はや一月も末。最後の方に、◆2017年のクラシック・ミステリ◆と題する回顧を書いていますので、御笑覧いただければ幸いです。
シャーロック・ホームズの人気が衰えない。近年のブームはなんといっても、BBCドラマ『シャーロック』の影響が大きいのだろうけれど、それ以前でも、映画化、TV化、パロディやパスティーシュは後を絶たず、ヴィクトリア朝末期に誕生した男は、名探偵の代名詞として君臨し続けている。
なぜなのか。
なぜ、同時代に活躍したソーンダイク博士やマーチン・ヒューイットではないのか。個性が足りないというなら、個性まみれの思考機械や鉄道探偵ソープ・ヘイズルではないのか。
その謎に敢然と立ち向かった学者がいる。
学者は最初に読者に選ばれるほど、後々まで残りやすいと考えた。しかし、最初にコナン・ドイルが選ばれ、同じくストランド・マガジンに書いたL・T・ミードやグラント・アレンは選ばれなかったのか。何かあるはずだ。それは小説中の「手がかり」だ。
こうして学者は、ホームズ最初の十年間にストランド・マガジンに掲載されたすべての短編ミステリ108編を読み、手がかりの有無、その明確性の観点から分類し、系統図を作成する。ところが、十年間の時系列をたどると、解読可能な「手がかり」をもつミステリは支持を得ず、「手がかり」なきミステリは支持を失わないどころか逆に支持が増えている。「手がかり」は決定打ではなかったのだ……。それ以降のかなり難解な考察は、フランコ・モレッティ『遠読』(みすず書房)の「文学の屠場」という論文をお読みいただくとして、面白いのは、ホームズ譚の圧倒的優位性はどこから来るのかについて実証的研究を試みる学者まで登場していることだ。
しかし、ホームズ譚がなぜ強いのかは、読者一人ひとりが「知っている」のではないだろうか。
というわけで、今月はホームズ関係で2冊あるはずだったが、ジュリー・マッキュラス編のパロディ集『シャーロック・ホームズの失われた災難』は、発売時期の関係で来月廻し。
もう一方は、論創海外ミステリの記念すべき200巻目だ。
■北原尚彦編『シャーロック・ホームズの古典事件帖』■
ホームズ譚は、我が国でも古くから親しまれており、編者解説によると、明治27(1894)年の訳者不詳「乞食道楽」(原作「唇のねじれた男」)がその嚆矢だそうだ。原作のストランド・マガジン掲載は、1891年12月号、単行本収録は1892年というから、当時としては、相当な移入のスピードだ。
本書は、その「乞食道楽」をはじめ、明治から大正期にかけてのホームズ翻訳を一望のもとにおさめるというコンセプトのもとに、13編を収録。しかも、シャーロッキアンの第一人者がの選だけあって、翻訳者、原作いずれもダブりがないという苦心の編さんだ。
訳者は、不詳、南陽外史、原抱一庵、夜香郎=本間久四郎、三津木春影、押川春浪、高等探偵協会、矢野虹城、加藤朝鳥、田中貢太郎、一花、森下雨村、妹尾アキ夫。無名の人も、ミステリ移入史上重要な人もいる。
冒険小説の大家・押川春浪訳の「ホシナ大探偵」(原作「レディ・フランシス・カーファックスの失踪」)は歯切れ良く、怪談の大家・田中貢太郎訳「書簡のゆくえ」(原作「第二のしみ」)は、しっとりと和風に溶け込んだ語りで、訳者の個性による味わいも楽しめる。「高等探偵協会編」とされている「肖像の秘密」(原作「六つのナポレオン」) は、西條八十の可能性があるという。
翻訳(翻案)のスタイルも、色々だ。
・通常の翻訳(意外なことに、最初の「乞食道楽」もこれ)
・登場人物が日本名になっているだけで英国(米国もある)が舞台になっているもの
例えば、矢野虹城訳「ボヘミア国王の艶禍」では、ホームズが蛇石大牟田(じゃせきおおむた)博士、ワトスンが和田になっている。蛇石大牟田というのはもはや日本名とはいえない気がするが……。
・舞台が日本に置き換えられ日本人ホームズが活躍するもの
例えば、押川春浪の保科大探偵(ホームズ)と渡邊(ワトスン)、高等探偵協会編訳の緒方と和田など。後者の緒方(ホームズ)は、京都大卒の理学士で、青島の戦場帰りの和田(ワトスン)と神楽坂の近くに同居することになる、という『緋色の研究』のアレンジは、より物語により親近感を沸かせるではないか。(もっとも、この部分の翻訳自体は、本書にも収録されている原抱一庵の先行訳「新陰陽博士」(原作『緋色の研究』)の文章をほぼなぞったもの)
草創期の外国小説の移入ゆえの苦労もうかがわれる。
三津木春影「禿頭組合」は、タイトルから想像がつくように、原作は「赤毛連盟」。日本人に赤毛は珍しいゆえの変更とおぼしいが、文章に当たると思わぬ異化効果が生じている。
質屋の男が「若禿組合員募集広告」をみて、事務所にいくと、「事務所を指して禿頭の寄せ来るわ、寄せ来るわ、東から西から、南から北から」「いやどうも夥しい薬罐の数」。多数の若禿げの応募にすっかり親父がしょげかえっていると、試験官は親父の頭をじっくりみたり撫でたりして「この禿げ具合は申し分なしじゃ」。
組合員試験に合格し、古文書の浄書で高給をもらっていた質屋がある日事務所に行くと「若禿組合を解散す」の張り紙。ここまで質屋の話を聴いて、上泉博士と中尾学士(ホームズとワトソン)が爆笑すると(原作でも二人が噴き出す)、「何も可笑しい事は毛頭無いと心得ますが」と禿げた頭の先まで真っ赤にする、って、これはコメディですか。
似たような変換は、ナポレオン像が乃木大将の像にされている高等探偵協会編訳「肖像の秘密」にもみられる。近年紹介されている『上海のシャーロック・ホームズ』『ホームズ、ロシアを駆ける』でも楽しめた、当時の自国の文脈に移し替えるときに生じるギャップのおかしみが、さすがに我々の母国語だけあって、一層ヴィヴッドに味わえるのである。
また、「禿頭組合」では冒頭に帝国銀行のくだりを加えたり、田中貢太郎「書簡のゆくえ」では原作では後に明かされる事情を冒頭に思わせぶりに配するなどの独自の工夫もみられる。
明治・大正期からホームズ譚の翻訳の系譜をたどるもよし、草創期の翻訳の苦心を味わうもよし、文化ギャップを楽しむもよし。時代の移り変わりや舞台の変更に負けない物語の骨格の強さを感じるもよし。幾とおりにも愉しめる翻訳集成である。
■アーサー・B・リーヴ『無音の弾丸』■
論創海外ミステリ201番目は、1910年代にアメリカのホームズとして一世を風靡したアーサー・B・リーヴのクレイグ・ケネディ物の短編集『無音の弾丸』。既に、電子書籍ながら、2015年に平山雄一氏の〈ヒラヤマ探偵文庫〉から同題で翻訳があり、当欄でも触れているため、内容については、そちらをご参照ください( https://honyakumystery.jp/1440459670 )。
少し不思議なのは、本書の訳者あとがきで、同じ作者で〈ヒラヤマ探偵文庫〉から出ている『エレインの災難』については触れているのに、先行訳の『無音の弾丸』には触れていないことだ。
■サキ『四角い卵』■
昨年末出版のサキ関係二作について簡単に。
『四角い卵』は、『クローヴィス物語』、『けだものと超けだもの』
『平和の玩具』と続いた白水社〈海外小説 永遠の本棚〉サキ・オリジナル短編集(和爾桃子訳)の第四巻。
初期短編集『ロシアのレジナルド』プラス没後出版の『四角い卵』、さらにその後の発掘作(世界で初めて単行本収録される作を含む)に、J.W.ランバートのサキ選集序文を加えたもの。
『ロシアのレジナルド』は、後の異色作家短編集風の「地名の岐路」、状況に翻弄される人を毒っ気たっぷりに描いた「獲物袋」「小ねずみ」、サキの一つのモチーフである動物譚で現実味と幻想味がブレンドされた「ゲイブリエル・アーネスト」などがある一方で、「宅配人ジャドキン」など放浪者としての作者の心象風景を思わせるものもある。
「四角い卵」は、風濤社版『四角い卵』でも触れたが、ほら話を超える名編。「その他の短編」からは、「池」「東棟」が強く印象に残る。
■エセル・M・マンロー/ロセイ・レイノルズ/サキ『サキの思い出』■
エセル・M・マンロー/ロセイ・レイノルズ/サキ『サキの思い出』は、サキの姉エセル・M・マンローとロセイ・レイノルズの評伝、これに関連の深い短編13編を収録。短編は、さきの『四角い卵』との重複も多い(刊行はこちらがひとあし先) 。
ほぼ同じ時期に出版されるのは奇遇だが、原著『四角い卵』には収録され、白水社版では割愛されてしまった姉エセルの評伝が本書の眼玉だろう。
白水社版のあとがきで、訳者・和爾桃子氏は、「世間が狭かったせいで致し方ないとはいえ、彼女の「サキ伝」は幼稚でバランスを欠き、ことに弟の作品に対する目配りがまったく不充分な感をぬぐえない」と手厳しい。弟が遺した草稿や私信文書一切を破棄したのはエセルともいわれており、J.W.ランバートは、先述の「サキ選集序文」でサキに対するエセルの態度を「姉の感情的カニバリズム」とも呼んでいる。
とはいえ、評伝「サキの思い出」は、ランバートも多くをネタ元に使っている貴重な資料であることは間違いない。もっぱら二人の叔母に育てられ、動物と親しんだ幼少年期、父との外国旅行、ビルマ憲兵隊での暮らし、ロシア、東欧、バルカン半島等をまたにかけた特派員時代(サキはエセルとともにペテルブルグで「血の日曜日事件」にも遭遇している)、執筆への専念、そして志願しての入隊。肉親者でしかできない証言であり、多くの手紙が引用される。サキが姉にみせる姿はいつも機知に富み、快活だ。
快活な精神的根無し草にして、道徳家で孤高の存在。サキの人生を知るにつれ、機知に富んだシニカルな作品のはしばしに彼自身の投影がみられるようになった。サキ作品のリバイバルは、新たにサキ本人と彼の作品という謎を呼び寄せたといえるかもしれない。
◆2017年のクラシック・ミステリ◆
2017年を振り返ると、やはりバラエティに富んだ一年だった。主軸・論創海外ミステリが月1巻ないし2巻の刊行であり、2016年より刊行点数総数は減少した。それでも、今年初頭には、ミステリ単行本叢書としては偉業ともいえる200巻超え。引き続き、まだ見ぬ傑作・佳作・怪作を紹介していただきたい。(作品名後の算用数字は、本欄で取り上げた月)
■古典期■
古典期では、レ・ファニュ『ドラゴン・ヴォランの部屋』2がミステリ要素を多分にもった短編集。ファーガス・ヒューム/波多野健編・訳『ピカデリーパズル』11は忘れられた作家に思わぬミステリの先駆性を見せられた中短編集。ピエール・スヴェストル&マルセル・アラン『ファントマ』8は、悪のヒーローの原型第一作の全訳版が出たのは嬉しい驚き。岩波文庫から4巻本で出たチャールズ・ディケンズ『荒涼館』を扱えなかったのは、残念だった。
■黄金期■
ヘレン・マクロイの第二長編『月明かりの男』9でも、際立った異能を示した。貸本ミステリの女王、アメリア・レイノルズ・ロングが、『誰もがポオを読んでいた』1、『死者はふたたび』10の二作も紹介されたのは、なんともマニアック。前者はその趣向にみるべきところがあり、後者は軽ハードボイルド風ながら驚きの一手を秘めた佳編。マイルズ・バートン(ジョン・ロード)『素性を明かさぬ死』(1939)11は、密室解明の興味一本で惹きつける本格物。ほかに、ミニオン・G・エバハート『夜間病棟』8、クリフォード・ナイト『〈サーカス・クイーン号〉事件』10があった。
J.S.フレッチャー『ミドル・テンプルの殺人』2、C.デイリー・キング作を中心にした日下三蔵編『鮎川哲也翻訳セレクション 鉄路のオべリスト』9、ロナルド・A・ノックス『三つの栓』12など古典的作品の新訳・復刊も続いた。
■ポスト黄金期■
ジョン・ロード『代診医の死』8。幾つものミステリの手筋をうまく配合しつつ、ハラリと解ける快感。退屈派ともいわれる作者の邦訳中のベスト級。エリス・ピーターズ『雪と毒杯』10は雪の山荘テーマながらひねりも加え読みどころ多彩な一級品。ハリー・カーマイケル『ラスキン・テラスの亡霊』3は、サプライズを備えつつもやや統一感に欠けた邦訳2作目ながら、今後の紹介にも期待がもてる。D・M・ディヴァイン『紙片は告発する』3は、安定の読み心地。
本格派といわれるマイケル・イネスの『ソニア・ウェイワードの帰還』4は、小説家を題材にした自画像的ブラックコメディ。E・C・R・ロラック『殺しのディナーにご招待』6は、後半やや尻すぼみの印象。
サスペンス系では、メアリー・スチュアート『霧の島のかがり火』9、マーゴット・ベネット『過去からの声』12。それぞれロマンスを絡めて独自の存在感。パトリシア・ハイスミスのデビュー作『見知らぬ乗客』10の新訳で、改めて初期からの高い完成度を示した。
■ノワール/ハードボイド期■
この項目は寂しいが、文遊社でジム・トンプスンの未訳紹介が始まったのは朗報。『天国の南』8、『ドクター・マーフィー』11で従来と異なる貌を見せてくれた。
■短編集■
短編集は、デュ・モーリア『人形』1、中村融編『夜の夢見の川』5などが収穫だった。近年続いているサキリバイバル『平和の玩具』6『四角い卵』18.1『サキの思い出』18.1も忘れ難い。
レオ・ペルッツ『アンチクリストの誕生』10はミステリとは言い難いが、繊細に紡がれた物語の魔力を再認識させてくれた。他に、ユニークなものとして、さきに触れた古典期の二作や久野康彦編・訳『ホームズ、ロシアを駆ける』9、山口雅也編著『奇想天外 21世紀版アンソロジー』11。エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事4』5は順調に刊行中。
■その他■
R・L・スティーヴンスン&ロイド・オズボーン『引き潮』8は、ノワール冒険小説とでも呼びたい新たな古典。
ホラーでは、ナイトランド叢書が順調に刊行を続け、A.メリット『魔女を焼き殺せ!』8、サックス・ローマー『魔女王の血脈』10のようにミステリ類縁作もあるから見逃せない。
国書刊行会〈ドーキー・アーカイヴ〉は、1年ほど間が空いて心配させたが、マイクル・ビショップ『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』12は、高度なテクニックと遊び心に満ちたメタ・ホラーで期待に違わなかった。
ジュブナイルではエラリー・クイーン2冊目『黒い犬と逃げた銀行強盗』1が出た。
■ノンフィクション■
チャールズ・ボズウェル『彼女たちはみな、若くして死んだ』7は、犯罪実話の古典で、ミステリとして読んでも妙味があった。ほかに、回想記ジョン・ル・カレ『地下道の鳩』3、東秀紀『アガサ・クリスティーの大英帝国』6など。
レオ・ブルース『三人の名探偵のための事件』9、論創海外ミステリとしては初の文庫化である北原尚彦編『シャーロック・ホームズの栄冠』、カーやチェスタトンの新訳のように、新しい読者向けに文庫化も進んでいる。
今年も、年初から各社が期待のラインナップを示しているが、いったいどんな隠し玉が飛び出すのか、括目したい。
最後に極私的ベスト8プラスαを。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |