ミステリとはいえないが、最近、代表作『ラブラバ』の新訳も出て復活の気配もある大立者エルモア・レナードが1950~60年代に書いたウェスタンが滅法良かったので、今月はこれから行こう。

■エルモア・レナード『オンブレ』■


 村上春樹訳エルモア・レナードということで話題の『オンブレ』には、中編の表題作と短編一つを収録。
 表題作の「オンブレ」の意味は、スペイン語の「男」。アパッチの集団の中で育った白人ジョン・ラッセルの物語。十人ものアパッチの襲撃に一人で立ち向かった伝説の男は、齢21。
 ラッセルが登場する冒頭の場面からしてクールで鮮烈だ。
 酒を飲んでいる仲間のアパッチを侮辱し咎めた男に対し、ラッセルがスペンサー銃の銃身できれいに宙を払っただけで、男のグラスは粉々になり、手と顔は血まみれになる。

 ラッセルは言った。「そこまでにしておけ」

 語り手カールはラッセルよりやや年上で駅馬車中継所の使用人。駅馬車路線は廃止になったにもかかわらず、唐突に現れたインディアン管理官夫妻は無理をいって馬車を仕立てさせる。二人に同行するのは、カール、ジョン・ラッセル、荒くれ者、アパッチに拉致され救出されたばかりの美少女。御者はカールのボスのメキシコ人。馬車は、強盗団の襲撃に出逢い、管理官夫人が人質にとられて……。
 馬も奪われた一行は生き延びるために、ラッセルを頼りにするが、彼はつれなく、不可解な存在であり続ける。やがて、物語はクライマックスの廃坑での銃撃戦になだれこんでいく。
「何も語りはしない」という眼をしたラッセルという謎、に加えて、一行のサバイバルと、金、水、人質をめぐる筋の面白さ、様々な個性のぶつかりあい、リアリティある灼熱の荒野という舞台、それらを叙述する簡潔な文体など本編の魅力は尽きない。
 本編に読者が惹きこまれる理由の一つは、物語が一種の「命題」といえば大げさかもしれないが、倫理的な問いかけを次々と発してくることだろう。
 馬車の出発時、乗客になるはずだった除隊兵に荒くれものが切符を自分に譲れと絡む。ラッセルは黙っている(あなたならどうする)。人質を返してもらうために金と水を渡すか(あなたならどうする)。悪人だと判った男を助けるか(あなたならどうする)。物語の展開と一体となった問いかけがヴィヴィッドに読者に迫ってくる。クライマックスには最終的な問いかけと決断があり、もどかしさを強いられた読者にカタルシスの大波が押し寄せるのである。
「三時十分発ユマ行き」は、凶悪犯を護送する保安官補の数時間を描いた短編ながら、これまた名品。主人公にとっての倫理的問いかけが基底音になっている点では「オンブレ」と共通している。街が静まりかえり、保安官補がホテルの窓際から見降ろすと、六人の男たちが通りの真ん中で馬を停めて一列に並び、こちらを向いている場面の凄味のあること。
 なお、訳者あとがきにあるとおり、「オンブレ」はポール・ニューマン主演で『太陽の中の対決』(1967)として、「三時十分発ユマ行き」は『決断の3時10分』(1957)(リメイク作『3時10分、決断のとき』)として映画化されている。『太陽の中の対決』は、かなり原作に忠実だが、駅馬車に乗る構成員が原作と変えられており、美少女の存在がないのが残念。『決断の3時10分』は未見、『3時10分、決断のとき』は大幅に原作を改変しているが、人たらし的な凶悪犯と主人公との葛藤という原作の精神はよく生きていたと思う。

■ザ・ゴードンズ『盗聴』■


 ザ・ゴードンズ。バンド名みたいな著者名だが、その名を聞いたことがあるだろうか。筆者はなかった(と思う)。ゴードン・ゴードン(これまた変わった氏名)とその妻のミルドレッド・ゴードンの合作名で、20編を超えるミステリの長編があるという。実写版ディズニー映画『シャム猫FBI/ニャンタッチャブル』(1965)(リメイク作『誘拐騒動/ニャンタッチャブル』(1997/本邦ではビデオ公開))の原作者といってもピンとくる方は少ないだろう。ミステリの海は広い。
 この夫婦合作チームは、1950年にデビュー。警察小説やユーモアミステリをその主なテリトリーとした。『盗聴』(1955)は、ノン・シリーズの警察小説だが、不思議な味わいが漂う作品だ。
 不思議というのは、本書では、警察当局が盗聴を専門にする部署を秘密裏に設置し、犯罪に関わりのある市民の電話を常に盗聴しているという設定になっているからだ。
 本書の真の主人公ともいえる警察の盗聴室には、馬蹄型に27台もの電話盗聴用の機械が設置され、監視されている市民の通話の声が常にさえずっている。そして、この盗聴は数えきれないくらい事件の解決に役立っている、というのである。
「この州では(盗聴が)違法ではない」と主人公エヴァンズ警部補は陪審員の前で証言もしているが、際限なしに警察が一般市民の通信を傍受することは逸脱行為であったはずだ。盗聴部署の存在が秘密にされていることがそれを物語っているが、この、警察が違法めいた捜査を組織的・日常的にやっているという設定が本書のユニークな特徴になっている。現代からみると、現実から半歩だけ踏み出した「もしもの世界」的な浮遊感が生じているのは、この設定によるものだろう。一方で、警察の盗聴行為なんてみんな知っているという登場人物の発言があるように、それは米国の1950年半ばのリアルであったのかもしれない(そしてまた、現代のリアルでもあるのかもしれない)。
 こうした設定のもとで起きる事件は、こんな具合。
 違法資金をマネーロンダリングしている企業融資家マローンを捜査対象とするプロジェクトの責任者エヴァンズ警部補は、盗聴室で情報収集に努めていたが、ある女子大生殺害を予告する会話を傍受。緊急手配をするが、予告された場所では既に若い女性が殺されていた…。
 この後、短い章を積み重ねながら進行する展開は、かなりシャープ。殺害が懸念される被害者の妹の行方を追う一方、マローンとその相棒をどう追い詰めるかが焦点になってくる。
 エヴァンズ警部補は、マローンの愛人宅の鏡をマジックミラーに入れ替え、監視・盗聴する捜査も行うが、一方で、このような捜査手法に関する良心の痛みも抱えている。組織の中で葛藤しながら、自らの正義を追求するという警察小説らしいトーンが貫かれているのが、好感がもてる。盗聴、監視から見えてくる人間模様、組織の中の裏切り行為、マスコミとの駆け引きなどを挟みながら、トリッキーな大捕物が決行され、設定を生かした犯人の解明、緊迫の追跡劇に続くスケールの大きいラストまで間然とするところがない。独自の設定にプラスして、警察小説の諸要素がほどよく盛り込まれており、これまで紹介されなかったのが不思議なほどの佳編といえよう。
 エヴァンズ警部補の隣家に住む娘シンシアとの会話や飼い猫ミスター・アダムがいいアクセントになっているだけに、単発の作品で終わったのは惜しまれる。
 

■エドガー・ウォーレス『血染めの鍵』■


『血染めの鍵』(1923)は、色々な意味で名のみ知られた作品であり、その刊行の意義は小さくない。本書は、日本で最初に紹介されたエドカー・ウォーレスの長編でもある。日本最初の探偵小説雑誌「秘密探偵雑誌」に掲載され、訳者は藤井巌(松本泰の別名義という説もある)、1923年5月~9月掲載(雑誌廃刊により中絶)というから、原書刊行と同年の訳になるわけで、おそろしく早い紹介ではあった。英国探偵小説の最新流行形として紹介されたのは想像に難くない。単行本としては、松本泰訳のものから、約90年ぶりの刊行という。
 ウォーレスの作品は、そのスリル重視の大衆性によって低く評価されがちなのだが、そのストーリーテラーぶりは、近年紹介された『真紅の輪』や異色短編集『J・G・リーダー氏の心』によって証明されている。
 本書にも、「面白ければよし」と、大衆を惹きつける要素は揃えている。
 冒頭は、イェー・リンという謎の中国人がロンドンで経営するレストランが舞台。トラスミアという大富豪が、中国から帰国する厄介者の口封じをイェー・リンに依頼する。厄介者の出現後、トラスミアは、自宅に堅牢強固な地下室という鉄壁の密室の中で殺害される。
 主人公役は、サマーズ(タブ)・ホランドという新聞記者。旧知のカーヴァー警部と謎の解明に当たる。
 トラスミアの死を取り巻く人物たちは、謎の中国人、アヘン中毒の帰国者、曰くつきの従者、怠惰な甥に、花形女優と多彩だ。ホランドが事件の主要人物と事件前に偶然関わりが出てくるのはご都合主義だと思うが、その後のなめらかな進行に一役買っているともいえる。
 鉄壁の密室の謎を核に、事件は、ホランドと花形女優の恋愛や、隠された秘密の探究等を交えながら、多視点でテンポ良く運ぶ。スリルを強調しながら、ユーモラスな一幕もあり、さすがに作者は緩急のツボを心得ている。
 犯人は、大方の人には見当がつくだろうし、鉄壁の密室トリックについても、現場にピンが落ちていたというくだりでピンとくる方もいると思うが(失礼)、密室の謎は、往年の読者には、ヴァン・ダインの作品や推理クイズ等でなじみのあるものだろう。不可能犯罪好きには、密室トリックの有名な原典にあいまみえたという喜びがある。
 
 読んでいる最中は気にもならないのだが、読後振り返ると、そもそも犯人が密室をつくる理由が判然としないし、二番目の殺人の動機も偶然の要素が強い。
 黄禍論的中国の脅威やオリエンタリズムへの好奇の眼が背景にあるのだろうが、イェー・リンの性格付けは、やや一面的。謎解きとの関連からは、そもそも中国人の存在は必要なかったともいえる。ノックスは、この種の作品を念頭に置いて、探偵小説に中国人不要説をとなえたのではないだろうか。
 本書は、謎解きを核にした探偵小説に接近した作品ではあるが、それだけに、プロットの整合性や謎解きの論理にはあまり関心がない量産家ウォーレスの弱みも出てしまった作品に思える。
 

■ジュリー・マキューラス他編『シャーロック・ホームズの失われた災難』■


 過去から多く出ているシャーロック・ホームズのパロディ・パスティーシュ集だが、その源をたどると、エラリイ・クイーン編『シャーロック・ホームズの災難』(1944) に行きつく。33編に及ぶ短編を収録した同書は既に古典の地位を獲得しており、二巻本の邦訳も出ている(今の時点で入手するのは、なかなか難物ではあるが)。
『災難』の序文で、クイーンは、収録作として割愛した作品を掲げ、その理由として、専門的すぎたり、「粗製乱造」などが挙げられ、ほかにも人種差別的記述のせいであったり、作品が長すぎるせいであったりと推測されている。本書は、この『災難』に収録されなかった作品のうち著作権フリーで入手可能なものを収録したもの。なんともマニアックな企画本だが、もともと、2016年にミネアポリスのホームズ団体(NEM) が三年に一度の大会の記念品として221部(部数までホームズ関連!) 限定出版されたものと聴けば、それもうなずける。こんな好事家的な本が普通に書店で手に入るのだから、我が国のホームズ先進国ぶりもたいしたものだ。14編収録。
 残りものに福がある、といえるがどうかは微妙だが、意外な面白さをもつものも多い。「マイクロフトの英知」は、マイクロフト・ホームズがシェイクスピアや鉄仮面の正体の謎に迫るコミカルな歴史推理(謎解きに期待してはいけないが)。アンドルー・ラング「船影見ゆ」はディケンズの未完作『エドウィン・ドルードの謎』をめぐり、ホームズをだしに、既存の評論の批評を扱ったもので専門的すぎるが、エドマンド・ピアスン「ディケンズの秘本」はホームズとワトスンが『エドウィン・ドルードの謎』の登場人物の召喚により事件の舞台に飛び込んでいくという設定で、数年前に紹介されたブルース・グレイム『エドウィン・ドルードのエピローグ』のアイデアを先取りしている感あり。未完の解決をめぐる既存の説を踏まえつつ、謎解きの面でも工夫されている。コルネリウス・フェート「サー・シャーロック・ホームズ最後の最後の冒険」は、オランダ語の作品だが、コント風のタッチはカミの「オルメス」譚に近い。そのうちの一話に、先月ご紹介した北原尚彦編『シャーロック・ホームズの古典事件帖』収録の三津木春影訳「禿頭組合」同様、「禿げ頭組合」の謎に迫る話があり(オランダ作品の刊行が1912年で三津木訳より1年だけ先)、日蘭の「禿げ頭組合」同時多発には驚かされた。この「赤毛組合」の模倣犯の正体はちょっと意外なもの。ジェイムズ・フランシス・チェリ「十一個のカフスボタン事件」は、150頁を超える中編。貴族の屋敷に世界中から集まった客や使用人が次々と盗難の容疑者になっていく展開は面白いが、結末はあっけなくミステリとしてもパロディとしてもやや肩透かし。
 大げさにいえば「マイクロフトの英知」は歴史推理の、「ディケンズの秘本」は文芸探偵の、「最後の最後の冒険」はナンセンス推理のハシリであるともいえ、パロディ・パスティーシュを通じて、ホームズ譚/ミステリに寄せる様々な書き手の夢想を読みとることも、これまた興趣の尽きない旅ではある。
 

■C・デイリー・キング『タラント氏の事件簿[完全版]』■


『クイーンの定員』の一冊でもあり、不可能犯罪興味に満ちた短編集が文庫化された。新樹社版に新たに四編(初訳一編)を加えた「完全版」として登場。初訳「邪悪な発明家」も、不可能興味を盛った(厳密にいえばアリバイ物だが) 折り目正しい本格短編であった。
「不可能犯罪は?」と問われて、「そんなものはない」と喝破するタラント氏が頼もしい。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita




◆【毎月更新】クラシック・ミステリ玉手箱 バックナンバー◆

◆【毎月更新】書評七福神の今月の一冊【新刊書評】◆

◆【毎月更新】金の女子ミス・銀の女子ミス(大矢博子◆)