この記事は本年9月1日に掲載した「番外編3 メグレと鬼平(前篇)」のつづきです。(編集部)

■フランスを愛した池波正太郎■

 大学院生のとき、所属研究室で突如として池波正太郎が流行り、私も当時《仕掛人・藤枝梅安》シリーズをとても面白く読んだ。しかしそれ以降、池波正太郎を手に取る機会がなく、本連載を機にようやく私は『鬼平犯科帳』の原作小説と中村吉右衛門主演のドラマに接したのである。また同時に池波のエッセイ群も手に取ることとなった。


 作家・池波正太郎は、フランスを愛した。
 詳細な年譜が入手できずはっきりしたことはいえないのだが、おそらく池波正太郎は、都合7回フランスに行っている。
 最初の旅は1977年(昭和52年)、平凡社『回想のジャン・ギャバン』を書くためであった。池波は少年期にナポレオンやジャンヌ・ダルクの伝記を読んで、それをきっかけにフランスに興味を持ったのだそうだ。また戦前からフランス映画の熱心なファンであり、「シネマディクト(映画狂)」を自称して映画エッセイも書いていた。こういったことは長年の池波正太郎読者なら先刻ご承知のことであろうが、私はシムノンを読み始めてから資料としてようやく池波のエッセイを手に取り、
(ほう、これはなかなか面白い……)
 と、少しずつ文庫本を揃えるようになった次第である。
 池波の海外旅行をまとめると、次のようになる。

1977年6月 パリ、リヨン、マルセイユ、ニース、ル・アーヴル、ドーヴィル 同行者=吉田大朋(たいほう)〔Y〕(仏在住カメラマン、南仏へのドライバー)、T君(当時平凡社の編集者であった筒井泰彦=エッセイストの筒井ガンコ堂氏)、小田君(ノルマンディー同行、吉田氏の弟子のカメラマン。小田東氏か)
『回想のジャン・ギャバン』(平凡社カラー新書)
→インタビュー構成「フランス映画旅行」(『フランス映画旅行』新潮文庫所収)
→「あるシネマディクトの旅」(『フランス映画旅行』新潮文庫所収、『あるシネマディクトの旅』文春文庫所収)
→小エッセイ「フランスの田舎」(『私の歳月』講談社文庫所収、初出1977)
→画文「スペイン賛歌」(『作家の四季』講談社文庫所収、『ルノワールの家』朝日文庫所収、初出1985)
→小エッセイ「フランスへ行ったとき」(『散歩のとき何か食べたくなって』新潮文庫所収、初出不明)
1979年9月 南仏(バルビゾン‐アルル‐ニース‐マルセイユ、トゥールーズ、クレルモン゠フェラン‐オルレアン)、スペイン(バルセロナ‐マドリード‐グラナダ) 同行者=佐藤隆介〔モウコ〕、カメラマンB君〔ロシア〕(仏在住カメラマンの小田東氏、案内役)
『旅は青空』(新潮文庫)、『あるシネマディクトの旅』(文春文庫)所収
1980年9-10月 パリ‐ブルターニュ地方‐ノルマンディー地方(ロワール川沿いの古城巡りが主体) 同行者=佐藤隆介〔S〕、吉岡英隆〔Y〕(カメラマン兼ドライバー)
『田園の微風』(講談社文庫)、『あるシネマディクトの旅』(文春文庫)所収
→小エッセイ「フランスで食べたもの」(『旅は青空』新潮文庫所収、『あるシネマディクトの旅』文春文庫所収、初出1981)
1982年5-6月 フランスの田舎(コンピエーニュ、ヴェルダン‐ドンレミイ‐オルレアン‐オンゼン‐フォンテーヌブロー)ベルギー(ブリュッセル‐ブリュージュ‐ワーテルロー)、ドンレミイ 同行者=佐藤隆介〔モウコ〕、吉岡英隆〔ハニー〕、豊子夫人
→「紀行 フランスとベルギーの暑い夏」(『ドンレミイの雨』新潮文庫所収)
→短篇「ドンレミイの雨」(『ドンレミイの雨』新潮文庫所収、初出1982)
1982年冬 シンガポール、インドネシア
→「紀行 シンガポール・バリ島の旅」(別題「夜の闇の魅力」)(『ドンレミイの雨』新潮文庫所収、『私の風景 池波正太郎自選随筆集③』朝日文芸文庫所収、『ルノワールの家』朝日文庫所収)
→小エッセイ「バリ島の夜の闇」(『新 私の歳月』講談社文庫所収、初出1983)
1984年秋 プロヴァンス地方(ディジョン‐リヨン‐マルセイユ‐カルカソンヌ)、ボルドー、西ドイツ(エトゥリンゲン)(ローヌ川、オード川、ガロンヌ川沿いに南仏とボルドーを巡る) 同行者=佐藤隆介、中野昭次(ドライバー兼カメラマン)、豊子夫人
→「紀行 フランスの秋・その落日」(別題「ルノワールの家」)(『ドンレミイの雨』新潮文庫所収、『私の風景 池波正太郎自選随筆集③』朝日文芸文庫所収、『ルノワールの家』朝日文庫所収) ※文藝別冊『池波正太郎〈増補新版〉』(河出書房新社)の巻末年表に記載なし。
→画文集『池波正太郎のパレット遊び』(角川書店)
→小エッセイ「セトル・ジャンの酒場〔B・O・F〕」(『作家の四季』講談社文庫所収、初出1985)
・1988年5月 パリ、トロワ、エソイエ(池波の記述ではエソワ)、トネール、ディジョン、マコン、ナンシー、バルビゾン 同行者=通訳〔H〕、吉岡英隆〔Y〕(カメラマン兼ドライバー)、その他? ※豊子夫人が同行したかどうかは不明。
→「フランス日記(一)〜(十三)」(『ル・パスタン』文春文庫所収)
→小エッセイ「初夏のフランス──作家の四季②」(『作家の四季』講談社文庫所収、初出1988)
→小エッセイ「フランスの田舎」(『作家の四季』講談社文庫所収、初出1988)
→小エッセイ「ルノワールの家」(『作家の四季』講談社文庫所収、初出1989)
→小エッセイ「ヴィル・タヴレーの秋」(『作家の四季』講談社文庫所収、初出1990)
・1988年9月 ドイツ、フランス、イタリア(ヴェニス)、スペイン? 同行者=編集者、カメラマン〔D〕、堀賢一(ニッカ広報部、現ワイン研究者)、豊子夫人 ※詳細不明、『池波正太郎〈増補新版〉』の年表には「五月、九月にヨーロッパ旅行でフランス、スペインへ、最後の旅行となる」とあるのみ。(資料: https://gendai.ismedia.jp/articles/-/36228?page=3 資料中の「1998年」は「1988年」の間違いと思われる)
→「ヴェニスにて(一)〜(六)」(『ル・パスタン』文春文庫所収)
→小エッセイ「私だけのフランス」(『新 私の歳月』講談社文庫所収、太陽編集部編『池波正太郎の世界』平凡社所収、初出不明)
→インタビュー「フランスの地方に魅せられて」(『池波正太郎の春夏秋冬』文春文庫所収、初出不明)
→画文「絵日記」(『きままな絵筆』講談社文庫所収、初出1984〜1988)

