Le Coup-de-Vague, Gallimard, 1939/2/7(1938/4執筆)[原題:波濤ル・クー゠ド゠ヴァーグ
・旧タイトル:La Pré-aux-Bœufs, 後にLe Pré-aux-Bœufs, « Marianne » 1938/12/21-1939/3/1号
Tout Simenon t.21, 2003 * Les romans durs 1938-1941 t.4, 2012

 彼には微塵の予感もなかった。だがもし、彼が朝起きて、まだ夜に染まっている空を窓の外に見たとき、「今日お前に何か重大な出来事が起こるだろう」と知らされたとしても、まず肩をすくめはしなかっただろう。彼はもともと信じやすい男なのだ。おそらく寝ぼけ眼で床を見つめながらこう思ったことだろう。
「まあバイクの事故でもあるんだろうよ!」
 彼はニッケルメッキされた8馬力の新車を持っており、いつも道で威勢よく噴き鳴らしていたのだった。
 だがバイクの事故でないとしたら、他に何があり得る? この波濤村クー゠ド゠ヴァーグで火事でも起こるのか? そうだとしたら彼よりもふたりのおばの方が影響を被り、すぐに新しい農場が再建されることになるだろう。
 おそらくジャンは別のことを考えていただろう。彼が眠りに就くとき気を揉ませることだ。ムール貝のいちばんの顧客はアルジェリアで、村人たちは荷車いっぱいになるほど出荷していた。ムール貝はポール゠ヴァンドル[スペイン国境近くの港町]経由で輸送されるのだが、ラ・ロシェルを離れてからは徐々に重量が減ってゆく。そこで地中海で2、3日浸して水を含ませるのだ。
 アルジェリアから悪い報せが来るのだろうか? ムール貝がだめになったと知るとでもいうのだろうか?

 
 今回読むロマン・デュールも、これまで英語や日本語に翻訳されたことがない珍しいシムノン作品の一冊である。タイトルの『Le Coup-de-Vague』は「砕け散る大波」「波濤」といったことを意味するが、ここでは実在する村の名前だ。第二次世界大戦に突入する前、シムノン一家は西仏のリゾート地ラ・ロシェルにほど近いラ・リシャルディエールLa Richardièreに邸宅を借りて住んでいた。ル・クー゠ド゠ヴァーグはそこからすぐ先に位置し、マルシリーMarsillyという町の一部で、人々はムール貝の養殖場(ブショbouchotと呼ばれる)や酪農場を営んで暮らしている。海岸はいくらか岩肌が険しく、そのため波がぶつかると白い波濤が上がる。典型的なフランスの田舎町だ。さらにもう少し北へ行くと、やや開けたエスナンドEsnandesという町がある。
 新聞連載時のタイトルは『ル・プレ゠オー゠ブー Le Pré-aux-Bœufs』(牛たちの前)だったそうだが、第一期のロマン・デュール『てんかん』(第40回)に出てきた農場名と同じだ。あちらの舞台設定もラ・ロシェル近くだったので、ひょっとすると同じ農場がモデルかもしれない。つまり本作はシムノンがときおり書く“田舎小説”のひとつである。人々が憧れて上京する大都会パリとは異なる、素朴でしかし土地のしがらみに縛られ、伝統的な価値観と宗教観とともに暮らしてきた人々の心のなかに、あることをきっかけとしてふと去来する底なしの虚無、自分が何ものでもなくなってしまうあの空隙を描いた作品群のひとつである。

