Chemin sans issue, Gallimard, 1938(1936春 執筆)[原題:袋小路]
« Paris-Soir » 1936/9/5-10/10号
Blind Path, Lost Moorings所収, translated by Stuart Gilbert, Penguin Books, 1960 reprint(Banana Tourist/Blind Path)[英]
Tout Simenon T20, 2003 Les romans durs 1937-1938 T3, 2012
・映画『La Californie』ジャック・フィエスキJaques Fieschi監督, ナタリー・バイNathalie Baye, リュディヴィーヌ・サニエLudivine Sagnier出演, 2006[仏][カリフォルニア]

 それはもちろん、重要だったと気づいたときには後の祭りでしかなかった。そのときはまさに、空はどこまでも灰色で、雲は低く、東風に押されて流れてゆき、仰げばさらに何日も降り続きそうな雨の予備軍がかすかに見えた。
 もはや人々が愚痴や小言をいったりする気力さえ残っていないイースター前の日曜だった。いったとして何になろう? その天気は何ヵ月も続いたのだ! 何ヵ月も新聞は浸水や地滑りや落盤について語っていた。(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)

 実をいうと今回はなかなか手をつける気にならなかった本である。シムノンの小説はいつも冒頭が鮮やかなのだが、上記の試訳をご覧いただきたい。ぼんやりとして曖昧ではないだろうか。これから何についての物語が始まるのか、うまく想像できないのではないだろうか。心をつかむものがない。だらだらと文法的に小難しい文章が続いて目が滑る。この最初のページを眺めて、読みたいという積極的な気持ちが湧かなかった。そのためずいぶん長い間放置していた。
 覚悟を決めて読み始めてからしばらくしても、その思いは変わらなかった。これはいったい、どこへ進もうとしている小説なのか。まったく先行きが見えない、焦点の定まらない小説である。とうぜん、読む速度も遅くなった。英訳のペーパーバックを一章読むと、もう疲れて本を閉じてしまう。シムノンの本を邦訳版で読んだことのある人には、ちょっと想像できないことだろう。ほとんどのシムノンの本は、母国語に訳されていればほんの半日で読了できる程度の分量だからである。そうして半分まで読んだところで、しばらく自分の仕事が忙しくなって放置していた。
 だがようやく再び本を開いて後半を読み進めたとき、まさしく目が醒めるような驚きを感じたのである。本作『Chemin sans issue[袋小路]は全10章。その後半6章目から、信じられないような展開が待っていたのである。もう一字たりとも目が離せない。心ががっしりとつかまれて、もはや逃れることができない。ラストに向けて緊張はどんどん高まってゆく。こんなタイプの小説は他にお目にかかったことがない。昨今のハリウッド式物語作法からは完全に外れた構成だが、これぞシムノン作品の大きな特徴だといえるのではないか。シムノン以外にこんな小説は絶対に読めない。
 後半の展開を示さずに本書の魅力を語ることは極めて困難だ。よって、今回の感想文では後半の展開に触れることにする。本来は何も予備知識なく読んだ方がいい。その内容を知りたくない方はここで読むのをやめていただきたい。いずれ邦訳が出ると信じる方、自分はいつかフランス語や英語で本書を読むつもりだという方も、ここでやめていただきたい。一生本書を読むつもりはない、邦訳なんてされないに決まっている、展開を知っても自己責任で納得する、とお考えの方のみ、この先へと進んでいただきたい。
 だがここから先を読めば、あなたは必ず本書を読みたくなるはずである。

【ここから先、本書の後半部の内容に触れます】

 まず本書のタイトルである。シムノンはふだんからごくそっけない、ほとんど何も考えず脊髄反射的に決めてしまったようなタイトルをつけることが多い。『下宿人』第42回)、『自殺者たち』『情死』第43回)、『逃亡者』第44回)、『殺人者』第55回)など、主人公の境遇をそのままタイトルにすることも多い。本書のタイトル『Chemin sans issue』もそれらによく似ている。フランス語のいい回しで「袋小路」の意味だ。
 なるほど、主人公が心情的にも立場的にも袋小路に追い詰められてゆく物語なのだな、と想像できる。暗く、陰鬱な展開が予測できる。だがこの予想は、ある意味で当たるのだが、あなたの思っているような意味ではない。ここが驚くべきところだ。
 まず本作の前半では、主人公はまったく袋小路に追い詰められてゆくようには見えない。切迫感や緊張感が何も感じられない。だからこのタイトルは看板倒れなのではないか、とさえ思う。
 そして後半、なるほど主人公はある意味で追い詰められてゆくようにも見える。しかし「袋小路」というほどのものだろうか? むしろいくらか開けた、明るい前向きな展望さえ見て取れるのである。
 そこから先、さらに物語が続く。私はラスト1ページを読み終えた後で、ようやく「袋小路」というタイトルの真の意味が理解できた。翻ってタイトルを思い出して、ようやくそこに込められた意味がわかったのである。身体が震えた。こんなに深い意味合いを最初からシムノンが計算していたのだとすれば、凄まじいことだ。もう前半の5章の退屈さなど完全に吹き飛んでしまう。読み始める前と読み終わった後でタイトルから受ける印象がまるで違う。今回は完全にシムノンの術中に嵌まった。
「共感しました」「ほっこりしました」「泣けた」「さくさく読めます」「一気読み必至」「読んだら○○したくなる」……世のなかはそんな常套句の読書レビューで溢れ返っている。人々はロボットのように他人と同じ言葉を繰り返し、帯推薦文のコピーライターになったつもりでいる。だが本書はそんなロボットのような常套句をすべて蹴散らしてしまう読後感を私たちにもたらしてくれる。
 読むと「本当に人間らしい読書とはこのようなものなのか」「本当の感想とはひと言ではいい表せないものなのだ」とわかるだろう。賭けてもいいが、本作が仮に邦訳されたとしても、絶対に「書店員、共感!」などといった帯はつかない。もっとあなたの心の奥深くを、いちばん深いところを、この小説は揺さぶってくる。

