La Marie du port, Gallimard,(1938)(1937/10執筆)[原題:港のマリー]
・« Le Jour » 1938/1/15-2/6号
『港のマリー』飯島耕一訳、集英社 シムノン選集6、1970*
Tout Simenon t.21, 2003 Les romans durs 1938-1941 t.4 , 2012
・映画『港のマリー港のマリィ)』マルセル・カルネMarcel Carné監督、ジャン・ギャバンJean Gabin、ニコール・クールセルNicole Courcel出演、1950[仏]
・「シナリオ 港のマリー」脚本=ルイ・シャヴァンス、マルセル・カルネ、新外映提供、《キネマ旬報》1951年6月上旬号(No. 16, June 1, 1951)pp.53-71.*

 以前から思っているのだが、世のなかには「難しい易しさ」と「易しい難しさ」というものがある。たとえば、私・瀬名秀明が書く小説は、読者の方から「難しい」といわれることが多い。ではこの「難しさ」とは何だろうか。
 科学の専門用語が文章中に出てくれば、多くの読者はその意味がわからないので「難しい」と苦手意識を持つだろう。海外ミステリー小説も読み慣れないうちは人物の名前や地名を憶えるのが難しい。多くの人間は、自分の身近にない情報に接すると、馴染みがないので「難しい」と感じるわけだ。
 ところが私の小説では、初期の『パラサイト・イヴ』『BRAIN VALLEY』こそ理系の専門用語が頻出するものの、それ以降の小説ではほとんど理系の用語が登場しない。それでもなお読者は瀬名の小説が「難しい」という。その理由は私にはかなりはっきりとわかっていて、近年の私の小説は「難しい易しさ」で書かれているからだといえる。
 私は2013年ころまで国内のSF小説も積極的に読んでいたのだが、やはりそのなかには読者からよく「難しい」といわれる作家もいた。しかし私は、その人の作品を読んで一度たりとも難しいと感じたことはなかった。というのも、その人が書く小説はたいてい、とぼけた風味を出すことが主眼なので、中身に出てくる難しい理系用語はほとんどすべて目眩まし、ないしはギャグの類いだとわかったからである。むしろその人の小説を読んで難しいとわざわざ意見表明する人は、勝手に「こんな難しい小説を読んでいる俺ってスゲー!」と幻想を見ていたのだと思う。安部公房の「R62号の発明」を読むと途中でなんだかよくわからない小難しい用語で手術のシーンが延々と描かれているのだが、私たちはそんな部分にいちいち引っかかる必要はないのであって、それと同じことである。その人の小説もたいていは読者を煙に巻くことがテーマなのだからそんな反応は作者の目論見通り。それはすなわち「易しい難しさ」なのであって、そこに書かれている「難しさ」とは、実はとても「易しい」ものなのだ。「ああ、難しいことが書いてあるんだな」と読者が感じればそれで小説としての目的は果たされる類いの難しさなのだから、一語一句理解する必要さえない。ただ苦笑して受け流せばいい。だから、とっても「易しい」のである。
 ところが私のここ十数年の小説は正反対で、文章自体に難解なところはひとつもないはずだが、それでも読者は難しいと感じる。なぜならそれは「難しい易しさ」の小説となっているからだ。文章それ自体は小学生でも読めるくらい易しいのに、作者が何をいおうとしているかわからない。何がテーマなのかつかみにくい。そのテーマをどう受け止めればよいのか、自分の倫理観や道徳観に当て嵌まらない。そういう小説であるはずだ。私は何度もバランスをあれこれ変えながら挑戦して、わざとそうしているのである。そこに小説の本当の「面白さ」があると考えているからだ。
 読者がSNSなどに「難しい」と感想文を書き込む場合、その「難しさ」にはいくつかの段階がある。理系の専門用語が出てきて「難しい」とこぼす人は、では文系分野である経済学や哲学の話題が出てきたらすらすら読めるだろうか。たぶん残念ながら読めないのである。というのもその人は免疫細胞の働きを知らないのと等しく、文系分野に属するルネ・デカルトやジョン・ダンの著作についても知らないからである。となると私の『デカルトの密室』『新生』もやはり難しいことになるだろう。
 ストーリーの時間軸が一直線に進まないと「難しい」と感じる人も一定数存在する。過去と現在の視点が行ったり来たりするプロットに遭遇すると、もう難しくて読めない。途中で人物の視点が切り替わるのも苦手だという人も多い。よって物語の最初から最後まで文章がずっと一点に固定されて、かつ時間の流れに乗ってそのままストーリーが進んでゆく、そういう書かれ方でないと難しくて小説が読めない、という人は確かにいる。こういう人たちは訓練すれば読めるようになるのかどうか、私はちゃんと研究解析したことがないのでわからないが、そういう学術論文があったらぜひ読んでみたいものだ。
 要するにここでいいたいのは、私の小説が「難しい」のは理系が題材だからではなく、そこで描かれるテーマがあなたと「共感」「同感」しにくいがために難しいからなのだ。私の小説には、いままであなたが考えたこともなかったような倫理観や価値観が登場する。なるほど私は理系分野を題材にすることが多いが、必ずその分野の専門家でさえ「そんなこといままで考えたこともなかった」というアイデアを投入するよう心がけている。そのため私の小説は、実のところその分野の専門家にとってさえ「難しい」はずだ。あなたと同じように専門家も首をひねるはずなのであって、その点であなたと専門家はまったく同じ立場、すなわちおいそれと答が出るような問いではない「普遍の難しさ」にいるのだ。ここが私の小説の特徴だと自分では思っている。
 だから私はそのアイデアと物語展開が10年後、100年後でも色褪せないものになっていると確信できなければ書きたくない。よって私の小説は、変化の激しい理系分野を扱っているにもかかわらず、テーマはいつ読んでも古びていないはずだ──とまあ、私はそう願っていつも原稿を書いている。「難しい」けれども「面白い」。そんなふうに書かれた小説を心躍らせながら読んでくださる方も、世のなかには多少存在するのではないか。そんな人に心から楽しんでいただいて、ときにはその人の人生さえ変えてしまうような小説が書けたらいい。それもまたエンターテインメントってものではないか。そんなふうに思いながらパソコンに向かっている。
 さて、今回読む『港のマリー』(1938)は、小説鑑賞の観点とはまったく別の理由で、おそらく日本ではいちばん題名の知られたシムノン作品かもしれない。外国から船でやってくるマドロスを待って横浜の街角に佇み続ける悲しげな娼婦、そういう絵に描いたようなイメージの人を私たち日本人は「港のマリー」「港のメリー」と呼ぶのだが、シムノンの原作をマルセル・カルネ監督が映画化した『港のマリー』(1950)はその哀愁漂う呼称のルーツのひとつと見なされているからである。
 それでマルセル・カルネの映画を観て、あまりのメロドラマぶりに、これは「易しい易しさ」の映画だなあと感じたのである。ではシムノンの小説はどうだろうか。あえていうなら、そちらはいくらか「難しい難しさ」を湛えた小説であるかもしれない……と、そんなふうにまとめられたら「易しい」のだが、どっこい、作者シムノンはそれほど簡単なカテゴリー分けは許してくれない。

 陽の暮れるのが早くなりつつある10月。仏北西部ノルマンディー地方の波止場ポール゠タン゠ベッサンPort-en-Bessinで、ル・フルム家の家長ジュールの葬儀が執りおこなわれていた。2年前に母も病気で亡くなり、父は彼女の治療費に全財産を注ぎ込んできたから一家は無一文に等しい。残されたのは5人の子どもたちで、長女のオディール23歳が久しぶりに帰郷していた。彼女は車で数時間の距離にあるシェルブールでカフェと映画館を営む35歳の男、アンリ・シャトラールと事実婚に近い関係で当地に暮らしていたが、葬儀のため彼の車に乗って帰ってきたのである。ル・フルム家の次女マリーはもうすぐ18歳。だがその下の3人は自立するには早すぎるから、伯父や伯母らに後見人となって面倒を見てもらわなければならない。誰が幼い3人を引き取るのか、葬儀の後でマリーは伯父らと口論になる。マリーは姉のオディールとはまったく似ておらず痩せた若娘で、周囲からはスールノワーズ(食えない子、何を考えているのかわからない子)Sournoiseと呼ばれて煙たがられていた。マリーは「自分はこの波止場に残りたい、〈船員亭〉で働いてひとりで暮らす」と告げる。
 そのころオディールの愛人シャトラールはその〈船員亭〉でぶらぶらと暇を持て余し、〈ジャンヌ号〉というモーターつきトロール船が競売に出ることを知って、酔狂でその場へ出かける。船の売主マルタン・ヴィオーの横で公証人が「20万フラン!」と声を張り上げるが、マストも折れた古船なので買い手がつかない。シャトラールが18万フランで買い取った。しばらくはこのポール゠タン゠ベッサンに係留しておき、大工や機械職人を雇って船を修理さればよいだろう。シェルブールから知り合いのドルシェンという眼鏡をかけた船乗りを連れて来て滞在させ、工程を監督させればよいのだ。それからシェルブールへと渡ればいいだろう。そうしてシャトラールは何度も自家用車を駆ってポール゠タン゠ベッサンに来ては〈船員亭〉で暇を潰すことになったのだが、店員として働き始めた次女マリーのことが次第に気にかかるようになっていた。自分とはひと回り以上も歳の離れた娘だが、容易に自分に靡かないマリーに対し、シャトラールはかえって好奇心を抱き始めていたのだ。
 しかしマリーには一応マルセルというボーイフレンドがいた。トロール船の船主だったヴィオーの(同名の)息子である。父親は彼を船舶の設計デザイナーにしたいと考えていたが、彼はまだ17歳の若造で、父親のいうことなど聞かず、人目を忍んではマリーと会い、強引に口説き続けている。マリーも彼と会うには会うが、自分の胸中をさっぱり明かそうとせず、かえってマルセルを拒絶するほどである。ある日、マリーに振られたマルセルはやけになって、中年男のシャトラールがマリーに色気づいているのに気づいて嫉妬を覚え、帰宅中のシャトラールの車の前に飛び出し、父のピストルで狙い撃つという暴挙に及んだ。シャトラールはあわや衝突という危機を回避したが、無謀な若造の行為に怒って相手の腕をへし折る。だがすぐさま哀れに思い、車でシェルブールまで連れて行って医者に診させた。どうもマルセルは熱も出たようで、オディールが看病することになった。
 シャトラールは自室でひとり内省する。自分は年甲斐もなく、あのマリーという若娘に振り回されていたのではないか。ここはきっぱりと関係を絶つべきだと考えた彼はオディールに電話させてマリーをシェルブールまで呼び寄せたが、いざ彼の前に現れたマリーにシャトラールはいささか動揺する。いつもカフェで見ていたエプロン姿と違って、私服を身につけたマリーは見違えるほどの美しい魅力を放っており、そして自分の意志を持っているかに見えたのである……。いったいこの娘は何なのだろう? そしてシャトラールは屋根裏部屋にマルセルの容体を見に行ったとき、思いもかけなかった光景を目にする。この奇妙な愛情劇の行方はいかに? 