 主人公のジャン・ラクロウは波濤村で育った28歳の青年だ。彼は2人のおば、エミリーとオルタンスとともに暮らし、ムール貝の養殖場と酪農場を運営して暮らしている。物語は彼の友人であるマルト・サルラという娘より、妊娠の事実を告げられるところから始まる。
 結婚やその後の人生など何も考えていなかった彼は狼狽する。確かにときおり森で会っていたが、本当にそれは自分の子だろうか? と思ってしまうほど現実感が持てないのだ。おばの2人、とりわけオルタンスはマルトとのことを気遣い、女のことは女がいちばん知っているからと、彼女を町に連れて行ってこっそり堕胎させた。だがマルトの父の怒りを鎮めるため、ジャンはマルトと町で結婚式を挙げた。父ジュスタン・サルラはかつて町長を務めていた男だ。地元や近隣の町人が集まってパーティは盛会となったが、ジャンはその最中もどこかふわふわと落ち着かず、自分が現実世界から浮遊しているような気がしていた。
 ジャンに両親はいない。かつておばたちから聞いたところに拠れば、ジャンの父はおばたちの兄弟であるレオン・ラクロウという男であり、アフリカのガボンに赴いたとき地元の娘との間に子をつくったが、相手の娘は産後に亡くなり、レオンもやがて死去したため、幼くしてジャンはおばたちの家に引き取られたのだそうだ。幼なじみのマルトはジュスタン・サルラが南仏から来たアデレイドという女性との間に設けた子だった。
 形式上、というより事実上、ジャンはマルトと夫婦になったことになる。だがいまなおジャンには実感がない。それどころか奇妙な不信感が日ごとに高まってゆくのだった。毎日の生活はルーティンである。唯一の気晴らしといえば8馬力のバイクを飛ばすことだけだ。しかしマルトは子供を堕ろして以来ずっと具合が悪く、ベッドに寝たきりであるし、2人のおばはそんなマルトを異常なほど気遣い、自宅の2階で看護する。マルトの父ジュスタンは町のカフェでいつも仲間と飲み明かし、母親であるアデレイドはどこか罪深そうな素振りをする。ジュスタンと仲間が集うカフェは田舎の男たちの社交場であり、ジャンは生理的に受け入れられないが、たぶん彼らはさまざまな噂話を共有しているのだ。そして女たちは女たちでまた、ジャンに何か重大な秘密を隠してマルトをかいがいしく看護している。
 なぜマルトの父ジュスタンは怒っているのか。なぜおばたちはマルトにさらなる手術を勧めているのか。なぜマルトは夫であるジャンに、いつか元気になったらこの地を離れてアパルトマンを借りて暮らしましょう、あなたは事務仕事をすればいいなどといい出すのか。あるときマルトの母アデレイドがジャンに何かを告げようとして、しかし思い留まった。伏せったマルトもまたあるとき、思い詰めた顔でジャンに何かを告白しかけたことがあった。アデレイドとマルトは確かに何かを知っている。
 夏が終わり、朝方の息は白く曇るようになり、やがて雨の季節がやって来る。ジャンはムール貝の買い手であるアルジェリアに出向いて商談をまとめる必要が出てきた。首都アルジェで買い手の男から優雅な接待を受けていたとき、不意にジャンは理解したのだった。それまでも漠然と心のなかで思っていたことが、いまはっきりとかたちを成して浮かび上がったのだ。「失礼します。すぐに戻らなくては」ジャンはマルセイユから列車に飛び乗って地元へと駆けつける。アデレイドとマルトは間違っていた! 本当の事実は……、本当の事実は……! そして雨のなかバイクを駆ってついにおばたちの家──すなわち自分の家に辿り着いたとき、彼は驚愕の事実を知らされる。
 
 以上、物語の9割5分まであらすじを割ってしまった。シムノンが書くロマン・デュール作品は、メグレ警視が登場しないといっても広義のミステリーの体裁を採ることが多く、たいていは殺人が絡んだり、犯罪からの逃避行がストーリーを牽引したりするものだが、ごくまれにまったく犯罪が関係しない物語が書かれることもあり、本作もそのひとつだといってよい。そのような場合、ミステリーというジャンル性が本来的に孕む物語の牽引力が期待できないので、スリルに乏しくなりがちで、本作も男女の擦れ違いメロドラマを延々と読まされている気分になりかねない。既読作だと『情死』(第43回)や『郊外』(第50回)あたりに近い読み心地だろうか。
 本作のネタはただひとつ、主人公ジャンの出生の謎、それだけである。ジャンはレオンなる男の息子だということになっているが、どうやらそれは周囲の者たちが真実を隠すために貫き通してきたウソらしい、そのことは、半ばまで読み通すころにはわかってくる。だがそこから先が長い。というのも他のシムノン作品と同じく、主人公ジャンはなかなか行動を起こさないからだ。町役場で戸籍を調べればすぐわかることのような気もするが、ジャンはそうした簡単な調査さえしない。むしろ彼は名状しがたい虚無感に囚われてゆく。彼はあるとき外出の際にエミリーおばから呼び止められる。「どこへ行くの?」彼は返事をしない。だが心のなかではこう考えている。

 彼はどこへ行くのでもなかった。彼は漂っていたのだ。彼は何も考えておらず、ものを見つめていても何も見てはいないのだった。(瀬名の試訳)

 他のシーンでは「彼は空っぽの存在だった」と書かれてもいる。ジャンは人間の姿をしているものの、すでに蝉の抜け殻のように空っぽの存在なのである。前作『白馬荘』(第88回)に引き続いて、このように主題を作者自身がくっきり文章として明示してしまっていることが、このところのシムノンの特徴だ。確かにシムノンの小説には底なしの虚無に墜ちてゆく主人公がよく出てくる。だがこうして作者自身が明示してしまったら、読者には想像の余地が与えられない。かえって主人公に感情移入できないのである。
 本作の読みどころは、だから主人公の虚無感というよりは、まさにフランス文学者の森井良氏が運河の家 人殺しのあとがきで示したように、フランスの田舎社会で形成される男たち同士のホモソーシャルなサークル性と、そこから弾かれるが故に共通の秘密を守り通すことで団結する女たちの強固な保守性である。どちらも性的な嫌らしさが臭い立つほどであり、その臭いはムール貝の養殖場の湿った臭いと相まって渦を巻いて波濤をつくる。男たちはセーターを二枚重ねで着込み、女たちは黒い伝統服を着て働き、若い男女が密会するのはもっぱら森のなかであり、秋になれば雨が降り、窓ガラスはいつも濡れて、波の砕ける音は遠くからかすかに聞こえるだけだ。そして灰色の空はつねにどこかへと運び去られる。ジャンとマルトの結婚パーティに集まるジューランやクラウトといった農夫、それに医師グレレといった連中は、物語に直接関与はしないものの、ときおり不意に出現して異様な印象を残す。彼らは田舎の歪んだ精神の象徴である。だから彼らが一堂に集うパーティ会場はいくら華やかで賑やかであっても、ジャンの心と同じく果てしない無意味さで覆われている。シムノンはラ・ロシェルの豪邸に暮らしながら、近隣町村の人々を冷徹な目で観察していたのだろう。彼ら村人たちは、いずれ自分がシムノンの小説に登場するとは思いもせず、本作における人々と同様、道先でシムノンと出会ったら「おはようございます」「こんにちは」と声をかけていたのだろう。そのときすでにシムノンの脳裏には、彼らの虚無性が描き出されていたのだ。
 物語の後半は、本当に何も起こらない。女たちは何かを告げようとする。ジャンはそれを聞こうとする。だが寸前のところで女たちは口を閉ざし、ジャンは日々のルーティンに埋没して暮らすしかない。彼をついに変えるのは、アルジェに出向いて商談する、という外圧である。シムノンは実際アルジェに足を運んだことがあると思うが、本作ではアルジェの異郷性はまったくといっていいほど文章で表現されない。買い手の豪華なヴィラや行きつけの飲み屋がちょっと出てくるだけで、町の様子など微塵も描かれることはない。本当にそこがアルジェなのかどうかさえ読者にはわからないほどだ。しかもほんの数ページでジャンはアルジェを発ってしまう。たとえ世界の果てまで行ったとも、主人公ジャンの心は小さな波濤村の、しかもそこに建つおばたちの家に縛りつけられたままなのである。
 最終章の、しかもその終盤、つまりジャンが自宅に戻ってからの結末部だけは異様な迫力がある。結果を書いてしまうと、アルジェから帰ったときすでにマルトは手術に失敗して死んでおり、葬儀もおばたちの手で終わっていた。マルトとその母親アデレイドは間違っていたのだ。2人はジャンがジュスタン・サルラとエミールおばの間にひそかに生まれた子だと考えていた。となればマルトがジャンと結婚すれば、それは近親相姦となる。その呪われた事実を2人は必死で隠そうとしていたのだろう。だがジャンは2人が間違っていたと確信していた。自分はジュスタンとエミリーおばの子ではなく、ジュスタンとオルタンスおばの息子だったのだと。なぜならオルタンスおばは最後までかいがいしくマルトの面倒を見ていたではないか、エミリーおばがそっぽを向いているときでさえ。
 雨が降っていた。ジャンは窓越しに流れ落ちる雨粒を見つめ、墓地に眠るマルトは凍えていると思った。
 
 そして、物語は何も変わらずに幕を閉じる。本当にオルタンスおばがジャンの母親なのかどうか、最後まで作中で示されることはない。ジャンは以前と変わらず養殖場の仕事を続け、おばたちとともに暮らしている。ただその身が抜け殻であるだけだ。マルトが亡くなったから変わったのではない、もとから抜け殻だったのだが、唯一違っているとすれば彼がその事実を自覚しながら生きるようになったこと、それだけだろう。
 ネタひとつをだらだらと引っ張って書き通した“ふいんき小説”、といったところか。月産作家ならこういうのも許される。20年経って古本屋の文庫コーナーの片隅で褪せた背表紙を見かけて、つい懐かしくなり、だが作家コンプリートを目指すのでもない限り手は出ない。いや、ふと手を伸ばしたら不意に指先が他人と触れて、それは同じ学校のひそかに好きな女の子だったとか、そこからラベンダーの香りが漂ってタイムトラベル物語が始まるかもしれないとか、古本屋巡りをしたことのある男子なら一度は妄想する都合のいい人生のワンシーンに出会えるかのような、そういう切ない気持ちにさせる(かもしれない)一冊だが、フランスでは他のシムノン本と同じく本書もいまなおふつうの現役ペーパーバックなのであった。
 それともフランス西部のリゾート地ラ・ロシェルに行ったら、いまも他のシムノンのご当地本と並んで、本書も本屋の入口脇の回転棚に刺さっているのだろうか。そして少しばかりその表紙は陽に焼けて、角も反り返っているのだろうか。そんなふうにたっぷり地元の空気と光を吸った本をひょいと買って、現地のホテルで窓辺のソファに足を投げ出しながら、旅行の半日を潰して気怠く読んでみるのもまた人生の光景のひとつではあるだろう。あってもなくても関係のない、もうすぐ雨の降り出しそうな秋の始まりの午後。
 
 本作が書かれたのは1938年4月。まだシムノンの最初の子供、マルクMarcは生を授かってはいない。
 このままでは行き詰まる、とシムノン自身も思ったのだろうか。あるいは映画の権利関係で疲れたのか、世情が深刻になって気分転換を図りたかったのか、それともたんに新聞社からの要請だったのか──シムノンはいったんロマン・デュールから離れ、気軽な大衆向けミステリー連作を書き始める。『チビ医者の犯罪診療簿』と『O探偵事務所の事件簿』である。
 

【ジョルジュ・シムノン情報】

 パトリス・ルコント監督の映画『メグレ Maigret』(2022)(https://www.amazon.fr/dp/B09SNMY9PZ/)に続いて、シムノン原作の映画『緑の鎧戸Les volets verts』がフランスで8月24日に公開された。監督はジャン・ベッケルJean Becker(やはり映画監督だったジャック・ベッケルの息子)、主演は『メグレ』と同じくジェラール・ドパルデューで、予告編はこちら(https://youtu.be/ODXQoowdemQ)。原作はシムノンのアメリカ滞在期にあたる第三期1950年の長篇(未邦訳)。
 ルコント監督の映画『メグレ』は観たが……、うーん、私はお薦めしない。ドパルデューがものすごく不健康な太り方をしているが、それよりなにより、なぜ××を×××しまったのか理解に苦しむ。かえって原作をまったく知らない人の方が「おお、これがメグレか」と楽しめるかも。詳しくは原作『メグレと若い女の死』(1954)を取り上げる回で述べたい。

  
■LES VOLETS VERTS – Bande-annonce■

    

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
 文理の枠を超えた「パンデミックと総合知」をテーマに、母校・東北大学の研究者らとの対話連載を展開。記事構成は翻訳家・サイエンスライターの渡辺政隆氏(https://web.tohoku.ac.jp/covid19-r/people/)。



 
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