 まとめると、細かな単発エッセイはいろいろあるものの、未文庫化の『回想のジャン・ギャバン』、最初の3回分の旅エッセイを集成した再編集本『あるシネマディクトの旅』、次の2回分を収めた『ドンレミイの雨』、そして最後の2回分の思い出を断片的に収めた週刊誌のエッセイ連載『ル・パスタン』の4冊を読めば、池波正太郎のフランス旅行はほぼわかるようになっている。また、佐藤隆介氏による『あの日、鬼平先生は何を食べたか 池波正太郎フランス旅日記』(生活人新書)も参考資料となる。池波は最後のフランス旅から2年後、1990年に67歳で逝去した。前年の1989年から中村吉右衛門版『鬼平犯科帳』のドラマが始まっている。
 佐藤隆介氏は自称・池波正太郎の「通いの書生」。もとは雑誌編集者で、1974年9月、カメラマンの吉岡英隆氏とともに、インタビュー取材のため荏原の池波邸を訪ねたのが最初の出会いだそうだ(佐藤氏自身による『田園の風景』巻末エッセイ「池波正太郎の旅」参照)。このとき池波に惚れ込み、「死ぬまで、この人に、むしゃぶりついて行こう……」と決心し、以後はコピーライターを兼業しつつ、あれこれと池波の身辺雑事を手伝ったようだ。池波の死後、師匠に関する回想録や解説本を複数出版している。

■池波正太郎とセトル・ジャン■

 第1回の旅(1977)は、もともとフランス映画ファンの池波が、憧れの俳優ジャン・ギャバンのもとを訪れて対談する、という企画だったらしい。だが惜しくも前年にジャン・ギャバンは亡くなってしまい、よって彼を回想する旅となった。
 ジャン・ギャバンゆかりの地やフランス映画史に関連深い地を訪ねるのが目的なので、行き先は限られている。だが、この旅で池波は写真家の吉田大朋氏から、かつて〝パリの胃袋〟といわれた旧中央市場、レ・アールLes Halles近くの居酒屋《Bar des B.O.F.》を紹介され(池波風に表記するなら〔B・O・F〕。ボン・ウヴリエ・フランス=忘れられたる佳きフランス、の意味だと池波の本では説明されている)、その店主セトル・ジャンと懇意になった。70代の老人で、200年前から建つこの居酒屋を、60代の妻ポーレットとふたりで50年も切り盛りしている。200年前といえば長谷川平蔵、鬼平が生きていた時代であるから、池波は感慨深かった。作家ジョルジュ・シムノンも常連だった、と池波は聞かされ、ここで同行の吉田氏も興に乗った。

 Yさんが、私のことを、
「この人は、日本のシムノンだ」
 などと、大仰に紹介したら、セトル・ジャンは、それまでのむっつりとした老顔を急にほころばせて、立飲台コントアールの下から一冊の本を出して私の前に置いた。
 それは〔メグレ警視〕のシリーズで有名な作家ジョルジュ・シムノンの本で、表紙には何とセトル・ジャンの顔がつかってあるではないか。
 Yさんが意味ありげに、私へ眴(めくばせ)を送ってよこした。
旦那ムッシュウ(シムノン)は、いま、スイスにいますよ」
 と、ジャン老人はなつかしげに目を細めた。
 むかし、パリにいたころのジョルジュ・シムノンは、この酒場の常連だったそうで、ジャンの写真を〔メグレ〕シリーズの一冊の表紙につかった。
 そういうことを知っていたYさんが、わざと私を「日本のシムノンだ」などと引き合わせ、無愛想なセトル・ジャンから微笑をさそい出したのだろう。
 ともかくも気に入って、パリ滞在中に、私は何度も〔B・O・F〕へ通った。(「ドンレミイの雨」)

