Long cours, Gallimard, 1936(1935/9-10執筆)[原題:遠洋航海]
・初出タイトルLe Couple traqué, « Le Petit Parisien » 1936/1/19-3/24号[追われるカップル]
The Long Exile, translated by Eileen Ellenbogen, Harcourt Brace Jovanovich, 1983[米][長い流浪]
Tout Simenon T19, 2003 Les romans durs 1934-1937 T2, 2012 Romans du monde T1, 2010
・TV映画 同名 アラン・タスマ Alain Tasma 監督、ブノワ・マジメル Benoît Magimel、エレーヌ・ドゥ・フジュロール Hélène de Fougerolles 出演、1996[仏]
Histoires de partout et d’ailleurs, « Le Courrier Royal » 1935/11/30, 12/7, 14, 21, 28, 1936/1/4, 18, 25, 2/15, 29, 5/16号(全11回) 第12話は未掲載[すべてとその他の場所からの物語]
同名, Les Amis de Georges Simenon, 1993/4/30* 研究同人誌、350部
Mes apprentissages: Reportage 1931-1946, Omnibus, 2001

 反対方向から来る車が道標をしばらく照らし、ジョゼフ・ミッテルは「フォルジュ゠レ゠ゾー 2km」[ノルマンディー地域、ディエップ郡の町]だとそのとき読めた。
 さほど助けになる情報ではなかった。彼はパリとディエップ間の道のどこにその町があるか知らなかったからだ。
 彼は空の樽の上に座り、右手で鉄の支柱を握っており、濡れた防水シートが彼の手に触れて冷たかった。車は高速で走っていた。バンは軽快だった。前席では鼻の折れ曲がった大柄の少年が運転し、その隣にはシャルロットが座っていたが、ミッテルがいる場所からふたりは見えなかった。
 彼に見えるのはぎらぎらと照り輝く道だけで、車はときおり危なっかしくスリップした。夜の帳が降り、木々が両側に並ぶ運河とおぼしき場所に近づくと、舗装道路はより滑らかになっていった。
 彼らはポントワーズ、そしてグルネー、そして最後にフォルジュ゠レ゠ゾーを越えた。ミッテルは境界標識を逆の方向に見た、つまりパリへの方角を示す標識を。彼らは町や村を通り過ぎてゆき、それらの地名を見るのは数キロ先に進んだときなのだった。(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)

 今回の『Long cours[遠洋航海]は大作だ。シムノンの長編小説はたいていどれも同じような長さ、日本の原稿用紙にして300枚ほどのものなのだが、その2倍の分量がある。シムノンがこれほど長い小説を書いたのは初めてのことだ。
 このように長大な小説は、生涯にわたって見ても、自伝的な『Pedigree[血統書](1948)を例外として除くと、他には1年後に出版される『ドナデュの遺書』(1937)(連載第58回予定)があるだけだ。
 これまでシムノンはさまざまな旅をしてきた。ついには世界一周旅行もして、ようやくフランスに戻ってきた。さあ、ここからは腰を落ち着けて作家活動に邁進するべきときだ──本作はそうした時期に書かれた作品であり、そして内容はといえば、これまでの世界旅行の総集編といっていいものなのだが、読み終えてみるとあまりスケールの大きさが感じられない。
 主人公たちは長い旅をして世界を巡り、舞台もさまざまに変化してゆく。そのルートはシムノンが実際に辿った旅と同じである。しかし多くの枚数を費やしたわりには、最終的にはそうした本来持つべきスケールの大きさも消えて、ふだんのシムノンに帰ってきてしまった印象を受ける。やや残念な長編である。

 11月、22歳のジョゼフ(ジェフ)・ミッテルは、同い年の恋人シャルロット・ゴドビューとともに、車をヒッチハイクして、北の港町ディエップへと逃亡していた。シャルロットは彼女の雇い主で愛人でもあった男を撃って殺してしまい、知り合いのジェフとともにパリから逃れようとしていたのである。逃走を助けたことで、ジェフもいまでは共犯者となっていた。
 ふたりは遠洋航海の貨物船に乗り込み、国外への脱出を図る。船長の名はモップス。実はその船は南米エクアドルへ武器を運ぶ密輸船だった。ジェフはボイラー室で働きながら、またシャルロットはモップス船長の部屋に匿われて、大西洋を横断する。
 船はパナマ運河を抜け、ブエナヴェントゥラ(南米コロンビアの港町)に到着したが、すでに革命は失敗に終わり、武器の密輸は不要となってしまっていた。モップス船長はドミニコという男に相談を持ちかけ、ジェフとシャルロットを「ジャンティル夫妻」と偽らせて、コロンビアの金鉱で仕事を与えてもらうことにした。
 ふたりはしばらく奥地の金鉱で暮らす。シャルロットは妊娠していた。あるとき彼女がひどい腸チフスに罹り、ジェフが必死で看病し、ようやく容態が戻るという出来事もあった。
 ある日、ベルギー人のプリュミエという地質学者が銃で首の後ろを撃たれて死んでいるのが見つかる。自殺なのか他殺なのかわからず、犯人は見つからない。プリュミエはジェフたちのバンガローからすぐそばの家に住んでいた。
 ふたりは出産に備えるためブエナヴェントゥラへと戻り、ジェフはドミニコのもとで働く。やがて息子シャルルが生まれる。そしてまさにその日、懐かしいモップス船長から手紙が届いた。彼はいまタヒチで船乗りとして成功しているという。彼はふたりがタヒチに来ることを歓迎していた。
 ジャンティル夫妻の名でジェフは妻と赤ん坊を連れてタヒチの首都パペーテへと赴く。モップス船長はとりわけシャルロットの来訪を喜んだ。シャルロットはホテルのメイドである地元娘のティタに赤ん坊を預けて、毎日のようにバーでモップスと会う生活になった。
 ジェフはタヒチの気候が肌に合わないのか、結核や髄膜炎を患うようになっていた。病院を訪れ、精神病患者たちのサナトリウムを見たその日から、ジェフは疑念に囚われるようになる。もしかすると赤ん坊は、自分の子ではなくモップスとシャルロットの子なのではないか。貨物船に乗っていたときふたりにできた子供なのでは? ジェフはモップス船長に対して嫉妬心が抑えられなくなる。一方、頻繁に赤ん坊の面倒を見ているティタと過ごす時間が多くなり、ティタはいつしかジェフに惹かれるようになっていた。結婚してふたりで赤ん坊を育てましょう、とティタはいうようになる。
 ある日、皆は複数台の車に乗って、タヒチの田舎へとドライブに出掛ける。彼らは礁湖でアメリカ人の映画撮影クルーと出会い、ジェフはティタと泳ぎに興じる。戻ってきてからジェフは高熱を発する。そのころ、ジェフとシャルロットのフランスでの犯行が明るみに出ようとしていた。だがフランス領タヒチから離れようと思っても、ジェフは病気で動けない。シャルロットは赤ん坊を連れて、モップス船長とともに逃げようとする。重病のジェフのそばでメイドのティタだけが彼の手を握る……。

 本作は3部に分かれており、第1部が貨物船内、第2部がコロンビア、そして第3部がタヒチでの出来事となる。第1部の導入はなかなか見事だ。車をヒッチハイクして北の港へ逃げようとする息詰まる展開、そして貨物船になんとか乗り込んで、そこで少しずつ船員の知り合いを増やしながら過ごしてゆく日々、それらが流れるように描かれており、ぐいぐいと読ませる。世界旅行から戻った後のシムノンは筆運びがおおらかになったと以前に書いたが、シムノンの一般的な特徴としてみられる過度な省略もなく、とても読みやすい文体になっている。
 この快調な筆致は、コロンビアの金鉱でプリュミエという男が死ぬまで持続する。ちょうど物語の半ばである。だがそこから物語は失速してしまう。
 ブエナヴェントゥラに戻ったジェフは、いっときプリュミエ殺しの容疑をかけられる。もちろんジェフは否定する。本来ならこの過程でさらにジェフは追い詰められ、コロンビアからも逃げなくてはならない……という状況に置かれてゆくのが展開上望ましいと思われるのだが、そのあたりがぼんやりとしているので、これは逃亡の旅の途中なのだという切迫感が消えてしまうのである。プリュミエは上司であったドミニコの指示で何者かに殺されたのではないか、という疑惑が途中で描かれるが、これも中途半端。私の読み落としでなければ、最後までこの事件の真相は解明されない。
 タヒチに来てからの最初の数章も生彩がない。この後はモップス船長いきつけのバーと、《ホテル・パシフィック》のクラブでの描写が主になるのだが、ジェフはこの2ヵ所を行き来するばかりで進展がない。赤ん坊はモップス船長の子ではないかという疑いが少しずつ芽生えてくるのだが、まだ読者にはさほど深刻な印象を与えない。
 それがぐっと惹きつけられるようになるのは、興味深いことに、第18章のパペーテ病院のところからなのである。
 ジェフは診察を受け、ひょっとするとあと何年も生きられないかもしれないと医師から諭される。その後、彼は若いハンセン病患者や、地元の気のふれた若者の姿を見る。この場面が妙に生々しく、ああ、シムノンはそういえば若いころ医者志望だったな、と思い出した。第1部の貨物船内の場面では目に浮かぶようなリアリティある描写が続いていたのに、第2部のコロンビア編になってから、また第3部でタヒチに来てからでさえ、ほとんど景色の描写がなく、物語は鮮明さに欠けていた。ところがこの病院の場面から、ようやくシムノンの筆致が戻り始める。この後からメイドのティタとの会話も増え、人間関係に複雑さが増し、ジェフの内面も掘り下げられてゆく。第3部後半に入ってやっと調子が戻ってくるわけである。
 だが、そこまでがいかにもだらだらと長い。つまり全体の半分近くは凡庸であるわけで、せっかく2冊分の長編に仕上げたのに、そのうち1冊分は不要だと思えてしまうのである。本書はそうしたプラス面とマイナス面がある。
 シムノンの小説は、いつも終盤近くになると飛躍的に面白さが増す。今回もそれを願って読み進めていたところ、やはりクライマックス部分に相当する第20章からの描写が素晴らしかった。ジェフやシャルロット、モップス、そしてティタたちは、酒の勢いに任せ、車に分乗してドライブに出る。途中でティタの生まれ育った村を抜け、さらに彼らは田舎へと進んでゆく。2千メートル級の山が見える。川が流れている。サッカー場に人々がいる。日曜の夕方だ。もうすぐ晩課の時間だ。「こんな美しいところ、フランスにある?」と車で走りながらティタはジェフにいう。「ないでしょう? 今朝のようなことはもういわないで。人生を楽しまなきゃ!」
 あの少年時代のような日曜日の感覚を書かせたらシムノンの右に出る者はいない。このドライブのシーンで私も完全に心が乗っていた。やがて彼らは礁湖へと出る。「見て! 滝よ! 泳ぎましょう!」とティタ。彼女は近くにいた人たちに「ハロー!」と手を振り、「みんな私のこと、あなたの愛人だと思ってるわ!」とジェフにいう。さらに行くと、20人ほどのパレオを着た地元娘たちと出会った。アメリカの映画撮影隊が、水遊びに興じる地元娘たちを撮影していたのだ。そこにはティタの地元での友だちもいた。
 ジェフは肺病があるため泳ぎは控えたいところだ。しかしティタは無邪気に水に飛び込み、ジェフを誘う。「誰がいちばん潜っていられるか競争よ!」などとはしゃぐ。ジェフも夢幻の世界に入り込み、一緒になって泳ぐ。このシーンの多幸感はなかなかのものだ。タヒチでなければ成り立たない場面だ。やがて自ら出てきたふたりは、身体を渇かすために木の下へ行き、そこでティタが軽くジェフにキスをする。このときばかりはジェフは赤ん坊の親がどうだとか、フランスでの犯罪がどうだといったことなどすべて忘れて、幸せな瞬間を味わっているのである。こういう場面を描くシムノンの筆は本当に素晴らしい。
 そして楽園から戻ってきて、ジェフは肺炎を発症する。最後の第22章になって、唐突に奇妙な話が登場する。ジェフは高熱を出し、日に2回、医者の注射を受けており、その介助をするのは妻のシャルロットではなくメイドのティタである。彼は朦朧とするなかで、不意に「バランキージャ」という名前が気になり始めるのだ。バランキージャとはカリブ海に面したコロンビア北部の港町のことである。ジェフは行ったことがない。メキシコ湾で見た名? 何ヵ月も住んだコロンビアの川の名? どうしてこの名前が心に浮かぶのかジェフにはわからない。
 シャルロットはモップスとともにオーストラリア行きの船に乗って逃げようとする。ジェフも連れて行きたいがこの病気では無理だ。とうとう船の出発の時間が迫り、シャルロットとモップスは、子供を連れて出て行く。病床でジェフはまだ「バランキージャ」と繰り返している。
 ティタは叫ぶ。「バランキージャ。教えて! 彼はいったい何をいいたかったの?」

 本作では突然この謎が出てきて、謎が解けないまま終わるのである。これは実にシムノンらしい。
 これもやはり私の読み落としでなければ、バランキージャという名前はそれまで一度も出てこないし、物語には何の関係もなかったはずだ。
 私はまだ読んでいないが、シムノン作品には犯人が最後までわからない『ベルの死』(1952)という作品があるそうだ。読んでいないので比較はできないが、いきなり最終章で謎を出して何も解決せずぶっつり切れて終わるのだから、読み終えた人は「なんだこれは?」と面食らったような気持ちになる。ストーリーの定跡を完全に無視している。だがこれが妙に心に残るのである。
 しかし、あまりにもこのラストが唐突であるがゆえに、ここまで長い時間をかけてふたりがパリから逃亡してきたこと、身元を隠しながら転々として、だがその間に子供も生まれたこと、そういったすべてのことが掻き消えてしまっている。旅の物語であるはずの主軸が失われてしまう。
 シムノンの旅の集大成となるべき小説なのに、読み終えた後はまるでそう思えないのである。ここがとても奇妙で、そして印象深いところだ。
 本作はこれまでのシムノンの小説をいくつも連想させる。『赤道』第36回)、『逃亡者』第44回)、『アヴルノスの顧客たち』第45回)、『ピタール家の人々』第48回)、『黒人街』第52回)……これらの物語の混合作、あるいは一部のシチュエーションを借りた焼き直し作品であると思える。だがこれらより劣って見えるのは、やはり半ばの展開が弱いからだ。
 よい場面もあるのにもったいない作品である。プラスとマイナス面を勘案すると、全体としては「ふつう」という評価だろうか。
 なお本作はTV映画化されており、ストーリーも終盤近くまではかなり忠実に再現されている。ただし第3部に相当する部分の舞台はタヒチではなくカリブだ。そしてラストの展開が大きく異なる。ジェフは病気にならない。
 全般的にクセのない、というかアクのない画面構成で、第2部に相当する奥地の砂金採取場のセットなどは雰囲気もよくできているので、もう少し惹きつけられるシーンがほしかったところだ。しかし長い原作が1時間35分に手堅くまとめられていることには感心した。そしてシムノン原作のフランスドラマらしく、ヘアヌードシーンも出てきたりして、適度にエロい。ほとんどシムノンのドラマではお約束である。南米の異国情緒を売りにした画面づくりも、フランスの視聴者には好ましかったことだろう。このあたり日本に住む私たちとは少し感覚が違うかもしれない。

 旅の集大成的作品を読んだことを受けて、本作執筆後に連載されたシリーズエッセイ「すべてとその他の場所からの物語」も併せて読んでみた。シムノンの旅エッセイとしては最後期のものにあたる。この後、シムノンがおこなった大きな旅といえば、戦後のアメリカ滞在くらいだからである。
 シリーズタイトルは編集部からの指定だったようで、世界一周旅行から戻ったシムノンが、これまでのさまざまな旅の想い出を振り返りながら、ちょっとした短い素描を書き連ねたものである。
 全体を通してのテーマはなく、各エピソードも短く、そのため読み応えがあるともいえないが、いくつか目についた部分はある。まず各エピソードには明確なオチがなく、習作時代のコントのような宙ぶらりんの感覚があること。言葉足らずのために何をいいたかった文章なのかわからないものも少なくない。
 ペンネーム時代に川や運河を船で巡ったときの話から、まさにその年に世界一周旅行をしたとき出会った人々の話まで多岐にわたる。ちょっと面白いのは、書き手である「私」が必ずしもシムノン自身を指しているように見えない逸話があることだ。ある男とアメリカのフォード工場で出会った、という話では、書き手の「私」も同じ工場で働いているように読める。この時期、エッセイでシムノンがアメリカのことを書いたのは珍しい。
 これまで他のエッセイで見てきた逸話にリンクする話も出てくる。オランダで港長の家に呼ばれてお茶をご馳走になった話は、たぶん《13シリーズ》を書いていたころのことだろう。ベルギー領コンゴの話では「日陰で摂氏45度」という定番のいい回しも出てくる(第47回参照)。「祝日はセンチメンタルな気分にさせる」という文章で始まる第9話の葬儀の話は、ラストの苦笑いせざるを得ないシチュエーションも含めて、シムノンらしい一編だ。
 戦争の気配が近づいているためか、政治的な話に近寄って、自ら警戒しながらそこへ踏み込むつもりはないと書いている回もある。「フランス語の新聞は戦争のことばかり書いていますね。飽きますよ。恐いですか?」とオーストラリアで尋ねられた話も出てくる。
 最終回の第12話は雑誌に掲載されなかったそうだが、これは英国領の島(クリスマス島)に住む知人が牢屋へ入れられたとの知らせを受けて驚いた、という話で、連載エッセイ『悪い星』第49回)の第7話に出てきた「R…」という男のことだ。漂流した男を助けて、後日「17日後にサンフランシスコに着いた。ありがとう」と手紙をもらった外科医である。

 さて、本作の後、シムノンは旅気分から徐々に抜けて、いわゆる「世界小説」とは違う心理小説へと向かっていったようだ。戦争期へ至る助走の段階に入ってゆくのである。

 今回で、オムニビュス社『シムノン全集』第19巻の攻略を完了した。全27巻のうち4冊を読み終えたことになる。着実に読書は進んでいる!

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
 
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