La mauvaise étoile, Gallimard, 1938[原題:悪い星]
・初出総タイトルLes vaincus de l’aventure, « Paris-Soir » 1935/6/12-14号, Les aventuriers du malheur, « Paris-Soir » 6/15-20, 22-25号(全13回)シムノン全集記載の書誌は誤り。[冒険の敗者たち][不幸な冒険家たち]
 
▼単行本化で省かれた章
Le Captaine Philps et les petit cochons, « Paris-Soir » 1935/6/19号(連載第8回=書籍版第6章と第7章の間)初収録:Œuvres Complètes T7, 1967[フィルプ船長と子豚たち]
 
・同名, folio policier (Gallimard), 2002
Tout Simenon T20, 2003*
En marge des méridiens, « Marianne » 1935/1/30, 2/6, 13, 20, 27, 4/3, 5/22, 9/11, 18, 25号(全11回)*『わが訓練』記載の書誌は誤り。1935/9/11号に2章分掲載。[子午線の外側で]
Histoires du monde malade, « Le Jour » 1935/8/23, 24, 26, 27, 28, 29, 31, 9/2, 3, 4号(全10回)*[病める世界の物語]
・Tahiti ou Les gangsters dans l’archipel des amours, « Paris-Soir » 1935/9/17-21号(全5回)*初出タイトルLes gangsters dans l’archipel des amours。紙面では本来の5章と6章の原稿を切り詰めて第5回にまとめて掲載。『わが訓練』には未掲載部分も収載。[タヒチ または 愛の群島の悪漢たち]
Mes apprentissages: Reportage 1931-1946, Omnibus, 2001

 今回もシムノンの旅行ルポルタージュの感想をお届けする。多くのノンフィクション作品と同じく生前には単行本化されなかった連載3つと、そして珍しくも当時(とはいえ連載から3年後だが)単行本化された『La mauvaise étoile[悪い星]だ。
 連載第46回で紹介した『川と運河を巡る長い航程』『スクーナー船の地中海、あるいは我らが海』は没後出版の単行本だが、今回の『悪い星』はシムノンが旺盛に作家活動を展開していた1938年にガリマール社から出版されている。
 これは生前にシムノン名義で書籍化された唯一のルポルタージュ連作で、そのためノンフィクション作品であるにもかかわらずオムニビュス社のシムノン全集にちゃんと収められており、いまでもフランスではペーパーバックで容易に購入できる。
 
 シムノンは1934年12月12日から翌1935年5月15日まで、《パリの夜》紙と《マリアンヌ》紙にルポを書くため「155日間世界一周」の旅に出た。シムノンの生涯の中でも特筆に値する大旅行であった。世界を見て回りたいというシムノンの積もる思いはここでピークを迎えたわけである。
 出発地はル・アーヴル。客船に乗り、まずは大西洋を横断してアメリカのニューヨークへ。続いてパナマ運河を抜け、コロンビアのブエナヴェントゥラ、赤道直下エクアドルのグアヤキルと首都キト。ガラパゴス諸島に立ち寄った後、太平洋のタヒチに1ヵ月半から2ヵ月ほど滞在。そしてニュージーランドのオークランド、オーストラリアのシドニーなどに寄港してから、ティモール海とインド洋を抜けてボンベイ(現ムンバイ)へ。紅海を北上しスエズ運河から地中海へと抜け、南仏マルセイユに戻る。客船は途中で何度か乗り換えている。羨ましくなるような旅程である。
 この旅行体験は、後に長編『Ceux de la soif』『Quartier nègre』『Long cours』『Touriste de bananes』『フェルショー家の兄』『Le passager clandestin』のほか、いくつかの異郷情緒溢れる短編へと結実した。
 そして旅行中にシムノンはエッセイや記事をたくさん書いた。それらが航海中や帰国後にフランスの各紙へ掲載されたのである。今回紹介するのはそうした旅行記事であるが、掲載紙によってそれぞれ少しずつカラーが異なる。
 それらを俯瞰すると、シムノンという作家の特質が見えてくる気がする。あくまでも個々の人間に興味と関心を抱き、個々の人間を描き続けた作家シムノンらしい筆致が、これらのルポルタージュにはストレートに現れている。
 
 ひとつずつ見てゆこう。先陣を切って旅行の最中から連載が始まったのが《マリアンヌ》紙の「子午線の外側で」だ。各回の文章は短く、そのため全体的に軽いのだが、シムノンがリアルタイムで書いてすぐさま電信してきているかのような雰囲気が伝わってくる。
 シムノンが立ち寄った順番通りにエピソードは進んでゆく。第1章の日付は1935年1月、場所はエクアドルのグアヤキル。何章かエクアドルの話が続き、6章になって太平洋上へ。7章からはタヒチの首都パペーテとその周辺。10章でインド洋へ辿り着き、最後の11章は4月末から5月初頭(4月35日と日付が書かれている)、インドネシア南東部の島、ティモール島付近での記事となる。
 各章はあまりに短いので、シムノンの言葉足らずな筆致が強調される。おそらくどれも構成を考えずに書き出して、ほとんど見直しもせずに脱稿としていたのではないか。思いついた端から文章を起こしているので、読んでいる最中は何を主題とした短文なのかわかりにくいのが難点だが、それはシムノンのノンフィクション記事にいつも見られる特徴なのである。
 シムノンは旅行中に見知った人々のことや、そうした人々から聞いた話を書く。短い文章の中で風景描写はほとんど見られない。シムノンはつねに人間に対して関心があるのだ。そして知り合った彼らを最初から最後まで観察者の視点で描く。彼らの内面に分け入って彼らの気持ちを代弁するのではなく、終始傍観者として描くのである。このことは後で詳しく記そう。そしていつもながらの感嘆符「!」の多用は、小説のときと違って書き急ぐかのような短い呼吸のリズムを、あるいはやや大げさで、どこか浮き足立っているかのような雰囲気を読者に感じさせる。
 いくつか内容を紹介しよう。6章の副題は「船上のドラマ」。この世界一長い船旅で、さまざまな国籍の人が船に乗り合わせているが、昨日甲板でドラマが発生した、とシムノンは書く。私たちはささやかなパーティを企画した。3日前から運営組織をつくったが、一等客と二等客で一緒にやるべきかどうか? 私たちは投票もおこなって、合同開催することに決めた。プログラムも作成し、婦人たちはチケットを販売した。そして突然のドラマが起こったのだ! これが私のドラマである。二等客が非公式でパーティを催していたのである。いいか、非公式で、だ! 処罰のために食事抜きと決めたが、いったい誰を罰するというのだろう? この報告を書いている現在もまだ解決の見通しはない……。
 いやはや、いったいどれほどドラマチックなことが書かれるのかと思って読み進めると、たったこれだけのことである。「ドラマ」の真相が書かれるまでの溜めがいかにも長い。推敲もせずに面白がって書き飛ばしているシムノンの姿が目に浮かぶようだ。
 7章の副題は「ダグラスとトゥパパウ(Tupapau)」。私はタヒチに着いて上陸し、首都パペーテの町から10キロのところにある家を借りた。タヒチ古来の建築方法でつくられた、もともとドイツの映画監督F・W・ムルナウの兄弟の家だったところだ。後にチャーリー・チャップリンも住んだ。ムルナウ監督は『タブウ(Tabu)』(1931)というポリネシアが舞台の映画もつくっているのだが、このムルナウの兄弟の家へ1923年に俳優のダグラス・フェアバンクスが泊まった。
 私はある人の家に招かれたとき、ムルナウの家にマオリ族の死霊トゥパパウが出るとの話を聞いた。フェアバンクスは宿泊したその夜、驚いてパジャマ姿で近隣の地元民を起こしてトゥパパウを狩ったのだそうだ。2日目の夜には車に飛び乗って汗を掻きながらパペーテに辿り着き、翌日は家に帰ろうとしなかったという。
 尊敬すべきフェアバンクス! 無敵の男だ。しかし私がその家に泊まった最初の夜、不意に誰もいないのに車のホーンが鳴り出した。3日目の夜には車のバッテリーが上がった。4日目の夜もそうだった。
 このようにシムノンは書くのだが、だからといってオチがあるわけではない。しかしハリウッドから映画撮影団体がたくさん乗り込んでくるタヒチの特徴を皮肉っぽく捉えようとした記事である。ちなみにダグラス・フェアバンクスが地元の幽霊を見たというのは有名な話らしく、検索してみたらウェブ上でも出てくる。トゥパパウはポール・ゴーギャンの絵画「死霊は見守る(Manao Tupapau)」に描かれている。
 シムノンの前のめりの文章が、何となくご想像いただけるだろうか。シムノンの本文には「F・W・ムルナウ」とフルネームは書かれない。ただたんに「ムルナウ」だ。『タブウ』という映画のタイトルもいきなり出てくる。トゥパパウについての説明もない。上記のあらすじでは私が補ったのである。シムノンの言葉足らずな特徴も感じていただけるだろうか。
 旅行中、シムノンはヨーロッパからの電信情報をほとんど得ることがなかったようだ。注目すべきヒトラーの動向もわからない。そこで彼の旅行記はヨーロッパの日常感覚とは乖離したものになり、おかげで南米や太平洋諸島に暮らす人々のごく個人的な逸話が中心となった。
 連載第46回で「微笑むフランス」という船旅のエッセイを紹介したが、シムノンの旅行記ではこの「微笑む」という言葉が通底しているように思える。金持ちの話や金のない人々の話、地元民の話と、どんなことを書くときでも、書いている自分と、書く対象である相手と、そしてこれから読むであろう読者が、どこか「微笑む」ことのできる筆致が選ばれている。もともとユーモアコント作家だったシムノンの側面が現れているようだ。
 一方、シムノンは連載の最終章で必ずペーソスを組み入れる。メグレ第一期の中盤作品、『男の首』『オランダの犯罪』あたりで描いた最終章のように、違った視点で旅を総括しようとする。この連載でも最後に彼は、これはひどく疲れて気の滅入る旅行だったと書く。楽園を巡ったように思われるかもしれないが、たとえば北米では汚い場所も目にしたと書く。だが、だからどうしたというのだ、気にするな、ともシムノンは書くのだ。明日はボンベイだ。今朝、キャビンから出ると、少女が『不思議の国のアリス』を読んでいるのを見た。次の港に着いたら私は映画館へアニメ映画を観に行くだけだ! と書いて連載は終わる。
 世界にはよい面も悪い面もあるが、明日にそれが変わるわけではない、自分はただそれを観察して、この旅を終えてフランスに戻るのみだ、と言いたいかのようだ。この一種の諦観と、世界を俯瞰するのではなくあくまでも旅行中に出会った個々人にエッセイの焦点を絞る姿勢は、シムノンに特徴的なものだ。
 ふと私は読みながら、これがシムノンとカミュの違いだろうかと思った。シムノンはカミュの『異邦人』は書けたもしれないが、『ペスト』は書けなかっただろう。たまたま先頃、私はNHK Eテレの番組「100分de名著」でアルベール・カミュ『ペスト』を取り上げた回を観た。カミュは「われ反抗す、ゆえにわれら在り」と言ったという。「われ」が「われら」になるところにカミュの「連帯」への願いが込められているという。だがシムノンは他者と「連帯」しない。自分が記事で書く人々は、どこまで行っても他者なのだ。彼らに対して一部の共感はあるが(だからこそペーソスが起ち上がるのだが)、決して彼らに手をさしのべることはしない。親しく彼らと会話するだけ、あとは勝手にその逸話を書くだけである。シムノンがノーベル文学賞を獲れなかった理由はここにある気がする。しかしこれはシムノン特有の他者への入り込み方なのだ。
 
 2月には《パリの夜》紙で「Le drame mystérieux des îles Galapagos[ガラパゴス諸島の謎のドラマ]が連載されるが、今回は未読。関連作『Ceux de la soif』の回で取り上げる(連載第51回予定)。
 帰国後の6月に同じく《パリの夜》紙で『悪い星』の連載が始まる。この作品は後に取っておいて、未単行本化の連載を先に見てゆこう。『悪い星』の後、さらにシムノンは9月に同紙で「タヒチ または 愛の群島の悪漢たち」を短期連載した。多くの国を巡った旅だったが、これはタヒチに焦点を当てており、急ぎ足になることなく読ませる内容になっている。しかも連載1回分の原稿が比較的長文であるため、シムノンは旅先で見た美しい風景を存分に書き込んだ。結果、今回紹介する中ではもっとも旅行記らしい内容になっている。
 シムノンの乗る客船がタヒチに着いたとき、天候は雨だった。千メートル級の山がシムノンを出迎える。砂礁の岸の隙間を船が抜けると、トラックや牛が待っていた。町には屋根の赤いふたつの教会があった。ひとつは古いカトリック教会、もうひとつはプロテスタント教会だ。タヒチ人はリネンの服を着て、傘を持っている。「最高級のホテルへ!」とタクシーに乗って、写真屋や英国バーや中国商店の前を通り過ぎる……。