 シムノンが日本で「人情派」「雰囲気小説」などといわれ、彼の単発小説が古臭いメロドラマだというイメージがいまなお根強く残っているのは、フランスの映画監督マルセル・カルネと作風が混同されているためかもしれない。本作『港のマリー』は戦後まさにマルセル・カルネ監督によって、ジャン・ギャバン主演で映画化された。これがシムノンとマルセル・カルネ監督の共同第1作にあたるのだが(もうひとつ、後に『マンハッタンの哀愁』(1965)がある)、私たち日本人は、とりわけ昭和時代を生きてきた50代以上の人たちは、なんだかマルセル・カルネ監督の映画やジャン・ギャバンの出てくるメロドラマはぜんぶシムノン原作のような気がするのではなかろうか。
 実際、やはりジャン・ギャバンが出てくる映画『霧の波止場』(Les quai des brumes、1938)はシムノンの『霧の港のメグレ』(Le port des brumes、1932、第16回)とタイトルがよく似ているし、『北ホテル』(Hôtel du Nord、1938)に至っては中篇『ホテル〝北極星〟』(L’Étoile du Nord、1938雑誌発表、第62回)と一瞬区別がつかないほどである。
 そして調べてみて「へえ、なるほど」と思ったのは、シムノンは実際に本作『港のマリー』を映画の原作として書いていたことだ。日本で発表されている数少ないシムノンに関する学術論文のひとつ、永田道弘「シムノンと映画─『家の中の見知らぬ者たち』の映画化をめぐって」日本フランス語フランス文学会中部支部研究論文集, 45巻(2021), pp.105-120.(https://doi.org/10.24522/basllfc.45.0_105)に拠ると、シムノンは本名名義でメグレものを書き始めた当初、自作の映画化に積極的に関わり、『十字路の夜』(1932)、『黄色い犬』(1932)、『モンパルナスの夜』(1933)が公開されたのだが、最初の2作は興業的にまったく振るわず、また3作目の『モンパルナスの夜』で制作会社がジュリアン・デュヴィヴィエを監督に据えたことに幻滅して、しばらく映画業界から遠ざかり、また映画会社や制作者にも不信感を抱くようになったらしい(皮肉にも『モンパルナスの夜』はデュヴィヴィエ最初期の貴重なトーキー映画として、映画ファンから支持されることになるのだが。映画業界への不信感は本連載第80回で紹介した小エッセイ「映画の小麦粉は酵母を見つけた」も参照)。
 しかし欧州に戦争の影が垂れ込め始め、シムノンはおのれの信条を変えた。永田論文からの一節を引用する。

