■コリン・ワトソン『愛の終わりは家庭から』

  
 英国の小さな街〈ブラックス・バラ〉を舞台にした、独自のシニカルなユーモアミステリシリーズも、この『愛の終わりは家庭から』(1968)で邦訳4冊目。シリーズの探偵役は、ブラックス・バラ警察署のウォルター・パーブライト警部だが、前著『ロンリーハート・4122』(1967)では颯爽と登場した中年婦人ルシーラ(ルーシー)・ティータイムに主役の座をもっていかれた感があった。本書も、そのミス・ティータイムが大事な役割で再登場する。
 うわべは上品に取り繕っていても、底にはいずれ変わらぬ人間の偽善や欲望が潜んでいるイングランド東部の地方都市ブラックス・バラの意地悪な観察者として、作者の腕には、一層磨きがかかっている。
 
 街の検視官や警察署長、地域の新聞社あてに、何者かから身の危険を訴える手紙が届く。手紙の主を伴侶が亡き者にしようとしており、その計画が進んでいるというのだ。写真を同封するとした手紙には、写真は添付されていなかった。
 やがて、慈善団体の代表を務める主婦が自宅の井戸で溺死しているのが発見される。果たして事故か殺人か? パーブライト警部の捜査が始まる。
 冒頭部分を簡潔にまとめると、以上のようなものだが、警部を含む多視点から事件が描き出されており、全体のつながりは、なかなか見えてこない。特に、ある男の指示に基づいて、行動するハイブというロンドンの私立探偵の動向は、筋の展開とともに、全体的構図の中の位置づけが徐々に明らかになっていく。このハイブという男、ミス・ティータイムと旧知の仲だが、有能のようで間の抜けたところもあり、本書では、コミックリリーフ的役割を果たしている。彼には場違いなグラマースクールのシンポジウムの場に引っ張り出されるくだりは、笑いを呼ぶ。
 事件の背景にあるのは、ブラックス・バラで加熱する慈善戦争だ。ブラックス・バラには、慈善団体が知られているだけで43あった。最大グループは犬関連団体、ほかにも野生生物保護、高齢者や孤児関係、モンゴルのキリスト教化関連の団体まであるという。
 ミス・ティータイムも、『ロンリーハート・4122』の事件以降、ブラックス・バラの街に根付き、怪しげな慈善団体の事務局長職に就いている。
 英米のお家芸であるともされる「慈善」に対する作者の視線は、シニカルそのもの。

「(警部の)長年の経験から、組織化された慈善の世界もまた、塹壕で守りを固めて略奪目的で侵略する争奪戦の最前線だと分かっていた」

 慈善をめぐり絶えない人々の紛争、慈善を捌け口とする人々の心性、慈善の受け手の同情すべき運命等について、作者は警部の口を借り、辛辣なユーモアに包んで語っている。
 真相には、パーブライト警部とミス・ティータイムがほぼ同時にたどり着くが、ミステリのプロットの面でも、シリーズ中、上位に来る出来栄え。犯人の狙いはシンプルなものだが、計画はよく練られている。さらに、多視点を用いた書き方で全貌を容易に明かさないから、手がかりを鏤めながら、巧みに犯人を隠されたことに対する驚きも大きい。犯人側の仕掛け、作者側のたくらみともに優れているのだ。特に、ある部分に仕掛けられたダブルミーニングが、犯人の計略のみならず、本書のテーマにも直結している点が素晴らしい。「意味が分かると怖い話」というような言い方があるが、本書の場合は、さしずめ「意味が分かると笑ってしまう話」であり、その中毒性は高い。
 先行する作品でおなじみのチャッブ署長、ラブ巡査部長、アンブレスビー検死官といった個性的な面々も、愉快な、時にブラックな笑いを提供してくれる。
 本書は、プロット、モチーフ、シニカルなユーモアが緊密に結びついた実に端倪すべからざる作品。

■ロス・トーマス『愚者の街(上下)』


 健闘が続く新潮文庫の〈海外名作発掘シリーズ〉から、ロス・トーマス『愚者の街』(1970) が出た。『冷戦交換ゲーム』(1966) 、『女刑事の死』(1984)で、2度MWA賞を受賞し、本邦でも後期の作は、ほぼ邦訳されている作家の14年ぶりの邦訳となる。ライターズ・ライターズといわれ、玄人筋にはとにかく受けのいい作家の久しぶりの邦訳は、「初期の集大成」といわれる大作。
 諜報活動に失敗し投獄され、失職したルシファー・ダイのところに、米国南部の腐敗した街の無謀ともいえる再生計画が持ち込まれる。リーダー役は、街の腐敗を「治療」し巨額の報酬を得ている若き天才オーカット。彼の配下には、悪徳の元警察署長、ハニー・ブロンドの元娼婦がおり、これらにダイを加えたチームで、町を牛耳る勢力に挑んでいくことになる。
 風俗の違いはあれど、今の時代からみても、作品がまったく古びていないのには驚かされる。
 この70年代版『赤い収穫』ともいえ作品を特徴づけているのは、現在の計画の推移と並行してダイの過去の運命が描かれている点だ。1937年、ダイが三歳の頃、父と渡った上海で中国軍の爆撃に遭遇し、気がつくと父の片手だけをもってさまよっていたところを娼館のロシア人女性に拾われる。ダイは、世界各地の娼婦の間で育ち、8歳のときには、娼館のドアボーイの役どころを楽しむ、世間ずれしたシニカルな少年になっていた。通信員だった米国人と奇妙な友情を育んだ彼は、長じて、朝鮮戦争等を経て、諜報の世界に身を投じる。
 こうした数奇な半生が高密度な臨場感をもって語られ、現在のドラマを邪魔しない。邪魔しないどころか、こうして形作られた人格が現在の街を賭した戦いにどう対峙していくかというドラマの興趣を一層かき立てていく。ジャーナリスト等として世界各地を巡る一方、労働組合の広報部長として米国の都市の実情を知悉した作者の双方のキャリアが生きている。
 ダイらの戦いの相手は、ニューオリンズから来た一味だ。この人口20人の小都市は、いつの間にか彼らに牛耳られていた。市長も、警察署長も、彼らの一党だ。街は腐臭を放っている。
 小学生ですらナンバー賭博に精を出す。警察は、賭博や売春、薬物犯罪を黙認し、そのあがりを公然と要求、ニューオリンズの一味に上納している。
 ダイらの戦いは、頭脳戦だ。現状の支配層を陥れる作戦を入念に練り、二重、三重の罠を仕掛けていくコンゲーム的面白さを備えている。ルシファーと命名されるだけあって、ときに彼の作戦は、「悪魔的」とも評される。二度、三度と意表をつく展開が、感傷とは縁のないタッチで描かれる。
 ダイの戦いが聖戦というわけではないことは徐々に明らかになってくる。オーカットはビジネスで街の治療に取り組んでいるだけであり、彼に報酬を払っている連中も、現在の支配者にとって代わろうとしているだけだ。そういう事態を招いているのは、市民の無関心アパシーだ。オーカットは、ダイの役割は、ミッションが終わったらぜんぶの矢面に立って街から叩き出されることと、認めている。彼は捨て駒にすぎない。
 コンチネンタル・オプは、町の浄化を己の職務としてこなし、少なくとも浄化に向けた展望があった。しかし、ダイの生きる世界には、そんなものはない。今の支配層の殲滅は、次の支配層の台頭を生むだけだ。そんな悪がせめぎあう、やるせない世界になぜ彼は好き好んで身を投じているのか。客観描写に徹する文章からは窺いしれないが、そこにはかつて上海で友情を育んだ通信員との再会の場面で指摘される無意識が眠っているはずであり、再起への静かな共感を呼ぶ。
 物語の終盤では、過去の諜報活動の経緯からかつての組織がダイの前に立ちはだかる。
 こうして過去と現在がオーバーラップして「ちょっとした神様ごっこ」(オーカット)の物語は、クライマックスになだれ込んでいく。悪と死がはびこる物語の割に、読後は、一種の爽快さすら感じさせるのは不思議だ。
 冷徹で緩みのない文章、的確な人物描写と会話の面白さ、題材のリアルさ、予断を許さぬ展開と、作家の魅力を詰め込んだ本書で、改めて一級品の酔い心地を思い知らされる。

■D・M・ディヴァイン『すり替えられた誘拐』

 
 本書をもって、ディヴァインの全13冊の長編の翻訳なる! 古手のファンには、1994年、森英俊氏らの鳴り物入りで、今はなき現代教養文庫からディヴァインの初紹介作『兄の殺人者』が刊行されたことを懐かしく思い起こす方もいるだろう。同文庫からの刊行は4冊の紹介に終わったが、その後を引き継き、ゆったりとしたペースではあるものの、創元推理文庫で残りの全作が紹介されたことになる。一部の著名作家を除けば、10作以上ある全長編が紹介されることは、珍しい。60代以降、シリーズキャラクターに頼らず、一作ごとに工夫を凝らし、フーダニットを書き続けたディヴァインの作風がそれだけ貴重で、日本の読者に嗜好に合ったということだろう。
 ただし、本作、これまで紹介された作品と少し手触りが異なる。
 舞台は、英国のブランチフィールド大学という私立大学。学生減による経済的苦境、優れた教員の流出、学生の質の低下といった課題に加え、窃盗容疑者である学生の除籍処分に対する抗議運動に大学当局は頭を悩ませていた。さらには、資産家の娘で問題児の学生バーバラの誘拐が企てられているという噂が飛び込んでくる。数日後の学生主催の集会のさなか、彼女は本当に拉致されてしまうが、この誘拐事件は、思わぬ展開により、遂には殺人事件には発展する。
 刊行は、1969年。世界中でスチューデントパワーが隆盛を極めた時代である。大学職員を長く務めた作者にとってもこうした状況は無視できないものだっただろう。講師と交際しているバーバラのような性的に放縦な女子学生という設定も、アクティブな時代との同期を感じさせる。
 身代金要求とそれに続く身代金受渡しのサスペンスフルな場面を経て、真の誘拐犯人、殺人者は誰かという謎にいきつくのだが、その過程で、当初の窃盗事件と誘拐事件が、学生や大学管理者、講師、事務局職員といった様々な大学関係者にもたらした波紋が重層的に描かれる。作者は、『悪魔はすぐそこに』で大学を舞台にしているが、本書でも人物造形や的確に描かれる大学運営の細部に、大学職員が書いたというリアリティを感じさせる。
 事件の調査に当たるのは、精神的な鬱屈を抱えた男と若い女性というのは、いかにもディヴァイン的リフレイン。男女のロマンスが探索の物語を彩り、主人公の再生の物語になっているところも、多くの作品に共通する。ただし、他人に無関心な主人公はやや魅力に欠け、彼に共感するのは、正直難しい。
 他の作品と異なっているのは、物語半ばを過ぎて、真犯人の謎には決着がついてしまうところで、結末に至ってのサプライズを期待する向きは、肩透かしをくらうかもしれない。後半部は、不明だったピースを埋めながら、妄執に憑かれた犯罪者像が描かれていく。この犯罪に至る要因が当時としては時代を反映した新しいものであり、作者はチャレンジしがいのあるものと考えたのではないだろうか。作者としては、8作目にあたる本書でこれまでの作風のモデルチェンジを試みた節もある。
 そういう意味では、本書はディヴァインの異色作であり、最後まで未訳だったのは、謎解きの作家ディヴァインらしくないというところにあったのかもしれない。 
 
■エドワード・D・ホック『フランケンシュタインの工場』
 国書刊行会《奇想天外の本棚》から、これまで未訳だったホックのSFミステリ、コンピュータ検察局シリーズの長編第3作『フランケンシュタインの工場』(1975)が出た。前2作『コンピューター検察局』(1971)、『コンピューター404の殺人』(1973)は、それぞれ、1974、1980に紹介されているから、全3作のうち、この作品だけが、40年も取り残されていた恰好だ(前2作は、「コンピューター」表記)。
 短編の名手ホックが本書で試みたのは、『フランケンシュタイン』『そして誰もいなくなった』という意欲的なもの。
 時代は21世紀初頭。メキシコの北端バハ・カリフォルニア沖に浮かぶ孤島に設置された国際低温工学研究所(ICI) では、極秘裏にある実験計画が進められていた。長期間冷凍保存していた人体から脳や臓器を取り出して、人間を蘇らせようというのだ。コンピュータ検察局は、ICIの活動に疑念を抱き、捜査員ジャジーンを送り込む。長時間の手術により、ある青年が蘇生させられるが、その翌日から、手術に携わった医師らが次々と殺されていく。
 
 前2作は、21世紀中葉に時代が設定されているが、本作では21世紀初頭に設定。ジャジーンの年齢などは変わりがないようだから、この変更は訝しいが、あるいは、臓器移植というテーマ自体が前2作ほどの未来世界を感じさせないことからの再設定なのかもしれない。また、本作の対象は、前2作のようなコンピュータ犯罪とはいえないが、コンピュータ検察局はハイテク犯罪もその捜査の対象にしているというエクスキューズがなされているほか、局長のカール・クレイダーも活躍した前2作と異なり、ジャジーン単独の捜査になっている。
 童謡殺人こそないが、島にはちょうど10人の人間がいて、『そして誰もいなくなった』にも言及される。本歌取りである以上、元ネタに新たな発想を加えることが不可欠だが、それがフランケンシュタイン(の怪物)とは、なかなかぶっとんだ発想だ。
 ただ、プロット面で両者がうまく絡み合っているかというと、やや疑問だ。
 蘇生者(作中では、「フランク」と呼ばれているのがおかしい)は、当初こそ、蘇生しても眠りから醒めないようだが、やがて密かに徘徊していることが疑われ出し、中盤からは、明らかに登場人物に敵対していく。連続殺人者の容疑を一身にまとうのが、そのプロット上の役割で、蘇生者の意思や蘇生に伴う倫理の問題は置き去りにされる。蘇生者は単なる道具になっており、スペキュレイティブな膨らみがない分、SFとしては弱い。
 一癖も二癖もある登場人物たちが各自の思惑と秘密をもっているのは、この種の小説のお約束で、物語半ばで、登場人物の隠された秘密を暴き出すジャジーンの推理も冴えたところを見せる場面もあるが、いかんせん、メインのプロットとの絡みは薄い。人物の輪郭が弱い分、サスペンスも思ったほどではない。最終盤で小技を効かせた着地を見せるのは、本格ミステリ作家の意地といったところだろう。
 とはいえ、高輝度光線を用いた卓上ゲーム「レーザーゲーム」が本物の生き残りゲームに関わってくるなど楽しい工夫もある。前2作同様、モテ男ジャジーンのベッドシーンがあるのも、エンターテインメント作品としての頑張りなのだろう。異色の設定の謎解き物としては、十分楽しめる。

■ヘンリー・レヴェレージ『囁く電話』


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 ヒラヤマ探偵文庫から刊行された1918年の作品。かつて「新青年」に加藤朝鳥訳で連載され中絶した作品に、平山雄一氏が後半部分を訳し下したもの。加藤訳から、実に101年後の完訳となる(別な邦訳として薄田斬雲訳『囁く電線』〈1923、博文館〉がある)。
 作者は米国の多作のパルプフィクション作家。トランプカードの扱いに長けたペテン師であり、盗品受領でシンシン刑務所にも3年間収監され、彼の最初の作は刑務所内で書かれたとのこと。服役していたミステリ作家は、米国では、E・リチャード・ジョンソンら、フランスでもジョゼ・ジョバンニらがいるが、レヴェレージはその遠い祖先でもあるのだ。
 軍需成金である富豪のところに、一族の墓の管理長から新しい墓の準備ができた旨の手紙が届いた。何者かが偽りを伝えて墓の準備をさせたに違いない。死の脅迫とみた富豪は、大探偵ドリウ氏に助けを求めるが、厳重に警戒された部屋で、富豪は拳銃で撃たれ、何者かに殺害される。さらには、その娘にも死の危機が訪れて…。
 密室物である。被害者以外には、誰一人いたはずのない厳重に締め切った部屋、部屋の外には張り番がいた状況でいかにして犯行はなされたのか。
 富豪に大きな恨みをもつ男は、シンシン刑務所に収監されていたが、殺人と同時刻に違う場所に電話をかけていたことが判明する。この電話と富豪の死は何らかの関係があるのか。
 なかなか魅力的な謎である。しかも、ドリウ探偵の捜査は、邸宅にこもったきりにはならず、探偵事務所の探偵たちを多数動員したNY大捜査となる。この辺り、アンソニー・アボットの『世紀の犯罪』辺りを先取りしたような趣もある。さらに命を狙われた娘と部屋にこもって鉄壁の布陣を敷きつつ、魔の手を待ち受けるサスペンスも十分。1926年には映画化されたというが、アクションとサスペンスがある本編なら、それもうなずける。
 犯行の手口自体は、今日では顧みられないようなものだが、専門知識に基づく古典的なトリックの一例としては面白い。
 正直、平山訳となってから、各段に読みやすくなるが、「ここは世界で名高い罪悪の都」と始まる、加藤訳の名調子も味わい深い。

■H・H・クリフォード・ギボンズ『ボンド街の歯科医師事件』


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 英国で長きにわたり書き継がれた名探偵セクストン・ブレイクコレクションの3。これまで、このコレクションでは、森下雨村訳柬埔寨カンボジアの月』、加藤朝鳥訳『謎の無線電信』と大正時代の翻訳の書籍化だったが、今回の『ボンド街の歯科医師事件』(1922)は、平山雄一氏による訳し下ろし。
 選定理由は、「訳者の個人的趣味趣向」(嗜好?)とあるから、歯科医でもある訳者の関心を大いに引いたものと思われる。
 ロンドンでは、本人しか知らない秘密の場所に隠してある貴重品が次々と盗まれる怪事件が勃発する。不可思議な犯罪であり、犯人側の奸計はどのようなものなのか読者の興味を惹きつける。
 本編では、ブレイクの友人の貴族で冒険家ジョン・ロウレスがブレイク以上に活躍し、ブレイクの少年助手ティンカーも出番が多い。探偵陣は、数々の事件の背後には、高い知性をもつ毒物学者キュー教授(モーリアティ教授を思わせる)と、相棒で普段はせむしの障碍者を偽装しているカーラック伯爵が存在していることを突き止める。この二人は、ブレイク物でおなじみの敵役らしい。さらに、ボンド街で売れっ子の歯科医師の関与が疑われていく。終盤では、ライムハウス地区のビル大火災での捕物を経て、事件の決着はつく。
 冒頭の不可思議な犯罪の謎解きは、あまり褒められたものではないが、一見何の関係もない人たちのミッシングリンクに着眼した点は、面白い。
 本書には、やはり歯医者が登場するブレイク物の短編「金歯」が収録されている。これが元祖かと思わせるような古典的なトリックが用いられており、これも一興。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
ツイッターアカウントは @stranglenarita
note: https://note.com/s_narita35/


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