チャールズ・ウイルフォード『拾った女』(1954)は、底辺に生きる男女の絶望的な愛を描いた小説にして、ラストにトリッキーな一撃を秘めた巧緻な作品だ。結末に驚きを求めるクラシックファンもお見逃しなく。

 80年代に『マイアミポリス』などで華を咲かせるウイルフォードだが、デビュー二作目の本書は、既に独自の個性をもった成熟した作家であったことを物語っている。

 主人公ハリーは、サンフランシスコにある安食堂の調理係。ある晩、ふらりと入ってきた小柄で美しい酔いどれ女が一文無しと知り、ホテルを世話する。再び会うこともないと思った彼女が次の夜、再び店を訪れ、ハリーは衝動的に店の仕事をやめ、二人で夜の街に繰り出す。

 運命の女ファム・ファタールとの一瞬で落ちた恋、ノワールの定型そのままだが、ハリーはタフガイではない。女との再会を淡く期待して、汚れきった自分の部屋を掃除するような、どこにでもいるような男なのだ。同棲した二人は金に行き詰まり、ヘレンのアルコール浸りもあって死を希求するようになる。出口なしの二人だが、ハリーは美大出の元画家、ヘレンは大学で地質学を学んだインテリというところがありふれた話にしていない。ヘレンの求めで、ハリーが一度捨てた筆を執り、彼女の肖像画を描いていく短い蜜月の場面は、破局への予感がしつつも、心なごむ一幕だ。

 重要な転機が中盤であっけなく訪れ、物語は求心力を失ったクライムノベルとして浮遊しはじめる。しかし、物語の真のオリジナリティが発揮されるのは、ここからかもしれない。

 死を望んでいるにもかかわらず、そこから遠ざけるように動いていく社会。見向きもされなかったハリーに押し寄せてくる世間の好奇と関心(ある女をめぐる挿話は強烈)。求めても得られなかった金儲け話…。うつろな男に襲いかかる獰猛な社会の機構がアイロニーたっぷりに描かれる。特に、ハリーの心理分析や精神医に対する嫌悪感は強烈だ。

 変転する運命の最後に、ラスト二行がさりげなく置かれている。どこかで同じ光景をみたことがある読者であれば、初めの印象は、軽い驚きかもしれない。しかし、そのうち、その二行がじっとりと重くなってくる。小説の様々な場面が改めて深い意味をもって立ち上がり、肺腑に沁み入ってくる。(13章の奇妙な夢のシーンも新たな象徴性を帯びてくる)

 ノワールの形式から発し、逸脱していく歪んだノワールであり、不似合とも思える小説技巧が凝らされている。全編に横たわっているのは、絶望の愛。これを異形の作と呼ばずして、何と呼ぼう。

 以下も参照ください。

訳者自身による新刊紹介 チャールズ・ウィルフォード『拾った女』(執筆者・浜野アキオ)

 イーデン・フィルポッツ『守銭奴の遺産』(1926)は、かつて『密室の守銭奴』として抄訳があるものの完訳版。この1年くらいで、『だれがコマドリを殺したのか?』(『だれがダイアナ殺したの?』)『極悪人の肖像』が次々と刊行されているフィルポッツだが、じっくりと物語と向き合うタイプの読者には、いずれも充実した読書体験が味わえるものであり、やはり悠然たる運びの本書も同様だ。

 冒頭で提示されるのは、壁に金属板が張られた鋼鉄製の金庫のような密室での守銭奴殺し。鉄壁の密室という強烈なフックに対峙するのは、『闇からの声』で活躍した元の名刑事リングローズと、彼に私淑するアンブラー警部補。密室の謎は解明の糸口さえなく、事件の関係者は皆アリバイをもっている。

 相当の難事件だが、被害者の弟の農園で、「樽」が発見されるところから事態は、急展開していく。二人の執念の捜索により、樽が見つかるくだりは名場面だが、中に何が入っているのかは、作者はすぐには明らかにしようとしない。この辺の「じらし」は作者のテクニックで、事件が新展開をみせつつも、捜査が暗礁に乗り上げてしまう辺りにも、読者はじらされることになる。

 というのは、ある段階で、読者にはおおむね犯人の見当はついてしまうからで、捜査側がなかなかそこに思い至らないのももどかしい。これも作者のテクニックと考えれば、味わいの一つだろうか。

 それだけに、リングローズが、子どもの絵本をきっかけに、事件の全貌に思い至るシーンにはカタルシスがある。

 とはいえ、解明された密室トリックは非現実的であっけにとられるもの。

 本書の読みどころは、やはり「悪の創造」。最近の二作も、個性的な悪人像が強烈な印象を残したが、この作品で、リングローズが辿りついた、悪人像、怪物像も極めて異色なもの。このような性格が形成されうる、ということに納得できるかどうかは本書の評価の分かれ目になると思うが、ある種の思考実験のように、次々と新たな悪人像を開発していたフィルポッツの「悪の研究」の姿勢には、一種畏敬の念を抱かざるを得ない。

『灯火管制』(1943) は、英国女性ミステリ作家アントニー・ギルバートの長編。69作の長編を残した息の長い作家だが、邦訳は3作と恵まれない。近年では、同じ版元の『つきまとう死』(1956)があるのみだ。本書は、ギルバートのシリーズ・キャラクター、アーサー・クルック刑事弁護士の魅力も十分出た好編。

 舞台は、1940年、二次大戦のさなか、ヒトラー率いるドイツ軍が空爆を続けるロンドン。クルック氏の住むフラット周辺も爆撃を受け、住人はみな田舎に退避、建物にはクルック氏を含め数人しかいない。そんなある日、下の階の変わり者の老人と出会い、彼の叔母がどうやら失踪したようだと知って、クルックは失踪人探しに乗り出していく……。

 失踪人探しが一体どこへ向かうのか、解かれるべき謎が何かというシッポもみせずに作者は話を運んでいくが、とにかくそのユーモラスで読者を惹きつける語り口が好ましい。次々に登場してくる人物たち、例えば、地下の引きこもりの老婆、独自の時間理論をもつネジのゆるんだような老人、金持ちにのしあがった老婦人、戦火を逃れてノルウェーから来た娘……いずれも個性的で立体感ある人物であり、それぞれの小さな物語を抱えている。作者は、彼らの小さな物語をパッチワークのように縫いあわせ、悪意のたくらみを浮かび上がらせていくタッチには独自のものがある。

 その触媒の役割を果たすのが、弁護士クルック。彼は「犯罪者の希望」「判事の絶望」と称され、「依頼人はみな無罪」をモットーとする。口も悪く、いわば、悪徳弁護士すれすれの人物だが、弱者には優しい面を持ち合わせており、本書でも、あるときは高飛車に、あるときは聴き手に寄り添い、硬軟自在に事件に切り込んでいく。

 クルックが行きついた事件の構図は意外性のあるものだが、堂々たる推理が展開され、なにげないところにも伏線が仕込まれているところも大いに評価したい。

 今年は、エリザベス・フェラーズ『灯火が消える前に』も出て、奇しくも、灯火管制下のロンドンを舞台にした作品が立て続けに訳されたが、本書は、『灯火が消える前に』のトーンとは打って変わってユーモラスで、ヒトラーは何度となくギャグのネタにされている。このタフネスにも感服。

 ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナス・リドルフ』

「日本では実現不可能と思われていた禁断の企画」(本書解説より)〈ジャック・ヴァンス・トレジャリー〉第一弾。

 ヴァンスといえば、『竜を駆る種族』〈魔王子〉シリーズなどで一部に熱狂的なファンをもつSF界の大立者だが、ミステリ『檻の中の人間』でMWA賞処女長編賞を受賞しており、最近紹介された『チェスプレイヤーの密室』のように、エラリー・クイーン名義のぺイパーバックの代作者でもあった。短編集『奇跡なす者たち』収録のSFミステリ「月の蛾」は、奇妙な文化が支配する異星での殺人事件をチェスタトンばりの奇想で解決する謎解き編でもあった。1940〜50年代に書かれたマグナス・リドルフ物全10編を収録した本書もミステリファンも十分堪能できる作品集となっている。