 これが連載第1回に登場する情景描写だ。シムノンの筆がいきいきと踊っているのがわかる。普段のルポルタージュではほとんど風景を書かないシムノンが、タヒチに着いてから目にしたひとつひとつを克明に描写している。シムノンはこのタヒチを、髪に花を挿し、ギターにダンス、月明かりに熱帯魚にカヌーという常套句で語られるこのタヒチを、しっかりと自分の目で見て、そして一瞬にして好きになったのだということがわかる。
 シムノンはバンガローの経営者からマニエという男の話を聞いた。「我々にとってのスタヴィスキーですよ! 1年で1200万フランも破産させた男です」――スタヴィスキーとは連載第46回で言及した通り、フランスで起こった大規模な詐欺事件の当事者であり、誰もが知る名前だったのだろう。ここに登場するマニエという男が連載のタイトルの「悪漢」だ。この後何度も彼の噂話が繰り返されることになる。
 シムノンは家を借りた。先に紹介したように、F・W・ムルナウの兄弟の家だ。ココナツ椰子と海と砂礁──それらの光景にシムノンは純粋に感動している。シムノンは政府高官の家に招かれて、ここでもマニエと彼の仲間であるマフィアの話を聞いた。翌朝、シムノンは車で道を走っていると、現地の女性とすれ違った。彼女はシムノンに微笑み、「あなたかわいいですわ」と言った。「さよなら……」と言って別れたが、夢のような一瞬のやりとりだった。しかし夢ではない。──このような何気ない描写を、シムノンは連載回のラストシーンに投げ込んでくる。「微笑む」という言葉がここでも出てくる。「微笑むフランス」ならぬ「微笑むタヒチ」がシムノンの中に起ち上がってきたのだ。同時にシムノンは植民者であるフランス人と現地人であるタヒチ人の違いについても思いを巡らせ始める。フランス人は政治をするが、タヒチ人はセックスや愛について考えるのだ。
 タヒチ人には色がない、あるいはすべての色がある、とシムノンは書く。数世紀にわたって植民地化と移民が進み、混血が当たり前となったからだ。シムノンは読者が思いつきそうな疑問を列挙し、それらに答えてみせる。「タヒチの家族構成は?」「愛や結婚のかたちは?」「人々はどんな服を着ている?」「風景はどんな感じ?」「地元民は優しくて社交的か?」──現地人は細かいことを気にしない。もし喉が渇いたなら、近くの家に行ってレモネードが飲みたいと言えばいい。出してくれるし、お金はまったく請求されない。
 タヒチの住民は4つに区分される。1、何もしない地元民。2、商売をする中国人。3、政治をするフランス人。そして4、ヌーディストの海外人。私たちは地元民こそ野蛮で裸の生活をしていると思っているが、本物のヌーディストはシカゴやワシントンから来るのだと、シムノンはおもしろおかしく書いている。そしてさらにマニエとその仲間たち、さらには彼らの反対勢力の話。
 友人の弁護士と役人の3人で、何夜も連続で飲んだくれたときの話。いつの間にか私たちの周りには20人もの女たちがいる。裸の胸が柔らかい。私たちはダンスをする。タヒチ人は靴を脱いで裸足で踊る。この町でタクシー運転手はギターの演奏家でもある。だが友人ふたりにはやや悲劇的な結末が待っている。
 40°の日陰──という言葉が最終回に出てくる。本連載第47回で紹介した長編『摂氏45度の日陰』からの借り受けだ。最終回でシムノンはいつものように少し感傷的になる。彼は書く、物事は変わらない、娘たちも変わらない。雰囲気も、地元民が寝て夢見る小屋も……。中国人は大勢いて蟻のように働き、アメリカ人女性は現地民よりも裸になり、タクシー運転手はギターを弾き……。連絡船は月に一度しか来ない。マオリ族は気長に待ち、警官は暇を持て余し、船はハリウッドからの撮影団体を連れてくる。その映画の台本はここではなくニューヨークで書かれるのだ。そしてタヒチ人を演ずるのはメキシコ人だ。
 シムノンは書く、私がこれまで書いてきたようなストーリーを語るのは容易い。アングロサクソン人は言う、「タヒチ人は何もせず、何も欲しない。太陽とココナツで充分だとでも言うかのようだ。たぶん──自分たちの種が少しずつ死んでゆくのを見るのが慰めなのではないだろうか?」
 
 帰国後の1935年8月から《日報》紙で連載の始まった「病める世界の物語」は、分量は少ないながらも、これまでのシムノンの旅を総括する内容になっている。読んでみてわかったのだが、この連載は「155日間世界一周」で巡った国だけでなく、以前に訪れたことのある中央アフリカやトルコについても言及するものだった。世界を旅するとはどういうことか、というシムノンなりの考えが披露された連載であった。
