Chez Krull, Gallimard, 1939/2/27(1938/7/27執筆) [原題:クリュルの家]
Chez Krull, translated by Daphne Woodward, Four Square Books, 1958[英]
The Krull House, translated by Howard Curtis, Penguin Classics, 2018[英]*
・同, Penguin Classics, 2020[英]* ※判型違い
Tout Simenon t.21, 2003 Les romans durs 1938-1941 t.4, 2012, et 2023

▼映像化作品(瀬名は未見)
・TVドラマLe Mouchoir de Joseph, Jaques Fansten監督, カトリーヌ・フロCatherine Frot, Piotr Shivak出演, 1988[ジョゼフのハンカチーフ][仏]

 クリュルの家、クリュルの家族を、ハンスが──彼もまたクリュルだが、生粋のドイツ人である──初めて知ったのは、タクシーを降りる前のことであり、それは店のガラス戸に貼られた透き通った紙の広告によってであった。
 ふしぎなことに、あれほど多くの細かな情報が彼に注意を呼びかけていたのに、彼はその広告にしか目が行かず、その二語を裏返しの側から解読した。〈アミドン・レミ〉と。
 背景は青色、美しい群青で、中央には穏やかな顔つきの白いライオンが描かれていた。
 世界の残りのすべてはその瞬間、その汚れのないたてがみで境界線のようにおのれを囲うライオンを引き立たせるためだけに存在していた。やはり同じく貼られていた〈青いレキット〉という文字の広告も、しかしそこではとくに理由もなく、たんに比較の役目しか果たしていなかった。黄色く書かれて半分はドアの左ガラスにあり、もう半分は右側にある〈■喫茶■ビュヴェット■〉という文字も、船の索具や舷灯や、鞭や馬具の部品が散らかっているショーウィンドウも、やはり同じだった。そして陽光の下ではどこかで運河が流れ、木々が繁り、動かない艀があり、また黄色の路面電車が河岸に沿って走っているのだった。
「アミドン・レミ!」とハンスは車を降りながら読んだのだ。
 ハンスはフランス語がわからず、その言葉の意味も知らなかったので、いっそうその文字はまるでトーテムポールのように思えた。
 彼は顔を上げて、小銭をポケットに突っ込みながら考えた。
「フランスのクリュル一家がどんなものか見てみよう!」

 久しぶりにシムノンのロマン・デュール作品と向き合ったわけだが、何と呼吸の長い文章だろう。《チビ医者の犯罪診療簿》《O探偵事務所》では用いられることのなかったこの息の長さ──深く、深く吸って、そしてゆっくりと、長く、長く吐く、肺の底まで出し尽くすほどのこの文章の長さ、とりわけ4段落目の、「:」(ドゥ・ポワン)と「;」(ポワン・ヴィルギュル)でひたすら続いてゆく、この自分の周りに広がる世界すべてを吸って吐こうというほどの深い呼吸──忘れかけていたロマン・デュール作品における〝シムノンの呼吸〟が、この冒頭にしてたちまち蘇り、私の身体にも沁み渡ってくる──そうだ、これがもうひとつのシムノンの本当の姿なのだったと私は思い出したのだった。気軽なミステリー読みものや、あるいはシムノンの人生とともに歩んでゆくメグレサーガとは異なる、シムノンが作家となって獲得した第三の呼吸、それがこの『クリュルの家 Chez Krull』(1939)には如実に現れているではないか。このロマン・デュールの呼吸をマスターしてこそ、ようやく私たちはシムノンの読者になるのである。
 そう、私は思い出したが、ロマン・デュールを書くときのシムノンは、最初の三分の二ページに人間の持てる精神の強靭さを叩きつける。おそらくは作者シムノン自身が大きく息を吸って、そして吐きながら、おのれの五感すべてと一体となって、決め打ちのように、あたかも石に彫り込むかのように、彼は文章を置いてゆくのだ。そうして紙上に遺された冒頭文は、この上なく簡素でありながら作者の頭に浮かんだ情景とそのカメラワークの軌跡がくっきりと刻まれ、作者シムノンがそこで見つめたものはどんな些細なものであり彼の感情を揺さぶった重要な世界の証拠として書き留められる。