 池波は第1回の滞在中だけで4度も足を運んだようだ(うち1回はパリ在住だった画家の風間完氏と同席)。よほどセトル・ジャンと《B.O.F.》が気に入ったらしい。『あるシネマディクトの旅』のカバー写真は《B.O.F.》で撮られたふたりのツーショットであるし、『旅は青空』のカバー絵は池波自身が描いた《B.O.F.》の風景画である。なおセトル・ジャンという名は、本来はジャン・セトルなのだろうが、池波宛の手紙に彼自身がセトル・ジャンと署名していたので、池波はセトル・ジャンで通している。また彼が表紙に写っているシムノンの1冊とは、プレス・ド・ラ・シテ社版ペーパーバック『メグレとワイン商』(1971発行)のことである。ともあれこの後、池波はフランスへ行く度に《B.O.F.》を訪ね、読者にとってもそれが恒例行事のひとつとなり、セトル・ジャンの名が登場する度にほっこりすることになるのである。
 ペルノーの美味い店だったそうだ。ならば確かにシムノンが好みそうではある。池波のエッセイ「私だけのフランス」に拠ると、シムノンは《B.O.F.》にジャン・ギャバンを連れて来たこともあったらしい。ただ、シムノンが本当に《B.O.F.》の常連だったのかどうかは裏取りができていない。シムノンが通ったのは戦後のはずなので、まだ私はそのころのエッセイ等を充分に調査していないからだ。とりあえず池波の旅について紹介を進めよう。
 この旅で池波は有名店《ラ・クーポール》にも足を運んだ。『男の首』第9回)をはじめシムノンの小説にも何度となく出てくる。「料理の味は、平均的で、とりたててどうのというわけではないけれども、店の雰囲気がよいものだから、料理までうまく食べられることになってしまう」(「あるシネマディクトの旅」)と池波は書き残している。池波が生涯でシムノン原作の映画をどのくらい観たのか、というのは興味惹かれるところで、少なくともジュリアン・デュヴィヴィエ監督『モンパルナスの夜』(原作『男の首』、1933)とジャン・ドラノワ監督『殺人鬼に罠をかけろ』(原作『メグレ罠を張る』、1958)の2作は『回想のジャン・ギャバン』に言及があり、どちらも楽しんだようだ。同じくドラノワ監督の『サン・フィアクル殺人事件』(1959。日本公開は1986)も観たらしい(「池波正太郎のシネマ通信」、『作家の四季』講談社文庫所収)。それ以外の映画はわからない。ジャン・ギャバン主演の『港のマリー』(1950)や『可愛い悪魔』(1958)、『ギャンブルの王様』(1960)あたりは観ていてもおかしくないが、調査できていない。
 さて、第2回の旅(1979)からは「通いの書生」佐藤隆介氏が同行し、事前のホテル予約手続きや現地での会計も彼が受け持つようになった。「私は蒙古系です」と彼がいうので、池波は「モウコ」と呼んでいる。このときは現地の若手写真家・小田東氏を案内役に雇った。こちらは「私は、どうも白系ロシア人に似ている」というので、「ロシア」である。
 佐藤氏は大学でフランス語の講義を受けたことはあったようだが、すっかり錆びついていたらしい。それでも3回目の旅(1980)からはフランス語を再勉強して現地通訳の役目も兼ねた。ホテルのチェックインやチェックアウトも彼の担当だが、いちばんの仕事はホテルに着いたらフロントでその日のカルト(メニュー)を借り受け、辞書を引きつつ懸命に日本語に訳し、それを池波に見せてメニューを選んでもらうことであった。そして池波の決めたメニューをメモ用紙に書き出し、いざ夕食だというとき席に着いたらそれを給仕長(池波風に書くなら「給仕監督ジェラン」)に手渡すのである。ワインの選択も佐藤氏の役目だった。池波は赤ワインは好みでなかったらしく、エッセイを読む限りではふらりと立ち寄ったバーではロゼをよく注文したようだ。佐藤氏に拠れば白ワインやシャンパンも飲んだらしい。
 つまり池波は、フランス語はできなかったが(「Ça va?(サ・ヴァ=お元気ですか、こんにちは)」の意味も知らなかった)、フランス文化を生涯愛した。積年の憧れを旅のかたちで実現できて本望だったろう。池波はフランスが舞台の長編小説を書くことはなかったが、やはり少年期に伝記で読んだナポレオンとジャンヌ・ダルクには、何度も旅の途中で強い関心を示した。最晩年にはそうした人々を登場させたフランスの時代小説を書きたいという想いもあったかもしれない。
 第2回の旅で、池波はパリに着くと真っ先に《B.O.F.》のセトル・ジャンを訪ねた。だが彼は不在で、店もアメリカ人に売ってしまったと聞かされ、寂しい気持ちになった。周りには新設のショッピングセンターができて、すっかり様変わりしていた。池波らは車でプロヴァンス地方をローヌ川沿いに南下し、アルルを拠点に紺碧海岸を観光、有名レストランで食事を楽しむ。飛行機でスペインに入り、車の足も使いつつ観光。なんとバルセロナで俳優の天本英世を見かけたらしい。フランスに戻り、ロワール川に沿って北上し、パリに戻った。池波は純粋に旅を満喫したようだ。
 第3回(1980)と第4回(1982)の旅程は、佐藤隆介『あの日、鬼平先生は何を食べたか』に詳しい。いつどこに泊まり、何を食べたか、克明に記録されている。第3回はフランス西部と北部への旅。大気の澄み切ったフランスの田舎を見て回りたかったようだ。まず《B.O.F.》へと行ってみると、今度は店は開いていた。いまもセトル・ジャン老人は昼前後の二時間ほど店に出ているらしいと、事前に知人から聞いていたのだ。そのとき老人はいなかったが、フランス人青年ルノーと、もうひとりのアメリカ人青年のふたりが店を譲り受けて運営していた。池波はセトル・ジャンの写真や自筆の肖像を載せた自著を手土産に持ってきており、それを彼らに託して旅に出た。
 池波の旅の心得は、陽が落ちるまでに必ず目的地のホテルへ入ることであった。そのためには観たいと思っていた観光地も、ときにはすっぱり諦めて前進する。よって書生の佐藤氏は池波氏のその場の決断に臨機応変に対応してホテルを目指し、その日の夕食を師匠に楽しんでもらうことに力を注ぐ。ロワール川沿いに西へ向かい、古城を見学。ブルターニュ半島の根元まで行き、カルナックの旧石群なども見て文明の交流に想いを馳せた後、北へと周り、モン゠サン゠ミシェルなども見物してパリに戻った。ここで池波は《B.O.F.》のセトル・ジャンと再会でき、旧交を温め、記念写真を撮った。同行した佐藤氏〔S〕と吉岡氏〔Y〕の笑顔の写真は『旅は青空』144ページに、また《B.O.F.》の店構えの写真は147ページに残っている。
 第4回の旅からは池波の妻が同行した。豊子夫人はナポレオンの古戦場、ベルギーのワーテルローが見たいとの希望だったので、第4回の旅ではベルギー行きが含まれることとなった。今回、池波が《B.O.F.》を訪れると、そこはハンバーガー屋に変貌していた。「セトル・ジャンがやってきた居酒屋の、古風な雰囲気をまもって行こうとしたルノー君も、ついに周囲の荒波に抗しかねたのだろうか……」(「紀行 フランスの秋・その落日」)と池波は落胆した。車でベルギーの首都ブリュッセルへ行き、現地の日本人にレストランなど案内してもらう。いくつかの観光地を車で回ったが、残念ながら池波はシムノンの生地リエージュを訪れてはいない。シムノンを思い出すこともなかった。その後フランス側へ取って返し、ランスで〔フジタの礼拝堂シャペル:仏在住していた画家の藤田嗣治のこと]を見学。ジャンヌ・ダルクの生地ドンレミイでは急な雨に祟られる。この体験を私小説風に纏めたのが短編「ドンレミイの雨」である。旅行中の「私」はドンレミイで豪雨に出くわし、カフェで雨宿りしている際、店へ飛び込んできた青年を見て驚く。その人物はセトル・ジャンから〔B・O・F〕を買い受けたネストル・アリアーニ君だったからだ。しかし「私」はなぜか彼に声をかけることができず、黙って目を閉じた。やがて雨は熄み、ネストル君はこちらを一度も見ずにシトロエンに乗ってナンシーの方へと走り去った。「私」のもとにも同行者らの迎えが来たが、彼らはシトロエンの行方を知らなかった。──ルノー青年をモデルとしたネストル青年と出会ったというのは池波の創作である。

 第4回のフランス旅を終えた後、池波は1982年冬、シンガポールとインドネシアのバリ島にも旅行している。同行者は佐藤隆介氏と豊子夫人。その記録は「紀行 シンガポール・バリ島の旅」として『ドンレミイの雨』に収められている。
 第5回の旅(1984)で、パリに到着後の池波の足は、やはり自然と《B.O.F.》の跡地へと向かっていた。旧中央市場を日本の浅草のように感じていた池波だったが、同行した佐藤氏が「たった二年の間に、六本木か歌舞伎町になっちまった……」と呟くほどで、池波も寂寥感を憶えただろう。その後、車でアルザス地方のストラスブールを経てライン川を渡り、ドイツのエトゥリンゲンという小さな町に宿泊した。そしてフランスへ取って返し、川伝いに南下、さらに西へと、ワインの名産地をゆったりと巡った。地中海に面するカーニュ゠シュル゠メールでは画家オーギュスト・ルノワールの終の棲家を見学。息子の俳優ピエール・ルノワールと映画監督ジャン・ルノワールから少なからぬ影響を受けたと懐かしく回想した。
 ルノワール兄弟はシムノン原作の映画『十字路の夜』(原作『メグレと深夜の十字路』、1932)のコンビであるが、池波のエッセイにこの映画への言及はない。当時日本では大々的な興行が打たれなかったと思われるので、たぶん池波は観ていなかっただろう。偶然だが、この最後の旅は、シムノンがペンネームを使ってジャンル小説を量産していた時代、1928年に初めての自船《ジネット号》でフランス国内の川と運河を巡った旅程と似ている(第46回参照)。シムノンはやはりローヌ川で南下し、地中海の各都市を見てから、運河を遡って西部のボルドーへと向かった。図らずも池波は若き日のシムノンとシンクロナイズしていたのである。これが通いの書生・佐藤氏の同行した最後の海外旅行である。
 最後の2回の旅、第6回と第7回は、1988年の5月と9月におこなわれた。どちらもさほどゆっくりできたようには思えないが、これらが池波の生涯最後の海外旅行となった。『ル・パスタン』の記録を読むと、5月の旅ではまずパリに着いた池波は旧中央市場跡に足を運び、盟友セトル・ジャン夫婦の安否を確かめたい一心で《B.O.F.》の跡地を訪ねている。彼らとの再会はやはり叶わず、跡地はさらに革製品を売る衣服店へと変貌を遂げていたが、池波はこう記している。

 もしも、あと数年、私が健康でいられたなら、ジャン夫婦のことを小説にするつもりだが、小説と随筆をまぜ合わせたような、これまでの私にはなかった小説になるだろう。

 すでに池波は短編「ドンレミイの雨」を書いていたが、もし彼らと再会できて、もっと彼らの想い出話を聞けたなら、おそらくはジャン夫婦の若きころから店を畳むまでの人生を、旧中央市場の移り変わりとともに書いたのではないか。
 そういう小説が、シムノンにはある。『ちびの聖者』(1965)という傑作中の傑作だ。もし池波があと数年生きていたら、本当にシムノンとの繋がりが生まれたかもしれない。
 以前セトル・ジャンは、池波に自宅住所を書きつけて渡していた。そこで池波はその住所を訪ねてみたのだが、すでにアパルトマンもコンクリート製のアパートに変わっており、2年前に来たという女性管理人もジャンのことは知らず、池波は寂しさを覚えた。そのアパートを管理しているのは〔F・F・F〕という不動産会社だが、住人の移転先もわからないだろう。パリも日本の京都と同じように変わっていっているのだと、池波は諦めた。
 ただしこの話には続きがあり、後のエッセイ「ヴィル・タヴレーの秋」に書かれている。翌年、池波はパリ在住のカメラマンの「F君」[特定できず。第3回の旅で《B.O.F.》に同行した人物と思われる]から手紙をもらい、そこにはかつて《B.O.F.》の常連客だったミシェルさん(1980年の第3回の旅で出会った老紳士)から電話があって、セトル・ジャンをヴィル・タヴレーの町で見た、とあったのである[パリ郊外、西に位置するヴィル゠ダヴレーVille-d’Avrayだろう]。ミシェルさんはちょうどそのとき友人の車に乗っていたので、急いで停めてもらったがすでに見失っていた。それからジャンの写真を携えて3日もヴィル・タヴレーの町を捜し回ったが、ついにわからずじまいだった、という報告だった。

 ヴィル・タヴレーは樹木の多い町だから、いまごろは、落ち葉が、しきりに舞っていることだろう。その中を、旧友を探しもとめるミシェルさんの姿が目に浮かんだ。(「ヴィル・タヴレーの秋」)

 と池波はエッセイを結び、ここにセトル・ジャンとの交友の物語は終わる。きっと池波は、モノクロのフランス映画の一場面を連想しながらこの一文を書いたのだろうと思う。
 最後の第7回の旅については、詳細がわからない(池波自身による旅行記が存在するのか、ご存じの方はぜひご教示いただきたい)。旅の最後に4泊5日でヴェニスに滞在した際の印象が、わずかに『ル・パスタン』に残っている。

悪漢ピカレスク小説として始まった『鬼平犯科帳』■

 池波はフランス映画をたくさん観ていたから、自然と作品にもその影響があった。なかでもフィルム・ノワールと呼ばれる一連の犯罪映画は、江戸の盗賊の生きざまを描いた数々の作品群へと繋がっていったことだろう。この点についての指摘、評論はたくさんある。池波の描く盗賊は作品の枠を超えて、殺さず、女を犯さず、貧しい者から盗まず、という美学をつねに持ち、それゆえに読者から愛されてきた。
 池波が実際にシムノンの小説をどのくらい読んでいたのかはわからない。だから池波がどれほどメグレ警視を意識していたのか、一読者の私には不明である。ここでようやく池波の代表作のひとつ『鬼平犯科帳』へと話が進むことになるが、私はまだ『鬼平』を最初の文庫本2冊分しか読んでいないので、『鬼平』自体にどのくらいフランス映画からの影響が込められているのかも不明だ。よって現時点での私の感想、解釈ということでご容赦いただきたい。
 ただし、参考として池波の短編集『にっぽん盗賊伝』の一部は読んだ。

『鬼平犯科帳』の主人公、火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかた長官・長谷川平蔵宣以のぶため、人呼んで鬼の平蔵は、江戸時代に実在した人物である。池波は作家・長谷川伸の門下生で、若いとき師匠の書庫にあった文献で初めて長谷川平蔵の名を知り、いつかこの人物の物語を書きたいと思い、年表などのメモをつくって構想を始める。連載の始まりは《オール讀物》昭和42年(1967)12月号の「浅草・御厩河岸おうまやがし」。当初は1年連載の予定だったが、好評のため継続し、長期連載となった。『文豪ナビ 池波正太郎』(新潮文庫)に拠るとシリーズ全体で短編130作、長編5作、番外編1作だそうな。
 基本は短編連作の体裁である。実際に読んでみると、盗賊の物語が主軸であって、それを取り締まる平蔵の出番が少ないことにまずは驚かされる。池波はこう記している。

「鬼平犯科帳」と題名をつけたが、この小説をオール讀物へ連載するにあたり、いわゆる〔謎とき〕の捕物帳を書くつもりではなかった。そうした小説は、これまでに何人もの諸家が手をつけているし、どうしてもパターンがきまってしまう。
 毎回の連載を一つ一つ、独立した短篇とし、それがまた大きな一つの長篇にもなるという……骨の折れた仕事ではあったが、前から私の好きな〔男〕のひとりだった長谷川平蔵を〔まとめ役〕にしたことが、書いていてたのしかった。
 さいわいに望外の好評を得て、あと一年、このシリーズを連載することになったが、この一冊にあつめられた盗賊の物語ばかりでなく、平蔵自身を、もっと押し出してみようか……とも考えている。
『鬼平犯科帳』第1巻刊行時に付された「あとがき」。1968年12月刊。現在は『[決定版]鬼平犯科帳』第1巻、文春文庫、2017の巻末解説に引用掲載)

 このように、あの短篇に出てきた盗賊がこちらの短篇にも出てきて、その間に時代の流れを感じさせる──といった主旨の連作として始まったわけである。そして次第に一部の盗賊が平蔵の人柄を慕って部下につく。いわゆる密偵、〔いぬ〕だが、小房の粂八をはじめ、そうした人物が増えてファミリーが形成されてゆく。

 作者の当初の目論見は、池波正太郎編『鬼平犯科帳の世界』(文春文庫)巻末の「作品リスト」を見て「なるほど」と膝を打ち、納得した。《鬼平犯科帳》シリーズは、単行本版と文庫版で巻立てが異なる。『鬼平犯科帳』は、当初1年連載で終わる予定だった。単行本版では昭和42年12月号の第1話から、ちょうど1年である昭和43年(1968)11月号までの12話分が収められていた。この12話はひとつの大きな物語を形づくっており、鬼平はさまざまな悪人を捕まえるが、実はそれらの総元締めは大盗「くちなわの平十郎」だということになっている。その平十郎を捕らえるのが第9話「蛇の目」で、いわばシーズン1のクライマックスに当たる。次の第10話「谷中・いろは茶屋」で同心・木村忠吾のユーモラスな一面を紹介したり、第11話「女掏摸お富」で深い人情譚を描いたりした後、締めとなるはずだった第12話「妖盗葵小僧」で、平十郎以上の大盗人「葵小僧」が現れた、さあ鬼の平蔵はどう立ち向かうか──と話が盛り上がってゆくのである。この「妖盗葵小僧」は中編といってよい長さの力作だ。文庫版初読時には気づかなかったが、池波は1年で収まる全体構想を、たとえ漠然とであったかもしれないにせよ持っていたのだと改めてわかる。
 そして後で知ったのだが、実は『鬼平犯科帳』の連載以前にも、長谷川平蔵は池波の小説に登場していた。それが短編集『にっぽん怪盗伝』の冒頭に収められた2話、「江戸盗賊伝」(初出1964)と「白波看板」(初出1965)だ。読んで驚いたのだが、前者は「葵小僧」の話であり、後者は「くちなわの平十郎」の話なのである。そして何と「白波看板」では、最後に長谷川平蔵の死が明確な日付とともに記される。
『にっぽん怪盗伝』の「あとがき」にはこうある。

 この一冊におさめた短篇は、いずれも、私の悪漢ピカレスク小説というべきものだ。

 なるほど、作者の池波正太郎は連載の『鬼平犯科帳』を始める前、手応えを摑もうとしてまず単発で「江戸盗賊伝」「白波看板」を書き、それらは池波の心のなかでは「悪漢小説」の位置づけだったのだ。そして構想が膨らんでいったのだろう。《オール讀物》連載版の『鬼平犯科帳』は、確かにこれら2作の書きぶりを受け継いで始まっている。長谷川平蔵はほとんど作品中で姿を見せず、あくまで主役は毎回登場する盗賊たちだ。彼ら盗賊の生きざまが本筋であり、平蔵はその決着をつける役目に過ぎない。
 さらに池波は『にっぽん怪盗伝』の「あとがき」でこう書いている。

 私が、これら悪漢たちに興をおぼえるようになったのは、おそらく幼少のころから見なれ親しんできた歌舞伎の舞台からの影響があったからだろうとおもう。
 歌舞伎の狂言には、いわゆる〔白波もの〕をはじめとして、さまざまな悪漢が登場してくる。(後略)

 自分の悪党小説の原点は歌舞伎にある、といっているのである。「白波」とは盗賊のことであり、つまり「白波もの」とは『鼠小僧』とか『白浪五人男』などのことだ。池波にはこのような素地がまずあり、そこへフランスのフィルム・ノワールの傑作群を観た豊かな体験などが自然と取り込まれて、池波正太郎の一連の盗賊小説が生まれていったのだろう、と今回初めて腑に落ちた。
 悪漢小説から始まった、という点で、『鬼平犯科帳』はメグレシリーズと大きく異なる。メグレシリーズはピカレスクものではない。ただ、主役であるメグレは、つねに罪人の心と同化し、理解しようと努める。その過程を経ることで罪人たちの宿命が浮かび上がってくる。結果的に読者は犯人側にも共感を寄せ、メグレを通して犯人と一体化する。このような経過があるので、『鬼平犯科帳』はメグレものと似ている、と思われやすいのだろう。
 そして中村吉右衛門が演じたドラマ版『鬼平犯科帳』は、池波の原作よりも長谷川平蔵にしっかり主役としての焦点を当て、また原作にあった連作の趣を消して基本的に1話完結方式を採った。当初の宿敵「くちなわの平十郎」も1回しか出てこない。一方、密偵たちはレギュラーとして毎回のように登場させた。このように綿密に計算されたアダプテーションは見事な効果を上げ、吉右衛門版『鬼平犯科帳』はまさに日本の至宝とさえ思えるほどの名作ドラマとなった。よってこんにち人々が鬼平とメグレの類似性を語るとき、それは吉右衛門版ドラマのイメージに依拠しているのだと断言して構わないだろう。

■「人は善いこともすれば悪いこともする」──鬼平と池波正太郎の人間観■

 池波は歌舞伎役者の初代松本白鸚はくおう[八代目松本幸四郎]を思い描きながら鬼平を執筆したという。そのため1969年から放送された初のTVドラマ版は、この松本白鸚が長谷川平蔵を演じた。その後、丹波哲郎、萬屋錦之介も平蔵を演じたが(以上、いずれも未見)、現代まで至る人気を決定づけたのは、何といっても松本白鸚の次男、二代目中村吉右衛門が平蔵を演じたドラマ版だった。
 9シーズン全138話(1989〜2001)、映画1作(1995)、その後年1作程度のペースでスペシャル全12話(最後のTHE FINALは前後編)(2005〜2016)が製作された(つまり全部合わせるとドラマ版は全150話になる)。私はいまのところシーズン2の途中までと、映画版、そしてスペシャル版全12話を観ただけだが、複数の原作短編をつぎはぎして一貫性を見失った映画版がやや微妙だったのを除けば、ドラマ版は本当に面白い。たぶん多くのファンが言葉には出さずとも心のなかで思っているだろうが、はっきりいって池波正太郎の原作小説よりもよくできている。
 私はこのドラマ版をCSチャンネルで観始めてから、池波の原作に初めて手をつけた。そこで驚愕したことがある。多くのドラマ視聴者も同じ体験をしたことと思う。
 春日太一『ドラマ「鬼平犯科帳」ができるまで』(文春文庫)には、まさに私を見舞った驚愕が、著者の春日氏にもあったことを伝える一文がある。

 筆者を痺れさせてくれた、テレビ版のあの名台詞たちが原作には書かれていない……。

 そうなのである。ドラマ版を観て、「ああ、これはいい台詞だなあ。きっと原作にも書かれているのだろう」と思った台詞の悉くが、池波の原作小説には存在しない! これにはさすがに吃驚させられた。つまり名台詞の数々は、ドラマの脚本家チームが生み出したものだったのだ。
 よって、シムノンと『鬼平犯科帳』を比較するとき、充分に注意しなければならないのはここである。「両者は似ている」というとき、その発言主はひょっとしたら原作者の池波正太郎でさえ書いていなかった、ドラマ版独自の鬼平を想起している可能性があるからである。
 先に述べたように、ドラマ版では主役の中村吉右衛門を多く見せるため、全般的に平蔵の出番を増やす脚本構成が採られている。だがそれでも原作の短編1作では46分のドラマ1話分にやや足りないらしく、各々の脚本家が知恵を出してさまざまなオリジナルシーンを加えている。そのため同じ物語でも池波の原作小説とドラマ版ではかなり印象が異なることが多い。
 ただ、この吉右衛門版を観ていると、ドラマとは多くの才能が集まってうまく相乗効果が生まれたとき傑作になるのだとしみじみと感じる。このドラマは京都で撮影された。春日太一氏による先の解説本に拠ると、それまで《必殺》シリーズを手がけてきたスタッフ陣が、《必殺》シリーズ終了後に相当の意欲を持って取り組んだ作品だったらしい。ただし監督たちは東京から来た人たちで、ここで絶妙な相互作用が生まれたのだろう。
 ドラマを観ていてまず感心するのは、その自然描写の美しさ、風景の広々とした開放感だ。撮影場所が京都だったから、すぐロケに出向けたのだという。こうした地の利を存分に使って、贅沢な画面ができている。そして随所に出てくる川の描写もいい。舟で川を行き来し、ときには船宿に着けることもある。江戸はかつて川の都市だったが、東京ではこうした川の撮影が難しいのだそうだ。やはり京都の撮影だから川が物語のなかで映えるのである。こうした風景のひとつひとつが素晴らしい。エンディングでは江戸の四季折々の風景が映し出され、ここはシーズン1から27年間、基本的にずっと変わらなかったのだが、いま観てもまったく古びておらず、このドラマの普遍性を象徴している。毎回、物語が終わって、ジプシー・キングスの「インスピレイション」が流れ始め、このエンディング映像になると、心が洗われるような気持ちになる。このエンディングを編集した人は真の天才だと思う。
 それだけではない。津島利章の音楽もキャッチーで素晴らしい。またレギュラー俳優が揃ってはまり役だ。同心の「うさぎ」と呼ばれる木村忠吾役の尾美としのり、「猫殿」と呼ばれて調理担当でもある村松忠之進役の沼田爆は、よいコミックリリーフとなっている。ミュージカルを観劇に行くと、道化役がよいと観客も乗ってくる。彼らがカーテンコールで登場するとひときわ大きな、温かな拍手が上がる。それと同じだ。同心・酒井祐助役がシリーズ序盤でぶれるのが惜しい。篠田三郎、勝野洋、どちらもよい(シーズン2の柴俊夫だけややミスキャスト感あり)。密偵役はみな名優だ。相模の彦十役の三代目江戸屋猫八と長門裕之、伊三次役の三浦浩一、小房の粂八役の蟹江敬三、おまさ役の梶芽衣子、大滝の五郎蔵役の綿引勝彦、これだけサブキャラクターが出てくるのに、一度観たらもう個々の役柄や個性を迷うことがない。一方、平蔵の旧友である剣士・岸井左馬之助役の江守徹は、あの笑窪を含めどこまで行っても江守徹で、それがかえって清々しい。そして平蔵の妻、久栄役の多岐川裕美は、初期のころ本当に美人だが、どうしてもスペシャル版まで至って高齢化していったことだけが、ファンにとっては名残惜しかったところだろうか。
 平蔵はよく《五鉄》という軍鶏鍋の料理店の2階に足を運ぶ。ここが密偵たちとの繋ぎ場でもあるのだ。ドラマ版では最初から定番の舞台として出てくるが、池波の原作はそうではない。このあたりもドラマの製作陣がうまく設定したものだと感心する。平蔵の役宅で「猫殿」が活躍するのと同じく、自然と料理の描写も増えるわけである。京都での撮影だがドラマにあたっては東京から料理人を招いてつくってもらったと春日氏の解説本には記されている。
 どうしていつも盗賊が押し入る大店の向かいに、都合よく張り込みができる宿屋があるのだろう、とか、密偵たちはこんなに平蔵と頻繁に会っていて、他の盗賊仲間に気取られないのだろうか、といった素朴な疑問は、視聴し始めたごく初期のころに湧いてくるが、しばらくすると気にならなくなる。春日氏の解説本を読むと、「なるほど、ここまで考えてつくっていたのか」と膝を打つインタビュー内容も多々あって興味深い。京都のスタッフはとくに、直前まで撮っていた『必殺仕事人』との違いを出そうと意識したらしい。『必殺仕事人』では極端な照明効果やアップ、現代的な演出がなされていたので、『鬼平犯科帳』では対照的に、王道の時代劇らしく撮りたいとの想いが共有されたようだ。
 ドラマ版の長谷川平蔵は、いわば与力や同心たちにとって父親のような存在であり、また密偵たちをも優しく包み込む度量の持ち主である。一方で「鬼の平蔵」と呼ばれるくらいだから、罪人を引っ立てて自供させるときの拷問は容赦ない。そしていまでこそ久栄を妻として落ち着いた暮らしをしているが、若いころは「本所のてつ」と呼ばれ、たいそうやんちゃな若侍で、不良を気取っていかがわしい場所にも出入りしていた。そうした時分に培われた人脈や人柄が、密偵を纏め上げる基礎となっている。主演の中村吉右衛門は、40歳を過ぎ原作の平蔵と同年齢になって、ようやく父の後を継いで鬼平役を務める決心をしたそうだ。この齢になれば鬼の平蔵を演じられるだろうと思ったという。確かにそれは必要だったと観ていて感じる。そして驚くべきことに、それから27年間鬼平を演じ続けたわけだが、レギュラー陣のなかでいちばん歳が変わらないように見えるのである。そして吉右衛門はずっと鬼平ファミリーの父親なのだ。理想の上司像としてしばしば長谷川平蔵の名が挙がるのは、こんなところに理由があると思われる。
 メグレは「ファミリーの父親」という感じではない。元盗人を仲間に引き入れて密偵にする、ということもしない。人柄で人脈を築いてゆくタイプではない。だから鬼平とはずいぶんとキャラクターが違う。
 だが、たとえば『黄色い犬』第5回)のラストに顕著なように、あるいはメグレ前史の第1作『マルセイユ特急』第27回)のラストでもすでに見られたように、不幸になってしまった犠牲者たちの人生をもう一度巻き戻し、やり直す機会を与えようと配慮する。こうした特徴は後年「運命の修繕人」という形容句で一律に語られてしまうようになるのだが、私はこのキャッチフレーズがあまり好きではない。メグレは運命を修繕しているというより、時計の針を巻き戻して、もう一度生きる機会を与えているだけだからである。犯罪の悲劇に巻き込まれたのもひとつの運命なら、それ以前に戻ってもう一度やり直すこともまた彼らにとってひとつの運命であり宿命であるというのが、メグレの考え方だと思うからだ。鬼平は図らずも犯罪に巻き込まれてしまった悲運の人物に、ときに温情を与え、放免することがある。父親として相手を包み込み、赦しているのだ。メグレは父親にはならない。あくまでメグレは夫人にとっての夫に過ぎない。そのスタンスが犯罪捜査のあり方にも表れている気がする。
 原作者の池波正太郎が、鬼平とメグレを比較して感想を述べている対談をひとつだけ見つけた。常盤新平との映画対談だ。

