先月、この欄でも紹介したキリル・ボンフィリオリの『チャーリー・モルデカイ』シリーズの3、4が続けて刊行され、映画『チャーリー・モルデカイ』も公開された。映画は、基本的に「1」をベースにしたオリジナル・ストーリー。良くも悪くも原作のアクが取り払われた「ピンクパンサー」的テイストで、これはこれで楽しめた。
(小説と映画については、サイトの「偏愛レビュー」で♪akiraさんも腐女子的観点から語っておられます。)
コミックミステリの珍味ともいうべき本シリーズだが、珍味も立て続けに味わうと、消化不良が心配な面も。
『チャーリー・モルデカイ3 ジャージー島の悪魔』(1976)は、作品発表の時系列でいくと、シリーズで2作目。前回も触れたように、サンリオSF文庫『深き森は悪魔のにおい』の新訳である。
『1』では、チャーリーが絶体絶命のピンチの場面で終わるが、続く本作では、いつの間にか結婚したジョハナ(その顛末は「2」で語られる)や、用心棒兼従者のジョックと、のんびりイギリス王室属領ジャージー島で暮らしているのだから、まったく人を喰っている。
この度、新訳で数十年ぶりに読んでみて、「こんな話だったのか」と思った次第。
ジャージー島で、連続レイプ事件が発生。モルデカイの友人の妻二人までもが犠牲となる。かつて島中を震撼させた「ジャージー島の野獣」事件を思わせる手口から、悪魔崇拝が関係しているのではと睨んだモルデカイは、対抗手段を講じるが、愛妻ジョハナにまで危機は及び……。
はじめは友人らと自警団的動きをするモルデカイだったが、専門家から仕込まれた対抗手段は、なんと黒ミサ。深刻なレイプ渦に対し、モルデカイは、黒ミサに必要な神父や儀式用のテキスト等を手に入れるために奔走するのだから、悪趣味全開というかホンキートンクというか。そして、こうしたストーリーも、モルデカイの放つ毒舌や衒学にまみれながら進行するのは、お約束どおり。
推理の妙味があるわけではないが、最後に、やはり人を食ったような意外な真相が露見する。チャーリーは(そしてジョハナも)、犯人から手ひどい打撃を受けるが、チャーリーの動機は大真面目ゆえ、悪ふざけのような犯人対抗手段の罰としては酷にすぎる感も。
『チャーリー・モルデカイ4 髭殺人事件』(1999)は、作者の死後、未完の1章をクレイグ・ブラウンが完成させた最終作。
ジャージ島で悠々自適のチャーリーがイボ痔!の手術で入院中、憧れの口髭を蓄えたところから物語は始まる。(チャーリーの口髭が妻ジョハナや周囲から袋叩きの対象となる設定は映画版にも使われている)『3』にも登場するオックスフォード大学の恩師ドライデン博士から、カレッジの女性研究者の不審な運転事故死の謎を探るように依頼されたチャーリーは、特別研究員としてカレッジに潜入する、というストーリー。
すなわち、本作は、モルデカイのかなり正統的な探偵譚。といっても、脱線・逸脱を繰り返すのは、前3作と同様で、かつて過ごしたスコーン・カレッジの現状に対し様々に舌鋒をふるうほか(イーヴリン・ウォー『大転落』に登場する架空のカレッジの名前と同一)、国際的機密に触れそうになったチャーリーは、モスクワで魅惑と恐怖の夜を過ごす一幕もある。
特別警部の称号すらもらったチャーリーは、ホームズという名前の刑事と協力して、女性研究者の死の謎を追う。意外なことに、謎の死にまつわる奇怪なトリックまで用意されているが、もちろん本題はそこにはなく、ビターな笑いは全編に鳴り響いている。
モルデカイシリーズ全4作、ときおり、任意の箇所を開いて、首を捻ったり、唸ったり、何度でも楽しみたいシリーズである。
『そして医師も死す』(1962)は、名手D・M・ディヴァインのデヴュー作『兄の殺人者』と第三作『ロイストン事件』という秀作に挟まれた第二作で、これまで邦訳されてなかった作。といって、出来が悪いわけではなく、事件に巻き込まれた主人公が謎解きを進め、自らの窮地を打開していくというディヴァインのパズラーの魅力は十分に発揮されている。
主人公は医師アラン・ターナー。診療所の共同経営者ヘンダーソンが不慮の死を遂げてから二か月が経つが、事故死を装う他殺である疑いが市長から指摘される。ヘンダーソンの美貌の未亡人エリザベスとともに最有力容疑者と目されるターナーは、独自の調査を始める。
婚約者がいるターナーは、医師の未亡人と密通の噂を立てられるが、彼女に同情的でもある。周囲の人たちはターナーやエリザベスに対し、なぜか攻撃の手を緩めない。過去の秘められたドラマの発掘と現在進行形のドラマを推進力として、物語は進んでいく。
人物の性格描写は、後年の作に比べ常套的すぎる面があるが、ある発言から、主人公の抱く事件の構図がガラリと姿を変え、意外な真相の発見に至る鮮やかさ、大胆な手がかりの配置には、いつものように驚かされる。刃(やいば)一閃、もつれた糸がハラリと解ける快感は、ディヴァイン・タッチとでもいうべきものだ。
ヴァル・ギールグッド&ホルト・マーヴェル『放送中の死』(1934)は、ラジオドラマの放送中の殺人事件を扱った本格ミステリ。ギールグッドは、BBCのプロデューサーとしてラジオドラマ業界で長年活躍、ミステリの著作も20数冊あり、合作ドラマ等を通して、カーとの交友も知られている。マーヴェルも放送プロデューサー兼作家。すなわち、本書は、英国放送界の勃興期を知り尽くした二人による内幕物。
