・Escales Nordiques, « Le Petit Journal », 1931/3/1-12号(全12回)*[北欧寄港] ・Georges Caraman名義, Pays du froid, « Police et Reportage » 雑誌が1933/秋休刊のため未掲載*[凍える国] 初出:Francis Lacassin & Gilbert Sigaux編, À la recherché de l’homme nu(Mes apprentissages 2), Union Générale(10/18), 1987[裸の人間を探すなかで:わが訓練2] ・Georges Caraman名義, Cargaisons humaines, « Police et Reportage », n° 18, 1933/8/24号*[人間の船荷] ・Sa Majesté la Douane, « Voilà », nOS 93-97, 1933/1/1-28号(全5回)*[陛下の税関役人] ・Europe 33, « Voilà », nOS 104-110, 1933/3/18-4/29号(全7回)*[ヨーロッパ33] ・Georges Caraman名義, Les grands palaces européens, « Police et Reportage » 雑誌が1933/秋休刊のため未掲載* [ヨーロッパの豪華宮殿] 初出:Francis Lacassin & Gilbert Sigaux編, À la recherché de l’homme nu(Mes apprentissages 2), Union Générale(10/18), 1987 ・A la providence du voyageur, « Témoignages de notre temps » n° 4, 1933/12* [旅行者の摂理において] ・Mes apprentissages: Reportage 1931-1946, Omnibus, 2001 |
連載第58回の原稿を書き終えた後、さっそく第二期メグレ警視シリーズの短編作品に取りかかったのだが、前回の番外編を書いたところ、積み残しの第一期エッセイ群を読み終えてしまいたくなった。そこでオムニビュス社の『わが訓練』に掲載されているノンフィクション・ルポルタージュから、これまで本連載で取り上げてこなかったものをまとめて読んでみたので感想を記す。今回は旅行に関連するルポルタージュ群である。次回は本連載でまったく言及してこなかった犯罪ルポルタージュ群を取り上げる予定。メグレ第二期の開始をいまかいまかと待ち望んでくださった方がいたとしたら申し訳ない。もう少しお待ちください。
もっともルポばかり読んでいたのではこちらも疲れて飽きてしまう。だから途中で第二期メグレの中短編を手に取ったりTVドラマ版を観たりして気分転換しながら、なるべくゆったりした心持ちで読み進めた。決して読むことを義務にしたくないのである。読者の皆さまも今回はいわば“おまけ”の回だと思って気軽に目を通していただきたい。
■「北欧寄港」(1931)■
■「凍える国」未発表(1933)■
自船《オストロゴート号》で欧州を巡りながら生活をしていたペンネーム時代、シムノンは一度だけ《オストロゴート号》を離れて妻といっしょに大型船に乗り、北海とノルウェー海を北上してラップランド、すなわちロシア近くのフィヨルドまで行った。人生初めての“冒険旅行”だったといえるかもしれない。
その旅の成果は長編小説『北方洋逃避行』(第34回)に結実した。この長編はもともとジョルジュ・シム名義で新聞紙に発表されたものだが、シムノンは後に改稿して本名名義の単行本にしている。きわめて珍しい事例であり、なぜ本作だけシムノンがこのような特別扱いをしたのか、読んだ当時はわからなかった。だがいま振り返って考えると、初めて自らが実際に見て体験した“冒険”を小説内で描いた作品だったからではないだろうか、と思う。それまでシムノンは自分が行ったこともない秘境を書き飛ばしていた。しかし『北方洋逃避行』は初めて本当の“冒険”を経て書いたものであり、だからこそシムノンにとって思い入れの深い作品だったのかもしれない。シムノン世界小説最初の一冊と位置づけることができるのだ。
「北欧寄港」は旅行ルポルタージュのなかでも1931年発表で最初期の連載。まずオランダのスタフォーレンとデルフゼイル滞在時のエピソードに軽く触れた後、《オストロゴート号》でドイツのエムデンに着いたところから本題が始まる。シムノンにとって初のドイツ港である。そこからウィルヘルムスハーフェンへ。時期は4月。シムノンの妻は画家なので風景をスケッチしている。ここで役人とやりとりがあり、シムノンはスカンジナヴィアに行きたいと話す。
シムノンと妻のティジーはドイツのハンブルク港から250トンの貨物船に乗って北海へと出る。真冬なら海は凍っているだろうが、いまは4月なのでなんとか渡れるのである。
読みながら『北方洋逃避行』をずっと思い出していた。この小説と同じルートをシムノンは実際に辿ったのだ。デンマークを過ぎてノルウェーの都市スタヴァンゲルの港に着く。ウェブで何気なく検索したら、ここはディズニー映画『アナと雪の女王』(2013)の舞台のモデルとなったところなのだそうだ。へえ、そうなのか、と妙に感心してしまう。シムノンが船上から眺めた町の第一印象は、褪せた緑や黄や赤色で塗られた木造家屋が多く、雪が険しく、人々は革靴を履いているということだった。日曜の朝。シムノンにとって初めてのスカンジナヴィア半島との対面である。さらに進んでベルゲンの港では豪華客船の《プリンス・オラフ号》と《ポラリス号》に遭遇する。『北方洋逃避行』の舞台はまさに《ポラリス号》船上であるから、シムノンは貨物船から眺めた客船に想いを馳せて物語をつくったわけだ。
船はさらに北へと進む。シムノンは周囲の景色を見ながら、「夏と冬のノルウェーがある」「陸と沿岸のノルウェーがある」と、さまざまな表情の北欧があることに気づいてゆく。船はノルウェー中部のトロンハイムまで来る。ここは終着駅の町で、列車の姿もない。木造家屋は雪に覆われ、隣の家まで500メートルもある。図書館にはポール・クローデルやアンドレ・ジッド、ジョルジュ・デュアメル、ジャン・コクトーの翻訳本があったとシムノンは記す。こんなことをシムノンが書くのは珍しい。本稿ではまだ個人的な旅行エッセイに近い筆致が残っている。
ある男性に招かれて家を訪れたとき、シムノンはこんな質問をする。
「あなたの国ではどこも家が完璧に塗られていますね。ピンク、青、黄、緑……」
答えはこうだ。
「最近のことです。冬は空が灰色で……灰色は寂しいですから……」
男は次の寄港地までいっしょに行きますといった。しかし200キロも先であるし帰り道もないのにとシムノンが驚くと、男は「われわれにとっては隣ですよ!」と答えたのだった。「まさにその通りなのだ!」とシムノンは心で応じる。
さらにノルウェー北部のスヴォルヴェル、トロムセーへ。スヴォルヴェルはふだんの人口が2千人だが、2月には2万8千人の漁夫がノルウェー全体から集まるのだとシムノンは聞く。彼らは妻や子供も連れてやってくる。
その時期は朝の6時に大砲が鳴り、すると7千もの漁船がいっせいに港を出て行く。そんな日々が6週間も続き、4500万の鱈が収穫される! だが漁師たちがもっとも怖れるのが海の大渦巻だ。
さらに旅はハンメルフェストから最終地ホニングスヴォーグへと続く。北の大地、ラップランド地方である。ハンメルフェストは魚とトナカイ脂のひどい臭いだが、ついに最果ての北の地へやってきたシムノンの感慨は深い。寒くても決してここの夜は死んではいない、とシムノンはいう。ノルウェー人はケーキを食べて、ビールかワインを飲む。
そしてシムノンはついにノルウェーのほぼ最北端・最東端といえるホニングスヴォーグに着く。そこは人口200人の小さな町だった。4月でもときおり気温はマイナス20度になる。曇りがちの土地だが、シムノンはここを「楽園」と書く。なぜなら《楽園》とノルウェー語で書かれた店を見つけたからだ。
なかに入ると蓄音機がアルゼンチンタンゴを鳴らし、ふたりがダンスを踊っていた。ひとりはトナカイの靴を履いており、もうひとりはトロール船員のようだ。アルコールはない。ワインもビールもない。紅茶とコーヒーのみだ! そしてケーキとサンドイッチ。照明はピンク色。そしてシムノンはこんな最果ての地で新鮮なキャベツにありついた!
シムノンはバイクに乗せてもらってヴァランゲルフィヨルドに行った。チルケネスという小さな町だ。漁夫もおらず、工場の煙突が4つ見える。チルケネスは町というより鉄鉱場なのである。
シムノンはラップランドで「赤ん坊の太陽」を楽しんだ、と書いている。気温はマイナス25度だったが、トナカイの革をかぶるので思ったより寒さは感じなかったという。丘の上からこちらを見るトナカイの影がわかったという。そしてノルウェーとロシアの国境近くで、ロシアの制服を着た者を双眼鏡で見たという。
短文を重ねて「!」を多用する初期の文体がいまはむしろ懐かしく、初々しくて好もしい。ルポルタージュの最後にシムノンはフランスへ戻ってくる。「あれから何週も、何ヵ月も経った。ラップランドは遠くにある。もはや黒白のフィヨルドは記憶に残るのみだ」と振り返る。だがその筆致には気持ちが籠もっている。温かな懐かしさが文章から滲み出ているのだ。シムノンにとってはきっと生涯忘れがたい素晴らしい旅であったに違いない──そう思わせてくれるルポルタージュになっている。
掲載紙休刊により未発表となった「凍える国」も類似の内容だ。ただし書かれたのはおそらく1933年なので、すでにシムノンはアフリカ旅行を経験している。そのため冒頭にはアフリカへ行く前にエジプト大使館や旅行会社に出向いて、ナイルに行ったら船が乗れるかと尋ねたエピソードが書かれており、そこから翻って、冬にラップランドを歩いたことを思い出すのである。そのとき世話になった役人はオスロより北に行ったことがなかった。
シムノンの研究資料や年表を見ても、この北欧旅行が厳密にいつのことだったのかはっきりしないが、おそらくは1930年の真冬から先、ただし春の訪れよりも前、という時期だったろう。春なら豪華なクルージングができるが冬だからこその魅力的な旅もあるのだ、とシムノンは書いている。胸を躍らせて人生初の冒険に挑んだことが伝わってくる。
チルケネスまでは8日間の船旅だったようだ。最終地は白夜で、気温はマイナス20度だったが思ったほど寒くはなく、思ったほど暗くもなかったとある。また旅の途中でノルウェーのロフォーテン諸島に立ち寄ったが、ちゃんと電報や電話が使えて町には電灯があったとも記している。ただし隣町は100キロ先で、人々は自転車代わりにモーターボートを使うのが当たり前の場所なのだということも。
シムノンが北欧を訪れたのは、空に太陽が照っていてもまだ大地は雪で覆われている時期だった。空は銀色で海は黒かった。それでもシムノンはこの凍える国を肯定的な眼差しで見ている。トナカイだけの国ではなく鳥と魚の国でもあると述べ、実は豊かな土地であることに着目する。ただし地元の人からは「この地でいちばんの大敵は壊血病だよ。どうしようもないときは鳥を殺して鮮血を飲まないといけない。狩りに出て何ヵ月も獲物が捕れなかった者たちは、仲間を殺して食べたんだ」と凄惨な話も聞かされている。だからこそ新鮮なキャベツは貴重なのだ。
それでもシムノンは結論として、「北方は寂しくはない」とはっきり書く。エッセイの最後には再び最終地のナイトキャバレー《楽園》を取り上げ、ピアノと蓄音機が置かれてワルツとタンゴがかかっていたこと、ダミアとジョセフィン・ベイカーの歌が流れていたこと、酒は禁止で紅茶とコーヒーとケーキが出ること、ウェイトレスが可愛らしかったことを述べる。
初期のシムノンは、当時の世間一般で繰り返されていたキャッチフレーズに対していつも違和感を表明し、異議を唱える。あえて「北方は寂しくはない」と書くのも、逆にいえばフランスでは「北方は寒くて暗くて寂しい場所だ」というイメージが無批判に広まっていることへの反発がシムノンのなかに生まれたからだろう。シムノンは同時期のアフリカ旅行エッセイで、やはり「アフリカはあなたを呼んでいる」という当時のキャッチフレーズに対して違和感を表明している。当時のシムノンは、人々が深い考えもなくロボットのように耳に心地のよいキャッチフレーズを受け入れることへの批判精神があったのだ。シムノンが創造したキャラクターであるメグレ警視には、後年「運命の修繕人」というキャッチフレーズが生まれ、いまでも広く引用され続けているが、若いころのシムノンならもしかするとそんな状況に反発したかもしれない。キャッチフレーズは人をいかにもわかったような気にさせ、思考停止させてしまう。たとえば作家の小松左京氏を「コンピューターつきブルドーザー」(石川喬司氏の評論から派生したフレーズ)とひと言で表現すれば何となくわかったような気になるが、そうすると後年の「鷺娘」のような素晴らしい芸道小説や、美しく鮮烈なショートショート「もみじ」を書いた業績が取りこぼされてしまう。あるいは傍流の仕事と見なされてしまう。キャッチフレーズは危険なのである。
当時のシムノンの反発は、若者に特有の威勢のよさだったのかもしれない。それでもこのような立ち位置からシムノンが出発したことは、後に世界一周旅行をして独特の諦観へと至る軌跡を俯瞰したとき、重要な一歩であったように思えるのだ。
■「人間の船荷」(1933)■
1933年に船で黒海や地中海を旅行したときの見聞や、アフリカ旅行からの帰国の際に船上で出会ったことなど、船旅でのエピソードをひと括りにしたエッセイ。人間もまた船の重量を増やす積み荷の一部だが、そこにはただの積み荷とは違う人間模様があるのだということである。だが一部はそこからの連想で移民の話にも広がってゆく。
たとえば、黒海や地中海の船旅のみならずアジアやアフリカ旅行でもいちばん重要なのが、カフェジ Cafedji と呼ばれる人物だという話。彼らはトルコ語で話し、主としてコーヒー農夫だが、船上ではトランプカードやネックレスや石鹸や剃刀など何でも売っている。10ヵ国語が話せるので各港では通訳の役目を果たす。彼らは乗客のパスポートを取り纏める。
シムノンはエーゲ海のギリシャに立ち寄った後トルコに行ったことで、両国間の第一次大戦後の状況に想いを馳せている。トルコとギリシャはいまだに戦っているからだ。トルコには20万人のギリシャ移民があり、一方トルコには同数のギリシャ人がいる。そこからさらにシムノンは、ポーランドやイタリアの駅の近くにも移民局があったことを連想し、また中央アフリカへ旅行した際の帰国船に200人の中国人が同乗していたことも思い出す(第47回)。彼らは鉄道建設のためにアフリカへ来た人々なのだ。作業中あまりに黒人が死ぬので代わりに連れて来られたのである。彼らのひとりが黄熱病によって船上で亡くなり、木棺が海に棄てられた現場をシムノンは見ており、そのことは長編『摂氏45度の日陰』に書いている。
