いつもなら、トップは、パット・マガー『不条理な殺人』か、シムノン『十三の謎と十三人の被告』か、と迷うところだが、今月は、長編の評論ながらやはりこの本。

■マーティン・エドワーズ『探偵小説の黄金時代』

 
 本書は、これまで断片的にしか知られていなかったディテクション・クラブ創設時からの戦後まで歴史を中心に英国探偵小説の「黄金時代」を描き出した大著である。作家の家族等へのインタヴューを含む膨大な調査を経てまとめられた本書は、今後、探偵小説とその時代を読み、顧み、語っていく上で欠かせない一冊となるだろう。
 ディテクション・クラブは、英国の探偵作家たちの社交的集まり。1930年のクラブ発足から二次大戦の終りまでの会員は厳選された39人しかいない。初代会長は、G.K.チェスタトンだった。新入会員が頭蓋骨の「エリック」にゲームの規則を遵守する誓約を立てる独特の儀式でも知られる。
 著者マーティン・エドワーズは、現在まで続くこのディテクション・クラブの会長でミステリを書く傍ら、多彩なアンソロジーも編んでいる才人。
 ディテクション・クラブの歴史は、おおむね時系列に沿って記述され、メンバーの人と作品にも多くの筆が割かれている。豊富な知られざるエピソードを交えて綴られる多数の作家群像と交流の軌跡は、まるで大河小説を読んだ充足感を与えてくれる。
 とはいえ、本書は、けっして重く堅苦しい本ではない。貴重な図版も多数あり、新たな発見に満ちた作家評伝・作家論として、大勢の作家のゴシップ集として、多様に楽しめる。
 本書が明らかにしたところによれば、ディテクション・クラブには、その階層も異なり、政治的立場も保守主義から左翼指導者、共産主義者まで、性的志向も様々な男女が集まっていた。特に女性会員の多さはこの時代として特筆に値する。
 ディテクション・クラブでの交流は、これまで断片的に伝えられてきたものより遥かに緊密なものだった。社交嫌いと思われがちなクリスティーも会合を楽しんだし、後には会長さえ務めている。クラブはソーホーに交流専用の施設までつくっており、日常的交流の場になっていた。 
 本書の主役は、セイヤーズ、バークリー、そしてクリスティーである。著者は、冒頭でディテクション・クラブ会員の作品の謎、現実の殺人の謎、私生活の暗い秘密の三つの謎に迫っていくことを宣言する。これらは相互に複雑に絡み合っているが、叙述が進むにつれて、これらの謎が著者の推理と証拠によって解き明かされていくのはスリリングな体験でもある。
 
 探偵小説というジャンルを考える上で、本書の功績として次の点を挙げたい。
 その一は、ディテクション・クラブの生成と発展を中心にして、作家が相互に影響し、しのぎを削る場としてジャンルの歴史を立体的に描き出したこと。
 セイヤーズか好んだ詩人ジョン・ダンは、「人は孤独の島ではない」と詠じたが、作品もまた孤独の島ではない。個々の作品は探偵小説というジャンル空間に単体で浮かんでいるわけではない。作品相互に、探偵小説への情熱の分ちあいがあり、火花を散らす応酬があり、目配せしあう関係があった。バークリーはクラブの原型を犯罪研究会に見立てて『毒入りチョコレート事件』に登場させ、セイヤーズをモデルにした人物を小説に書く。作家相互に、献辞に秘密の意味を込める。クリスティー『オリエント急行殺人事件』の基本アイデアはバークリーの一言から出たのではないかという推測があるなど、探偵作家同士、作品相互の無数の触発があったことが各所で論じられている。  
 その二は、探偵小説という「ゲームの規則」の生成の過程と変容を跡付けたこと。
 フェアプレーに着目した最初期の作家という規則の源流から、「ノックスの十戒」の成立、十戒の多くはからかい半分の冗談だったこと、クラブの入会儀式には十戒が流用されたこと。バークリーがクラブ設立と同年の『第二の銃声』で早くもセイヤーズに「互いに足を洗い合おう」と書き、二人の探偵小説はゲーム以上のものとする方向に旋回していく。「バークリーのような破壊分子が、ルールを破るほうが面白いことに気づくのである」
 その三は、歴史的な背景をリアルに呼吸しているものとしてジャンルを描き出したこと。
 これは紋切型の探偵小説批判への反論でもある。「探偵作家たちが社会や経済の実情をあえて無視続けてきたという決めつけには、まるで根拠がない」として、一次大戦の後遺症、社会主義運動、大不況による「飢える30年代」、ファシズムの台頭と変転する時代のもとで探偵小説が社会の態度や政治的変化を色濃く反映していたことを数多くの事例を挙げ例証している。
 その四は、探偵小説と現実の事件との関わりを明らかにしたこと。
 バークリーやセイヤーズの現実の犯罪事件の執着は知られるが、多くの作家がその作品に現実の犯罪事件からエッセンスを取り入れたし、現実の犯罪の謎解きにも取り組んだ。探偵小説という人工的でアンリアルなジャンルが実は現実の犯罪から多くの要素を取り込んでいる事例が豊富に挙げられている。
 
 著者が復元させた大戦間のディテクション・クラブの全体像を眺めるとき、この多士済々のメンバーが集ったクラブは、ダダやシュルレアリスム、ウリポといった20世紀の新しい文学の潮流に匹敵する文芸運動だったといえるような気がしてならない。ここまで書かれるべき小説の厳格なルールをつくり、クラブ員を厳選し、濃密な交流と共同の実践を行った運動体は、ほかに見当たらないのではないだろうか。
 セイヤーズ、バークリーはそれぞれの事情で探偵小説の書き手の立場から退場していき、カーは1946年にディテクション・クラブは役割を終えた、とクイーンに書き送る。
 黄金時代は終焉を迎えたようにみえたが、現代にいたっても、探偵小説という形式は様々なメディアや地域に版図を広げて、新しいフォロワーを生み出してもいるのである。
 本書によって、英国探偵小説の興隆の過程をつぶさにみた読者は、既知の作品の新たな読みに誘われるだろう。探偵小説という豊饒の海に繰り出す新たな海図として、本書の輝きは色褪せることはないはずだ。

■ウォルター・S・マスターマン『誤配書簡』


 恥ずかしながらまったく見逃していたのが、ウォルター・S・マスターマン『誤配書簡』(1926)。今年8月にkindle版で刊行されていた。原著は、黄金時代まっただ中に刊行された本格ミステリである。多くの読者には未知の作家だと思われるが、「訳者付記」によると、1920~40年代に活躍した英国の大衆作家で、探偵・怪奇・幻想・SFと活躍したジャンルは広範にわたったという。こうした幻の探偵小説が安価な電子書籍で提供されるのは大歓迎だ。
 本書への興味をそそるには、付せられた惹句を引用するのが賢明というものたろう。
「密室殺人、悲嘆の令嬢、広壮な本邸・閑静な別邸、秘密を宿す名家一族、名探偵の恋……旧き佳き雰囲気を湛えた捜査・推理譚の果ての大胆且つ意外きわまる真相を堪能あれ」
 本書には、原著版元の期待のあらわれでもあろう、G・K・チェスタートンの序文が付されている。
 探偵役はロンドン警視庁シンクレア警視と元弁護士の名探偵シルヴェスター・コリンズ。内務大臣が殺害された、という謎の通報が警視のもとに寄せられ、警視とコリンズは大臣邸に駆けつけるが、大臣は銃で死亡。現場は完璧な密室。二人の探偵は事件の解明に取り組むが…
 惹句にあるように、本書が意外性たっぷりの一打を秘めているのは間違いない。チェスタートンは序文で「この小説の最大の秘密を明かすことは、たとえ拷問を受けてもしてはならない」と書いているので、あとは慎むのが筋というものか。
 大ネタは置いておいて、少しだけ付け加えておくと、恋愛要素や別宅における幽霊の登場といった装飾部分が解かれるべき謎とうまく絡んでおらず、本格物としては、緊密さに欠ける憾みがある。題名の意味は終幕で判明するが、犯人のミスはさすがにぼんやりにすぎる。とはいえ、新奇なアイデアの競い合いとなった時代の幻の本格として押さえておきたい作ではある。
 チェスタートンの序文は、本作については、「何か明かせることがあるとすれば作者が書かなかったことを読みあげるという手段によってのみ」として、本書には、正体秘密の悪の結社や秘密の地下室は出ない、というように探偵小説の陥ってはならない点を列挙していく。十戒やディテクション・クラブの宣誓につながるようで興味深いし、何かを語り得ないときに何を語るかという芸としても面白い。

