今回は、奇しくも、ある家庭に訳あって入っていく女性の話が三つ並んだ。彼女たちは、家庭に幸福をもたらすメアリー・ポピンズなのか、崩壊をもたらす「銀仮面」なのか、それとも何か別の存在なのか。彼女たちの役回りを考えてみるのも一興だ。
■ルイザ・メイ・オルコット『仮面の陰に』
あの『若草物語』のオルコットが書いたスリラー小説というと、そんなものがあるのかと思う人が多いだろうが、筆者もそのクチ。オルコットは『若草物語』(1868)で成功する以前、A・M・バーナードという男性を思わせる名義で数作の扇情小説を書いていて、それが発見されたのは、20世紀も半ばになってからという。英国のセンセーションノベルに対抗するように、米国にも「扇情小説」(センセーショナル・ストーリーズ)というジャンルがあることも初めて知った。
『仮面の陰に』(1866) は、現代のスリラーといわれるジャンルのもとのと感触は異なるが、「悪」の存在が魅力的で、「善」の側と拮抗するサスペンス豊かな小説だ。
舞台は英国で、この小説の主役は、貴族の家系コヴェントリー家に現われた、質朴な感じの
彼女の一仕事とは、恋愛を仕掛けて、妻の座と財産を得ること。
コヴェントリー家は、彼女の獲物には、事欠かなかった。若き当主ジェラルド、次男のエドワード、さらには、隣家には彼らの叔父に当たる50代の独身の貴族サー・ジョン。
この後、悪女ミス・ミュアの手練手管が繰り広げられるのだが、本書を単純な悪女譚にとどめないシーンが冒頭にある。
手違いで迎えもなくコヴェントリー家にやってきたミス・ミュアは、家族のリクエストに応え、ピアノで歌を歌っている最中に、失神する。朝から何も食べていないと同情を集めた彼女に対し、長男ジェラルドは、「第一場、成功裡に終わる、と」と従妹のルシアにつぶやく。彼は、早くも彼女の態度に疑惑を抱いているのだ。この言葉を聴いたミス・ミュアは、不思議な笑みを浮かべ、「恐れ入ります。最後の場面はもっとよくなりますわよ」と答える。火花がバチバチと散るシーンだ。
気性の荒い馬を手なずけるミス・ミュアの様子を見て、次男エドワードはあっさり陥落。ジェラルドはエドワードの身を案じ彼を軍役につかせ、引き離しを図るが、今度は、彼女の正体に疑惑を抱いていたジェラルド自身がミス・ミュアの仕掛けた恋の魔法にかかってしまう。このくだりは、冒頭にミス・ミュアが悪女であることが示されているがゆえ、善悪の攻防めいたサスペンスを醸し出す。これ以降、ミス・ミュアにも過去が暴かれそうになるという危機が訪れ、彼女は逆転の賭けに出る。
本書が扇情小説のジャンルにはいるのは、この時代における規範を超えた強烈な悪女像を描いているからなのだろうが、動機において不純なだけで、彼女はなんら犯罪を犯すわけではない。むしろ、賢く、人心を読む術に長け、化粧術に優れ、各国語に堪能、歌とピアノが絶品で、看護の能力ももっているスーパーウーマン的存在である。この小説の副題は「あるいは女の力」だが、女の力による男性支配、階級支配の社会の粉砕を作者自身楽しんでいる気配すらないではない。
本書の年譜や訳者解題によれば、オルコットは、『若草物語』について、「こういう作品は楽しくない」と日記に綴り、「ぞっとするスタイル」に心を駆り立てられると話していたともいう。匿名で扇情小説に手を出したのは、主に金銭的理由からだったのだろうが、こちら側が彼女にとっての「仮面」だったとは、必ずしもいえないようだ。
■ダフネ・デュ・モーリア『
『
本書は、主人公や周辺人物の設定、物語の興趣、舞台の魅力が三位一体となった香り豊かで格調あるロマン。
時代は、書かれた年代より百年以上前の1815年前後に設定されている。本書のヒロイン、メアリー・イエランは、23歳、母親を病でなくし、叔母ペイシェンスのところに身を寄せることになる。彼女が向かったのは、英国の南西部コーンウォールの
いわゆる「好奇心は猫をも殺す」になりかねない話で、彼女の行動で、知らなければ良かったという類の大掛かりの悪事が露見してゆく。彼女の周囲は、ジョスをはじめ荒くれ者ばかりで、ひりひりする展開だが、メアリーは持ち前の気丈さで難局を乗り切っていく。女性を主人公としたスティーヴンスン的冒険小説ともいえる作品だが、ロマンス要素も強くある。
冒頭以降、陰鬱な場面が続くが、メアリーが惹かれた男と訪れる近隣の町でのクリスマス・イヴの高揚感あふれる情景には、ほっとさせられる。このあと、クリスマスの日の海岸での大スペクタクルと予測できない展開が続くのだから、作者の緩急のつけ方が心憎い。
本書の強みは、作者が愛したコーンウォールの風景描写で、「生垣も牧場もない痩せた土地、岩と黒いヒースと発育不良のエニシダの国」「沼と花崗岩、硬いヒースとくずれゆく巨石」という人間の手に余るような原野の荒々しさが描かれる一方で、「その空気にはメアリーに挑みかかり、冒険へと駆り立てる何かがあった」と荒野がもつ別な表情も詩情豊かに描いて見せる。
物語の終盤には、もう一段の奥があり、予想もしなかった「悪」が顔をみせるのは、数々の短篇で人間の狂気も描いたデュ・モーリアの面目躍如。そのきっかけとなるシーンは怖気をふるいたくなるほど見事で、物語のステージが一段上がったことを感得させられる。この後披露される、キリスト教以前の太古の異教の神秘と交感するような悪の哲学には、単なる冒険小説と割り切れない凄味がある。
メアリーは美しい容貌の持主だが、農民の娘として生まれ、男と同じように働く。彼女の夢は農場主となって、男の仕事をすること。野蛮人のようなジョスと結婚した叔母について「女とはなぜ、そんなにも愚かで、刹那的で、浅はかなのだろう?」と疑問をもつ。ジョスには「男のまねをしなければ気がすまない」といわれる娘。一方で、愛の法則は「似た者同士がお互いに惹かれあう」こと。これは理性による選択でないこともよく理解している。本書は、ヒロインが男性原理と女性原理を行き来する複合的な要素をもつ冒険小説であり、ロマンスであるともいえよう。
ヒッチコック監督による本作の映画化『巌窟の野獣』は、渡米前の最後の英国映画で、本書の舞台や主要な人物設定は踏襲しているものの、あっけにとられるほど内容は大幅に改変されている。主人公はこれが初主演作となるモーリン・オハラ。海のシーンの迫力、悪党どもの造型とともに、チャールズ・ロートンが演じた治安判事の不敵さが強い印象を残す。
■メアリー・ロバーツ・ラインハート『ローランド屋敷の秘密』
昨年、この欄で、「ここまできたらヒルダ・アダムス物の最後の作品も邦訳してほしいところだが、中編ゆえに紹介は難しいだろうか」と書いた。その中編がなんと翻訳されてしまった。本書は、看護婦探偵ミス・ピンカートンことヒルダ・アダムス最後の事件だ。
2019年7月の『ミス・ピンカートン』の刊行以降、論創海外ミステリの2冊を間に挟んで、たった1年半でこのシリーズがすべて紹介されるとは、誰が想像しただろう。原書の刊行順にシリーズを並べてみると、次のようになる。
『ミス・ピンカートン』(1932) (ヒラヤマ探偵文庫) https://honyakumystery.jp/12213
『憑りつかれた老婦人』(『おびえる女』)(1942) (論創海外ミステリ) https://honyakumystery.jp/14203
『ローランド屋敷の秘密』(1943) (ヒラヤマ探偵文庫) 本書
警察の意を受けて、犯罪捜査 (あるいは犯罪阻止) のために、屋敷に潜入する看護婦ヒルダは、潜入看護婦の名にふさわしいが、実は、好奇心でやっているアマチュア探偵。彼女は、刊行年が下るに連れ、歳をとり、前作『憑りつかれた老婦人』では、年齢は38歳とされ、髪は白髪になりかけていると描写されていたが、本作ではさらに歳をとり、子どもっぽい青い瞳は変わらないものの、白髪交じりの短髪で、心臓に不整脈を抱えている。本書の刊行時は、太平洋戦争のさなか。冒頭ヒルダは、戦争への従軍を求めるが、不整脈を理由に却下される。
それを喜んだのは、殺人課のフラー警部補。「田舎に行って養鶏でもやる」と渋るヒルダになんとか興味を抱かせ、お屋敷に潜入させることに成功させる(前作までのパットン警視の役割がフラー警部補になっているのが不思議だ)。