(前略)1937年、シムノンは自作の映画化に関係する契約や取引を任す代理人を雇い、映画を念頭においた小説『港のマリー』の執筆を始める(実際の映画化は1950年)。シムノンの映画への復帰は瞬く間に広まり、多くのオファーや企画が持ち込まれる。ただし、フランスの敗戦と国内の混乱もあって、映画作品が公開されたのは1942年であった。
 占領期のシムノン原作の映画を語る上で無視できないのが、小説家とコンチネンタル社の関係である。[戦時中にシムノン原作の映画]9作品のうち実に半数以上の5作品(中略)がこのドイツ資本の映画会社で制作されている。

 シムノンは本作『港のマリー』を、主要舞台であるポール゠タン゠ベッサンに実際に赴いて、その地で書き上げている。永田論文からだけではよくわからないが(また他のフランス語資料にちゃんと当たっていないのではっきりしないのだが)、シムノンはマルセル・カルネ監督に映画化してもらうことを念頭に置いて本作を執筆したのかもしれない。もしそうだとしたら、シムノンはいかにもマルセル・カルネ風の雰囲気を想定して筆を執ったことになる。朝には霧の煙るノルマンディー地方の波止場、『霧の波止場』で訳ありの元植民地部隊隊員ジャン・ギャバンが、ミシェル・モルガン演じる17歳の若娘に恋したのと同じような、歳の離れた男女の類型的メロドラマ……。
 ところが興味深いことに、占領期を経てようやく戦後になって制作された映画版は、マルセル・カルネの映画でありつつ、随所に不思議とシムノンらしさが挿入されている。映画でもシムノンの原作通り中年男のシャトラールはシェルブールでカフェと映画館を経営しているのだが、その設定があることでシャトラールは劇中で3度、おのれの映画館に足を運ぶ。最初に銀幕に映し出されているのは軍艦が砲撃している映像で、これは何の映画なのか私には知識不足でわからないが、次の映画はドストエフスキー原作の『白痴』(L’Idiot、1945)、さらにラスト近くでマリーと共に観る映画は、何とタヒチが舞台の『タブウ』(Tabu、1931)である。シムノンが世界一周旅行の途中でタヒチに立ち寄り、エキゾチックなその島を愛し続けたことはすでに紹介した通りだが(第54回第82回など参照)、映画版でシャトラールを演じるジャン・ギャバンは、映画館で前列の椅子に凭れかかりながらダンスするポリネシア女性たちの姿を切なげに見つめ、「いつか自分も船でこういうところへ行きたい」と漏らすのだ。その姿は完全に原作者シムノン自身に重なってゆく。シムノンが本作を書いたのは35歳のときであり、つまりシャトラールと同年齢である。このくだりは原作には存在せず映画のみに出てくるのだが、まるでマルセル・カルネ監督が作家シムノンの作風を模して創作した場面のようにさえ見える。
 奇妙な交歓関係ではないか。ふたつの物語、小説と映画において、ちょうど原作者シムノンはカルネ監督を真似たかのようであり、そしてカルネ監督は作家シムノンを真似たかのような作品に仕上がっている。それでいて両者には大きな違いもある。映画版のストーリーはシムノンの原作小説とおおむね同じなのだが、違いが際立つのは冒頭に述べたその「易しさ」「わかりやすさ」と「難しさ」「わからなさ」だ。ニコール・クールセルという女優が演じた次女マリーのキャラクター造形に、両作品の違い、あるいは両創作家の作家性の違いがくっきりと見て取れる。
 シムノンの小説版では、「マリーはずっとスールノワーズ(食えない子、何を考えているのかわからない子)と呼ばれていたが、彼女はそれには無関心だった。」(邦訳版p.12)「Il y avait longtemps qu’on l’appelait la Sournoise, mais cela lui était indifférent.」と記載されている。Sournois(マリーは女性なので、フランス語では単語の最後に女性形のeがつく)を辞書で引くと「陰険な(腹黒い)人」と出てくる。邦訳のカッコ内の説明は、訳者の飯島耕一による補訳なのである。容易に思い出されることだが『運河の家』第37回)におけるエドメのように、シムノンはかねてから“何を考えているのかよくわからない”“周囲の人々を翻弄する”若娘をよく描いてきた。だが本作のマリーはそれら既存のキャラクターとはちょっと違う。“本当に”何を考えているのかわからない娘なのだ。あえて小悪魔的に振る舞っているのでもなく、他人に心を開かず殻に閉じ籠もっているわけでもない。小説を読むと、マリーはあたかも心というものを持たない、機械仕掛けの人形に思える。心がないから“何を考えているのかわからない”のであって、どこかに彼女の本心があるようにはとても感じられないのである。
