■ダフネ・デュ・モーリア『スケープゴート』(務台夏子訳:創元推理文庫)■
先月ご紹介したメアリー・スチュアート『誰も知らない昨日の嘘』(1961) やその下敷となったジョセフィン・テイ『魔性の馬』(1949) は、瓜二つの人間が遺産相続者に成りすますという犯罪を題材にした小説だったが、本作『スケープゴート』(1957) は、偶然出会った瓜二つの人間が相手に成りすまし、その家庭に入り込んでいくというサスペンスだ。
主人公でフランス史を教える英国人講師のジョン (わたし) は、旅先のフランスで、自分と瓜二つの男ジャンと出逢う。二人が飲んだ翌朝には、ジャンの姿は消えており、車や持ち物すべてがなくなっていた。呆然とするジョンは、主人と疑わない運転手に促されるまま、ジャンの家に連れていかれる。ジャンは、伯爵だが所有するガラス工場は経営が危うく、家族間の不和は強い。手探りでジャンに成りすましたジョンだったが、事態は予想もしない方向に転がっていく。
たとえ、瓜二つの人間が存在したとしてもあり得ない話で、「僕は英国人です」と告げて立ち去ってしまうと思うのだが、そこをそうさせないところが、ストーリー・テラーの技というところ。第一にジョンは誰とも幸せや苦しみをともにすることがなかった人生に絶望を感じていること、第二に飛び込んだ家族 (特に母親の伯爵夫人と10歳の娘マリー‐ノエル) に愛情を感じてしまうことにある。これまで自分以外の気持ちを気にかけてこなかった自分にとってのチャンスだという思いが強くなるのである。
『誰も知らない昨日の嘘』や『魔性の馬』の主人公は、乗り込むべき家庭についてあらかじめ徹底的に学習をするのだが、ジョンはまったくジャンの家庭について知識を持ち合わせていない。屋敷で最初に出逢った女性三人が誰かも判らない (就寝時に三人の女の一人が自分の妻だと知ってショックを受けもする)。自分の正体がバレないことを恐れつつ、手探り状態で瓜二つの男 (ジャン) のアイデンティティを把握し演じ続けなければいけない。このシチュエーションがちょっと類例のないようなサスペンスと緊張を生んでいる。パリから持ち帰った土産を家族に配る場面では、緊張もはじけ飛ぶような喜劇的な大混乱を生じさせるのも作者の腕の冴え。
次第に、自らが置かれた状況も判ってくる。所有するガラス工場は破綻寸前。母親の伯爵夫人は専横な薬物中毒者、妻は妊娠中で夫の愛に飢えている、姉は熱心な宗教信者で長期間ジャンと口を聞いたこともない、弟は工場経営に疲弊し兄への不満も強い、弟の嫁とジャンは不倫関係にあるらしい、娘のマリー-ノエルは父親への愛が強すぎ、姉(伯母)の宗教的感化を受けすぎてもいる。とまあ問題揃い。問題の中心には家族に無関心だったジャンがいるようだが、善意で問題解決をしようとするジョンの行為によって、さらに家族間の戸惑いと軋轢は深まりもする。
娘の失踪事件を契機にある悲劇が起こるが、それを乗り越え、家族のそれぞれにいい方向が見い出せそうになったときに、予期することもできた劇的展開が起きる。時間にして、わずか1週間の物語だ。
本書の面白さは、まず、まったく見知らぬ環境に放り込まれた人間が徒手空拳、手探りをしながら、周囲の環境に対する知識を次第に得て、環境の中で適応し、やがては環境に働きかけていくというプロセスにある。マンダレイの大邸宅に嫁いだ『レベッカ』(1938) の「わたし」のバージョン・アップ版というよりも、いささか突飛な例えだが、『ロビンソン・クルーソー』的なサバイバル物としても読めるのだ。
次に、人物が魅力的だ。特に、母親の伯爵夫人は嫌味な人間で怪物的な一面ももつが、一方で、息子であるジャンを愛し、伯爵夫人としての気骨をもち、温かみもある人間でもある。娘のマリー-ノエルは父思いで愛らしい言動の中にも時折ドキッとさせるような大人びた一面をのぞかせる。溺愛された息子が娘を溺愛するような親子関係の危うさを孕んではいるが、この二人には生き生きとした存在感がある。ジャンの愛人であるベーラという骨董屋の女主人もとてもいい。気さくで蠱惑的、気楽に話せる相手であり、安らぎを与えてくれる。
そして、自身の探究の物語になっている点も優れている。冒頭のジョンは、「その男(自分)は何者で、どこから生まれたのか?」と自問する。英国人らしく、欲求や渇望の表出を抑える習慣が確立しているため、自分という存在は未知のままなのだ。誰とも幸せや苦しみをともにすることがなかった自分が突然家族をもち、自らの内部にあった自分に目覚め、自らを発見していくという話でもある。同時に、自身のダブルであるジャン伯爵の複雑な性格の探究にもつながっている。
結末は、苦みも伴っているが、ベーラとの会話に救いも用意されている。
文章は格調高く、フランスの田舎の貴族の屋敷と地域が一体になった暮らしも細密に描かれる。華麗なストーリーテリングに自己探究の物語も組み込まれた、デュ・モーリア円熟期の逸品だ。
■ジョルジュ・シムノン『月射病』(大林薫訳:東宣社)■
《メグレ警視》シリーズでおなじみのシムノンの一般小説いわゆる「
本書は、シムノンが《メグレ警視》シリーズを連続刊行し人気作家となった1931年の2年後、念願だったアフリカ旅行の後に書き上げられた。旅行後第一作が後に映画にもなった『仕立て屋の恋』(1933) であり、その次に刊行されたのが本書。ちなみに、第三作は『運河の家』(1933)である。
アフリカ赤道直下のフランス植民地ガボンに働きにやってきた育ちのいい23歳の青年ジョゼフ・ティマールは、到着して間もない朝、ホテルのオーナーの妻アデルに誘惑され、彼女の虜になる。パーティの夜に黒人ボーイが銃殺される事件が起き、ティマールはアデルが犯人ではないかと疑う。アデルの亭主も感染症で亡くなり、葬儀の夜、二人は激しく愛し合う。アデルはティマールに、地方議員である彼の伯父の口利きでジャングルの借地権を得て一緒に事業を始めるように仕向け、ティマールは同意するが、次第に無気力に襲われていく。
アフリカが舞台の異色作。作者のアフリカでの見聞が生かされており、舞台となるリーブルヴィルもガボンの首都ながらホテルが一軒しかないうら寂しい街の雰囲気が良く出ている。白人コミュニティは、ホテルを根城にして夜な夜な酒やビリヤードに興じている。
アデルは、三十代半ばの熟れた肢体をもった女だが、口数は少なく、ティマールを本当に愛しているのは判らない。金だけが目的なのかもしれない。夫はかつて白人女性の人身売買に手を染めていたらしい。「ベッドの上が取引の場」といわれている女だ。アデルの本心が判らないティマールは気鬱を昂じさせていく。やがて、アデルはホテルを売却し、新事業のためにティマールと内陸へ向けて河を遡っていく。
殺人事件や裁判が物語の重要な要素となっているが、本書の主題は何かといえば、アフリカの拒絶ないしは白人青年の疎外といったところだろう。ティマールは、最終章で「アフリカなんて、存在しない」と何度も声高に言う。希望をもって訪れた地・アフリカは彼を受け入れようとしなかった。彼は、アフリカの熱病に苦しめられ、アフリカの掟に従うことはできなかった(「あなたも、きれいごとばかりでは済まされない現実に目をつむることができれば、ここで二十年は暮らしていけますよ」と警察署長にティマールは言われている)。アデルの愛は信用ならなかった。白人コミュニティからは受け入れられなかった。ティマールは、アフリカの地で二重三重に疎外されていたのだ。ティマールは、内陸の事業所にアデルに取り残された際、「全アフリカに仕返しをしているような気持ちで」現地人の処女娘をものにしてしまうのだが、その身勝手な抗議行動に後に赤面することになる。
明確なテーマをもつ小説ではあるとはいえ、ミステリ作家としての小説づくりの巧さも味わえる小説でもある。アデルは、河を遡上中に泊まった村で不審な行動をとるが、その行動は後の裁判の伏線となっており、ティマールは不意にその意味に気づく。裁判で出逢った現地の女の顔が別の女性と二重写しになっていくところには意外な結びつきに胸を衝かれる。ティマールが気づく裁判の内実は、文明国ではあり得ないものであるが、小説全体がその内実をほのめかしているといってもいい。
再び河を下る場面での十二人の黒人が丸木舟の漕ぎ手を務め十二本の櫂が垂直に持ち上がり、腹の底から力強く声を出すシーンを何よりも美しいとティモールは記憶する。とすれば、ティモール青年もアフリカから何も持ち帰らなかったわけではないのだ。
アフリカというまだ遠い異郷の地を舞台に、白人と現地人の生態と軋轢、青年の満たされぬ愛と幻滅を描いた本書は、物語の興趣と忘れ難い場面にも富んだ力のこもった作品になっている。
当サイト瀬名秀明氏「シムノンを読む」第36回『赤道』他で本書について詳細に論じられているので、是非ご覧ください。
■五人の男と一人の女『冒険家クラブの冒険談』(平山雄一訳:ヒラヤマ探偵文庫)■

ヒラヤマ探偵文庫からの新刊は、いわゆる「シリング・ショッカー」。訳者解説によると、 一シリングという単行本よりは安い価格で売られたペーパーバックだ。娯楽のために読み捨てられていたと思しい小説で、傑作中心主義のミステリ史からは顧みられない類の読み物である。著者名の「五人の男と一人の女」というのは、この六人が語り手の冒険談が掲載されているからで、実際の著者は不明。本書は、1890年に発刊されたもの。副題は、「ぞっとするような六つの話」。ヴィクトリア時代の読者は実際にどのようなものに娯楽を見い出していたかが、感得できる作品だ。
なお、当時同様に読み捨てられていた刊行物には、「ペニー・ドレットフル」(「吸血鬼ヴァーニー」等が著名) があるが、一シリングは、十二ペンスで、価格としては十二倍に当たり、フランス語が注釈なしに使われていることからも、「シリング・ショッカー」の読者はある程度上の階級に属するものと考えられるそうだ。
「冒険家クラブとは何者か?」と題する小文が冒頭にある。五人の男性会員からなる冒険家クラブは毎月一度晩餐をともにし、それぞれ夜が明けるまでロンドンをさまよい、冒険を探す。翌朝十一時に再度集まり、前夜の体験した出来事を披露すると紹介されている。
一作目「ジュリアン・ストラハンの話」は、たまたま紛れ込んだ奇妙なクラブでの体験談。見るも忌まわしい人間たちが晩餐に集っているが、そこで行われていた想像を絶することとは。「外国人街にて」は、最先端科学の研究者が外国人街で、ドイツ青年の研究者に声をかけられ、同行するが…。一作目二作目は、両作ともこれぞショッカーという直截的でグロテスクな怪奇譚。「会長の話」は、ダンス会場にいた謎の美女にまつわる話。狡猾な詐欺話で、前二作とは色合いが異なっている。「陪審員長」は、暴漢に襲われた美女を家まで送っていった会員が巻き込まれた事件。裁判にまつわる復讐がテーマになっている。
五作目「家畜処理場」は、最も注目される作品。ロンドンの悪徳や貧乏や犯罪の中心といわれるホワイトチャペル地区が舞台。12時の鐘がなると同地区では、とんでもない数の警官が警邏している。実は、この地は1888年の切り裂きジャック事件の舞台であり、2年後に発表された本作では、なんと語り手はジャックの正体を暴き、退治してしまうのである。臭気漂う廃馬処理場の雰囲気、残忍な犯人の描写が生々しい。
六作目「女性会員の話」は、男性会員しかいないクラブに事故で運ばれてきた女性が語る、死者との結婚奇譚で最終話。唯一超自然的な作品。突然入ってきた女性原理に当てられたのか、理外の神秘に打たれたのか、ホモソーシャルな集まり「冒険家クラブ」は、実質これで解散になるのが、何やら暗示的。
特に、一作目、二作目、五作目は、香気や文学性とは無縁のヴィクトリア朝「ショッカー」だが、人々の間に流れる猟奇の欲望は昔も今も変わらず、映像などに媒体を拡大しながら、連綿と伝わっていることを実感させる短編集でもある。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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