■ジェイムズ・M・ケイン『ミルドレッド・ピアース』


 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などのクライム・ノベルで、ハメットを始祖とするハードボイドと並んで、アメリカン・ノワールの基礎を築いたともいえるジェイムズ・M・ケインの未訳作『ミルドレッド・ピアース』(1941) の本邦初公開である。
 小説よりも、むしろ映画版のほうが有名かもしれない。映画『ミルドレッド・ピアース』(1945)は、美人女優としては、盛りのすぎたジョーン・クロフォードが主人公のシングル・マザーを演じ、アカデミー賞主演女優賞を射止めている。かつて、G・ジャーキンス『あの夏、エデンロードで』というミステリを読んでいたら、周囲に離婚経験者をもたない母親が、離婚のことを考えるときの参照項にしていたのが、この映画だった。それだけ、戦後の米国の大衆の心に根付いている映画なのだろう。
 多少は、クライムフィクション風の色付けがなされている映画とは異なり、犯罪の要素は皆無とはいえないまでも、主眼がそこにある小説ではない。
 1931年カリフォルニア州グレンデール。主人公は、二人の娘をもつ母親ミルドレッド・ピアース。小説は、三人称でヒロインの視点から物語られる。不動産開発業で財をなした夫バートは大恐慌下で今は無為無職、安っぽい、胸の大きい女のところに入り浸っている。
 小説は、ミルドレッドがバートを家から追い出すところから始まる。高校を中退しバートと結婚、職業経験をもたない普通の主婦、11歳と7歳の娘を抱えたミルドレッドは、職探しに奔走するが、ときは大恐慌下、店舗の販売員のような仕事すらない。ウェイトレスのような仕事は、ミルドレッドの内なる階級意識が拒否反応を示す。職探しでたどりついた職業斡旋所の女所長ミス・ターナーの言葉は圧巻である。
 ご覧、ほんとの幹部職、監査職、何らかの管理職だった人が引き出しいっぱい。皆家でわたしの連絡を待っている。でも連絡できない。何もしらせがないから。あんたにはチャンスはない。

 職探しの帰り道、飢え、疲れたミルドレッドが入ったのは、ロードサイドのレストラン。ウェイトレス同士の喧嘩があり、それに乗じてようやくウェイトレスの仕事を得る。ここから、ミルドレッドの運気は上昇していく。仕事に習熟し、得意のパイづくりの腕を生かして、レストランで自作のパイの販売にも成功する。
 気位の高い上の娘にウェイトレスの制服を見つけられたミルドレッドは、将来、レストランを経営するための勉強のためと口走ってしまうが、思わず口から出た言葉がミルドレッドの次の目標となる。
 没後に発見された『カクテル・ウェイトレス』に若干筋が似ている。シングルマザーの「細腕繁盛記」(古いね) 的なサクセス・ストーリーが本書の一方の柱をなす。誰しもサクセス・ストーリーは好きだろうが、パイづくりの腕と美脚だけを武器に、平凡な主婦が周囲の人々を味方にし、数々の困難を経ながら、レストラン経営者として成功していくストーリーには、惹きつけられずにいられないだろう。ミルドレッドは、寝ずに働く一方で、娘たちに愛情を注ぎ、男性との性愛も諦めない活力に溢れる女性だ。しかし、「女だって完璧ってわけじゃない」(ミルドレッドの冒頭の台詞) 。ミルドレッドの成功物語を小説の光の部分とすれば、影の部分は、上の娘ヴィーダとミルドレッドの葛藤だ。
 ミルドレッドは、自ら経営するレストランのオープンの直前、解放感も手伝って、食堂で知り合った見知らぬ客モンティと湖までドライヴをし、彼の別荘で素晴らしい一夜を過ごす。しかし、帰宅すると、次女レイが突然の病気と判明し、ついに娘を失ってしまう。葬儀を終え、上の娘と寝たミルドレッドを描く描写がおそらく本書の最もノワールな瞬間だ。

「熱い稲妻がふたたび閃き、目も眩むような白熱の悲しみを焚きつけた。そうして激しく震えて泣きじゃくりながら、ずっと退けてきた思いについに屈したのだった――奪われたのはヴィーダではなくもう一方の子どもであったという罪悪感に満ちた歓喜に。」

 物語のはじめから、母親ミルドレッドは、美しく気位の高い娘ヴィーダに対し崇拝に近い感情を抱いている。おそらくは、平凡な自らが本来生きるべきはずだった理想を娘に見出したからだろう。この小説の一方の柱は、娘ヴィーダに注ぐ一方的で過剰な愛情の物語、娘との恋愛小説ともいえるストーリーラインだ。
 母親ミルドレッドは、全情熱を音楽の才能のあるヴィーダに捧げ、ミルドレッドの栄光と悲惨は、悪女ヴィーダによってもたらされる。
 シングルマザーの寄る辺なさと母娘の共依存という現代的なテーマを内包するこの小説は、運命のリフレインに満ちた小説でもある。ミルドレッドの成功と没落は、夫バートの運命をなぞるようであるし、ミルドレッドの愛人となるモンティはバートの立ち位置を踏襲する。ヴィーダのコミックノベル的印象も受ける成功物語は、ミルドレッドのそれを引き継いでいくようだ。成功と挫折があざなえる縄のごとく登場人物にまとわりつき、幾多の人生の諸相が浮き彫りにされる。
 心張り裂けんばかりの裏切りや人心の闇をも描く小説でありながら、本書の読み心地は、意外に爽やかだ。それは、一方に成功物語を擁しているからでもあし、離婚はしても実は最も愛する男バートがつかず離れずミルドレッドの周囲にいるからでも、ミルドレッドの真の自立に向けた展望が描かれているからでもある。
 登場人物は多彩で、脇の人物まで血が通っている。世態人情に長けたアドバイスをする隣人のゲスラー夫人のほか、職業斡旋所のミス・ターナーやヴィーダの音楽の師匠といった一度きりの登場人物まで記憶に残る人物が多い。簡潔で冷徹な筆致の犯罪小説で名を残したケインだが、1930年代カリフォルニアの時代相を背景に、安易な要約をこばむ豊かさをもつ本書は、小説家ケインの実力がいかんなく発揮された小説といえるだろう。

■ジム・トンプスン『漂泊者』


 ジム・トンプスン『漂泊者』(1954) は、自身の幼年時代から少年時代までを描いた自伝小説『バッドボーイ』(1953) の続編。『バッドボーイ』は、破天荒で抱腹のエピソード満載の小説で、最後は、ギャングの裏をかいた密造ウィスキー提供の罪を逃れ、テキサス州フォートワースを母親と妹で脱出するところで終わっていたが、本編は、まさにその続編らしく、その逃走した三人の姿を描くことから始まる。ときは、1929年8月。ジム・トンプスン22歳。
 僥倖からネブラスカ大学農学部の学生になるが(なぜ農学部なのか?にもやむにやまれぬ理由がある) 学業と並行して、トンプスンは、『ミルドレッド・ピアース』と同時代の大恐慌下で、葬儀社やベーカリー、歩合制のラジオ販売、タンスホールのフロアマネージャー販売員、売掛金の回収業と職を転々とする。過酷な職業経験は、トンプスンの小説の母体にもなったはずであり、ベーカリーの経験は、『残酷な夜』の背景にもなったと書いている。
 『バッドボーイ』の数々のエピソードは抱腹と書いたが、『漂泊者』のそれは、いささか凄愴の気を帯びている。
 地獄に片足を突っ込んだような男たちが続々出てくるのには、あきれるほどだ。
 中でも、トンプスンの小説から抜け出てきたような忘れ難いキャラクターが二人いる。
 一人は、ダーキンという男で、トンプスンの務めていた百貨店の信用調査部長だった。ろくに読み書きができなかったが、トンプスンを文章の名手と考えていた。会社に忠誠を誓う男だが、ある事件をきっかけに会社に対し信じ難い報復を図る。
 もう一人は、別の百貨店の監査役フラミッチという男。「わたしが知る道をはずれた変わり者のなかでも、彼の右に出る者はいなかった」三つ言葉を口にすれば、二つは冒涜か卑猥な言葉。それでいて声は五歳児かというような甘く穏やかなファルセット。
「トンプン、あやぐ台帳をもーれきれ、あのぐそばーかの収支をおしえやあれ」という調子で彼は話す(訳者の苦労がしのばれる)。常に泥酔しっぱなしだが、三人分の仕事を的確にこなす。彼もまた、会社を大虚仮にする報復を実行する。
 割賦会社の回収業に再就職したダーキンの下、トンプスンはまた働き始めるが、そこでも過酷な現実にさらされる。「飢え」を口にする債務者から、ダーキンは回収金をむしり取る。ダーキンは、トンプスンの腕をつかまえ、こう言う。「やつかおれたちか。どうすりゃいい?」

 「飢え」は、比喩でもなんでもなく、トンプスンを襲う現実のものだ。大学をあきらめ職探しに転々とするトンプスンは何週間もの野宿を繰り返し、栄養不足でめまいを起こしたり、浮浪者として拘束される。
 そうした辛酸の中でも書くことを諦めなかったトンプスは、ホテルのドアマンのかたわら、貯めた金でタイプライターを買い、雑誌の「実録探偵小説」の分野に進出する。手痛い失敗の後に、オクラホマシティの「作家プロジェクト」の事務所で働く。ここでもエピソードには事欠かないが、四度の辞表を書き、辞職する。
 アルコール中毒、精神衰弱、結核の病歴の果てにトンプスンは35歳、妻と子ども3人を抱えていた。1941年、ニューヨークで降り立った男のポケットには、25セント硬貨一枚きり。2週間以内に長編を一冊渡すという詐欺のような話を出版社にして金を引き出した男の前途は-。
 過酷な現実下のエピソードが多いが、遺体の冷却室でビールを冷やす話、作家プロジェクト時代に先住民と起こした騒動、家族と移り住んだ新居での大災難などのエピソードの幾つかは純粋に楽しめる。
 『バッドボーイ』では、生き延びるための能力とは-簡潔にいえば鋭いユーモア感覚-と言及されていた。半生の小説化に伴う事実の誇大化やミスティフィケーションは、当然想定されるにしても、大恐慌下の職業を転々とする生活は、このユーモア感覚も含め、作家トンプスンの血肉となったはずだ。
 「やつかおれたちか」というダーキンの言葉は、そのままトンプスン小説の倫理観に直結する。逆に、ダーキンやフラミッチといったキャラクターは、トンプスンが書き上げた小説を経由して再構成された人格のようにも思える。単なる回想ではなく、小説家としてのキャリアを積んだからこそ、書き上げられた自伝小説。
 厳しすぎる現実を写し取りながら、ウェットにも思索的にもならず、ひたすら漂泊しながらしぶとく生き続ける自己を対象化し、行動に即して描き出すのは、彼の犯罪小説さながらだ。

■フランク・グルーバー『正直者ディーラーの秘密』


 論創海外ミステリにて快走を続ける、ジョニー&サムシリーズの第9作目。
 今回の幕開けは、何やら不穏な調子。
 カリフォルニア州デスバレー、死の谷といわれるこの砂漠をよろよろと男が行く。水筒に残った水はあとわずかだ。追手が迫ってくる。必死の逃亡だ。ついに追いつかれた男に銃口が容赦なく向けられる。乾いたタッチと砂漠の荒々しい描写は、グルーバーが西部小説の名手でもあったことを思い起こさせる。
 そこへ車でやってきたのが、ジョニーとサム。前々からデスバレーを見てみたかったというジョニーは、サムとともに強風にあおられながら呑気なもの。そこへ冒頭の必死の逃亡者が現れ、「ラスベガスにいるニックに届けてくれ」とトランプとポーカーチップを二人に渡して、そのまま息絶えてしまう。かくして、ベガスを訪れた二人の冒険となるのだが。
 これまでも、様々な賭け事がシリーズを彩ってきたが、賭博の本場とあって、本書は賭け事尽くし。
 35セントしかもたない二人が、生業としている肉体改造本を売り出そうとしているとマリガンという元猛獣狩りをやっていた警官が現れ、同情したのか1ドルを渡される。ジョニーは、この1ドルを元手にクラップスというサイコロ賭博で、信じられないような幸運続き、1800ドルを超える大勝だ。一度得た大金も途中で失ってしまうのが、シリーズの相場だが、本書では、幸運の女神にとり憑かれたようにジョニーは勝ち続け、終幕まで、資金は膨らんでいくばかり。あまりの勝ちっぷりにカジノからは、よそでプレイをするようにと金を積まれる始末。
 シリーズお約束の美女も当然のように絡んでくる。ベガスに向かう途中で拾ったのは、ラナ・ターナー似の金髪美女。離婚のために、ベガスに滞在しているようだ。
 ここで、ジョニーの気の利いた軽口。「ネバダにはふたつの産業がある」「賭博産業と離婚産業。男は博打を打つために。女は離婚するためにここへやってくるのさ」
 サムはぼやく。「あいかわらずだな、ジョニー。殺人と金髪女に目がなくて、そいつをひと絡げにする」
 一流ホテルに落ち着いた二人の前に現われるのは、砂漠で亡くなった男の死体。二人は必死に「ニック」を探し出そうとするが、ニック探しは難航。殺人事件の背後にはカジノを舞台にした陰謀が絡んでいるようだ。サムは、カジノで大暴れてして収監される一幕があるが、その後は美女に囲まれ、シリーズ史上最高のモテモテぶり。
 次々と目先を変えた事件が起きるため、ときにまとまりがない印象を与えることもあるシリーズだが、本書では舞台をベガスに限定し、謎もストレートで求心力がある。物語の半ばで明らかにされるカジノを標的にした金銭獲得法はなかなかのもの。奪われた大金を巡って、ジョニー&サム、元猛獣狩りのマリガン、ギャング組の三つ巴の争奪戦となり、最後のポーカー勝負の決着のあと、真相は明からになる。
 解説でも指摘されているが、結末でポーカーをしていたはずの場所から何らの説明もなく、舞台がホテルに移動している。原文に欠落があると思われるのだが、そういえば、デスバレーで殺された男の死体がホテルに現われた謎についても解明されていない。もしかしたら、その説明も欠落個所にあったのかもしれない。全体がかなり引き締まった調子なだけに、残念だ。

■アメリア・レイノルズ・ロング『〈羽根ペン倶楽部〉の奇妙な事件』


 『誰もがポオを読んでいた』で本邦に初お目見えした「貸本系アメリカンB級ミステリの女王」アメリア・レイノルズ・ロング。『誰もが~』では、犯罪心理学者エドワード・トリローニーと若き探偵小説作家キャサリン・パイパーという男女コンビがポオにまつわる殺人事件の謎を解く学園ミステリという体裁だったが、本書は、二人が初めて出会うシリーズ第1作で、文筆家の同好会で起きた事件を扱っている。
 スモールサークル内の事件というのは、どちらかといえば、英国女性作家のお家芸という気がするが、本書は、アマチュアを主とする文筆家のサークル内の事件という点が珍しい。
 語り手は、新進探偵作家であるキャサリン・バイパー。キャサリンは、髪形も服装もボーイッシュな若い女性で、皆からは、ピーター(ピート)と呼ばれている。文芸サークル〈羽根ペン〉倶楽部は、何かしら文筆に携わる人々-法律事務所事務所の所長や食料雑貨店主などのほかに、新聞コラムニスト、児童小説家などプロといっていい人も所属している-が集う小さな文芸同好会。気楽な文芸仲間の集まりだったはずなのだが、澄んだ水に黒インクを垂らすように、ある女性会員への悪意に満ちた中傷の手紙が撒かれる事件が起きる。
 サークルには、かつて不協和音をまき散らすイングリッシュ夫人というメンバーがいてピーターとサークルの女友だちは、犯人はイングリッシュ夫人と推測するが、証拠はない。
 倶楽部の創立者夫妻の提案で、夫妻の田舎の農園で一同は週末を過ごすことになるが、当のイングリッシュ夫人もその場に招待される成行きになっており、波乱が予想された。
 朗読会などが催される田舎家の集まりでも、イングリッシュ夫人は毒を吐き散らす。さらに、かつてサークルの一員が自死した原因が、ある人間の嘘にあることが明らかになる。白い服の女の出現など怪談じみた雰囲気の中、嵐の夜についに殺人は起きる。
 ピーターとトリローニーの出会いは、田舎家でのピーターの散歩時に、「お兄さん、マッチを持っていないかい」と声をかけられて。トリローニーは、ピーターの後ろ姿を男性であると思い込んだのだ。トリローニーは、長身痩躯、真っ赤な髪のアイリッシュ。
 その後のピーターとの再会という偶然から捜査に参加したトリローニーは早々に犯人の目星をつけるが、証拠が見つからない。トリローニーは、ピーターを伴った危険な賭けに出る。
タバコの吸い殻をめぐってコナン・ドイルに言及があったり、刑事がやってきたことを「エラリー・クイーンにヴェリー刑事が報告に来たの」とピーターが話す探偵小説ファン向けのくすぐりもある。
 事件の発生から結末まで渋滞がなく、登場人物を描き分けも手堅いが、欠点を挙げれば、文筆家サークルの殺人という設定は、あまり事件には生かされておらず、白い服の女の謎などもやや拍子抜けな感じ。この辺がB級といわれるゆえんだと思うが、謎解きの鍵は埋め込むのには怠りはない。ピーターの語りは快活でウイッティで、カジュアルに楽しむのには適した一冊。あと、二冊あるというこのコンビのその後も、気になるところ。

■三津木春影翻案/北原尚彦編『浮出た血染めの手形-三津木春影翻案探偵小説集』

(http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca1/720/)
(画像をクリックすると〈書肆盛林堂〉の該当ページに飛びます)

 三津木春影は、明治・大正期に探偵小説等の翻案を手掛けた作家。ソーンダイク博士物 (後にドイル作品やオリジナルも混じる) を「呉田博士」物として翻案したことで、比較的名の残っている人だろうか。江戸川乱歩や横溝正史も三津木の翻訳を読んで影響を受けているという。
 本書には、R・オースティン・フリーマン原作物1本、アーサー・コナン・ドイル原作物4本(うち、二編がホームズ譚) 、モーリス・ルブラン原作物1編を収録。
 表題作「浮出た血染めの手形」は、なんと、つい最近『ソーンダイク博士短篇全集2 青いスカラベ』で初訳された「死者の手」が原作。後に長編化されたため、作者の生存時には、単行本収録されていなかった作品が翻案され、大正期に単行本化されていたとは。編者執念の原作探索の顛末は、解説に詳しい。
 一部を除き、人名、地名が和名に置き換わっているほかはかなり忠実に原作の文章を追っている印象だ。
 「函中の密書」は、ホームズ譚「第二の汚点」、「不思議の鈴」は同じく「海軍条約文書」。
 シャーロック・ホームズは保村俊郎 (ほむら・しゅんろう)、ワトスン博士は須賀原直人 (すがわら・なおんど) という和名になっている。ホームズ邸を訪れた総理大臣が「~ごわす」というのには、笑ってしまった。やはり首相は薩摩出身か。
 ドイルのノン・シリーズ物「死人の裁判」は「膚黒医師」、「殺人狂」は「甲虫採集家」がそれぞれ原作で、この2編の翻訳は、延原謙訳『ドイル傑作集Ⅰ ミステリー編』で読める。
 ミステリとして一等びっくりしたのは、「死人の裁判」で、ある医師の殺人事件の裁判で、医師は実は生きていると彼の筆跡による手紙が証拠として出され、続いてあろうことか死んだ本人が出廷してくる。(大分以前に読んだはずなのに忘却の彼方だった) 各所でかなりの嵩増しがあるようで、原作にはない弁護人となる人物が創造されているほか、裁判がよりセンセーショナルに描かれているのが効果的。「殺人狂」は、「吾輩」が主人公で、「僕」と訳されている原作より、コミカルな印象を受ける。
 最後の「船室の時計」は、モーリス・ルブラン「金髪の女」(『ルパン対ホームズ』所収)) の一部のエピソードを短編化したもの。これは、舞台も東京に移し替えられ、なぜかホームズの役どころは少年探偵になっている。
 現代の翻訳と引き比べてみるとこんな感じだ。「海軍条約文書(事件)」(翻案は「函中の密書」) の最後のホームズの台詞。

・「ただ、○○氏が、どんなことでもやりかねぬ人だということだけは、確信をもって申し上げられます」(阿部知二訳)
 
・「が、我輩は只一つこういう事は断言が出来る、それは○○なるものの仏心 (ほとけごころ)に信頼するのは木にってうおを求むるようなものであるという事である」(三津木春影翻案)

 今は使われないような言葉や表現も頻出するが、そこは大衆を意識した文章、それほど読みにくくはない。今でも使いたいような語彙もあり、日本語の豊かさを感じさせもする。(今月のレヴューでも一箇所使わせていただいた)
 仔細に原作と突き合わせると、翻案者が考えた読者へのアピール等、面白い発見もあるに違いない。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


◆【毎月更新】クラシック・ミステリ玉手箱 バックナンバー◆

◆【毎月更新】書評七福神の今月の一冊【新刊書評】◆

◆【随時更新】訳者自身による新刊紹介◆

◆【毎月更新】金の女子ミス・銀の女子ミス(大矢博子◆)