 ここでのシムノンの筆致はより冷静だ。大きな旅をするごとにシムノンは冷めてゆくかのようである。1928年には《ジネット号》で初めてフランスの川と運河を巡った。1929年には《オストロゴート号》を建造し、フランスのみならずドイツやオランダなど欧州を3年間も旅して生活した。1932年には船と飛行機で初めてアフリカ大陸の内地へと入り込み、中央アフリカでピグミーにも会った。1933年にはヨーロッパ各地と黒海を巡り、1934年にはイタリア船の《アラルド号》を借りて地中海の一部を回った。そして1934年から1935年にかけては世界一周である。すでにシムノンは多くの旅をこなしたベテランとなっている。そのシムノンが「病める世界の物語」と題して、これまで旅で巡り会った人々の話を書くのだ。
 タヒチの連載で見たように、決してシムノンは旅に倦んでいるわけではない。だがどこへ出掛けても、どんなに素晴らしい光景を見ても、そこにいる人々と出会い、話をすることによって、シムノンの心の中にはある種の諦観が生まれる。植民者と地元民、そして無関係な旅行者という3者それぞれの立ち位置が、つねにシムノンの中で図式化される。この視座はシムノンの小説の中にも顕著に表れるものだ。そしてつねに、シムノンは個人の問題へと還ってゆく。そこに明快な解答はない。シムノンは自らの手で世界を変えようとはしない。そんなことが可能であるとも思っていない。
 シムノンは冒険家ではあったが本質は観察者であり、自らの冒険を声高に語ることはない。書くのはつねに他人のことだ。ましてや彼は革命家ではない。人の心に入り込んで観察するが、人の心を扇動し、文章によって絆を深め合おうと希望を託すことは決してない。このスタンスがシムノンという作家なのだ。
「旅行をすればお互いをもっとよく知り、愛を学ぶこともできますよ」とシムノンは人から聞いた。だがシムノンは、それは船旅ではまったく逆だと書くのである。船旅の途中でシムノンは他の乗客と世界情勢について話すが、よそよそしい感じを受けていることが文面からわかる。シムノンがさかんに旅行をしていた当時、世界には不穏な影が立ちこめていた。連載中では何度かヒトラーやルーズヴェルトや世界連盟についての言及もある。そうした背景を読者と共有しつつも、船で乗り合わせた他の旅行者とは心から打ち解けることがない。むしろシムノンが心を開くのは中国人の執事であったりする。
 日常の誤解や悪意のない偏見がシムノンを冷静にさせている。ベネズエラに着くと「フランスのパリから来たんですか? では香水を売っているんですね」と声を掛けられる。ドイツ人なら自動的に軍人と思われる。
 スタンブールで飲んでいると、フランス語を話す人が寄ってくる。「きみはフランス人? パリに住んでいる? モンソー通りのマンションを知っているか? おれのおじは……」あなたにはやがて大勢の友人ができるだろう。だが最後にはあなたがすべて金を払うのだ。そしてあなたと共にフランスは去って行く。あなたがいなくなった後、彼らはこう話すのだ、「パリ? 世界でいちばん遅れた町だよ、乞食もいる……」
 一方、中央アフリカでピグミーに会ったときのこんな話もある。ある娘が羊一頭・斧二本と引き替えに嫁に行った。しかし結婚に耐えられずすぐに女は帰ってきた。では羊と斧を返してくれ、と夫は嫁の父親に要求したが、返してもらえなかった。そのため夫は妻を食べてしまった。父親が探しに行ったときには手遅れで、夫からあなたも食べるよう言われて従った……。私はつくり話はしていない、とシムノンは書く。
 だが中央アフリカに映画を撮影しにやって来た白人たちの集団は、わざわざピグミーの人たちの服や靴を脱がせて踊らせるのだ。そんな矛盾がシムノンの心の中には積もってゆく。だからどうだ、とはシムノンは書かない。自らの思いを書かず、分析もせず、ただ見て、聞いて、それを書いてエッセイは終わる。
 読んでいると、45°の日陰、という表現が一度出てきた。シムノンはこの表現が気に入ったようだ。ついに長編のタイトルと同じ摂氏が書かれた! 
 ガイドについて行け! と連呼する回もある。シムノンなりの逆説である。カイロならピラミッドやバザーや美術館を回り、アテネならパルテノン神殿、ボンベイなら沈黙の塔に連れて行ってくれる。今夜船上に戻ればすべての人があなたと同じものを見て、買っているのを知ることだろう。少なからぬ人があなたより3分の1の値段で買っているかもしれない! 