 主人公はウラジミール・デュロフという38歳の男性である。彼と友人のブリニスは、南仏アンティーブ近くのゴルフ゠ジュアンという港町でヨットに寝泊まりしながら暮らしている。そのヨットは金持ちのジャンヌ・パプリエ夫人のもので、彼らはヨットの管理を任されているのである。夫人は三度も結婚を繰り返してきた女で、最初の夫との間にエレーヌという娘がおり、この娘はよくヨットにやって来る。
 ウラジミールとブリニスはロシア出身のコーカソイドだ。彼らは10代のときにロシア革命(1917年)に巻き込まれ、以後ずっとふたりで流浪人のような生活を続けてきた。しかしいまは南仏に落ち着き、夫人宅とヨットと港のカフェ《ポリト》の間を行き来して、それなりに優雅に生活できている。カフェには常連客や主人やウェイトレスがおり、ウラジミールは彼らと馴染みの仲である。
 物語は主人公ウラジミールが夫人の高価なダイヤモンド指輪をこっそりと友人ブリニスの持ちもののなかに隠すところから始まる。夫人は指輪がなくなったことにすぐ気づく。そしてそれがブリニスの持ちものから出てきたことで、当然ながらブリニスは濡れ衣を着せられる。そして彼は出て行ってしまうのである。
 ウラジミールがなぜこのような行動を取ったのか、読者もいまひとつ納得はできない。「(ブリニスに)嫉妬していたからだ」とウラジミールは発言するのだが、なぜブリニスに嫉妬していたのか、たぶん彼自身もうまく説明できないであろう。ともあれ、ウラジミールは物語の序盤で、早くも「実は自分がやったのだ」と夫人に告白する。ところがすでにブリニスは皆の前から姿を消してしまった後だった。
 ブリニスは娘のエレーヌと仲がよかった。ウラジミールはそれに嫉妬していたと思われる。また彼が夫人から信頼を得ていたことにも嫉妬したかもしれない。イースターの日曜がやって来て、ウラジミールを始めとして皆はぼんやりと過ごす。あれこれ動きはするが、具体的に何をするというわけでもない。つまり本作の前半は、イースターの日曜までの出来事が漫然と記述されるのみなのだ。盛り上がりも何もない。事件らしい事件は起こらない。一度だけウラジミールのもとへ、ブリニスから手紙が届く。彼はトゥールーズに行ったようだ。「ぼくは指輪を盗んでいない。きみが仕組んだのだろう? これはきみが思うより重要なことだ。きみを怒ったりはしない。ただぼくは事実を知りたいだけだ」──しかしウラジミールは何か具体的な行動を起こすまでは至らない。
 いったいこれは何のための小説なのか。そう疑いたくなるほど何も起こらない。これで物語の半分、5章までが終わる。
 そして続く6章以降である。もう一度警告するが先を知りたくない人はここで読むのをやめてもらいたい。
 時は2ヵ月後の6月末。いきなりウラジミールは、娘のエレーヌから「自分は妊娠している」と告げられるのである。相手の男はブリニスだった。これにウラジミールは衝撃を受ける。エレーヌは一見、男とつき合ったこともない清らかな娘のようで、母親のジャンヌでさえ「あの子は男を知っているのかしら?」と訝り、心配するほどだったのである。だがエレーヌは「この子は生まれてきちゃいけないの。助けて」と訴えかけてウラジミールに5千フランを渡す。「すべてが終わったらあなたはブリニスのところへ行って、このお金を渡して、何もかも話して」と。
 さらに展開がある。エレーヌの母であるジャンヌ・パプリエ夫人は、残ったウラジミールに対して、同族意識や仲間意識のようなものを持ち始めていたのだ。「あなたは私と同じ。どちらも友人がいなくてひとりぼっち」とこれまでも漏らすことはあったが、彼女は急速にウラジミールへ心を寄せてくる。「ほら、あなたはいつも私のもとへ戻ってくるでしょう。ちょうど私たちは昔気質でタフなギャングのふたり組のように、互いにつながっていて離れられないのよ」といい始める。「わたしを見捨てないで」と。
 ウラジミールは夫人にそのようにいい募られ、夫人の首を絞める。つまり彼は夫人を殺してしまうのである。これが8章。ウラジミールはその後、カフェの常連に「ブリニスに会いに行く」といい残して港町を去る。すぐに夫人の死は発覚し、警察がやって来るが、すでに彼は列車に乗っていた。彼はトゥーロンで下車する。新しい人生が始まるのだ、と彼は心のなかで思う。古いような新しい人生が。
 エレーヌの妊娠発覚と、ウラジミールによる夫人殺害。いきなりこれらの重大事件が立て続けに起こるのだ。そしてウラジミールは逃亡し、新しい土地へ新しい人生を始めようとする。この8章のラストシーンは、ちょうど『逃亡者』第44回)のラストに似ている。従来のシムノンならここで感傷的に物語が終わってもおかしくはない。だがあと2章残っている! 
 9章で時はさらに過ぎて10月になる。ウラジミールはまだ捕まっていない。だがブリニスも見つけられていない。ブリニスは別の土地へ移ってしまっていたのだ。ウラジミールは旅回りのサーカスに雇われてフランスの南西部を巡っていた。彼はやっと友人の居場所の手がかりをつかむ。目的地はワルシャワだ。
 ついに最終章の10 章で、ウラジミールは雪がいまにも降りそうな冬の始めのワルシャワへと旅立つ。この移動中の列車のシーンは短いが印象深い。窓の外の寒々しさが際立つ。同乗する見知らぬ乗客ひとりひとりの描写が生きている。これまで舞台だった春から初夏へかけての南仏との対比も、なんと鮮やかなことだろうか。旅愁を描かせたらシムノンは無敵だ。『マルセイユ特急』第27回)のラストや『運河の家』第37回)の冒頭が思い出される。
 ワルシャワに到着したウラジミールは、知人への聞き込みを経て、ブリニスが西の郊外の避難所にいると知る。彼は避難所へと向かう。そこはごみごみとした劣悪な場所だ。人生の敗北者たちが住む場所だ。すなわちそこは人生の袋小路なのである。ブリニスは盗人の汚名をかけられたがために人生に行き詰まり、流れ流されてこのような袋小路へと辿り着くほかなかったのだ。
 ついにウラジミールは友人ブリニスを発見する。彼は友人を抱え、その手を取っていう。「さあ、ここから出よう」──ブリニスはシャツも何もないその上にコートを羽織っているだけだ。それほど彼の人生は追い詰められていたのだとわかる。ウラジミールは友人の手を引いて、袋小路であるこの避難所から外へと駆け出す。
 この躍動を見よ。明日への希望に満ち溢れたこのくだりを見よ。手に手を取って汚れた町から駆け出してゆくふたりの背が目に浮かぶようではないか。映画の感動的なラストシーンそのものではないか。
 つまりウラジミールはブリニスを救い出すのである。彼にエレーヌから預かった金も渡す。彼はブリニスにすべてを語った。きみにはもうすぐ子供ができるんだ、自分は夫人を殺したが、それですべての決着はついたのだ、と。ウラジミールは同じコーカソイドとして、かけがえのない友人を人生の袋小路から救った。あとはふたりで新しい人生を送ろう。仕事を探して、明日から別の人生を生きてゆこう。ウラジミールは友人にそう語りかける。読んでいるこちらも熱く心が昂揚してくる。
 私はいま、この物語のあらすじを99%まで書いた。だが残りの1%、すなわち最後の1ページは書いていない。ここでも書かないつもりだ。絶対に書かない。最後の1ページは必ずあなた自身で読むべきだ。
「本当の感想とはひと言ではいい表せないものなのだ」と私は述べた。これがどういう意味かあなたはわかるだろう。この物語は確かに明日への希望を孕んで終わる。彼らふたりの前には未来が拓けたのだ。ここからやり直そう。新しい人生を紡いでゆこう。そうした感動が確かに描かれている。
 だが同時に私たちは、それが希望でしかないことを知るのである。それが未来でしかないことを知るのである。希望でしかないとはどういうことか。未来でしかないとはどういうことか。これはポジティヴな結末なのか。それともネガティヴな結末だとでもいうのか。あなたがラストシーンで感じ取るのはそのすべてなのである。喜び。悲しみ。希望。絶望。人生。刹那。未来。宿命。そのすべてなのである。
 こんなすごいラストシーン、読んだことがない。
 鳥肌が立った。
 シムノン、おまえ、天才だろ。

 本作は映画化されている。作者シムノンの息子マルク・シムノンと結婚した女優ミレーヌ・ドモンジョも登場する。
 主要登場人物の関係は原作と同じだが、ストーリー構成は現代風にアレンジされている。夫人の指輪が盗まれて主人公の友人が疑われるのは物語の半ばである。
 映画の最後では、原作のラストの1ページ先が描かれる。確かにこの映画で示されたようなことがこの先起こるのはわかるのだが、それを書かなかったシムノンの原作とはやはり終了後の感慨は異なる。こうやってしまうと後半の展開が性急でバランスが悪く感じられるのではないか。
 全体に地味だが俳優陣の演技は充実しており、深夜にひとりで観る分には悪くない。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
 
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