 カルネ監督の映画版ではここをものすごく「わかりやすく」修正している。映画版のマリーは他人に気を許さない意地っ張りな娘で、〈船員亭〉で給仕していても決して客に媚びたり愛想を振りまいたりはしない。だが客が滑稽なことをいえば、つい笑ってしまう程度にはちゃんと心を持っているのだ。私たち観客にもそのことはちゃんとわかる。マリーが人形ではないことが伝わってくる。だからこそ映画版はメロドラマとして成り立ち、最終的にマリーが年上のシャトラールと愛で結ばれ、彼女が波止場で彼の腕に手を絡ませて歩き出すとき、「ああ、マリーは幸せを見つけたんだな」と思えるのである。マリーの“腹黒さ”は地元の田舎を嫌うあまり長年にわたって彼女の身体に形成されてきた鎧であって、変則的ながらラストで愛を見つけることによって彼女はその鎧を解いたのだとわかるのである。「わかりやすい通俗メロドラマ」の完成だ。
 ところがシムノンの原作はそうではない。これは私の勘だが、実際にシムノンはこの物語の後半まで、マリーの心の内をいっさい決めずに書き進めたのではないか。小説のマリーが初めて感情を表に表すのは邦訳版146ページ以降、すなわち自分が18歳になって後見人制度から抜け出し、自らが幼いきょうだいの後見人になれるとわかり、急いで店へ戻って、自宅に帰っている姉に託けを出し、その返事を聞いて皆と乾杯し、「みんなにお菓子を買ってくるのをまた忘れたわ!」(飯島耕一訳)と陽気にいい、うれしいわ、鱈があるわ……! としゃべり続ける、第6章のラストシーンにおいてなのだ。ここで初めてマリーは人間になる。私たち読者は人間であるからこそ、このシーンの鮮やかさには驚かされる。
 しかし本作の読みどころはそれだけではない。本作『港のマリー』はシャトラールとマリーの物語というよりも、むしろ小さな港町に暮らす人々の群像劇だと捉えた方が読み応えがあるかもしれない。たとえば最初に〈ジャンヌ号〉を売った老マルセル・ヴィオー。彼は息子を独り立ちさせたいと願っているが、まだまだ若くて将来のことなど考えておらず、酒に溺れて自宅の床で投げやりに寝ていたりする。もうひとりの娘には知的障碍もある。老ヴィオーの哀切な描写は本作の白眉のひとつだ。またシャトラールが連れてきた船乗りドルシェンは眼鏡をかけているので、地元民からは「家庭教師」の渾名をつけられる。実直な彼が周囲に振り回されて右往左往するさまはよいアクセントとなっている。彼らの生き生きとしたキャラクター性は本作に豊かさを与えているのだ。
 ──小説版のラストの解釈は難しい。考えてみれば、中年男のシャトラールは、もともと姉のオディールが10年間も情婦でいた相手なのだ。彼とシェルブールで暮らしている限り、オディールは金に困ることもない。だがラストでシャトラールは次女マリーを選び取る。カルネ監督の映画版では、中年男がついに若娘にほだされてしまった、やれやれ、仕方がない、私がこれからは若いきみの面倒を見てやるよ、と、ジャン・ギャバンは父親のような愛情でマリーに応える。この関係性は「わかりやすい」。だが小説版のシャトラールとマリーの関係性は違う。マリーは「あなた、こわかったの?」とシャトラールに訪ねる。「おまえがかね? おまえがそう思っているならまちがっている」と彼は応える。彼は甘い態度を取ろうとはしないが、やさしい言葉を探している。うまい言葉が見つからず、マリーはそんな彼に対して微笑を浮かべることをやめない。彼らふたりは最後に修繕した船で海峡を越えてイギリス海岸へと旅立つのだが、彼らふたりの感情は文章のなかには記されていない。
 シムノンのロマン・デュール作品すべてのあらすじを紹介している解説書『シムノンの世界 L’Univers de Simenon』(1983)では次のように記されているが、私にはどうもしっくりこないのだ。