 今回の冒頭部はそれが顕著だ。ドイツ人のハンス・クリュルなる男がフランスの町外れに住んでいる親戚のクリュル家を訪れるところから本作は始まる。フランスのクリュル一家は飲食雑貨店を営んでおり、ドイツ人のハンスは店の前でタクシーを降りて、その店のガラス戸に貼ってあるいくつもの広告が目に留まり、それらがドイツでは見たこともないものであることに驚きを覚えるのだ。広告はまず裏側から〈アミドン・レミAmidon Remy〉と読めた。〈青いレキット Bleu Reckitt〉も意味がわからない。だがハンスはそれらが少なくともドイツ製品ではないと気づき、自分がいまフランスに来ていることを改めて実感するのである。新しい世界がここから開かれてゆくという期待と希望に満ちた、シムノンにしては珍しいオープニングだが、しかしいま目の前に見えるものに次々と焦点を当てて描写を絞り込んでゆく、シムノンならではの特徴的カメラアイが見事に発揮されている。その鮮烈さと一体化した長い呼吸は、一気に私たちを物語へと引き込んでゆく。
 だが今回私は懸命に留まって、読者である自分も〈Amidon Remy〉や〈Bleu Reckitt〉のことを何も知らないと気づき、そのため小説が書かれて85年後の未来に生きる私は電子辞書を引き、Googleで画像検索して、〈Amidon Remy〉が〈レミの澱粉糊〉と訳せること、それはウルトラマリン色でラベル印刷された洗剤ブランドであったことを知ったのである。そしてまた〈青いレキットBleu Reckitt〉とは当時衣服をきれいに仕上げるために混ぜていた洗濯用青味入れ剤であり、青と白のストライプ柄の包みが特徴的で、円筒型の缶で売られ、その包み紙で覆われて、いまでいうなら丸箱からティッシュペーパーの端が頭を出すような格好で、残り紙が上部でくるりと捻って巻き上げられていたことも知った。
 アメリカで作家スティーヴン・キングが登場したとき、それまでの通常の小説ならたんに糊とか洗剤とか一般名で読者に示すところを、キングは無造作に商品ブランド名を組み込んで小説を綴り、それは大きな驚きをもって批評家や旧来の作家たちに受け止められた。長篇『ファイアスターター』(1980)のラストで少女がもっとも信頼の置ける新聞社として真相を話すために訪れるのは《ワシントン・ポスト》や《ニューヨーク・タイムズ》ではなく《ローリング・ストーンズ》誌であった。キングの成し遂げた20世紀の革命が何とシムノンのロマン・デュールの冒頭に見て取れる。
 こうした特徴のためだろうか、本作が最初にフォー・スクウェア・ブックスFour Square Booksというレーベルで英訳出版されたとき、フランス語で「○○の家」を示す「シェChez」という言葉は、英訳本であるにもかかわらずそのまま残されてタイトルは『Chez Krull』となった。「私の家」「自宅」はフランス語では「シェ・モワChez moi」であり、「君の家」なら「シェ・トワChez toi」になる。皆様は「シェ・○○」という名のフランス料理店を何軒かご存じかもしれないが、あれはシェフの名前とともに「○○の店」と謳っているのだ。「佐藤商店」「鈴木屋」のようなものである。シムノンのメグレ第一期作にも『フラマン人の家 Chez Flammand『メグレ警部と国境の町』第14回)があった。
 ではこのフランスの町外れにあるクリュル一家の商店名は「シェ・クリュル」なのかと思ったが、作品を読むと看板にはハンスのおじにあたる老人コルネリウス・クリュルの名を採って「C. Krull」と書いてあるとのことなので、本作のタイトルを訳すなら『クリュルの店』ではなく『クリュルの家』になるわけだ。クリュル一家の家屋は飲食店と彼らの住居を兼ねているからである。フォー・スクエア版の訳者は最初のうちハンスがフランス語に疎いという記述をちゃんと拾い上げるために、いくつかの場面でフランス語の表記を残している。
 クリュルKrullという名前はおそらく、シムノンがかつて『イトヴィル村の狂女』第32回)で合作した女性ドイツ人カメラマン、ジェルメーヌ・クリュルから採られたのだろう。実際、物語には、クリュル一家ではないがさらにジェルメーヌという名の娘も登場する。
 一読して、本作はシムノン第二期において『倫敦から来た男』第41回)に相当する立ち位置の作品だと感じた。それはつまり、褒めているのか? いや、本連載を読んでいただければおわかりの通り、実は手放しの褒め言葉ではない。

 両親を失ったドイツ人のハンス・クリュル25歳は、父の兄弟であるコルネリウスが居住するフランスに、親戚の一家を訪ねてやってきた。コルネリウス・クリュル一家は運河にほど近い場所で飲食雑貨商を営み、それはおばのマリア・クリュルによって切り盛りされている。コルネリウスは日中だけ助手を雇い、仕事場で柳の網籠をつくって暮らしていた。作中で場所の詳細な記載はないが、Saint-Léonald通りという名が出てくることからリモージュ近くの運河町かもしれない。隣には昼間から飲んだくれているピピという貧しい女と、その娘シドニーが暮らしている。近くにはちょっとした艀や造船所があり、町外れのこの通りに住む者たちは、船員たちの飲食で生計を立てている。
 フランスのクリュル一家は、ハンスにとって一見平和な家族に見えたが、複雑な事情を抱えているらしいことがわかってくる。子どものうち最年長のアンナは30歳で、母を手伝って店を経営している。長男のジョゼフ25歳は医者を目指す大学生だが、いまは学士論文の仕上げで自室に籠もっていることが多い。次女のエリザベス(通称リズベス)は17歳で、家のピアノをよく弾いている。コルネリウスは無口な老人で、一家が揃う食事の席でもほとんど会話に加わらず、家ではいつも肘掛け椅子に座っている。同年代のよしみでジョゼフがハンスを案内し、部屋も用意してくれたが、ハンスは彼に何か陰があるのを見て取った。クリュル家が唯一親しくつき合っているのは同時期にドイツからやってきた靴職人のピエール・スクーフ氏とその娘のマルゲリータだけだ。シドニーはこの店で働いており、またジョゼフはマルゲリータと婚約している。
 暑い夏の時期、町に移動遊園地がやってくる。ハンスはリズベスと遊びに出掛け、これをきっかけに彼はリズベスと恋に落ちることになる。だが一方で恐ろしい事件が発生し、ハンスはその目撃者となった。夜、隣のピピの娘シドニーがもうひとりの若い娘と河岸を散歩していたところ、男の影が現れて、何かが起こった。ハンスはシドニーの死体を運河から引き上げる。彼女はレイプされ、絞殺されており、ハンスは第一発見者となったのである。
 フランスのクリュル一家はずっと前からこの町外れに住み、フランスに帰化していた。だが周囲の人々は彼らがドイツから来たことを忘れていない。そしていままたフランス語がよく話せないハンスがやってきたことで、町の空気は軋み始めていた。ハンスは事件当夜にシドニーといっしょだった若娘を捜し当て、町のダンスホールで事情を聴いた。ジェルメーヌというその娘は、しかしハンスに対して警戒を強める。いとこのジョゼフは以前から町の若娘に声を掛けて、金を差し出しては誘っていたらしく、ハンスもそんなドイツ人のひとりではないかと疑ってきたのだ。彼女は事件当夜にもジョゼフが夜道をつけてきたことを告白した。だが襲ってきた相手がジョゼフだったのかどうかはわからないという。警察はポトゥという男を逮捕したが、事件当夜のアリバイが立証され、彼は釈放となった。
 ハンスは自分から詳細は話さないが、実はドイツ国内でおのれの政治的意見が糾弾されたため、密かに国外へ逃げてきたのだった。国境検察所をまともに越えたわけではないので、パスポートにはスタンプがない。町の警察署はこのことを重視し、ハンスを容疑者として調べ始める。彼はクリュル家のなかでは皆に秘密でリズベスとの愛情を深め、ついに彼女を自分のものとした。一方で彼は同い年のジョゼフにもうひとりのおのれの姿を見るようになる。自分とジョゼフは性格もまったく違う。だが自分たちふたりは鏡に映った分身同士ではないのか。ジョゼフは医者を志望しているというが実際は大学にも行かず家に籠もっているだけだ。そして自分はフランスに来て職を探そうともしていない。何をしたいのか自分でもわからないのだ。一方、おばのマリアは毎日のように酒をせびりにやってくる隣のピピに同情的で、いつも優しい言葉をかけているが、ハンスはやはりおばがピピのなかにおのれのカリカチュアを見ていることに気づいていた。人生のどこかで一歩間違えれば、自分もピピのようになっていたかもしれないと、おばのマリアは思っているのだ。
 あるときジョゼフはおのれの少年時代に受けた屈辱をハンスに語り出す。彼は「ボッシュle Boche」[ドイツ人に対する差別語。英語でいうならドイツの塩漬けキャベツであるザウアークラウトから転じて「クラウトKraut」]と同級生から蔑まされ、仲間外れにされていたという。だからいまだに友人はひとりもいない。ハンスはジョゼフの屈折がわかり始めていた。彼は夜になると町へ出て若い娘を金で釣り、そして街路の陰でことに及ぶ性癖がある。あの夜、隣のシドニーを絞め殺したのはジョゼフではないのか。
 町の警察も司法警察局から警視を招いて捜査を始めていた。ドイツ人に対する町の人々の憎悪がゆっくりと顕在化してゆく。店のガラス窓が破壊される。さらにハンスは店のシャッターに、誰かが悪戯書きを残したことに気づいた。そこにはこう書かれてあった──〝人殺しども〟と。

 本作はデイヴィッド・カーターのガイド本(2003)で星5つの満点が与えられ、「[英語圏ではいま入手できないが]探書の価値ある一冊」と絶賛コメントも添えられている長篇なので、私が本作の順番がくるのを楽しみにしていた(カーターのコメントは星取りを削除したかたちでBarry ForshawSimenon: The Man, the Books, the Films(2022)に再録されている)。しかし本作の良さはつまるところ、これまでシムノンが書いてきたテーマやモチーフが集約されて再び表現されている、といったことに過ぎない。アーサー・C・クラークは60歳近くになって『遙かなる地球の歌』(1986)という長篇を書き、「この作品を以て人々の記憶に残りたい」と語ったが、確かにそれはクラークの集大成であり彼のモチーフが詰め込まれた小説であったものの、残念ながらさほど面白いわけではなかった。芸術とはふしぎなものである。その作家のモチーフが集約されたからといって傑作になるとは限らないのだ。もちろん、売れるかどうかとはまた別の話である。
 本作『クリュルの家』は、『仕立て屋の恋』第35回)と『運河の家』第37回)と『人殺し』第55回)の詰め合わせパックである。これらを手に取ったことがなく本作を最初に読んだなら、「これは凄い小説だ」とあなたは驚嘆するかもしれない。だが惜しいことにわが国ではすでに『仕立て屋の恋』『運河の家』『人殺し』はどれも訳出されており、しかも『運河の家』『人殺し』は合本で読者の手に届くようになっている! 本作はどこまでもこれらの二番煎じに過ぎず、これらを超えることがない。本作の立ち位置が『倫敦から来た男』に似ている、と述べたのはそのためだ。シムノンにしては物語の展開が極めてわかりやすく、かえって意外性に乏しいが読者にとっては負荷が少ないという特徴もよく似ている。この特徴をよい方向に捉えれば「読みやすい、作者の意図が理解しやすい」となるが、逆の方向に捉えれば「物足りない、心に響かない」となるだろう。
 運河のそばに建つドイツ移民のクリュルの店、という絵の構図は、容易く『運河の家』を連想させる。町の人々の嫌悪感が高まり〝人殺しども〟と指差されるようになる展開は『人殺し』と同じだ。ただし『人殺し』で送られてくる匿名の手紙は単数形だったのだが今回は複数形である。つまり町の人々はクリュル家というひとつのかたまりが人殺しの罪を犯したと思っているのだ。
 クリュルの一家は何年もかけてこの町に馴染もうとしてきたが、たとえ帰化しようとドイツ人はどこまで行ってもドイツ人であり、決して周りの人々と同じになれるわけではない。本作が書かれたのはフランスとドイツの間の緊張が高まっていた時期であるから、いっそうドイツ人一家は得体の知れない〝よそもの〟としてこのころ警戒されただろう。そこへさらにハンスがやってきて町の人々の不信感は刺激され、さらに殺人事件が起こったことでそれは臨界点を迎えたのである。クリュル家への嫌がらせが勃発し、店の玄関口に糞尿が巻かれ、次の落書きは〝殺せ〟になる。