同じ客船でも金持ちの客と4等客ではいろいろと入国時の難しさも違うのだということもシムノンは書いている。ロシアに近づくにつれてパンが稀少になっていったことも書いている。4等客であることと、ロシアに近づいて人々がただひとつ、すなわちパンを欲するようになってゆくことが重ね合わされてエッセイは終わる。本稿は船旅のエピソードが主体なので、飢えるロシアの現状には踏み込まない。だから全体の筆致はさほど深刻ではない。
それでもシムノンの問題意識が垣間見られる一編だ。それほど長くもない。『わが訓練』で第二部冒頭に配置されている通り、シムノンの旅行ルポルタージュ全体への入口となる記事である。
■「陛下の税関役人」(1933)■
いつもの旅行ルポルタージュだろうと思って読み始めたら違っていたので驚いた一編。これはとても面白かった! 翻訳版が出てもよいと思う。
タイトルは『女王陛下の007(On Her Majesty’s Secret Servise)』と同じく『女王陛下の税関役人』と訳せる。だがイギリス女王や英国は本文にまったく出てこないので、タイトルの意味はちゃんと考えようとするとよくわからないが、つまり欧州各国の税関役人がその国の規律を無骨に遵守して仕事に励んでいることを表現したものなのだと思う。
面白さの理由は、旅をしているシムノン自身を主役に据えなかったところにある。あちこちを旅すれば自然と国境を越える機会もあり、そこで税関役人とやりとりをすることになる。このエッセイはそうしたさまざまな旅のなかでシムノンが実際に体験し、あるいはおそらく人から聞くことで収集した、各国の税関役人の涙ぐましい(あるいは横柄な)活躍ぶりを描いた逸話集である。主役は税関役人たちなのだ。
税関役人の仕事は、もちろん密輸を取り締まることだ。しかし他方では一般人の些細なうっかりミスを
密輸の対象物になりやすいのは煙草とコカインだ。ベルギーのフランドル地方には大きな煙草工場があり、コンスタンチノープルからはマルセイユ経由でフランスに芥子がもたらされる。組織化されたギャング団は大量の煙草をベルギーからフランスへ密輸しようとする。煙草はベルギーでは1キロ6フランだが、フランスでは60フランになる。密輸すればぼろ儲けができるわけだ。
あるときマルセイユの税関役人に、フランス‐ベルギー国境のダンケルクの話をすると、おれは2年間そこで働いていたよ、と懐かしげに振り返り始めた。冬のベルギー。雨が降ってどこも地面はぬかるんでいる。そんな夜に40人の男たちが2トンの煙草をフランスへ持ち出そうとしたことがあるのだ。銃声が響く。ギャング団が車を使うのに対して、当時の役人たちは自転車だった。いまは役人も車を使い、密輸業者を追うのも組織化されている。
そうした健気で勇敢な役人もいれば、最初に話したようにわずかな煙草の所持を咎めるだけで列車を1時間停める役人もいる。本来はコカインや高額時計の持ち出しを見つけるのが目的のはずなのに、周りはうんざりさせられる。
ストラスブール郊外はフランスでもっとも繊細な国境ポイントだ。ライン川が流れ、橋が架かっている。ドイツの税関役人とフランスの税関役人が向かい合っているわけだが、両者の性格はまるで違う。
フランス東部の都市ミュルーズもスイスとの国境近くだ。寒い12月のある日、シムノンはミュルーズにほど近い町サン゠ルイに着いた。10メートル先はスイスのバーゼルだ。人々はバスに乗って両国間を行き交っている。だが旅行者である自分は運転免許証の提示を求められ、スイスの役人からは「15日間の限定滞在か?」と尋ねられる。「いや、明日フランスに戻るんです」と答えても「それはどうでもいい。15日間限定滞在だ。3フラン払え。おまえの名前と車の番号を書け」といわれてしまった、というがっかりな話。
イタリア国境はよく警備されている。ニース、マルセイユ、リヴィエラに芥子が入ってくるからだ。夏の初め、シムノンは蒸気船で地中海を回ったのだが、40歳代前半の太った女が同船していた。コンスタンチノープルから来た女で、日に3度から4度も衣服を替えるのだ。マルセイユに着いたとき、700ポンドの芥子が船から発見された。女が密輸しようとしたのである。芥子はトルコでは自由に買える。1キロ130フランである。だがパリでは250フラン。アメリカに持っていけば700から800フランになる。
中央アフリカでも税関役人に会った。というより彼らはブッシュから出てくる。どこに行っても彼らと会った。誰もいないと思えるようなところでも税関役人はいた。彼らが注意しているのはガソリンと煙草だ。それこそ何千もの税関役人がいつも漁夫たちの仕事を見張っているかのようだ!