 最後の一連の出来事は性急である。これまで以上に渾名のスールノワーズ(腹黒さ)に値するマリーは、その手管によってシャトラールに、彼女と結婚して漁師のボスとなり、ポール゠タン゠ベッサンに夢の家を建ててもらうという条件つきで、彼女を手に入れるのだということをわからせる。長い内なる葛藤の末に、シャトラールは決心して「歩き出す」。一方、オディールはパリへと離れることになる……。(瀬名の試訳)

 姉のオディールはシャトラールとの生活を諦め、お針子になることを選び、妹のマリーとふたりで生きていこうと考えるのだが、結果的にマリーはシャトラールをつかみ取り、姉のオディールはひとりでパリへ赴くことになった、という結末を示しているのだが、このあらすじを読むとあなたもいっそうマリーの心の内がわからなくなるのではないか。つまりマリーは本当に「腹黒く」て、もとは姉の相手だった中年男を手練手管で籠絡させ、金持ちの妻の座を手に入れた、かのように読めるからだ。それが正しい解釈なのかどうかすら私にはわからない。私はこの小説を3回読み直したが、それでもまだわからずにいる。マリーは本当はどんな娘だったのか、わかるようでいてわからない。まったくおかしな感じだが、本作は「難しい難しさ」を湛えているように感じられる。そして実際のところその難しさの原因は、シムノンが敢えてマリーの心を描かなかったからではなく、シムノン自身も本当にマリーのことが最後までわからなかったからであるように思えるのだ。

《キネマ旬報》の当時の記事を見ると、カルネ監督の映画版は1950年3月パリで封切られ、翌年日本で公開されたようだ。巻末掲載のシナリオの解説部分(記名なし)では、映画の脚色と台詞にルイ・シャヴァンスという人物が関わっていることが着目されている。シャヴァンスはアンリ゠ジョルジュ・クルーゾー監督の傑作ミステリー映画『密告』(1943)の共同脚本の仕事などで日本でもすでに知られていた。解説文に拠ると、このシャヴァンスはドイツ占領下のフランス映画界の5年間に「非常にいい仕事をしていた」そうで、そのひとつがいま挙げた『密告』であった。そしてシムノン原作の映画が占領下で数多く公開されたことにも触れている。
 マルセル・カルネ監督は初期のころ、もっぱらジャック・プレヴェールという脚本家と組んで仕事をしていた。日本で出ている『港のマリー』のDVDに、こんな身も蓋もないスタッフ紹介文が載っている。

マルセル・カルネ
 29年にカメラマン助手として映画界入り。まもなくジャック・フェデールに認められて36年に「ジェニイの家」で監督デビューし、続いて撮った「霧の波止場」で、早くも名声を得た。その後も多くの傑作を世に送り出すが、当初から46年までコンビを組んでいた詩人でもある脚本家ジャック・プレヴェールと別れてからは、見るべき作品が少ないのは残念だ。

 つまりカルネ監督の全盛期はプレヴェールと組んだ『天井桟敷の人々』(1945)、『枯葉 〜夜の門〜』(1946)までであって、その後に撮られた『港のマリー』からは凡作ばかりだった、といっているのだ。実際、映画『港のマリー』は神がかった名作『天井桟敷の人々』に比べると極めて地味な小品で、カルネ監督が往年の自分を懐かしんで自己模倣した映画のように見える。その自己模倣ぶりが原作者シムノンの意図的な色づけであったのだとしたら……これはどうにもねじくれた、つかみどころのない伝説そのもののような映画である。

 そして伝説は私たちの暮らす日本というアジアの外れの国で、さらに奇妙な伝説となっていった。幕末に横浜が海外貿易へ向けて開港し、そうした港町には異人の将校や船員のための遊郭が生まれ、また彼ら外国人を専門とする娼婦が現れる。戦後、横浜の街角にはそうした外娼の姿が目立った。そして高度経済成長の1950年代前半に、あるひとりの女性が横浜に姿を現すようになる。眼鏡をかけて白い舞踏会用のドレスを着込み、気品があって、街の人々は「皇后陛下」「きんきらさん」などと呼んだ。その後横浜は大きく変貌を遂げ、海外定期便が出入りする港町としては機能を失い、外国人もすっかり減ってしまうのだが、それでもその女性は伊勢佐木町や馬車道に出没し、舞台用の練白粉を顔に塗りつけ、真っ黒に目張りをして、必ず高島屋の紙袋を手に提げ、曲がった背骨でありながらどこにも凭れかかることなく街角に立ち続けた。1980年代になって、その妖怪のような白塗りの老婆は再びサブカルチャーの世界で注目され、「港のマリーさん」、やがて「港のメリーさん」と呼ばれるようになった。
 今回、私も「港のメリーさん」を描いた書籍をいくつか手に取り、彼女を題材にしたドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』(2006)も観てみた。そのなかの一冊、檀原照和『白い孤影 ヨコハマメリー』(2018)【註1】に拠ると、メリーさんが世間で再発見されたのは1982年に《週刊ポスト》のグラビア記事で取り上げられたためで、田村隆一はそれをもとに「港のマリー」という詩を書いた(詩集『5分前』1982所収【註2】)。寝る場所はビルの廊下で、いつも決まったクリーニング店や喫茶店を使い、シャンソン歌手の元次郎(永登元次郎ながとがんじろう)氏がいろいろと面倒を見たものの、エイズによって娼婦は街に居づらくなり、メリーさんもついに1995年にクリーニング店の勧めで故郷へ帰り、1996年から後は横浜での目撃情報も途絶えた。その直前にメリーさんを実際にその目で見た俳優の五代路子が、彼女を横浜という町の移り変わりの象徴として描くひとり芝居の企画を立案し、それは杉山義法の脚本によって、1996年から『横浜ローズ』のタイトルで上演されるようになった。この舞台は内容や演出を少しずつ変えながらいまも続いている。そして先に紹介した映画『ヨコハマメリー』で中村高寛監督は、誰も知らなかったメリーさんの居場所を捜し当て、やはり末期がんに冒されて余命少なくなっていた元次郎氏とともに彼女の故郷へ赴き、高齢者施設で余生を送っていたメリーさんのもとを訪ね、元次郎氏が慰問で歌う「マイウェイ」を、何度も頷きながら聴く彼女の姿を映像に収めた。
【註1】『白い孤影 ヨコハマメリー』は「文庫オリジナル」と謳われているが、実際の内容は檀原照和氏が以前に出した『消えた横浜娼婦たち 港のマリーの時代を巡って』(Kindle新版、2013)を一人称形式に整え直し、終盤に新たな考察を加筆したものである。
【註2】海外ミステリー翻訳とも関わりの深かった田村隆一であるから、詩集『5分前』にはウィリアム・アイリッシュ『暁の死線』やアガサ・クリスティー『牧師館の殺人』への言及もある。

 映画『ヨコハマメリー』のラストに登場する薄化粧のメリーさんは、世間に出回っている妖怪の如き白塗りの写真とはまるで異なり、老いてはいるものの気品に溢れた素晴らしい美人に見える。檀原氏の本に拠るとメリーさんは1921年(大正10年)生まれ。映画『ヨコハマメリー』取材後の2005年1月に心臓発作で永眠、享年84歳。元次郎氏も2006年に亡くなった。五代路子の舞台劇『横浜ローズ』は国内外で称賛を浴びたが、娼婦だった女性を美化して描いているので一部地元市民からは嫌われていると檀原氏の本にはある。そしてメリーさんの呼称が揺れているのは、私たち日本人がマリーとメリーをさほど区別せずに用いる傾向があることを示しつつ、港町で外国人を相手にする女性をなんとはなしにマリーやメリーと呼ぶのは映画『港のマリー』の公開もきっかけのひとつだったのではないか、と檀原氏は考察した。彼の本にはシムノンの原作と映画版への言及がある。
 もともと日本では「上海帰りのリル」という歌(戦前の米映画『フットライト・パレード』内で歌われた「上海リルShanghai Lil」へのアンサーソング)が戦後の1951年にヒットし、ここでメリーさんのもととなる女性のイメージが形成された、というのが檀原氏の見立てだ。「リル」の亜流の曲が当時たくさんつくられたように、1982年のメリーさん再注目の際には次々と「マリア」や「マリー」の名を使う歌が発売されたという。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975)もリルの末裔だろうと檀原氏は記し、ここで歌われたヨーコの直接のモデルはメリーさんだったかもしれないと暗示している。作詞した阿木燿子は作曲の宇崎竜童の妻であり、横浜と縁の深い人物である。そして檀原氏の年表に拠れば、1980年代後半から「マリーさん」「メリーさん」の呼び名が交錯し始めていったそうだ。現在は「メリーさん」の呼称が使われることが多い。作家の中島らもは都市伝説の一環として短篇「白いメリーさん」を書き、つい最近までメリーさんは貞子と並んでホラー映画の題材ともなっていた。
 港のマリーを歌った曲は他にもある。夏木マリの「港のマリーLa Marie du port」(作詞・作曲=小西康陽)は明らかにメリーさんをモチーフにしているが、おしゃれなジャズ調の一曲に仕上がっている。五木ひろし「港のマリー」(作詞=阿久悠、作曲=馬飼野康二)の歌謡ポップスのマリーはピアノを弾き赤いワインで唇を濡らす酒場の女で、むしろ《東京メグレ警視シリーズ》に登場した佐藤友美さとうともみ演じるカフェレストランのママ、岸田理沙のようだ。
 しかし興味深いのは、こうした日本における港のマリーさん、メリーさんのキャラクターが、映画や原作のマリーとはまったく変わってしまったことだ。シムノンの描いたマリーは娼婦ではないし、悲しい過去を背負っているわけでもない。原作を訳した詩人の飯島耕一は「あとがき」で真っ先に映画版に言及し、「『港のマリー』といえば誰でも、ジャン・ギャバンとニコール・クールセル主演の名高い映画のことを思い出すにちがいない」と書き起こした。それはおそらく海外では通用せず日本特有の現象に過ぎないのだが、私たち日本人はそんなことも忘れてしまうくらい、マリーという名をひとつの典型として捉えてきたのである。図らずもシムノンは遠い日本の国でそんなイメージを永く人々に植えつけた。奇妙な運命の巡り合わせだ。
 なぜ港のメリーさんは“伝説”となったのか。檀原氏は『白い孤影 ヨコハマメリー』のなかで、それはメリーさんが横浜の外娼に纏わりついていたある種の類型的イメージ、いかにも語り継がれそうなメロドラマのストーリーにぴったり嵌まってしまったからだ、という主旨のことを述べており、その通りだと私も思う。だが檀原氏はそこからさらに、文庫オリジナルの加筆部分で、アウトサイダー・アーティストとしてのメリーさんを見て取った。

 世界のすべてを意味する故郷に戻れない以上、幸せな日々はやってこない。失楽園の喪失感はどうしても埋められないものだった。だから建設的な人生は諦めた。彼女は着倒れに心の慰めを求め、そこに耽溺しきっていたのではないか。(中略)
 動機はどうあれ、彼女はある種のアウトサイダー・アーティストだったと言えるのではなかろうか。気の遠くなるほどの偏屈さを粛々と貫き通した人生。誰からも共感されぬまま自分の島宇宙を守り切ることに費やした生涯。(後略)

 メリーさんが決して白い厚化粧をやめず、いつも白いドレスで街角に立っていたのは、ちょうど前衛ダンサーが全身を白く塗っておのれ自身を消すのと同じように、化粧の奥にある自分を守るためのアウトサイダー・アートだったというのだ。このくだりを読んで私はあっと思った。『港のマリー』の原作者シムノンもまた、世間から疎外された人間を描き続けた人だったからだ。
 もちろんシムノンの描く人物はアウトサイダー・アーティストではなく、彼らや彼女らは自らの意志に反して図らずも宿命によって世界から疎外され、自分のなかに閉じ籠もってゆくのだが、過程こそ違えど“伝説”として日本に生き残ったメリーさんは、根っこのところでシムノンの描く人間たちと繋がっていると感じたのだ。シムノンが『港のマリー』で描いたマリーもまた、何を考えているのかまるでわからない娘だった。横浜のメリーさんの場合は周囲が彼女をそうさせたのではないか。世間が彼女を“何を考えているのかわからない”女に仕立てたのだ。すなわちそれが“伝説”として人々の記憶のなかに生き続けることだった。
 語り継がれること。読み継がれること。容易には説明できない物語の深淵にある本質に、私たちは触れたような気がする。それはつまり物語というものが永遠に抱く、「難しい難しさ」のひとつなのかもしれない。

【附記】
 現在日本でシムノンを専門にしているフランス文学の大学研究者はいないと思われ、日本語でシムノンを論じた学術論文を検索してもほとんどヒットがない。本稿で紹介した愛知大学・永田道弘教授以外の一例として、昼間賢「ジョルジュ・シムノンの「小説」再読」ETUDES FRANÇAISES 早稲田フランス語フランス文学論集, 15巻(2008), pp.165-186.を紹介しておく。残念ながらウェブ上で読むことはできないようだが、日本で研究が遅れていたシムノンのロマン・デュール作品、『仕立て屋の恋』『雪は汚れていた』などの意義づけ、再読解を試みた論文である。東京理科大学・昼間賢教授にはアンドレ・シェフネル『始原のジャズ アフロ・アメリカンの音響の考察』などの訳書がある。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
 文理の枠を超えた「パンデミックと総合知」をテーマに、母校・東北大学の研究者らとの対話連載を展開。記事構成は翻訳家・サイエンスライターの渡辺政隆氏(https://web.tohoku.ac.jp/covid19-r/people/)。



 
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