ヒルダが住み込み看護婦として潜入したローランド屋敷では、不可思議な事件が勃発していた。住んでいるのは、真珠湾攻撃を引き金に疎開してきた母娘と、女主人で夫の妹の女三人の家庭。夫である陸軍大佐は太平洋のどこかで従軍中だ。20歳の娘であるトニーは、理由らしき理由もなく婚約を破棄したばかり。母親の居室で、トニーは夢遊病のさなか発砲事件を起こしたとみられるほか、母親と同乗していた自動車で大事故も起こしている。トニーは二度も母親を殺そうとしたのか。
ヒルダは、トニーの元婚約者と接触をしたり、女主人であるトニーの叔母から情報を得たり、怪しい男に殴られたりするが、トニーの奇行の理由は、見出せない。一方で、事件の謎は広がり、美人すぎるトニーの母親の素行や、ホノルル時代の召使の日本側への内通疑惑までが事件の背景にあるように思われてくる。終幕間近、ついに殺人事件が発生する。ヒルダは、眠りこけていることで犯罪を阻止できず、怒りに震える。ヒルダが最後に見せる振舞いは犯人にとって容赦ないものだ。
ヒルダが自らの力でたどり着いた真相は驚かされるものであり、『ヒルダ・アダムスの事件簿』の二編と共通性も感じられる。トニーの怪行動の意味が腑に落ちることは確かだが、この解決には訳者解説で指摘されるような問題も孕んでいることは忘れてはならないだろう。
最終話といっても、それらしい幕切れがあるわけではない。ついに、続編が書かれることはなかったが、ヒルダは、この後も潜入探偵を続けたことだろう。
■田口俊樹『日々翻訳ざんげ』
副題は、「エンタメ翻訳この四十年」。翻訳学校〈フェローアカデミー〉が運営する会員ウェブサイト「アメリア」に連載されたものに加筆したもの。
本書は、訳書200冊、斯界の大御所であり、当シンジケートの発起人の一人でもある翻訳家が自らの訳書を再読して書いた、回顧談風のコラムだが、これがすこぶる面白い。
最初の翻訳で冷や汗を書いた話、下訳を使っての翻訳に事実無根の噂を流され翻訳家人生最大のピンチに陥った話、ジョン・ル・カレに不明な部分を照会して不興をかった話、ボストン・テラン『神は銃弾』の難解な原文に悪戦苦闘をした話などに触れ、読者は、著者の経験を後追いするように、はらはらすることになる。
本書には多くのくすぐりが盛り込まれ、「名言」が連発されるなど、軽妙な筆致で書かれ、微苦笑しながら読める本だが、もちろんエンタテインメント翻訳をめざす人への翻訳指南的な側面もある。
どんな訳をめざすべきか(「まずは自分が感じたことを正確に伝えられる訳文をめざすこと」) 。翻訳文に「和臭」(和風) を避ける傾向にどう向き合うか。翻訳者と編集者の仕事の分担の線引きをどこに求めるか。原文の現在形をどこまで訳すか。明確な答えが出ないこともあるし、考えが変遷することもあるが、翻訳家とは、日々考える人でもあるのだ。
最終三回分では、レイモンド・チャンドラーの名作短編「待っている」に関する大発見について書かれている。既に旧訳が4種あったこの小説について、肝になる部分で、「AがBを殺した」というところを「BがAを殺した」という風に訳されていたというのである(『短編ミステリの二百年2』の解説でも編者の小森収氏が田口訳に触れている)。この発見を巡っては、いくつものドラマがある。
特に、この短編を訳した後に、斯界の先輩で故人の小鷹信光氏に、「たまにはここまで真面目に仕事をするのもいいでしょう?」といわれたという話。この言葉、普段の仕事ぶりの批判・叱責と受け取ってもおかしくないはずなのだが、既にヴェテランの域に入っていた著者が「涙が出るほど嬉しかった」「なにやら心が浄化されたような気分にさえなっていた」と書いているのは、歳の離れた剣聖同士のエピソードでも読むような趣がある。ここに、ジム・トンプスン訳者であった友人で故人の三川基好氏との交情やマイクル・Z・リューイン示唆が絡んで、情感豊かだ。
原書で読める人以外は、翻訳という媒介を通すことで海外の作品に触れるしかないが、ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で提示される著者自身も含む八つの訳文の比較と考察などを読むと、翻訳者という精読家の媒介があるからこそ、海外の小説はなお面白い、という気にさえなってくる。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |