45° à l’ombre, Gallimard, 1936(1934/6執筆)[原題:摂氏45度の日陰] « Le Figaro » 1934/6/27-7/24号 Aboard the Aquitaine, translated by Paul Auster and Lydia Davis, African Trio所収, Hamish Hamilton, 1979((Preface)/Talatala/Tropic Moon/Aboard the Aquitaine)[英]*[《アキテーヌ号》に乗って] Tout Simenon T19, 2003 Les romans durs 1934-1937 T2, 2012 Romans du monde T1, 2010 |
客室係はその手で短く三、四回キャビンの扉をノックし、耳を扉に近づけ、少し待ってから小さく囁いた。
「4時半でございます」
ドナデュ医師のキャビンでは、ファンが音を立てて回り、舷窓は開いていたが、医師は裸でシーツの上に寝転がり、つま先から頭まで少なからず汗ばんでいた。
彼はのろりと起き上がり、窓の外の景色に目をやることもなく、食器棚よりもわずかに広い程度のシャワー室へと入っていった。
彼は穏やかで、無頓着だった。彼の動きは自動的で、毎日同じ時間に同じ儀式を執りおこなう人のようだった。いまちょうど彼が取ったうたた寝は、そうした儀式の中でもっとも大切なものだった。仮眠の後、彼は馬毛の手袋を使ってシャワーを浴びたが、それら一連の行動はこれから5時にいつも変わらず起こることへの準備でもあった。
たとえば、彼は温度計に目を向けた。摂氏48度だった。彼以外の人々、この船の船員や、赤道を過ぎてきた乗客たちは、不快に呻き、汗まみれで働くことに抗議の声を上げていた。しかしドナデュは、温度計のアルコール柱が上がるのを見て、ある種の満足感を覚えていた。
彼が白糸の靴下を履いたとき、警笛が頭上でむせび、甲板では人々の行き交う音が激しく、速くなった。
《アキテーヌ号》はボルドーから出航し、いまはまさに航海中でもっとも遠い地点、マタディの街におり、そこは不健康な黄色い水が渦巻くコンゴの入口であった。(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)
本作『45° à l’ombre』[摂氏45度の日陰]の英訳版は、『Aboard the Aquitaine』[《アキテーヌ号》に乗って]のタイトルで『African Trio』[アフリカ三部作]に収載された。おお、ということは、本作は『赤道』(本連載第36回)以来のシムノンの〝アフリカもの〟であろうか──と、私は期待を持って読み始めた。
興味深いのは、これが前回紹介した地中海旅行の最中に書かれた作品だということだ。イタリア船の船上や、立ち寄ったエルバ島で書かれたようだ。いかにも当時の旅行作家シムノンらしい執筆環境である。
英訳者のひとりは Paul Auster という名であり、これはおそらく後に作家として有名になるポール・オースターだろう。オースターの本を読むと、彼が若いころフランス語翻訳のアルバイトをしていたことがわかる。
主人公ドナデュ40歳は船医であり、いまは25千トンの国際旅客船《アキテーヌ号》に乗り込んでいる。《アキテーヌ号》はコンゴのマタディの町を出発し、アフリカ大陸を大西洋回りで北上して、フランスのボルドーまで3週間の航路を進むのだ。マタディ停泊時の気温は、夕方の室内で摂氏48度。じっとしていても汗が滲み出てくる。
1等にはさまざまな客が乗っている。植民地コンゴで役人として裕福な暮らしをしていた、太ったカエルのような姿のラショー。逆に植民地に馴染めず金もないままフランスへ戻ろうとする若い男、ジャック・ウレ。彼には妻と6ヵ月の赤ん坊がおり、赤ん坊はずっと具合が悪く、妻が7号室でいつも面倒を見ているが、ウレ自身はバーで飲み、客室にあまり戻りたがらない。
さらには狂人の軍医バッソ氏と、その夫人。バッソ氏はデッキで他人に迷惑を掛けるため、ドナデュらの配慮で個室に隔離された。夫人はそんな夫を無視して、士官と恋に落ちている。
コンゴで優秀な技士だったダッソンヴィル氏と、その夫人。だが夫は航路の途中で船を降りたため、その後は夫人ひとりが6、7歳の娘と子守役を連れて旅をしている。彼女はエレガントで、ディナーの席やデッキでも目立つ。ウレは夫人を気に掛けている。
他にもさまざまな乗客がおり、船員や船長らがいる。人々はデッキで競馬の真似のような賭け事遊びやポーカーで時間を潰す。《アキテーヌ号》はマタディを発った後、コンゴのポワント・ノワールで300人の安南人(人は彼らを中国人と呼ぶ)を受け入れた。そのため3等室は一杯で、船医のドナデュも忙しい。早くも2人がアメーバ性赤痢で死んだ。この後もボルドーに着くまでには死者が増えるだろう。