 コンゴではホテルの主人から「今日アントワープから蒸気船で魚が着いた」と勧められた。すぐそこにコンゴ川があるのに? 魚はいないのだろうか、と思ったが、ここでは釣っても1時間後には腐ってしまうのだそうだ。
 バタというチェコの男が靴の製造販売の商売を始めた。工場を建てて何億もの足のために靴をつくった。野生の領地では人々はもともと裸だ。「客が欲しければニーズをつくれ」。そうして黒人は町に出てくるたびに服や靴を買うようになった。彼らは靴底になるゴムを売ってお金を得ているのだが、ゴムは過剰にあり、彼らは金がない。やがて黒人たちはゆっくりと裸の習慣に戻ってゆくことになる。ヨーロッパ人は黒人の大陸を文明化しようとしたが、たぶん世界中にいま野生が戻りつつあるのではないか。日本の歴史は笑えない、とシムノンはその回の記事を締めくくる。
 連載の最終回はやはりしんみりとした調子だ。フィジーのバーでシムノンはジョンという男と出会った。ジョンはシムノンと同じく世界中を見て回った旅行者だった。彼はウィスキーをおかわりしながら世界のあちこちの話をする。「わかる、わかる!」と最初はシムノンも相づちを打っていたが、やがて世界の経済が破綻しつつあるのではないかという話題になる。「フランスでは千人の商売人が破産の予兆に震えているじゃないか」とシムノンは話した。「人々は失っているが、では誰が勝っているんだ? きみは私のように世界を巡っただろう。きみもすべてが破産したと知った。では誰が利益を得ているんだろう?」
「誰も」
「説明してくれよ、きみは世界が破産していると言ったじゃないか」
「いや、世界は破産していない……」
「世界は破産していないと言うのかい?」
「そうだ!」
「では誰が?」
「人間だ!」
 ジョンは戦争中、アメリカ軍の兵士だった。そして国際連盟に関与し、大君の秘書になり、コロンビアで研究者になり、ヒマラヤの科学調査団のメンバーになった。テキサスの大地主になり、そしてフィジーのガイドになった。ガイド! 憶えているだろうか、旅行者を沈黙の塔へと連れて行く人たちだ! あるいはバーのおしゃべりへと! 
「もっと飲め」と彼はアドバイスをくれた。「よく眠れるさ。今日は私のツアーだ……」
 私の間違いでなければ、それが11杯目のウィスキーだった。
 
 シムノンのルポルタージュの書き方が、皆様にもわかってきただろうか? 言葉足らずで、何を書いているのかと改めて問われればテーマがよくわからない。しかしペーソスとユーモアが同居している。ペンネーム時代にたくさん書かれたコントの読み心地に似ている。そしてシムノンの筆が、この最終回の場合あくまでジョンという個人の人生に留まっていることがわかるだろう。シムノンはバーでジョンの隣に座り、彼から聞いた話を書き写しているに過ぎない。ジョンになり切ることもなければ、ジョンを批評することもない。だが読んでいる私たちの心にはある種の感慨が生まれるだろう。これがシムノンだ。
 
 こうして当時のルポルタージュを読んでゆくと、唯一単行本化された『悪い星』の読み方も理解できるようになってくる。実は今回、私は最初に『悪い星』を手に取って読んで、「なんだこりゃ?」と思ったものだ。しかしその後に単行本化されていない他のルポを読み進めることで、次第に心がシムノンの書きぶりへと重なり、同調してゆくのが感じられた。
 シムノンについて知らない人がいきなり『悪い星』を読んだら、ぱさぱさした文章のつまらないノンフィクションだとたちまち投げ出してしまうことだろう。シムノンは下手な作家だ、旅行の気分など少しも味わえない、何を書きたいのかさえわからない、と不平を言うだろう。二度とシムノンなどに見向きもせず、そして一方では世間の評価につられて、考えもなしに「シムノンは人間を描いた共感の作家だ」などと言うだろう。そしてボンベイで沈黙の塔だけをツアーで見て、客船に乗って世界を巡ってゆくだろう。それは仕方がない。人は変わらないものだ。
 しかしこうして彼のルポルタージュをいくつも読んだ後に振り返ると、シムノンの持ち味がわかってくる。
 
 この『悪い星』はシムノンが旅先で知り合った人々の半生を描いた連作だ。彼らはもともとフランスやイギリスなどヨーロッパの出身で、さほど不自由な暮らしもしていなかったのだが、あるとき突然に冒険心が沸き立って、アフリカや太平洋諸島やアメリカに赴いた。そして新しい暮らしを始めたのだが、夢破れて人生に失敗し、けれども故郷に帰れないままずるずると現地で暮らしている。そんな「冒険の敗者たち」「不幸な冒険家たち」についての逸話だ。ここで初出時のタイトルの意味がわかってくる。すなわちこれは悪い星の下で生きる羽目になった、不運な異邦人たちの物語なのである。