常盤 フランスのホテルに泊まって、ご自分の小説のことは全然お考えにならないんですか。
池波 それは全く考えません。
常盤 鬼平をどうするとか、梅安をどうしようとか。
池波 全然考えない。だから行くんです。
常盤 例えばジャン・ギャバンですとか、外国の役者は先生のお書きになる小説の登場人物と重なり合ったりするんですか。
池波 それはないですね。
常盤 そうですかね。たとえば、鬼平がフランス人だったらジャン・ギャバンじゃないですか、そういうイメージがありますが。
池波 ありません。昔の日本人は、あんな人がいくらでもいましたもの。
常盤 そうですかね。フランス映画に翻案されるとすれば、鬼平はジャン・ギャバンで悪くないんじゃないですか。
池波 ジャン・ギャバンじゃ駄目だ。鬼平はもっといい男じゃなきゃ(笑)。
常盤 じゃ、だれでしょう。
池波 外国人で? 日本人なら、死んだ幸四郎、白鸚さんの鬼平が一番よかった。
常盤 ええ。ジョン・ウェインじゃないですよね。
池波 違いますねえ。しかし、もうちょっといい男だったら、ギャバンかな。
常盤 ローレンス・オリヴィエ……。
池波 オリヴィエは駄目だ。
常盤 梅安だと、ジェームズ・ギャグニーなんか。
池波 梅安なら、ギャグニーかもね。
(「街と映画館が人生の学校だった」初出1983、『最後の映画日記』河出書房新社所収)

 吉右衛門版ドラマとシムノンのメグレシリーズを並べたとき、共通してイメージが立ち上がってくるのは、意外に思われるかもしれないが「川」の存在だ。鬼平のドラマには表情豊かな江戸の川や運河がつねに描かれる。盗人も平蔵も舟で川を行き来して、川辺に舟を着けて船宿に入る。シムノンもまた川や運河を描いた。船の側から見た街の景色を描いたことで両者は共通している。そしてパリ司法警察局は、通称「オルフェーヴル河岸」といわれるように、セーヌ川に面している。
 さらに作家・池波正太郎とジョルジュ・シムノンの共通点を見出すとすれば、どちらも絵と写真を嗜んだことだ。後年の池波はエッセイに自らのスケッチを添えることが多かった。旅行にはクロッキー帳を持ってゆき、また自らカメラを構えて異国の日常風景をフィルムに収めた。シムノンも故郷リエージュでは画家の卵たちのグループに出入りしていたほどで、そのひとりが後に妻ティジーとなるのだから、絵には理解があったろう。シムノン自身が描いた油絵も残っており、展覧会図録などに掲載されているし、著名作家となってからは、他者の画集や写真集に序文を寄せることもあった。また以前に紹介した通り、一時期シムノンは写真にとても凝っていて、自らの写真を自著の表紙に使ったこともあった。
 どちらも芸術的観点から見てどれほど優れた作品なのかわからないが、それでもファンにとってこれらの絵や写真は、いつになっても嬉しい著者からの贈りものだ。ふたりにはどちらも絵心があった。このことは鬼平とメグレを並べて語る上で意外と重要なことだと思える。

 ただひとつ、池波とシムノンの間には大きな違いがあった。それはひと言でいえば、人間観である。
 池波はかつて師匠の長谷川伸から「人間とは善いこともすれば悪いこともするものだ」という主旨の言葉を聞いたらしく、ずっと胸に残っていたようだ。これが『鬼平犯科帳』を始め池波作品に通底するテーマ、人間観であり、類似の感慨は作品中で複数回語られる(『鬼平』だけでなく、たとえば《仕掛人・藤枝梅安》『殺しの四人』の「あとがき」でも語られる)。だから『鬼平』に出てくる盗賊は善いこともするし、悪いこともする。ある者は人に嫌われるようなことをしながら、いつも人に好かれたいと思っている。そうした人間という生きものの本質を充分に見た上で、平蔵は判断を下すのである。

 すると平蔵が、若い忠吾の胸の底へしみ入るような微笑を浮かべ、
「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
 ぽかん(傍点)と口をあけて、木村忠吾が平蔵を見た。
 いま、畏敬する御頭がいった言葉と同じようなことを、
(あの、川越の旦那とかいう親切な男も、お松にいっていたっけ……)
 と、忠吾は思いおこしたのである。(文庫第2巻「谷中・いろは茶屋」)

 実はこの「川越の旦那」、茶屋の女「お松」のもとへ通う兇賊「墓火の秀五郎」である。忠吾もお松会いたさに茶屋へ通っていた。
 平蔵は「墓火の秀五郎」と会ったことがないのに、ふたりは同じことを忠吾にいう。ここに奥深さがある。そして平蔵は最後に忠吾にいう。

「お松とかに会いたいか?」
「いえ……いまはもう、別に」
「おまえは大人になったのだよ」(同)

「人間という生きものは善いこともすれば悪いこともする」──この感慨はドラマスペシャル版「THE FINAL後編 雲竜剣」のラスト近くでも、長谷川平蔵自身の口によって呟かれる。そしてシリーズ大団円を祝うかのように、ラストでは主要キャストが勢揃いし、平蔵も酒を酌み交わして笑顔を見せるが、蟹江敬三の演じた小房の粂八の姿がなかったことだけがやはり寂しかった。蟹江敬三はシーズン1からずっとレギュラーだったが、スペシャル版「THE FINAL」の前年に惜しくも亡くなったのである。私は子供のころから蟹江敬三という役者がふしぎと大好きだったので、最後のシーンでは粂八もそこらで笑っているんじゃないかという気がして、たんなる一視聴者なのにちょっと目頭が熱くなった。
 池波は、実をいうと『鬼平』を演じる前の吉右衛門に一度だめ出しをしている。1987年、池波は吉右衛門が大石内蔵助を演じた歌舞伎を観て、

(前略)セリフの半分はきこえず、演技のクライマックスになると突然、大声を張りあげる。近ごろ、吉右衛門の歌舞伎狂言以外のセリフまわしにも、私は疑問をおぼえる。孝夫:旧名・片岡孝夫、一五代目片岡仁左衛門]も長いセリフに気を急かれて早口になり、またはリアルに演技しようとしてセリフがきこえなくなる。
 私が観た昼ノ部で、一言一句のすべてが、自分の耳へとどいたのは中村富十郎[五代目]ひとりだった。
(小エッセイ「元禄忠臣蔵」初出1987、『ル・パスタン』文春文庫所収)

 と苦言を呈していた。しかし2年後、吉右衛門は池波自身からのたっての願いを受け、父を継いで鬼平を演じることとなる。池波は1990年に亡くなったが、2016年にドラマを大団円で終えたときは、作者・池波正太郎に見せて恥ずかしくない長谷川平蔵を演じ切ることができたと、きっと感じたことだろう。