■パット・マガー『不条理な殺人』

 先月の『死の実況放送をお茶の間へ』に続けて出たのは、1967年の作品。
『死の~』は草創期のTV界を舞台にしていたが、これは演劇界を舞台にしたミステリ。演劇ミステリは数あれど、こちらは一味も二味も違っている。
 長年演劇界の第一線で活躍するマークとサヴァンナの俳優夫婦。マークは義理の息子ケニーが書いた不条理劇のタイトル「エルシノアの郊外」を知り動揺する。それは、17年前、ケニーの実父が死んだ〝事故〟を暗示しているようだった。当時4歳だったケニーは何かを知っているのか。マークは妻サヴァンナの反対を押し切って劇への出演を決め、演劇づくりに参加することで真意を探ろうとする…
 まず、プロットに唸らされる。作者が「被害者捜し」「探偵捜し」といった独創的なミステリを生み出したことにこじつけていえば、本書のメインは、「意図捜し」。義父マークが、演劇作品が創造される現場に俳優として飛び込んで、秘められた劇の意図を探っていくのである。
 息子の書いた作品は、マークやサヴァンナが名声を得た商業演劇の世界とは異なる不条理演劇の世界。アパートに住む3組の男女カップルが、大家が現れるのを待ちながら、抽象的な会話を続けていく。時代は60年代であり、こうした抽象的な演劇がニューウェイヴとして勢力をもち始めている。
 意図探しの一方で、義理の息子のデビュー作は成功させなければならない。「古いタイプ」の俳優である義父がとまどい、不安や焦燥を抱えながら、こうした新しいタイプの演劇に適応していけるかが、読みどころの一つになっている。マークは稽古の過程を通じて、作品のもつ新鮮さ、オリジナリティを体感していく。「エルシノアの郊外」の台詞も頻繁に本編に導入され、作品内のオリジナル作品の創造を若い頃から演劇台本を書いていた作者自身も愉しんでいる様子もうかがわれる。時代は違うが、小説の進行とともに作品内で一つのオリジナル演劇が完成するクェンティン『俳優パズル』(1938)を思い起こさせる。
 当初の意図捜しをしばしば忘れるほど、「古い」俳優の新たな「冒険」が面白いのだが、上演初日にあと数日というところへ新たな爆弾が投下され(ここは少し『死の実況放送をお茶の間に』に似ている)、「エルノシアの郊外」の上演は混乱の極みに達していく。
 では、ミステリとしては? それもご心配なく。終盤近くに事件が発生することにより、15年前の事件の謎と結びつき、登場人物の貌に新たな角度から光が当てられる。静かな幕切れは苦いが、ほんのりと温もりをも感じさせる。
 優れたプロットのうちに、一つの演劇作品の生成過程と演劇人群像を生き生きと描き出し、シンプルで力強い謎解きで秘められた意図を剔出し、人間関係のカタストロフィを演出する。マガーの力量がいかんなく発揮された逸品。

■ジョルジュ・シムノン『十三の謎と十三人の被告』


 メグレ物の巨匠ジョルジュ・シムノンが、メグレの誕生前夜、本格ミステリの連作シリーズを三つ書いていた-
 最初がルボルニュという安楽椅子探偵が謎を解く『13の秘密』。これは、『13の秘密 第1号水門』(創元推理文庫)で読める(現在、品切れ中)。続く『十三の謎』『十三人の被告』の二つのシリーズを収録した豪華版が本書である。(『~謎』『~被告』には別題の戦前訳があるが完全訳ではなかった)。『十三人の被告』は、〈クイーンの定員〉にも選出された短編集。
 
『十三の謎』の探偵役は、G7〈ジェ・セット〉。パリの刑事。民間人の「僕」をワトソン役に難事件に立ち向かう。フランス全土、それも多くはリゾート地に足を伸ばすことも本作の特徴だ。雑誌連載ということもあって各編は短いが、『13の秘密』の推理クイズといった趣からは離れつつある。事件がバラエティに富んでいるのも特徴で、トロール船遭難事件(「カテリーヌ号の遭難」)、無人の部屋で移動する「長持ち」の謎(「引っ越しの神様」)、入院中の人物は伯爵なのか浮浪者なのかという謎(「入れ墨の男」)、廃墟の要塞に一糸まとわず幽閉され言葉も喋らない娘の謎(「バイヤール要塞の秘密」)といった具合。後半に行くに従って、不可思議な人間心理が強調されていくのも興味深い。三つ選べば、謎の不可思議性で「入れ墨の男」、三人の失踪事件から意外な解決が提示される「古城の秘密」、謎が解けてもなお心理の謎が残る「バイヤール要塞の秘密」か。
 そうそう、メグレ物の名作『黄色い犬』の原型短編「黄色い犬」が収録されているのも見逃せない。多くの田舎の犯罪が扱われるが、「憎しみと妬みが一体となったその人間性に、詰まるところ田舎そのものに、未来永劫うんざりさせられる土地だ」(「黄色い犬」)という人間観に注目したい。
 単純な謎解きではなく人間心理の不可解さや人生の哀歓がメインとなる傾向は、『十三人の被告』で一層強まる。探偵役は、老人顔のフロジェ予審判事。捜査の最終段階で、判事が執務室であるいは現地に赴いて被告(というより被疑者)の尋問を行うというのが基本フォーマット。フロジェは無関心を装いながら尋問を続け、鋭い洞察を安手の手帳に書き留めていく。
 既に犯罪の被疑者が明らかになっており、判事は尋問で決め手を得るという、本格ミステリとしてはやや特異な設定だが、尋問により事件の様相が一変するものもあり、各編は短いながら結末まで予断を許さない。無実を主張する被疑者とのやりとりにはじりじりするような緊張感がある。
 貧困や乱倫、サディズム、薬物中毒者、同性愛者や街娼といった同時代の英米ミステリではあまり見受けられない素材を扱い、幅広い階層の現実を活写している点も見逃せない。13人の被告がすべて異なる国の外国人というのも、異国フランスで暮らす(暮らさざるをえない)個々人が際立つからだろう。尋問の終りには、それぞれの人生のドラマが立ち上がってくる。
 謎解きの面では、些細ななぜ? を追求して意外性が高い、次の三つがお気に入り。余命二、三日の男がなぜ33か所もハンマーで殴られ殺されなければならなかったのか(「フランドル人」)、薬局のレジになぜ売上より多い金額が入っていたのか(「アーノルド・シュトリンガー」)、なぜすぐ捕まるような押込み強盗が行われたのか(「ワルデマル・スツルヴェスキー」)、特に「アーノルド・シュトリンガー」は、クイーン的な絶妙の手がかりと推理から悪魔的犯行が浮上してくる名編と思う。
 解説は、当シンジケートのサイトで「シムノンを読む」(単行本化希望!) を連載している瀬名秀明氏(連載の第28回第29回、そして第30回で三つのシリーズを詳細に論じている)。「(三つのシリーズを)順に読むと、その先にメグレの背中が見えてくる」という。フランスの本格ミステリの名短編集としても、メグレ前夜の作者の軌跡を辿る上でも、見逃してはいけない短編集。

■モーリス・ルブラン/保篠龍緒訳/矢野歩編『名探偵ルパン』


 ルパン物は訳し尽くされると思われるのに、新たに出た『名探偵ルパン』とは一体何ぞ。
 実はこれ、ルブランの非ルパン物の小説を訳者がルパン物に改作した(一編はルブラン作ですらない)作品を集めたという何ともマニアックな作品集。保篠といえば、戦前・戦後を通じて、ルパン物の翻訳を一手に引き受けていた感のある翻訳者で、図書館には、この保篠訳が並んでいたのを覚えている。(筆者が子どもの頃読んだのは南洋一郎訳) 。
 非ルパン物をルパン物に改作して紹介するなど、現代なら、眉をひそめられる行為だが、ルパン物の全訳者としては試してみたかったことであろうし、それだけ読者から新たなルパン譚に焦がれる声があった証左だろう。四編収録。
「赤い蜘蛛」の原作は『赤い数珠』(創元推理文庫)。約半分の抄訳という。ドルサク伯爵邸で友人らが招待され、夜の催しを楽しむ中、賊が侵入し、美しい妻が殺害される。妻の遺体には赤い蜘蛛が這っていて…訳者曰く「人情怪奇小説」。原作では予審判事ルースランが探偵役だが本編では脇役。ルパンの登場は半ばからだが、窮地に陥った登場人物を救い、謎解きにも冴えをみせる。事件の背景には、伯爵の友人の妻への欲望があるが、「邪恋」と連呼されるのは時代を感じさせる。ルパンは、次の作品同様、バルネ探偵局局長として登場する。今の読者には『バーネット探偵社』の方がなじみ深いだろう。
「刺青人生」の原作は『バルタザールの風変りな毎日』(創元推理文庫)。このタイトルではヤクザ物みたいだが、自称・教授バルタザールの奇想天外な冒険譚。天外孤児でドヤ街に住む主人公が結婚申込みを機に父親を探すが、父を名乗る男が次々と現れる。あげく、アフリカの酋長まで父の名乗りを挙げ、バルタザールは彼の地での部族間の抗争にも巻き込まれる。原作は未読だったが、何とも楽しくシュールな筋で、バルタザールを慕う秘書コロカントの純情には胸を熱くさせられる。ルパンは要所要所でバルタザールに救いの手を差しのべる。本作は、バルタザールのアイデンティティ希求の物語ともいえるのだが、「君は五人の父親の去就に迷っとるが、我輩は幾十の名前のどれが真実ほんとうの名なのか解らなくて困っている。がそんなものはどうでもいいんだよ」と、アイデンティティ喪失者ルパンに諭させているところは訳者の手柄だろう。
「プチグリの歯」の原作は邦訳のないルブランの短編。無名戦士の墓への埋葬の謎に、冴えない刑事に扮したルパンが迫る。
「鐘楼の鳩」の原作は別なフランスの作家による短編で、ルパン物のパスティーシュらしい。ただし、ルパンは暗号の謎解きも他人任せだし、これではただの悪党に近い。
 全体に台詞が古めかしく、地の語りも講談調だが、慣れてみれば、訳者の名調子はちょっと癖になるかもしれない。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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