Les demoiselles de Concarneau, 1936(1934/春-1935/夏 執筆)[原題:コンカルノーの女たち]
・初出タイトルLes Trois Demoiselles de Concarneau, « La Revue de France » 1935/12/15-1936/2/1号[コンカルノーの三人女]
The Breton Sisters, Havoc by Accident所収, translated by Stuart Gilbert, Penguin Books, 1952(Talatala/The Breton Sisters)[英]*)[ブルターニュ人の姉妹たち]
Tout Simenon T19, 2003 Les romans durs 1934-1937 T2, 2012

 何度も曲がり角があり、そして丘と、下り坂があり、さほど遠くではないのに、道のりは険しかった。
 それに加えて、なによりもコンカルノーに着くまでに解決しなければならない50フランの問題もあった。
 しかしいま、ジュール・グエレックは少なくとも同じことを5分も考えることができなかった。車の座席に動かず座り、ハンドルを握りしめ、身体を強張らせ、目を前に向けながら、堆く重なった考えが彼の気を逸らした。
 夜のこれほど暗いときに運転するのは初めてのことで、ヘッドライトが心に刺さった。第一に光は景色と物体のかたちを変え、人々の姿も同じように変えて、世界を区別不可能な点にしていた。そのため最後の曲がり角では青白い後光が、荷馬車と、二頭の重々しい馬と、鞭を持って彼の横を歩いている農夫に差し、この日常の光景は不意にほとんど恐ろしい眺めとなった。
 光はやはり彼を怯えさせた。他の車と出会ったときはヘッドライトを消さなくてはならず、少なくとも“法規”のもとに自分を置かなければならず、つまみを最後まで回してまったくの暗闇になるのが恐かったのだ。
 しかしながらコンカルノーとカンペールの間では猛烈な乗合バスが少なくとも週に一台の車と事故を起こしており、グエレックはいつ最後の曲がり角に辿り着くか、そこに行くまで心で時間を刻んでいた。
 このような状況で、どうすれば50フランのことなど考えられよう? 彼は思った……自分はこういえる、友人に飲みに誘われたのだと。だが姉たちはよくわかっている。飲んで50フランもかかりはしない、5、6人で行ったとしても……。
 もうひとつの問題は、フランソワーズからカンペールで買ってくるよう頼まれた羊毛の黒い糸まりを忘れたことだった……。(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)

『黄色い犬』連載第5回)で取り上げられたブルターニュ地方の港町コンカルノーが、再び物語の舞台として登場した。
 前回『黒人街』を読んでいるときも感じたが、世界一周旅行から帰ったシムノンの筆致は、以前よりも豊かになったように思う。先を急くことなくゆったりとした調子が生まれ、広がりが宿った。それは描写が深くなったことにも関係している。ひとつひとつの記述が丹念になったために、全体の展開は緩やかになったが、その分小説としての深みを増したということである。これはさらに後期の作品では見られない特徴であるように思われ、この時期のシムノンに特有の大らかさであるのかもしれない。
 本作『Les demoiselles de Concarneau[コンカルノーの女たち]の読みどころは『倫敦から来た男』第41回)と比較するとわかってくる。どちらもほんの偶然から重大な事態へと運命的に巻き込まれた男の話だが、本作には『倫敦から来た男』にあったような重々しさ、深刻さ、陰鬱さが感じられない。
 これは『黒人街』を読んだときにも思ったことだった。『倫敦から来た男』をシムノンの代表的作品だと思っている人が本作を読んだら、「おやっ」と首を傾げ、「シムノンらしくない」と思うかもしれない。だがそれは「シムノンはドストエフスキー的である」という先入観から来るものに過ぎないのではないか。
 これもまたシムノンなのである。

 本作の章立てはふだんのシムノンより少なく、全8章。正直にいってストーリーは短編や中編で書けるほどのもので、既読作品のなかでは『情死』第43回)と同じくらい単純な物語だ。
 主人公ジュール・グエレックは、コンカルノーで漁師として働く40歳の独身男。彼には3人の姉がおり、次女のマルテは結婚しているが、長女フランソワーズと三女セリーヌはまだ独身で、ジュールとともに暮らしている。タイトルの「コンカルノーの女たち」とはこの三姉妹のことを指している。
 ある11月の夜、ジュールは隣町のカンペールで会議に出席した後、つい遅くなってコンカルノーへの夜道を車で走っていた。あれこれと考えごとをしていたため、造船所の陰から飛び出した少年に気づくのが遅れ、車で轢いてしまった。彼は動転し、その場を立ち去る。飲み屋に寄ってから帰宅するが、姉のセリーヌに心が落ち着かないことを悟られてしまう。咄嗟に彼は「財布をなくしたんだ」と取り繕ったが、その嘘は見破られている様子だった。
 姉たちはブルターニュの黒い民族衣装をふだんから着て、家で裁縫をしている。すぐ上の姉であるセリーヌは可愛らしいというよりも整った顔つきといえるが、これまで結婚の話はなく、人の心を見通すようなところがあった。
 少年は数日後に死亡する。ジュールは自分が轢いたといい出せずにいた。次女マルテの結婚相手は警察署に勤めるエミールで、ジュールは財布の紛失を口実に署まで行き、それとなく轢き逃げの件について聞き耳を立てたが、目撃者はあったもののその証言は曖昧で、車のナンバーの下一桁は8だと情報が流れていてほっとしつつも複雑な気持ちになる。目撃者は見間違えたに違いない。彼のナンバーは3だったからだ。
 亡くなった6歳の少年は夫のいない女性マリー・パパンの子で、双子の兄弟がいた。ジュールを轢き逃げの犯人だと疑うものは町に誰もいない。だがジュールは悩み、残されたマリーとその子供に何かしてあげられないか、家の貯蓄を匿名で提供することはできないか、と考えるようになる。そしてマリーにフィリップという漁師の弟がいることを知ると、彼に船の修繕の仕事を与え、またともに漁をして、その代金を支払った。ジュールはマリーの家にも出向き、残されたもうひとりの息子にお菓子やおもちゃを買い与えたりした。
 そうしてゆくうちに彼はマリーのことを思うようになっていった。漁に出ている間、マリーのことが心に浮かぶようになった。自分はマリーを愛しているのだ。マリーと結婚したい。ついに彼はその心のうちをマリーに語る。
 だが姉のセリーヌは終始ジュールの様子を見ており、彼が少年を轢いたのだと確信するようになる。そしてある日、セリーヌはジュールに詰め寄り、事件の核心をずばりと当てる。そしてあなたが子供を轢いたことをマリーに伝えるといい始める。