 本作は《パリの夜》紙で13回にわたって連載されたが、単行本化にあたって第8回の「フィルプ船長と子豚たち」が削除された。読んでみてもこの回だけ質が低いというわけではないので、単純にページ数による制約かもしれない。この第8回が初めて本に収録されたのは1967年刊の全集である。現在フランス語圏で入手可能なガリマール社のペーパーバック版は、調べてみると初刊時の通り連載第8回分を除いた全12章構成だった。
 フランス郊外で物理や数学を教える高校教師として働き、パリのビジネス工業大学の教授も務めた男が、北米に技術者としてやって来て金鉱を掘るものの見返りの金額を銀行から送ってもらえず、インディアンとの生活に落ちぶれてゆく話。銀行口座の預金がゼロに近いまま赤道アフリカにやって来て、4年も故郷に帰れずに働き、あるとき強い陽射しの下でさまよい、ようやく戻ってきて「疲れた、眠らせてくれ……」と呟いて病院に入り、そこから牢獄へと移されたポポールなる男の話。彼はいまも牢獄にいるのだろう、子供のようにベッドに座って、とシムノンは書く。ポポールの知り合いで川に浮かぶ黒人の死体を撃って遊んだ男がいたが、ちょうどその男のように死体を撃ったことが発覚したため、5年も牢に入ることが決まったのだ。
 フィジーやマルケサス諸島、ハワイ、タヒチなどの太平洋諸島に船でやって来る「バナナ・ツーリスト」たちの話。彼らはアメリカ人、チェコ人、ドイツ人、フランス人で、30歳以下か、あるいは60歳の老人だ。自分たちの平凡さに飽き飽きして、「南国の島なら楽園で人生を過ごせる。金や服がなくても、明日を心配しなくても生きてゆける」と思ってやって来るのだ。実際、道端にはバナナの木があり、ただで食べられる。だがバナナ・ツーリストたちは1ヵ月、2ヵ月暮らし、1年もするとヨーロッパを思い出し、「親戚が病気で」などとすまなそうに言い出す。本当は母国から手紙などもらっていないのに、帰りのチケットを手配し、彼らの冒険は終わる。
 ペルーにおける、ふたつの駅の間に囚われた囚人の話。フランス人で片腕の彼は、ある軍人になりすましてクラブで飲んでいたのだが、身分証明書は偽物で、しかも本物は右腕がないはずなのに彼は左腕がなかった。正体を見破った裁判官が親切にも、「明日の船で海外へ逃げろ」と忠告した。しかし彼は船に乗らなかった。金がなくて、列車に乗ったのだ。捜索がおこなわれる。彼は逃亡の途中で熱病を発し、ホテルに泊まり、そのホテルの窓から逃げた。それから1年。彼は駅と駅の間の牢獄に入っている。彼は飢えと渇きで死んでゆくだろう。私はもはや笑えないが、どうすることもできないのだ。夜の帳は降りてゆく。
 太平洋中部のポモトウ(Pomotou)環礁に位置する島での出来事。40年前、フィルプ船長なるフランス人男性が島へやって来た。地元民が300人か400人しかいない小さな島だ。そこで天然痘に似た病気が流行り出した。感染源は島で普段から飼われている豚で、島民の常食だった。誰かが豚を島から引き離して別の島へと連れて行く必要がある。フィルプ船長は何百という豚をカヌーに乗せて島を出た。当時、彼はわずか30歳。彼は豚をタヒチの首都パペーテで売ったのだった。きれいなカナク(メラネシア系先住民族)の娘も見つけたが、しかし彼はもとの島へは戻れなかった。泥棒だと呼ばれ、彼を追ってきた男たちを撃ち、島から島へと逃げたからだ。彼と娘は牢屋にも入れられた。
 シムノンが彼と出会ったのは5ヵ月前、オーストラリアのシドニーの街角でのことだった。すでに彼はフィルプではなくジョージと名を変えていた。なぜかは知らない。彼はもう70歳で、シドニーで英字新聞を売っていた。そのそばで老女がやはり新聞を売っていた。
「教えてくれ、私はどうしたらいい?」
 彼らはまた麗しきタヒチに行きたいだろう。だが彼はそこにいるのだった。
 カヌーでオーストラリアからアメリカのサンフランシスコまで行こうとして、途中で漂流し、太平洋上の群島で助けられた、リトアニア生まれの60歳男性の話。彼はやはりフランスから来て人生をさまよっていたフランス人外科医に助けられたのだが、またカヌーで出て行ってしまった。3ヵ月後、外科医は手紙を受け取った。「17日後にサンフランシスコに着いた。ありがとう。パスポートがないのでアメリカ人は私を牢に入れた。そこから手紙を書いている」……。私は外科医と話す。「彼は何を望んでいたのだろう?」だがそう言う外科医もまた、フランス領の小島にいるのだ。
 頭が暑さに冒されるかような熱帯の話ばかりではない。ニュージーランドに船が近づくと、寒くなって人は羊毛のセーターを着る。シムノンは農場をたったひとりで運営するフランス人男性と会った。彼は幸運を賭けてシャンゼリゼからやって来たのだ。だが彼は言った、「人は行きたいところにどこへでも行けると思いますか? 冒険は行きたくなかったところでいつも終わるものですよ」。彼はシムノンに「従者として雇ってもらえませんか」と話を持ちかけるのだった。それから3日後、シムノンの乗る船は再び熱帯へと戻り、半裸の男がシムノンの荷物と格闘するのだった。
 ガラパゴス諸島で亡くなった男爵夫人の話。その夫人の遺産を着服したにもかかわらずごまかして、運命の歯車によって現地の裁判所の事務員になり、さらに所長にまでなってしまったが、旅行者に素性を見破られて海外へ逃げた若きフランス人男性の話……。最終回でシムノンはそれまで書いてきた冒険の敗者たちを振り返る。世界は男にとって大きくなりすぎた、だがまた同時に世界は小さくなりすぎて、冒険はアフリカやアジアや太平洋で恥ずかしい思いをするようになった、とシムノンは書く。冒険が失敗することはこの広い世界のどこであっても同じだと言っているわけだ。そうして見れば世界は大きいが同時に小さいのだと。
 誰もが儲かると思って、幸運がつかめると信じて冒険に出るのだ。しかし「冒険はいたるところにあるが、失敗もどこにでもある」。シムノンは悪い星の下に生きたそれらの人々に対して、決して同情や哀れみのような安っぽい共感を示すことはない。シムノンもまた旅行者であり、彼は自分もまた冒険者だと思っていただろうが、自分が書くそれらの人々のようにはならないと思っていただろう。なぜなら彼は作家だからだ。洋上で、あるいは帰国後に、彼はそうした人々のことを書くからである。
冒険は行きたくなかったところでいつも終わるものですよ」とは含蓄のある言葉だ。だがシムノンは冒険の旅に出てから行きっぱなしで終わることはなかった。必ず帰ってきたのである。それが冒険の敗者たちと作家シムノンの決定的な違いだったのではないだろうか。だからこそシムノンは彼らに対して、必ず一歩離れた目線で観察することができたのではないか。彼らになり切るという選択肢はシムノンにはなかったのだ。
 シムノンの小説の主人公は、いつも悪い星の下に生きた冒険の敗者たちだ。たとえば既読作品で言えば『逃亡者』連載第44回)がその特徴をよく表していると思う。別の町で他の名前で人生をやり直している主人公は、まさに『悪い星』に出てくる人々と同じだ。逆に言えば、そうした人生にシムノンはつねに関心を抱き、そうした人々の逸話が航海中も帰国後も心に残って、だから記事に書いたのだろう。本作はノンフィクション作品であるが、やはりシムノンの通常のトーンを感じることができる。
 ここまでお読みになれば、もう皆様も本書を手に取って「なんだこりゃ?」と顔をしかめることはないだろう。私たちはシムノンの筆致をこのようにして辿ってきたのだから。なぜシムノンがいつも言葉足らずで、前のめりの文体で、旅行について書いているにもかかわらず風景を描写せず、明確なオチもつけずに記事を終わらせるのか、もう皆様もわかっているだろうから。
 世界が大きくてまた同時に小さいように、シムノンもまた大きくて同時に小さな作家なのだと私は思う。彼はいつも個人の話しか書かない。世界のどこを舞台にしても、ひとりの人間が悪い星の下に生きた話しか書かない。それは彼が小さな作家であることの証拠だが、同時に彼はそうした人間が世界中のいたるところにいることを知っている。その意味で彼は大きな作家なのである。
 このような感想は『悪い星』一作だけを読んだだけでは得られなかった。いくつもルポルタージュを続けて読むことで初めてわかったシムノンの姿だ。
 シムノンに対してこのような感想を記した日本人は、おそらくいままでひとりもいなかっただろうと思う。プロのミステリー評論家、フランス文学者さえ、誰も言わなかったことだと思う。だがいまとなっては、これは当たり前のことのようにさえ思える。シムノンを読めば誰もが持つ当然の感想のように思えるのだ。
 それを見つけられたことは、私にとって素晴らしい幸運だった。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。











 




 












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