世のなかにはたくさんの税関役人がいる、とシムノンは結ぶ。そのうちの何人かは英雄だろう。しかし一方では何百人ものサディストがいる。取り調べのために娘を裸にする者もいるのだ。彼らの仕事はハードで痛ましく、そして単調である。詐欺や密輸を取り締まるのが仕事だが、あなたのポケットに紛れ込んでいたほんの数本の煙草が詐欺だと咎められるのはうんざりではないか。──こうして怒濤のように各国の逸話を紹介してから、ささやかなユーモアと郷愁を添えてシムノンはエッセイを締めくくる。書き手のシムノンがつねに後方へ一歩退いているため、かえってそれぞれのエピソードが躍動して、いかにもありそうな感じで書かれていて飽きさせない。
振り返ってみるとシムノンの小説には国境を越える話が少なくない。いまここでの生活は苦く苦しいものだが国境を越えて隣の国に行けば別の人生が開けるかもしれない……という希望はたびたび描かれる。そして国境を越える直前でその希望が潰えることもあれば、なんとか国境を越えて飛び立ってゆくこともある。最初期のペンネーム作品『神出鬼没のノクス』(第23回)も怪盗と警視が国境近くで『ルパン三世』のような騙し合いを繰り広げる話だったし、メグレものの『第1号水門』(第18回)でも容疑者は最後に国境を越えて逃げようとした。今後紹介する第二期メグレの短編「死刑」も実はそういう話であるし、同じく短編「停車──五十一分間」も国境税関の話だ。シムノンは以前から“国境”というものに郷愁を覚え、だからこそ旅をしていたときも国境沿いの出来事は自然と記憶に残ったのではないか。
あまりに面白かったので、勢いで英作家F・W・クロフツ最後の長編『関税品はありませんか?』(1957)も読んでしまった。クロフツを手に取るのは小学生のとき『英仏海峡の謎』(1931)を読んで以来、なんと約40年ぶり。私はクロフツが苦手なのだ。しかしこの長編の題名は昔から気になっていた。
終戦後のイギリスで、顔見知りだった男ふたりがばったり出会う。そして、ライン川を遡るヨットツアーを運営しながらその遊覧に乗じて時計を密輸しよう、という話が持ち上がる。男たちは他の仲間といっしょに遊覧船の密輸稼業を始めるが、そのひとりに脅迫状が届くようになり、殺人が起こる。
二部構成で、第一部では男たちを主人公に据えて、密輸計画が実際におこなわれてゆくさまがわくわくするような筆致で描かれる。文庫版巻末の「訳者あとがき」でも指摘されているが、この部分は冒険小説風味でとても面白かった。船旅の描写がいい。第二部からフレンチ主任警視が登場し、殺人者が誰であるか、丹念な捜査が進められる。
そういえばシムノンは最初期のころに自船で欧州の川や運河を巡って各国を旅したのに、「陛下の税関役人」は陸路の税関役人の話ばかりで、川や運河でのエピソードがなかったなあ、と、ライン川の航路を使って密輸を目論む『関税品はありませんか?』を読みながら初めて気がついた。執筆時のシムノンにとっては少し古い話になるから思い出さなかったのかもしれないな。
■「ヨーロッパ33」(1933)■
今回紹介するなかでは最長の旅行ルポルタージュであるし、いちばん意欲的に取り組んだ仕事だと思われるが、残念ながらぱっとしない。かえって肩に力が入りすぎて鈍重な感じを与える。1933年現在のヨーロッパが抱える社会問題を総括的に炙り出す、というおそらくは雑誌社から与えられたテーマがあまりに大きすぎたため、シムノンは持て余してしまったのではないだろうか。
ベルギーのブリュッセルを発って雪景色のワルシャワに入るところからルポは始まる。これからポツダムへ行く、そして明日はラトヴィアだ、とシムノンは書き起こしてゆく。
今日のヨーロッパを見るために発ったのだ、とシムノンは冒頭の段階で明記している。1914年以前のヨーロッパや第一次大戦後のヨーロッパはこれまでも書かれてきた。だがいま現在、1933年のヨーロッパは書かれていないからだ、と。アメリカから始まった世界恐慌がまだ後を引き、ドイツのヒトラーが勢力を伸ばしていた時期である。つまり不安定で先行きの見えない時代だったはずだ。そんななかでシムノンは寒い冬の時期に、しかも東欧を中心に見て回ろうとしたのである。本文には明記されていないが、一度ですべての国を見て回ったのではなく、実際は数回に分けての取材旅行だったようだ。
連載第一回は旅の始まりの地点、ベルギーのフランドル地方とシャルルロワの話が主体だ。シャルルロワでは民族宮殿 Palais du Peuple というところに行っている。ここはシムノンにとって興味を惹かれた場所らしい。6階か7階ほどもある高級娯楽施設で、映画館があり、一階にはシャルルロワでいちばんきれいなレストランがある。サーモンサラダは7フラン、パンケーキは5フラン、と価格も書き記している。
[註:1930年代のパリやフランスを舞台とした久生十蘭の長編小説『十字街』(1952)を読むと、パリにも「民衆の宮殿」があって、それは「救世軍の簡易宿泊所」だったと書かれている。実際にいまでも『十字街』の記述の通り、コリドゥリエール通り29番地に「Palais du Peuple」がある。だがシムノンがシャルルロワで訪れた施設は、これとはちょっと趣が違うように思えた。申し訳ないが詳細は未確認]
連載第2回になるとシムノンはルーマニアの首都ブカレストで原稿を書いている。すでにリトアニアには入った。今後向かうのはハンガリー、オーストリア、チェコだ。シムノンは「小国とは素晴らしい国であり、人の記憶に残る場所だ」と書く。ベルギーからポーランドへは列車で赴き、リトアニアの国境には夜9時に着いた。気温はマイナス10度。大地は雪で覆われていた。役人がパスポートの提示を求めてくる。長くリトアニアに滞在するわけではないと説明しても役人は聞き入れない。すでにポーランドとリトアニアの国境は閉じており、誰も通れない。ホテルもない。仕方がないので列車の席に座る。周りのリトアニア人は世界でいちばん親切な人たちだった。
リトアニアの首都ヴィルナ(ヴィルニュス)を見た。人口の4割はユダヤ人や、ロシア、タタールなどの地区民だった。土地の上の方には富裕層が住んでおり、貧富の格差が感じられる。
この地でシムノンはポーランド出身の友人たちと会う。彼らは役人だ。「私たちは諦めない! ヴィルナはポーランドの都市だ」と彼らはいう。リトアニアとポーランドを比べたら、ポーランドはきわめて大きな国だ。「私たちはリトアニアから退却しない。ウクライナからも……」という。パリでは聞かない彼らの本音だ。ヴィルナの冬は哀しい雰囲気が漂っている。
そうした会話を受けつつ、しかしシムノンは「リトアニア人は勇敢で、そして誰もがフランスを愛している!」と書く。そしてポーランドについては「ポーランドは小国ではない。小国のなかで最大の国だ」と書く。つまり連載第2回までのシムノンは、小国リトアニアにも、そして隣のポーランドにも、一定の肯定的な温かい眼差しを向けているのだ。彼らのよい面を掬い上げようとしている。ただ彼らにはよい面があるのに、それがパリの人々には伝わっていないだけなのだ、というスタンスである。
しかし連載第3回以降からシムノンの筆致は変わる。第2回は旅先の中央ヨーロッパで原稿を書いていたが、3回目以降は10日後にフランスに戻ってから書いたのだ。その間に心境の変化があったらしい。小国に対して決して温かな眼差しばかりではなく、批判や一種の諦観が前面に出てくるようになる。ルポルタージュ全体を通しての芯がぶれてしまうのだ。
ヴィルナでシムノンはいきなり宿の部屋に女が入ってきて裸になるのを見た。朝の2時の出来事である。彼女はポーランド人で、息子のためにオレンジ3つを20フランで買ってくれという。拒否すると女は叫び始めた。
ポーランドの駅は木造で、こんな建物をアフリカでたくさん見た。道は道ではなく、駅はバラックのようで、周りには何もない。人々は金もない!