BBCドラマの放送中に、被害者役の男が台本どおり、絶命の声をあげる。名演技と思われたそれは、しかし、演技ではなかったことが判明する……
オンエア中の殺人という派手な事件に、放送スタジオの特異の構造がもたらす衆人環視の状況、キャスティングシートや放送局見取り図の掲載など、黄金時代らしい華やかな設定で嬉しくなってしまう。
捜査に当たるのは、スコットランドヤードのスピアーズ警部補だが、主要登場人物のディレクター、ジュリアン・ケアードが探偵小説好きであるほか、謎の解明に熱心な登場人物が複数出てきて、複線で謎を追いかけるのも愉しいところ。
パズラーとしては、決め手の一撃に依存しすぎていたり、思わせぶりな展開が十分に回収されないなど、ボルトやナットの締め具合がやや緩いところもあるが、戦前の放送界の雰囲気ともども、往年の探偵小説のもつ趣向の愉しさを味わえる作である。
ジョージエット・へイヤーは、英国で歴史ロマンスのジャンルを確立したとされる女性作家。ミステリの著作もあり、『紳士と月夜の晒し台』『マシューズ家の毒』が紹介されている。『グレイストーンズ屋敷殺人事件』(1938)は、これらと同様、ハナサイド警視が活躍する本格ミステリ。
ロンドン郊外の屋敷での資産家フレッチャー殺し。地域の信望を集めていたフレッチャーだったが、周辺事情が洗われていくと、彼の意外な側面が次々と明らかになってくる。一見単純に見えた事件も、次第に容疑者が増えていき、フレッチャーを殴殺した鈍器も特定できない。(本書の原題は、A Blunt Instrument =鈍器)
犯行時刻周辺に容疑者たちが分刻みで現場に現れたことが明らかになる−というのは屋敷物の定番の趣向だが、関係者たちの証言を積み上げていくと、犯行は不能になってしまうというジレンマにハナサイド警視と敏腕の巡査部長ヘミングウェイは悩むことになる。
登場人物は、いずれも個性的であり、謎解きの添え物に終わっていない。特に、へらず口ばかり叩いているフレッチャーの甥のネヴィル、女性犯罪小説家サリー、聖書の文句の引用に賭けているようなグラス巡査といったキャラクターは、精彩を放っている。捜査側だけでなく、関係者のユーモラスなかけあいにもフレームインしていくような筆致は、本書に物語的なふくらみを与えており、意外なロマンスの展開が楽しめたりもする。
本書の犯人は(そして凶器も)相当に意表をつくものである。その意外性を説得力あるものにしているのは、一見迂遠ともみえる捜査の進行にあることを触れておかねば、本書の魅力を語ったことにはならないだろう。
アガサ・クリスティー『ポアロとグリーンショアの阿房宮』(2014)は、教会のチャリティーのために書かれ、未発表になっていた中篇。『死者のあやまち』(1956)の原型である。「犯人探しゲーム」中の殺人という設定と、埋め込まれた大ネタ、大胆すぎる手がかり提示、これらを支える細かいアイデア、といった要素が、この原型中篇でほとんど出揃っており、設計の巧みさに感心させられる。
クリスティーが愛した別宅グリーンウェイが舞台のモデルだが、デヴイッド・スーシェがポアロを演じるTVシリーズの最後のドラマ『死者のあやまち』は、彼の地で撮影されたそうで、緑したたる楽園の風景は目の保養になった。
ジョルジュ・シムノン『紺碧海岸のメグレ』(1932)は、戦前に『自由酒場』として抄訳されて以来、邦訳がなかった幻のメグレ警視物。
舞台は南仏の紺碧海岸(コートダジュール)。リヴィエラ、カンヌ等を擁するこのリゾート地の駅にメグレが降り立つところから、物語は始まる。時は三月だが、陽光ふりそそぐこの地のヴァカンスの雰囲気にメグレはうんざりしている。事件は、戦争中、軍情報部の仕事をしていたオーストラリア人ブラウン殺し。一緒に住んでいた愛人の女とその母親は、金をもって逃走を企てていた。単純な事件にみえたが、ブラウンが月に数日、女たちの知らない秘密生活を送っていたのを知るに及んで事件はその様相を変えていく。
メグレは被害者の写真が自分によく似ていることに気づく。「メグレにとって謎を解くことは、殺人の方法を発見することではなくて、事件を惹き起こした心理的危機を実際に経験し、生きてみることなのだ」(ボワロー&ナルスジャック『推理小説論』)といわれるが、そうしたメグレのアプローチの特徴は、メグレが被害者の通っていた酒場「リバティー・バー」を訪問する第三章にも、よく出ている。
でっぷり太り何事にも動じない中年の女店主、ガウンから乳房がみえていても気にしない若い女、昼なのか夜なのか判然としない場末のバー、怠惰で弛緩しきった場所で奇妙な居心地の良さを感じていくメグレは、この場所が「あらゆるものを見て、あらゆる悪徳を試した人間の最後の港」と了解する。そこで、被害者の人生の謎の一端が解かれ、ほろ苦い詩が転がり落ちる。
「ブラウンは殺された」というオブセッションじみた確信と、「波風を立てるな」と上層部の指示の狭間で揺れ続けるメグレが到達した事件の真相は悲劇的なものだが、彼がつけた決着には、深く共感させられる。
久々に触れたメグレ物だったが、大げさにいえば、シリーズを読み込んでいけば、人生の諸相を見ることができるのではないかという感想までもった。瀬名秀明氏の「シムノンを読む」も始まっていることだし、もっとメグレをと、つぶやいてみたい。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |