Faubourg, Gallimard, 1937(1934/10-1935/3執筆)[原題:郊外]
・« Marianne » 1936/2/26-4/22号(全9回)
Home Town, On the Danger Line所収, translated by Stuart Gilbert, Penguin Books, 1952(Home Town/The Green Thermos)[英][故郷]*
Tout Simenon T20, 2003 Les romans durs 1937-1938 T3, 2012

 今回は『Faubourg[郊外]という地味なタイトルの長編小説である。前回紹介した「155日間世界一周」旅行の出発前から書き始められ、旅行中に書き終えられた。しかしそれから連載発表まで1年、書籍刊行まで2年掛かっている。章立ても全8章と普段より少ない。

 駅で列車から降りたのはふたりだけで、彼らはこの地下の場所を見下すかのように、列車が発車するまでそこで待ち、車線を越えた。客車は灯りも点けずに、日除けを閉めて進んでいった。誰もが眠っていた。
 駅に人の姿はなかった。列車の騒音が一度響き、ふたりは低い声で話そうと、つま先立ちで歩いて行った。
「陽気なところじゃないわね!」その女は枕木に敷かれた砂利でハイヒールを挫きそうになりながら言った。
 彼は応えなかった。彼女もまたそれを求めているわけではなかった。不平も言わなかった。それは一種の事実であり、それ以上ではなく、辛さでもなかった。だからどうしたと言うのだ? 
 ド・リッターは出口の鉄柵の近く、ホームのいちばん端に職員がいるのをよく知っていた。彼はまた事務所に弱い光が灯っていることにも気づいていた。副長か誰かがいるのだろう。
 それは最悪の部類の駅で、ほどほどの大きさで6車線あり、地下鉄が走り、広い食堂と、休憩室と、そして曇りガラスの屋根があった。子供のころ、ド・リッターはこの駅をとても大きいと思っていた。
「ほら……」と彼は駅の係員にチケットを渡した。荷物は明日受け取りに来ることになるだろう。
 彼は駅の前へと歩いた。親切に連れ合いの女を案内しようと気を配ることもなかった。
 陰の下で、タクシーがたった一台停まっていたが、ド・リッターは見ることもなくそこを過ぎ、駅の向かいにあるカフェへと女を連れて行って扉を押した。
「入りな」(仏原文/英訳文より瀬名の試訳)

 私も仏検4級に合格し、仏原文からいくらか直接に翻訳できるようになってきた。
 相変わらずシムノンの小説は冒頭部を訳すのが難しい。だが「ああ、いかにもシムノンらしい書き出しだなあ」と思われるのではないか。「地下を侮蔑的に(dédaigneux du souterrain)」という訳しにくい言葉が早くも二文目に出てくる。「これからシムノンの小説が始まるぞ」という湿った空気が立ち籠めている。
 今回は読みながらいろいろと考えることの多い作品だった。物語に没頭してページをめくる手が止まらない、ということではなく、むしろ没頭したいというこちらの願いは押さえられて、読みながら私は作者であるシムノン自身や彼の環境、この小説を書いた際の想いへと考えが広がっていったのだ。
 本作は普通に評価すれば「失敗作」なのかもしれない。しかし単純にそう片づけられない余韻がある。シムノンはこういう作品のほうが実は後々まで心の中で尾を引く。
 ついに世界一周旅行にまで出掛けたシムノンが、その船上でどことも知れない「郊外」を舞台に、きわめてドメスティックな物語を書いた。自伝的であり、同時に自己批判的でもあり、そして取り返しのつかない悲劇で終わる物語である。既読作品の『赤いロバ』連載第38回)、『情死』第43回)、『逃亡者』第44回)が混じり合ったような内容で、ラストの展開を示さずに物語を紹介するのは難しい。
 
 物語は先にも書いたように、いかにもシムノンらしい陰鬱で湿った空気感から始まる。ときは5月。ある郊外の町(名は明示されない)に、主人公ルネ・ド・リッター42歳と娼婦のレアがやって来る。そこはルネが18歳まで暮らした故郷だ。ルネはこの町を出てから世界を旅して周り、ときには地下の仕事もおこない、少し前に帰国して、2ヵ月前にクレルモン・フェランでレアと知り合ったのである。
 故郷であるこの町にはもちろん彼の旧知がたくさん暮らしている。だが物語の最初のうち、彼が何の目的で24年振りに帰郷したのか、私たち読者にはわからない。彼は懐かしい家や店に出向いて中の様子をうかがったりするが、なかなか接触を図ろうとしない。昔の学友だったアルベール・ティオンが経営しているホテルに宿泊するが、当初は彼がルネだとは気づかれない。
 ようやく彼は周囲に素性を明かし始め、そして驚くティオン夫妻に緑色の石を取り出して見せ、これはエメラルドの原石なのだという。つまり彼は海外で成功した人間であって、その気になればいつでも宿賃も払えるのだとアピールしたのである。彼はレアも同じホテルに招いてふたりで滞在する。
 シムノンの筆はルネの内面へと入り込んでゆくことがない。そのため私は最初、これは引っ掛けなのかと思った。つまりルネは金持ちの振りをしながら実際は貧乏で、宿賃も払えない人生の敗者なのではないか。彼は娼婦のレアとカフェで頻繁に落ち合うが、そこでも彼自身が本当に金持ちだとわかる台詞はない。ふたりは金に困っているように見える。レアは地下の仕事屋が言った「ルネはアマチュアだ。おれはアマチュアとは取引しない」という指摘も憶えていて、そのことを話題に出してルネのふがいなさをなじるかのようでもある。
 彼は馴染みの場所に足を運んでゆく。この辺りの回顧的な描写は、まるでシムノンが自分の故郷であるリエージュに戻ったかのようでとても瑞々しい。この町がリエージュでないことだけは確かだが、シムノン自身が少年時代に戻って故郷の街路を巡り、懐かしいおじやおばの家の前まで行き、かつての思い出に浸っているかの如き心地よい錯覚を受けるのである。この作品では現在と過去の描写がつねに繋がっている。ある段落で現在のことが書かれていても、次の段落になるとルネの心は過去へと戻り、当時のエピソードが綴られる。そしていつしか自然なかたちで再び筆は現在に戻る。
 全8章と章立てこそ少ないが、小説全体の長さは普段のシムノンと変わりがなく、従って各章がいつもより少しずつ長い。それが描写に普段以上の充実感をもたらしているように思える。シムノンは旅をするごとに上手くなっていった作家だという印象をこれまで持っているが、ここでもそう感じさせられる。
 面白いのはルネが周囲の人々に、自分はニューヨークやパナマ、南米ブラジル、南洋の島々やオーストラリア、コロンボ、ボンベイを旅していたと話すいくつかの場面だ。どれも本作の執筆中、まさにシムノンが「155日間世界一周」旅行で行った(行きつつあった)場所である。微笑ましくなるが、ここへ来て「おやっ」とも思う。ルネが世界旅行をしたのは嘘かと思っていたのに、どうやら本当であるらしい。ではそうした旅行中に地下の仕事に手を染めて金欠になったのだろうか。エメラルドも偽物だと私は思っていたが、実は本物なのだろうか。
 ルネは自分の名字が本当はシュヴァリエだとカフェの者たちに明かす。シュヴァリエ(騎士)をドイツ風にしてド・リッター(騎士)と名を変えているが、自分はジャーナリストで、世界のことを記事にしているのだという。さらに読み進めると、彼が本当に記者であったこともわかってくる。地元の新聞にペンネームでエクアドルの情勢などを書いているのだ。彼は演技をしているのではなく、本当は誠実な人間なのだろうか。読んでいる私たちにはその見極めができない。その揺れが不安として心に残りながら、私たちは読み進めることになる。
 彼が本名をシュヴァリエだと明かしたことで、すでに彼がシュヴァリエ夫人、すなわち自分の母の家へ何度か様子を見に行っていたことが読者にわかる。ルネはマチルドおばのところへ行き、ついにしっかりと本性を明かす。マチルドおばは彼が16歳のときから母と同じ店で働いていたのだ。おばはルネの来訪に驚きながらも、これまでの時の隔たりを埋めるかのようにあれこれと世間話をする。誰それは亡くなった。お母さんには会ったの? マルト・スビローという娘を憶えている? あなたのことがいまでも好きなはずよ……。ルネはエメラルドの原石を見せて信用させ、おばから千フランの小切手をもらうことに成功する。カフェでレアに会い、金が手に入ったと伝える。レアは原石の信用金が纏まって手に入ったら、この町を出てふたりでどこかで暮らそうと考えている。だがルネの心持ちは明らかにされない。
 ルネは幼なじみのマルトの家に行く。彼女は父親と共に靴屋を経営している。少なくとも彼女は38歳になっているはずだ。昔は斜視だったが、いまはごく普通の顔立ちになっている(斜視の女というモチーフはシムノンの小説にときおり出てくる)。そして彼は、ついに母のもとを訪れる。母はもうひとりの老メイドと同居していたが、ここ数日家の前を行ったり来たりしていた男が自分の息子だったのだとようやく知り、驚きながらも歓待する。ルネは新聞局からも小切手ももらうことに成功しており、その金で買った腕時計のプレゼントを渡す。「何だかおかしいわね、あなたの16歳の誕生日でプレゼントをあげたときみたい」「あなたはちっとも変わっていないわ」
 そしてシュヴァリエ夫人はやはり時を埋めるかのように親族や自分のことをあれこれと話し始める。息子が帰ってきて嬉しくて仕方がないのだ。私たち読者はルネと同じ心境で彼女の四方山話を読んでゆく。この辺りの特にこれといった内容もない会話が続く時間は、地味だがいかにもありそうだと思わせ、目の前に光景が広がってゆく。誰しも久しぶりに故郷へ帰ったら、母親からこんなふうに長々と話を聞かされ、居心地が悪くなるのではないだろうか? そして初めてルネはここで「母さん」ではなく「ママ」と呼び掛け、新聞局へ行かないといけないんだ、また明日来るよ、と言っていったん退席する。「夕食は食べていかないの?」「あなた、結婚したの? 誰かといま一緒なの?」と初めて母は彼のことを訊く。それを振り切って彼は出て行く。こうした何気ない描写によって、私たち読者はこの小説に入り込んでゆく。
 本作の大半は、こうした情景に費やされる。だが、ルネに金が入るごとに、少しずつ彼とレアの関係は変わってゆく。レアはホテルの主人アルベールと何度も会うようになっていたが、アルベールの妻はそのことで心を痛めていた。ルネはいったん彼女に町を出て行く振りをさせ、そして近くの別のホテルに泊まるよう仕向ける。奇妙なことだが、ルネは彼女を手放したくないのだ。少しずつ各登場人物に執着心が生まれてくる。レアの側からすると、ルネが故郷の母や幼なじみのマルトと会うようになったので、彼が自分から離れていってしまうような気がしている。だがルネはマルトと会うようになってから、むしろレアを手離したくない、繋ぎ留めておきたいという気持ちが強まってゆく。レアはそんな彼の執着が手に取るようにわかるわと叫ぶ。物語はようやく終盤に入って展開を見せる。
 ルネはマルトの靴屋へ行く。父親はおらず、彼はマルトとふたりでぼんやりと会話をする。彼の書いた記事をマルトは新聞で読んだと言う。「きみの本はどこに?」「寝室よ」そう言えばマチルドおばから、マルトは昔の彼の写真を壁に掛けていると聞かされていた。「見てもいいかい?」「もちろん。階段を上がって左よ」
 マルトは店番をしていなければならない。だがルネは彼女を呼ぶ。たったの数分だからと。彼女は承諾して二階に上がってくる。ふたりで彼女の寝室を見渡す。数百の本がある。「私の部屋をどう思う?」と彼女は尋ねる。

「ああ、とても暮らしやすそうだ」彼は自分が何を言っているのかほとんどわからなかった。
「ええ、そうでしょう?」彼女の口調は少しばかり皮肉っぽくもある。
「この部屋はいままで見たことがなかったな」
「ママが亡くなるまで、私は上の部屋を使っていたの……。だからあなたは知らないわ……」
 店のベルが鳴り、マルトは彼女の唇を彼の唇から離した。
「誰か来たわ……」と彼女は言った。
 しかし彼女は彼の抱擁から逃れようとはせず、彼が「待たせておけ」と呟くのを受け入れてキスを返した。(仏原文より瀬名の試訳)

 この場面に私は驚き、とても巧みだと思ったのだが、いかがだろうか。英訳版では「私は上の部屋を使っていたの」の台詞の後、一行空けがあり、いきなり次に唇を離したとの描写がある。これにも驚いたが、原文を確認すると、何とシムノンはここに一行空けを挟んでいなかった。ただの改行のみで、続けて書いていた。唇が重なったという瞬間、そこへいたるまでのわずか数秒の動作を、シムノンは記していないのである。何と鮮やかな書き方だろうか。ふたりの関係が何か一線を越えそうだという予感は読者にある。ふたりは寝室というプライベートな空間へと上がってゆき、どうでもいい会話を交わす。だがこれほど唐突に、キスが終わっていたと示されることで、かえってその瞬間が鮮烈に想像される。シムノンの上手さはこういうところにある。
 ここで全8章のうち6章が終わる。次の第7章で、ルネはマルトとの結婚を決め、母やレアに報告する。母に話すとき彼は初めて饒舌になる。そして3週間が経ち、最後の第8章の冒頭で彼らは実際に結婚する。
 それまでのゆっくりとした流れが嘘のように、あれよあれよという間に彼らは結婚するのである。マルトは決して美人ではない。若いわけでもない。なぜここまで急にルネが彼女と結婚しようと思ったのか、読者にはまったくわからない。だがこの急展開を読み進めるうちに、彼の心は本物だと私たちに知らされるのである。私たちはこれまで、彼が誠実な男なのか、演技をしているだけなのか、わからなかった。マルト自身もそう感じている。ところがここへ来て彼は愛によって結婚するのだ、他のどんな理由でもないと宣言する。これまでずっと世界を旅して、何人もの美女にも会ったが、一緒になろうという気は起きなかった。世界中の扉を叩いて底から這い上がり頂上へと手を伸ばしたが、憩いの場所はどこにも見つからなかった。だからいまここに落ち着いて、きみと靴屋を経営するのだ、とルネは言うのだ。彼は真に誠実な男となるのである。
 だが同時に、彼はレアに対して、町を出て行くな、ずっとここにいろと、いままでよりはるかに強い調子で圧力を掛けてくる。そして実際に結婚しても、彼は毎日レアと会う。レアがホテル経営主のアルベールといまも会っていることに、これまで以上に嫉妬心を剥き出しにする。愛を見出して霧の状態から抜け出したルネは、かえってバランスを崩して自滅への道をまっしぐらに突き進んでゆくのである。興味深い展開だ。私たち読者はルネのことがもはやわからない。それまでは曖昧だったルネに郷愁の共感を覚えることさえあったのに、ルネは私たちの心からどんどん離れてゆく。マルトの心からも、レアの心からも離れてゆく。彼は真に孤独な人間となってゆく。
 最後のわずか数ページで、物語は異様な展開を迎える。モーリス・ピロン監修の研究書『シムノンの世界』ではこの結末をあらすじの一部として明記しているのだが、さすがに書くのは未読者のために憚られるのでやめておく。『赤いロバ』『逃亡者』でやらなかったことを、シムノンは本作でやってしまった。
「失敗作」と言い切れない余韻が、「余韻」であるのに私に食らいついて離れない。余韻に引きずり込まれて私自身が影になってしまうかのようだ。
 
 これはミステリーでもなければ娯楽小説でもない。ミステリー評論家や自称ブック・コンシェルジュなる人たちはこのような本を書評できないと思う。明るい共感を喚起する言葉が出て来るわけでもなく、「読め!」と叫ぶわけにもゆかず、ジャンルコミュニティに軸を支えてもらうこともできないからだ。そういう人々のお薦めさえも客体視して、ただ本を読む人々、1年に200冊読む人に、このような小説は手に取られる価値があるのではないか。
 ここにはシムノンの生の部分が顕れている。これは読者である私たちが、物語と作者の間を交互する小説だ。それが生々しい読後感を与える。シムノンは旅をするごとに筆力が上がっていると先に述べた。その確かな筆の中に、いままさに旅をしているシムノン自身が顔を見せる。
 途中でレアがルネに反抗して迫る場面がある。
「あなたはアマチュアでさえないわ。世界をノックして回っても、あなたは何も変わらなかった」
「思った以上におまえは馬鹿だな」とルネは応じるのだが、このレアの叫びはそのまま世界一周旅行中のシムノンの胸に突き刺さる言葉ではないのか。この乖離感はどうだ。いままさに作者シムノンは、めったなことではできない世界一周旅行に出ており、普通の人なら見ることのできないような美しい風景をたくさん見ている。だが娼婦レアは、そんなことをしてもあなたはアマチュアにさえなれないと断ずるのだ。
 なぜこの小説はシムノンの故郷リエージュを想起させるのだろうか。なぜ主人公ルネは世界中を旅しながら故郷に戻り、そして憩いの場はどこにも見つからなかったなどと告白するのだろうか。そしてなぜルネは特に思いも寄せていなかったかのように見える地元の女と結婚して、急激に壊れてゆくのだろうか。すべてそれらは並行世界にいる、もうひとりのシムノンの姿ではないのか。
 シムノンは旅を「満喫」しながら、取り返しのつかないところまで壊れてゆく自分自身を書いている。そしてそこへいたるまで、並行世界のおのれを思い出の中に解き放つ。それらの思い出はどれも私たち読者がまるで自分の記憶のようだと感じるほど懐かしく、具体的だ。
 これらすべてがシムノンの人生体験の産物なのだ。

 私はふと思った。シムノンの小説は、復帰後の宇多田ヒカルの歌のようだ。
「真夏の通り雨」がそうだ。初聴時にタイトルの言葉が出てきてから受ける展開の意外性。引きずり込まれるように続くリフレイン。フレーズの最後の一語が別の感嘆詞に置き換わって耳に届かなくなり、言葉の意味が消失する歌声。
 本作『郊外』を書き上げたとき、シムノンは32歳。
「真夏の通り雨」を発表したときの宇多田ヒカルは33歳。
 シムノンの旅は彼の人生体験として彼の中に積もっていった。このまま行けばシムノンは、いつかどこかで宇多田ヒカルの歌のような世界を書いた並行世界もあったのではないか。そのように私は思ったのだ。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/html/kigen_greecia/index.html)。
 
■解説:瀬名秀明氏!■







 











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