死んだ安南人の葬儀が早朝におこなわれる。しかし人々は不吉な予感で不安げである。船はポール・ジャンティルからリーブルヴィルへ、さらにダカールへと向かう。乗客の構成も変わってゆく。ドナデュはときおり内省的になる。彼は司祭のような道徳観の持ち主でもあり、キリスト教の神について考えることがある。
船が西アフリカの先をぐるりと回り、乗客は喜ぶ。ジャック・ウレがドナデュに金の無心をしてきた。彼は金がないにもかかわらずバーで飲んだり賭け事をしたりして、借金が重なっているという。彼には病気の赤ん坊もいる。フランスに着いたら返す、と懇願されてドナデュは小切手を渡す。ドナデュという名は「神に召された者」という意味なのだ。
後は西サハラ沖のテレリフェ島を越えれば数日でフランスだ。しかしそのようなときになって、デッキでラショーの財布が盗まれるという事件が起こる。現場の状況からウレも疑われるが、ウレは激昂する。
次第にドナデュ自身も気分が悪くなり、船酔い気味になってゆく。もう船はほとんどヨーロッパ近くだ。しかし夜にウレが不審な振る舞いをしているのをデッキで見かけたドナデュは彼を追う。やはり彼が財布を盗んだのだろうか。追跡の途中でウレは大腿骨を骨折する。財布の行方はわからない……。
いや、ここまでストーリー性のないシムノンの長編小説も珍しいのではないだろうか。上に掲げたあらすじを見ていただいてもわかると思うが、たくさんの登場人物が出てくるのに、およそ彼らの間でドラマというものがない。本当に上記のことしか起こらない。これまでも展開の起伏が少ないとか、物語のテンポが緩いといったことはあった。だが物語そのものがないとさえ言えるのは今回が初めてではないか。
船旅を扱っているという点では初期ペンネーム時代の長編を改稿した『北氷洋逃避行』(本連載第34回)に似ていると言えなくもないのだが、あちらは船内で殺人事件が起こり、その犯人を捕まえるという物語上の目標があった。今回はそのような目標、すなわち物語が進むべき道筋が存在しない。
それでいて、ではまったくつまらない、退屈な小説なのかというと、決してそんなわけではないのがふしぎなところだ。つい先を読んでしまう。これは点数をつけるのも難しい小説だ。たとえば10点満点で7点でもなければ2点でもない。0点でもない。5点としかつけようがない作品と言えば、何となく雰囲気がおわかりいただけるだろうか。
連載の前回にシムノンの旅行エッセイを読んでいたのも幸いしたかもしれない。本作は、言わば小説のかたちで書かれた旅行エッセイのようなものだ。『赤道』の回(第36回)で紹介した通り、シムノンは1932年に《ヴォワラ(さあどうぞ)》誌の依頼でアフリカを3ヵ月間探訪し、同誌にノンフィクション記事の連載を書いた。そのときシムノンはまず空路でエジプトのカイロからアフリカの中心部へ入り、それから大西洋側のガボンのポール・ジャンティルやリーブルヴィルまで行って、大西洋航路の旅客船で帰郷しているのだが、最後の客船の旅はルポルタージュ記事では書かれなかった。
今回の小説は、その帰郷の船旅がそのまま小説として書かれていると考えるのがよいのかもしれない。これはきっと、小説のかたちをしたシムノンの旅行記なのだ。そのためストーリーは基本的に存在しない。それでも読ませる内容になっている。今後シムノンは“船旅もの”をいくつか書くようになってゆくのだが、本作はその最初期の1作と言えそうだ。アフリカのコンゴから話は始まるが、アフリカそのものの描写は少ない。風景は移り変わってゆく。本作は“アフリカもの”ではなく“船旅もの”なのだ。
本作を書いていたとき、シムノンは地中海を船で旅行中だったと述べた。本作にはシムノンの船旅気分が反映されている気がする。船内の真水が少なくなって心配だといった話が序盤に出てくるが、それなど地中海旅行での実際の出来事が反映されているように思える(前回の第46回参照)。
船旅気分がこの長編小説からストーリー性を消し去ったのかもしれない。
いくつか目を惹いた部分を書き留めておこう。まずは本作のタイトルである。読み始める前の私は、『45° à l’ombre』の「45°」が何を意味するのかよくわからなかった。摂氏45°? 華氏45°? それとも南緯45°のことだろうか? 英訳版で読み始めて1ページ目に、船室内が「115°」だと出てきたのでさらに混乱した。115度なら華氏でしかあり得ない。換算すれば摂氏46.1度である。タイトルの「45°」も華氏だとすれば、摂氏に換算すれば7.2度。寒すぎやしないだろうか? いったいどこの気温のことを言っているのだろう?
だが仏原文を見るとすぐに謎は解けた。「115°」と英訳されているところは、仏原文では「摂氏48°」とあった。つまりタイトルも摂氏と捉えてよかったわけだ。わざわざ英訳者が本文を華氏に換算したので(しかも微妙に計算が合わないので)混乱したのである。英訳者はここを華氏にしたので『45° à l’ombre』のタイトルを直訳できず、『Aboard the Aquitaine』としたことになる。
もうひとつ注目すべきなのは、私の知る限りシムノンが『メグレと運河の殺人』(連載第4回)以来久しぶりに、キリスト教を作品内で描いている点である。主人公の名はドナデュ。後にシムノンは『ドナデュの遺書』(1937)という長編も書くが、それと同じ名前である。作中ではドナデュという名は「神に召された者」の意味だと説明されており、彼は司祭のように振る舞うとされている。そして最後に夜の船内で挙動不審のウレを追うとき、彼は「父なる神」Dieu le Père(God the Father)を演じようとするオブセッションに駆られる。彼は普段からそうなのだ。このキャラクター設定の意味は正直なところ私にはよくわからないが、ドナデュ医師の行動原理になっている。本作ではその意味づけがうまく私たち読者に伝わってこないような気がするが、今後の作品の中でキリスト教の描かれ方についても注意を払う必要があると感じた。
ストーリー性のない本作は、最終章でドナデュがウレを追うといういくらか緊迫したシーンを迎えるものの、そこに何か物語らしさが加わるわけでもなく終結を見る。財布を盗んだ者が誰なのかもわからずじまいに終わるのは驚くべきことだが、本当に最後の数行前で、犯人は誰なのかが地の文で仄めかされる。とはいえこれはストーリーのない作品であるから、たとえ名前が仄めかされようと意外性など存在しない。そして、もはや自分と無関係な遠い昔を振り返るかのような筆致で本作は終わるのである。
奇妙な読み心地だ。そういえば具象的なタイトルをつけることが多いシムノンにしては、珍しく本作は本文中にはっきりとその描写が現れない『摂氏45度の日陰』という抽象的なタイトルだ。『メグレ再出馬』(連載第19回)の実際のタイトルはただ『Maigret』[メグレ]だけだが、それに通じる抽象性がある。
『倫敦から来た男』以来、どうも平均点的な作品が続いている。すごくよいわけでもないが、積極的に悪いとも言えない。読んでいてつまらないわけではないが、もうちょっと惹き込まれる部分がほしいところだ。
これは『倫敦から来た男』以降、シムノンが彼自身のミッドポイントから離れてしまったことに原因がある気がしている。『てんかん』の回(第40回)で、シムノンは彼自身のミッドポイントを見つけて、シムノン節を効かせられるようになったのではないか、と書いたのだが、その次作の『倫敦から来た男』から自らその作劇法を放棄してしまったようにも感じているのだ。
この辺りでまたがつんとしたものを読みたい。今後に期待しよう。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。 |
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