 本書の主人公マグナス・リドルフは、白いヤギ髭の老人。宇宙をまたにかけるヒーローにはほど遠い哲学者的風貌、言動の爺さんだが、なかなか食えない男である。探偵と称されたり、トラブルシューターを名乗ったりしているが、その本質は、抜け目ない投資家・商売人に近く、儲けるチャンスは逃さない。トラブルを解決しても、心無い依頼人などに対してはさらなるトラブルを突きつける。トラブルシューターでもあり、価値紊乱者でもあるという二面性がリドルフという存在の面白いところであり、その抜け抜けとしたやり口には笑いを誘われる。

 リドルフの活躍譚には、ホラー、秘境探検、コンゲームなど色々な要素があるが、本格ミステリ的には、様々なタイプの異星人らが容疑者となるとどめの一撃クー・ド・グラースが一等か。地球の(通常)の論理の通じない世界での意外な動機を扱い、アシモフ編『SF九つの犯罪』にも収録された佳編。「禁断のマッキンチ」は、市長室の金庫から横領している悪党を探し出す話。十二種以上の知性体が跋扈する惑星での事件で、市の幹部連が、奇天烈な異星人なのはヴィジュアル的にも強烈。「呪われた鉱脈」は、採鉱地で続発する殺人の謎。「数学を少々」はカジノ経営者の宇宙を舞台にしたアリバイトリックを暴く。

 そのほかにも、賭博の対象となっている部族間の合戦をやめさせるという難題に挑む「ココドの戦士」、リドルフの倍返しが痛快な「馨しき保養地スパ、オイル・サーディンの缶詰に生じた変事から突拍子もない結論に行きつく「ユダのサーディン」(リドルフが缶詰工場の工員として潜入する!) なども、異世界と奇想のブレンドが楽しめる。

 色彩感豊かなエキゾティズム、多種多様な知生体が行きかう混沌とした世界をひょうひょうと行くリドルフの物語は、妙に現生的で人間臭い世界でもある。ヴァンス独特の宇宙に遊べる好短篇集。

 以下も参照ください。

訳者自身による新刊紹介 ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナス・リドルフ』(執筆者・酒井昭伸)

 ホック『怪盗ニック全仕事3』

 価値のないものばかり盗むニック・ヴェルヴェットを主人公にした『怪盗ニック全仕事』シリーズも順調に刊行が続き、第三弾の登場。全14編中、初訳4編、邦訳ニック短編集に未収録6編を含んでいるので、早川版で親しんでいる方も見逃せない。why (なぜ盗むのか)、how (どのように盗むのか)だけではマンネリ化が避けられないとみてか、毎回、様々な謎解きのヴァリエーションを試みている。舞台も、ニックが東京にやってきたり(「駐日アメリカ大使の電話機を盗め」)、競馬界や選挙戦に題材をとったりとあの手この手を繰り出している。命の危機が迫ったり、恋人グロリアが誘拐されたり、謝礼をとりはぐれたりで、ニックが冷や汗をかくシーンも多くなったように思う。特筆すべきなのは、ある短編で、ニックは政府関係の仕事に就いていると思い込んでいるグロリアに、本来稼業がバレてしまうことで、そこでグロリアがどういう反応を見せるかは、読んでのお楽しみ。

 謎解きの手並みが鮮やかな「家族のポートレイト写真を盗め」、盗難理由が可笑しい「感謝祭の七面鳥を盗め」、捕り物でのニックの機知が冴え結末も意外な「使用済みのティーバッグを盗め」あたりがお気に入り。

  • 『怪盗ニック全仕事1』レビュー

http://wordpress.local/1418771509

  • 『怪盗ニック全仕事2』レビュー

http://wordpress.local/1442971117

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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