 話はこれだけのことであり、意外性はない。『倫敦から来た男』も同じように偶然から事件に巻き込まれた男が主人公だが、拾った大金をどうするかという葛藤だけでなく、その金を本来運ぶはずだった男からつけ狙われているというサスペンスがあった。今回の主人公は、運命の偶然から少年を轢いて殺してしまった。その点では大金を拾っただけの『倫敦から来た男』の主人公よりも事は大きい。だがそこから先、彼はひとりで悩むに過ぎない。容疑者として追及されるわけでもなく、誰かに脅されるわけでもなく、表面的にはいたって平和な日々が続く。やがて彼はマリーに心を寄せてゆくが、それも運命の歯車が狂ってどうしようもなく惹かれ合ったわけではない。『黒人街』のときと同じように、どこか大らかなのである。
 そのため本作にはサスペンスが発生しない。シムノンの筆致は豊かになったが、前へ前へと読者を急き立てる事情は存在しない。ただゆったりと時間が流れてゆくだけであって、読んでいて退屈ではないが特に前半は文字を追う目が遅くなる。
 主人公がマリーに惹かれてゆく過程も遅い。彼がその心を自覚するのは物語も半ばを過ぎてからだ。興味深いことに、それは大らかでどこか三島由紀夫の『潮騒』を思わせるような漁のシーンから育まれる。彼は仲間たちと船で出て、ベラやヒラメを獲る。漁獲量は良好で、途中の港に寄って売っていこうかという話さえ出る。この漁のシーンが一章かけて続くのだが、冬のブルターニュ地方の漁師たちがどのように暮らしているのかがよく伝わってきて、本作の展開の遅さがむしろ好ましく思えてくる。ジュールは船から下りると真っ先にマリーの家へ赴き、大きなヒラメを土産に差し出すのだ。この素朴さが本作のゆったりとした展開に色彩を与えている。
 主人公は本当にマリーを愛していたのだろうか? これも興味深い点で、シムノンはわかりやすい物語的な回答を用意しない。主人公は自分の罪を打ち明けずにマリーと親しくなるわけだが、姉のセリーヌがそのことをはっきりと衝く。
「あなたは彼女を騙すの? あなたは彼女の子を殺したのよ。そして友人のふりをして、お菓子やおもちゃを子供に持っていって」
 ジュールは叫ぶ。「そんなつもりはない! マリーは素晴らしい女性だ。だから好きになったんだ。自分の家のようだと思った。ぼくはもう40歳だ。妻を持つにはぎりぎりの年齢だ。子供を持つにも」「ぼくは彼女を愛している!」
 だがセリーヌはいう。「いいえ、愛していないわ。あなたはすまないとおもっているだけよ、不運で貧しい女に対して」
 つまりマリーの境遇に共感しているだけに過ぎないと看破するのだ。
 ここで以前に紹介したルポルタージュ連作『悪い星』第49回)と本作が繋がってくることに驚きを覚えた。このようにずばりといい当てられて、主人公のジュールはその通りだ、姉は正しいと後で振り返るのだ。すべては不運な星のもとに生まれた女に対する感傷的な憐れみに過ぎなかったのだと気づくのである。不運な星のもとに生まれた人間は存在する、という観念が何度か本作では繰り返される。まさに『悪い星』で書かれたテーマである。
 そうした人間に共感して、しかもそれを愛だと勘違いするのはなんと愚かな行為だろうかと、姉のセリーヌはいい放つのである。そしてそれは正しいのだ。安易な物語を完全否定するこの指摘は見事ではないか。安易な物語につい共感してそれをよい物語だと勘違いしてしまう私たちに対しても刃を突きつけている。
 本作の落としどころは、そこからさらに一歩も二歩も進んだ深い共感の姿にある。安易な共感の向こうにある深い共感とはどのようなものだろうか。それは大人の物語だということができる。シムノンはつねに最終章が巧みだ。それまで「展開が遅すぎるなあ」などとぼんやり思っていた読者に対しても、はっと目を瞠らせる鮮烈なラストシーンを提示してくる。その手腕は世界一周旅行から戻ってきてさらに磨きが掛かったようだ。かつてシムノンは『男の首』第9回)で意表を衝いたオチをつけ、それはミステリー読者の心に刻まれることとなったが、いまシムノンが描くラストシーンに比べると『男の首』のラストはいかにも若書きであって、むしろミステリーとして読まれないこのような作品に置かれた決着の方が、はるかに豊かで大人の本当の“共感”を呼ぶものとなっていると思う。相手と同調するだけの若いシンパシーを経て、成長したエンパシーをさらに抜けた後に生まれる、大人のシンパシーの豊かさである。
 私は今回も最終章が訪れるのを楽しみにしながら本作を読み進めた。ここ最近、私はシムノンの新しい長編を読む度に、最終章を心待ちにするようになっている。どんなにスローペースで展開に華やかさがなくても、最終章では必ず心を満たされる決着が描かれるとわかってきたからだ。この最終章を読むことで全体の評価が一気にぐんと上がり、読んでよかったと思えるのだ。
 本作の最終章では、数年後の主人公とその姉たちの人生が描かれる。主人公とふたりの姉はコンカルノーを離れ、慣れないヴェルサイユに新居を買って暮らしている。長女のフランソワーズは急性気管支炎を患うようになり、三女のセリーヌも髪に白いものが混じり始める。姉たちはブルターニュの黒い民族衣装を着るのをやめ、とくにセリーヌはごくふつうの服を買って満足するようになる。結婚した次女のマルテには子供が生まれた。彼女の夫は警察署を退職し、新事業で成功した。
 主人公は自分たちの今後の老いを考えるようになる。そうしたなかで初めて主人公は、ずっと人を見通すようであった姉セリーヌと、深い共感の関係を築くのである。
 これがしみじみと味わい深い。ようやく本作のタイトル『コンカルノーの女たち』が、こちらの胸に迫ってくる。これは6歳の子供を轢いた独身男の物語ではなく、コンカルノーの三姉妹の物語だったのだとわかるのである。本作における運命は、子供を轢いた男にあったのではなく、一見何も起こらなかったかのような三姉妹の人生にこそあったのだ。これは彼女ら三姉妹の頭上に輝く運命の星の物語だったのである。
 最後に主人公たちはコンカルノーの渡し船業者であるルイという老人のことを思い出す。このさりげなさがいい。コンカルノーという場所が鮮やかに頭に思い描かれる。『黄色い犬』の執筆から4年で、シムノンはなんと大人になったことだろう。

▼映像化作品(瀬名は未見)
・TVドラマ 同名 《L’Heure Simenonシムノン・アワー》シリーズ、エドゥワール・ニエルマンEdouard Niermans監督、ジャン゠ポル・デュボワ Jean-Pol Dubois、Christiane Cohendy 出演、1987[仏]

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
 
■解説:瀬名秀明氏!■




















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