みんなあまりにも貧しくて、旅行者のあなたはここでは居心地が悪くなるだろう。この地ではあなたはあまりに金持ちすぎるからだ。
ある男はいう。「フランス人はおれたちを理解していないだけだ! おれたちが金をほしがっていることを、たくさんの金を! このジレンマが見えるか? この悲劇が感じられるか?」彼は穏やかな男なのにそんなことをいう。これはゆっくりとしたポーランドの死なのだ、とシムノンは考える。「おれたちは闘うより死ぬ方がいい!」と男は訴える。シムノンは彼に「きみはフランスが好きか?」とはついに訊けなかった。リトアニアからポーランドに入ったことによって、シムノンは「小国のなかで最大の国」であったはずのポーランドの現状を目の当たりにし、想像と大きく異なることに衝撃を受けたに違いない。そしてポーランドがフランスを始めとする隣国へ複雑な感情をいまも抱き続けていることを改めて理解したのだ。そのためシムノンのスタンスは揺らぎ始める。
おそらく当初のシムノンは、以前と同じように安易なキャッチフレーズを嫌って、“ヨーロッパが苦境に瀕している”というフランス国内での噂を否定しようという気持ちで旅立ったのではないか。だが現実のヨーロッパは、キャッチフレーズを受け入れるか否定するかといった単純な二元論では論じきれないほど複雑な様相を呈していた。では、そのようなヨーロッパを、どのように総括的に捉えればよいのだろうか。いままで書いたことのないスタンスが求められる。シムノンにはきわめて荷の重い課題となったのではないか。
パリのポーランド人が私にいった。「ポーランドではあなたは孤独じゃない。完全にあそこはフランスの生活だからね。みんなフランス語をしゃべっている……」ルーマニア人も同じことをいう。「ブカレストは“リトル・パリ”だ」と。実際、ルーマニアに行ったとき、アテネ宮殿という豪華ホテルでレストランのメニューはフランス語だった! 料理もほとんどフランス料理だ! ルーマニアでは同国人同士でもフランス語で話すのだという。ルーマニア人はいう、「あなたよりフランス語をよく知っている!」と。しかし誰も金がない。「あなたはルーマニアのすべてを見ているわけじゃない。もっと他のものがある。深刻な人たちだって……」と呟くのである。こうした言葉に接したことで、シムノンの心境は変化していったのではないか。無批判にヨーロッパの現在を称揚できなくなったのだ。
「もしヨーロッパが戻ってきたのだと私がいうなら、それはフランス人が“ヨーロッパはフランスで始まった”と信じることに馴れてきて、またそれがフランスで終わったと信じることに馴れてきたからではないか。だからパリを出るとその人はすべてがひっくり返った世界を見ることになる。実際のところヨーロッパはウラル地方やコーカサス地方の側から始まったのではないか」──安易なキャッチフレーズに対する批判精神と自分のなかで折り合いをつけようとするかのように、シムノンはルポの後半になるとこのような内省的文章を連ねてゆく。「なぜ報道映画は現実の光景を見せないのだろう? 人々は自国で平和に暮らしたいだけなのに」。シムノンはチェコの首都プラハに到着し、新聞社とコンタクトを図る。「あなたはアンシュルス(ナチスドイツによるヨーロッパ統合政策)を指示しますか? それとも自由なチェコを……」とジャーナリストらしい質問も発してみる。答えは「ヨーロッパ政治的ポリシーや経済的発展の進捗度による」と煮え切らない。「ハンガリーについてはどう思います?」「それはまた別の話だ……」「チェコは?」「あそこには3百万人のドイツ人がいる。とても金持ちだ。7百万人のチェコ人と、8百万人のスロヴァキア人、1億人か2億人のユダヤ人……」「しかし政府は?」「われわれは適切な政府を運営しているよ……」
文章はどんどん重々しさを増し、しかも結論は見えなくなってゆく。連載第6回になって、シムノンは突然子供時代の思い出を綴り始める。1914年8月の朝というから、もちろんシムノンがベルギーの故郷リエージュにいたときの話だ。ドイツ人たちが行列をなして国境を越えてきた。鐘が町に鳴り渡った。発砲があった。学校はバラックになり、壁にはポスターが貼られていった。第一次大戦によるドイツ軍のベルギー侵攻である。1917年冬に占領は終わり始めた。
2, 3年前、私(シムノン)はドイツのデュッセルドルフの郊外にいた。ライン川に架かる橋が市を分けており、ベルギー、英国、フランスの兵士たちがいた。
1918年4月にはドイツの港町ウィルヘルムスハーフェンにいた。ビーチでは50人の男女が裸になっているのを見た。私たちはスポーツをして遊んだ。かつては戦争で飢えて死んだというのに。私たちは外国の新聞に載っていた“ドイツの悲惨”という記事を読んだ。
──つまりシムノンは1933年のヨーロッパを見て回ることで、かつての記憶を、故郷がドイツに侵攻された第一次大戦時の記憶を思い出したのである。国境が突破され、占領されたにもかかわらず、戦争が終わればこうして人々は国境を渡って知り合い、笑い合うこともできる。だが本当に戦争は精算できていたのだろうか? という問いかけである。
本稿を書いている私自身、1933年当時のヨーロッパの状況について詳しいわけではない。たとえば検索するとローベルト・ゲルヴァルト『敗北者たち 第一次世界大戦はなぜ終わり損ねたのか 1917-1923』(みすず書房、2019)という本が出てきて、こうした本を読めばもう少し当時の雰囲気がつかめるのかもしれない(未読)。もどかしいのは、記者であるシムノンが明らかに旅をしたことで心を揺さぶられ、省察へと至るようになったことがわかるのに、文章を読んだだけではその背景が伝わってこないところだ。「いまヨーロッパはこういう政治経済的状況にある。だがフランス人はそれを見ていない。実際にヨーロッパを旅するとこんな現状が見えてくる。フランス人はそこに注目することが必要なのではないか」とシムノンは訴えたいはずなのに、当時の俯瞰的な政治経済状況が明記されていないので、いつも描かれるエピソードが宙ぶらりんのまま放り出されては消えていってしまうのである。これはシムノンの作家的限界だと思う。
最終回の冒頭部でシムノンは書く。「あなたは20歳か、100歳だろうか? どちらにせよ簡単にヨーロッパを見て回ることはできないだろう。だから少数のジャーナリストや作家は使命を帯びて、生きた物語を話すのだ」と。シムノンはその“使命”をちゃんと自覚していた。だが自覚しすぎて袋小路に嵌まってしまったのではないか。生きたヨーロッパのレポートをフランス人に届けたいとシムノンは心から願っていた。だがシムノンの筆では残念ながら限界があった。ヨーロッパの現状をフランスの人々は何も知らない。それは不幸なことだとさえ思っていた。シムノンがたとえばジャック・ロンドンだったら、後世に残るような旅行ルポルタージュが書けたかもしれない。だが書けなかった。
ルポの最後はこんなエピソードの紹介で締めくくられる。スペイン人の老庭師を想像してほしい。古い庭で彼は野菜や果物や花を育てている。彼はいつも庭を行ったり来たりしている。ところが別の庭は自動化されている。
昨年、男がやって来て彼から種を借り受けた。その種は今年稔っている。老庭師は自分の庭を見渡す。果実は盗まれたも同然だが、もはや種は彼には戻らない。
そこで老庭師は怒って看板を立てた。「注意! 猛犬がいます!」と──。
これで長大なルポは終わる。あなたにはこの寓話の意味が理解できるだろうか。おそらくは戦後にさえフランスなどから搾取され続けてきた東欧の小国へのアイロニーを示しているのだろうが、時も場所も離れた日本の私たちには真意が伝わりにくい。
シムノンは自らが実際に体験した細かなエピソードを重ねてゆくタイプの書き手だ。バーでその土地の男と話した内容はとりわけ頻繁に登場する。もちろんシムノンはその会話で何らかの感銘を受けたから記事に書き残したのだ。しかしその会話のどこにポイントがあり、どのような部分にシムノンが心を動かされたのかは、読み手側が想像するしかない。同時代の読者ならすぐに理解できたのかもしれないが、遠く離れたいまの日本の私たちには想像することが難しい。もしもシムノンがルポのなかで、少しでも背景となる政治経済状況を解説してくれていたなら、ずいぶんと理解度は違っていただろう。だがシムノンは絶対にそういう客観的データは書かない作家である。
ただ、私はこのように人間の限界と地平を──人間の輪郭を示してくれる作家が好きなのだ。
――全体の話へと戻ろう。むしろこの1933年の欧州旅行は、副産物として私たちに残されたスナップ写真の方が格段にいい。雪が積もるばかりの荒涼とした遠景、町のバラックの前に佇んでこちらに顔を向ける子供や老人たちの姿。一方でいくらか明るい陽射しのもとで、飢餓など忘れたかのように弾けた笑顔を見せる水着姿の若い娘たち。実はシムノンはこの欧州旅行の成果をあまり小説作品に昇華させることがなかった。かろうじてベルギーのシャルルロワやトルコは『下宿人』(第42回)へ、ワルシャワは『袋小路』(第56回)へ、バトゥミは『向かいの人々』(第39回)へと取り入れられたが、旅行時の屈折した印象がそのまま反映されているかのようである。シムノンはドイツやルーマニア、リトアニア、ポーランドなど、もっとたくさんの国へ行ったのだが、消化できずにシムノンの心のなかで取り残されてしまった感じを受ける。
だからそれらの地で撮影された写真の方が、より直截的にいまの私たちに訴えかけてくる。小説にならなかったドラマが感じられるのである。シムノンにとってこの旅行ルポルタージュは結果的に不完全燃焼の失敗作だったかもしれないが、彼の心に残ったものは大きかったのではないだろうか。
■「ヨーロッパの豪華宮殿」未発表(1933)■
日本にも丸の内に《パレスホテル東京》があるが、《パレスホテル》や《何とかパレス》と名のついた豪華ホテルや施設は世界のいたるところに存在する。もちろん世界各国の《何とかパレス》は日本のホテルよりたいてい歴史が古い。
これはそんな欧州各地の《何とかパレス》を舞台に起こった事件や逸話を取り上げた原稿だ。シムノンのふだんの旅行ルポルタージュとは違って、ノンフィクションノベルのような書き方が採用されている。つまり小説のようにも読めるのだ。
北駅、朝8時。人々が行き交うシーンから記事は始まる。ワルシャワ‐パリ間の特急列車から若者が降りてくる。オーストリアの皇太子なのだ。彼は豪華宮殿へ向かう。警察官が彼を追ってゆく。
豪華宮殿は欧州のあちこちにある。あるとき若いルーマニア人がロンドンの豪華ホテルで自殺を試みた。別の国の宮殿ではふたりの客の間でこんな会話が交わされる。
「あなたはこの冬、カンヌのマルティネスにいませんでしたか?」
「ええ、でも先週あなたとブダペストの《リッツ》でお目にかかりましたよ」
「《ムーラン・ルージュ》には行かれました?」
「まあね! でも《フェミナ》の方がいいですな……」
「ファニーフェイスのロシアの踊り子を覚えていますか?」
「あの娘は3年前、コンスタンチノープルにいたんですよ。いまは名前を変えて《マキシム》に……」
豪華宮殿に頻繁に出入りする富裕層は、どこの国でも顔を合わせているというわけだ。
ある朝、警視が宮殿に入ってくる。自分は王女だと名乗る女性が宿泊しているのだ。彼女は20歳のときから南米で踊り子をやっていて、カイロで王子と会って結婚したが、2年後に離婚した。ところが王子はその後再婚したにもかかわらず、いまだに彼女は王女を名乗っている。いまは役人の愛人だ。
その役人がやって来て、彼女の部屋へ行くのが見える。しばらくして警視が部屋のドアを開けると、王女は叫んで床に倒れてしまっていた。役人は彼女の部屋で銃による自殺を試みたのだ。ホテルはたちまち混乱に陥るが、豪華宮殿ではそんな光景も日常なのだ。ある夫人はホテルで睡眠薬を飲んで自殺した。
別の夫人のもとには新聞社から肖像写真の撮影依頼が舞い込んで、ポーターはそれを取り次ぐことになる。夫人は有名人らしいがいまひとつ素性がわからない。20人の役人を従えて宮殿を訪れる東洋の王もいる。金持ちのアメリカ人も来る。そうしたなかにやはり警視の姿がある。
もちろんそれぞれの宮殿には個性がある、と最後にシムノンは書く。顧客、スタイル、ジャンル。みんな違う。それでもやって来る人たちの雰囲気にはどこか似たものがあるようだ。
ある客は部屋で蓄音機を大音量で鳴らす。まったくもって迷惑な行為で、どこの国にもそこでのモラルがあるはずだが、宮殿にやって来る人は誰しもが、そこでは自宅でくつろぐかのように暮らしたいのだ。
■「旅行者の摂理において」(1933)■
わずか2ページの小編。北欧旅行で北方岬の先のホニングスヴォーグへ妻といっしょに行ったときの話。1月半ばの夜、外気温はマイナス33度から34度。宿泊のために売春宿を探して船長に尋ねると、あった! 《楽園》を意味する現地語の看板を見て店に入ると、蓄音機が鳴ってハンガリーの娘が歌っていた。
「パリから来たって? そりゃラッキーだね!」などと声をかけられたりする。どこの国でも売春宿は似たようなものだ。きれいな金髪娘がいて音楽が流れている。とはいえ、いまは飲酒や売春婦としての外国人雇用を禁止する国もある。
荷物を運んでほしいと願い出ると、相手の男はしかめ面をして「どこにある?」と訊いてくる。そして紙切れに印を書きつけて、薄暗い上階へと持ってゆく。
売春婦の女は私が男に前払いをしたことで不審に思ったのか、書きつけた紙片を覗き込むとストーブの火を消して眠りに行ってしまった。彼女はドアノブにハンカチを結びつけた。やって来る夫に忙しいと伝えるためだ。
ああ! われらがボビニアール(遊女屋)はひとつまたひとつと消えてゆく。そして税関事務所や社会保険事務所になるのだ。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
---|
1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。 『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。 ■最新刊!■ ■解説:瀬名秀明氏!■ |
■最新刊!■
■瀬名秀明氏推薦!■