■エンパシーの物語■

 シムノンに上記のような人間観はなかった。彼はもっと冷徹に人間を見ていた。あまりにも他者の心がわかりすぎて、いわゆる人情だけで人間関係を収めるにはおそらく脳が許さなかった。達観を通り越すほど情動が冴えすぎていた。
 だからシムノンは後年、「裸の人間」という言葉を用いておのれの理想の人間像を語るようになる。どんな虚飾も身に纏わない人間、ある意味それは文明からも干渉されずに生きている人間であり、アフリカや南太平洋を旅行して培った人間観が込められている。だからシムノンはしばしば作品中で、文明に塗れた登場人物を突き放す一方、モンマルトルに暮らす娼婦には無条件で温かな眼差しを向ける。
 それでも、池波正太郎とジョルジュ・シムノンの作品がしばしば「似ている」といわれるのは、どちらも人間のエンパシーが描き込まれているからだろう。エンパシーの能力は、ある程度成長しないと身につかない。先に示した「おまえは大人になったのだよ」という平蔵の言葉は、そのままシムノンのメグレものにも当て嵌まる。

 私には「大人」という言葉で思い出す作品がもうひとつある。山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズだ。いまBSテレ東でシリーズを第1作から順に毎週放送しており、私はそれを楽しく観ている。実は前年にも既存49作を毎週放送したので、今年は50作目の公開を挟んで2周目だ。
 この放送ではほぼ毎回、映画の始まる前に俳優の北山雅康(三平ちゃん)がナビゲーターを務める「寅さんと50年」というミニコーナーがある。多彩な人にインタビューし、《寅さん》シリーズの魅力をさまざまな角度から再発見してゆくという主旨で、元・山田組チーフ助監督の阿部つとむ氏がつくっている。そのなかで歌人の俵万智氏に寅さんに関する新作の歌を詠んでもらい、それを山田監督自身に見せて感想を聞く、という展開がある(収録は第50作公開前の2019年7月)。

自己責任、非正規雇用、生産性 寅さんだったら何て言うかな 俵万智

 この場面は昨年も観ていたのだが、新型コロナウイルスが世界的なパンデミックとなり、その影響で日本でも経済や人々の心に大きな影を落としているいま改めて観て、昨年とはまったく違う感慨を覚え、一字一句が胸に沁みた。
 ウイルス感染者は自己責任だとの批判の声は絶えない。いまも2009年新型インフルエンザ・パンデミック時とまったく変わらず感染者への中傷行為は繰り返されている。自粛要請によって真っ先に仕事を失ったのは非正規雇用者だろう。そして生産性を追求し続けた結果が、グローバル化の歪みを促した。
 すべての問題は、すでに《寅さん》のなかに描かれていた。それなのに私たちは社会をよくすることができなかった。
 映画『男はつらいよ』シリーズは、ひと言でいえば「気遣い」のコメディである。「ぼくたちは義兄さんに気を遣っているんだよ」と博が劇中で何度もいう。「お兄ちゃん、そんないい方ってあんまりよ」と義妹のさくらはいう。《とらや》の人たちはいつも他人のことを考えている。「いまごろお兄ちゃん、どうしているかしら」「あのバカ、きっと○○だよ」そんな話をしているちょうどそのとき、いつも寅さんはふらりと帰ってくる。そしてみんなの話を聞いてしまう。《寅さん》シリーズの基本はそんな定番のシチュエーションコントの繰り返しであるが、回を重ねるごとに少しずつ山田洋次監督はギャグの展開を変えてゆく。だから「今回はこう来たか」と、馴染みの観客は大笑いする。
 気遣いとはすなわち思いやり、エンパシーである。「自分とは異なる他者は、いまこんなふうに思っているだろう」という推測があり、「ではその人のために何をしてあげられるだろうか」と具体的な行動を考える。《寅さん》シリーズではその互いのエンパシーが諸々の経緯で噛み合わなくなってしまうことで笑いを生み出しているのだが、「人間という生きものは他者の心を推測し、その人のためになることをするのだ」というエンパシー能力が理解できなければ、《寅さん》シリーズは面白くない。
 こんな人生の光景を思い浮かべたことはないだろうか。ある人は子供のころから親が観るのでいつも何となく『男はつらいよ』を観ていたが、何作目かのあるとき親に「面白かった」と感想をいったら、「それはおまえが大人になったってことだよ」としみじみといわれた。そのときのことが忘れられない──。
 年齢的には大人の領域に達しても、このエンパシーがよくわからないという人はいる。自己愛と確証バイアスによる歪んだ正義感に囚われてしまう人たちもその一部だろう。
 シムノンのメグレ、池波正太郎の原作とそのドラマ『鬼平犯科帳』、そして山田洋次監督の《寅さん》は、どれもかたちは変われどエンパシーを描いている。
 この三者の共通点を、もうひとつ指摘しておこう。どれも第1作から順に接するのがいちばんよい。それぞれ理由は少しずつ違う。シムノンのメグレは、作者の成長をともに体験できる。池波の『鬼平犯科帳』は個々の話が繋がって、大きなファミリーサーガを生み出している。1話完結方式のドラマ版でも、役者たちと年輪をともにする楽しみと喜びがある。そして《寅さん》は1作目から順に観ると、繰り返しのシチュエーションギャグがとてもよくわかる。散発的に観たのでは気づかない面白さがあちこちにちりばめられている。

 最後にもうひとつ、書き添えておく。私はドラマ『アンサング・シンデレラ』をさらに観てみた。それまで息子の気持ちのしこりもあって末期がんであることを知らされていなかった患者の伊武雅刀は、次の第5話で告知を受ける。彼は緩和ケアを望み、そして仲直りをした息子やその娘といっしょに、「やりたいことリスト」を列記する。TVの画面を観ていて「あっ」と思った。そのなかに「鬼平犯科帳を全巻読む」とあったからである。
 伊武雅刀は家族や周りの人々に支えられ、ひとつずつ「やりたいこと」を実現し、そしてやがて息を引き取る。ドラマでは毎回、エンドクレジットで患者とその家族らの未来が描かれる。私はずっと気になっていた。伊武雅刀は『鬼平』をちゃんと最後まで読めたのだろうか? 
 ラストシーンで「やりたいことリスト」のボードが画面の隅に映った。「鬼平犯科帳を全巻読む」の部分には、しっかりと丸印がつけられていた。

「メグレなんて、入院して他に何もすることがなくなったときに読むものだ」と主張するミステリー作家も存在する。だが「やりたいことリスト」に「メグレを全作読む」と書く人生もまた、よいものなのではないだろうか。
 これからも本連載は続けたい。現時点で書籍化の予定はない。自費出版かオリジナル電子書籍で3分冊ならばどうか、と思った時期もあったが、いまはない。すでにあまりに長大なので、たとえ終わっても書籍には収まらないだろう。
 だが、それでもよいではないか、と思っている。よいではないか──眉村卓さんが小説のなかでよく使った言葉だ。本連載を受け入れてくださるシンジケート事務局の皆様に、心から感謝を申し上げる。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
「パンデミックと総合知」をテーマに、総合大学の果たすべき役割を母校・東北大学の研究者に聞くインタビュー連載が開始。記事構成は翻訳家・サイエンスライターの渡辺政隆氏(https://web.tohoku.ac.jp/covid19-r/)。




 
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