 後半、物語は一直線に危機へと向かって突き進む。中央局からやってきた警視Le commissaire centralは優秀で、ジョゼフの性癖と事件当夜の行動を追究する。ハンスは性癖こそ認めたものの、自分はシドニーを殺していないと主張する。警視はさらにハンスに対しても調べ上げており、スタンプのないパスポートを押収していった。
 ハンスは老コルネリウスから呼び出され、「家を出て行ってくれ」といい渡される。だがハンスは出て行きたくない。リズベスとすでに愛し合っているが、それよりも彼には行く当てがないのだ。ここでハンスはおのれが老コルネリウスとも似ていることに気づく。老人はかつてドイツのあちこちを流れた後フランスに辿り着いた。運河沿いに行李柳コリヤナギが群生していたので籠づくりを始めたに過ぎない。ここは都会でも田舎でもない。たんなる町の外れだ。もともとこの場所は彼にとって腰掛けに過ぎず、すぐにパリへ出て職人になろうと考えていたはずだった。しかしついに腰を上げることなく老いるまでここに住み着いた。ユダヤ人が約束の地を求めながらも手近な場所に留まってしまうように。結局、クリュルの男たちは自ら進んで物事を成し遂げることができないのだ。自らの責任によって袋小路に追い込まれているに過ぎないのである。
 物語の半ばで、精神的に追いつめられたジョゼフは声を上げる。「町の奴らにぼくらを邪魔立てする権利はない! いつだってそうだ、近所で何か起こるといつもぼくらが責められる」──だがハンスはずばりと真理を衝いてみせる。「責められるのはきみが外国人だからじゃない。きみが〝充分に〟外国人じゃないからだ! あるいはきみが外国人でありすぎるからだ!」
 こうしてシムノンが書き続けてきた主題はやがていつものように破局へと向かう。ちょっとしたきっかけから人々の不信と憎悪が連鎖し、クリュル家の周りに人が集まり始める。ちょうどそれは唯一親しい間柄のスクーフ氏と娘のマルゲリータが訪ねてきた午後のことだった。陽が暮れるにつれ集まってきた人々は罵倒の声を上げ、煉瓦を投げつけ、一触即発の状態となる。このまま店内に大勢で突入されたら怪我人が出るだけではすまない。本当に殺されてしまうかもしれない。シャッターを下げてクリュル一家は閉じ籠もるが、ますます人の数は多くなる。家を取り囲まれては客人であるスクーフ氏らを安全に外へ出すこともできない。ようやく警官がやってきて脅しをやめるよう人々に警告するが、その笛の音を近所の少年が真似して嘲り笑う始末である。
 群衆のなかに赤い帽子の娘がいるのが見えた。事件当夜シドニーといっしょにいたジェルメーヌだ。少し貼られた場所のベンチではひとりの男がずっと座って様子をうかがっている。一時拘留されたポトゥである。やがて隣のピピが喚き出した。このクリュル家は私から金を取り立てようとする。町の人を差別して、物を売るのを渋ることがある。人々は次々にピピへ賛同の声を上げ始めた。彼らはピピが酔って放言していることに気づかない。あるいは、そんな事実はどうでもよいのだ。ただ目の前のクリュル家を嘲り、罵り、皆で騒いで正義を遂行できればそれでよいのだ。通りすがりの若いカップルでさえ興味半分で立ち止まる。クリュル一家のことなどまるで知らない船員も罵声に加わる。人々が声を合わせ始めた。「ひと・ごろ・し!」「ひと・ごろ・し!」このままみんな殺されるのか? 
 ──ここまで話を展開させるなら、とうぜん群衆心理はこの後暴走を極め、クリュル一家は不条理な結末を迎えるに違いない、とあなたも思われることだろう。私も読みながらそう思っていた。きっと永井豪の漫画『デビルマン』のようになるのだ、いたいけなリズベスの首が高く掲げられるのだと思っていた。実際、かつての『仕立て屋の恋』では、群衆に追いつめられた主人公は屋根伝いに逃げる。だが一歩間違えれば奈落の底へ落ちてゆくのだ。それが物語のクライマックスであった。
 しかし残念なことに、本作のクライマックスは中途半端な緊張感を引きずりながらも、ついに尻すぼみで終わってしまう。最後の最後にひとつ、ある出来事が生じるが、それも私たち読者をあっと驚かせるほどのものではない。むしろその絵は以前のシムノン作品で見たものだ。なぜそうなった? いや、ぼんやりと意味はわかる。だが真の理由がわからないのでその絵柄はこちらの胸に迫ってこない。
 本作は何もかも理由づけが中途半端だ。なぜマリアおばは隣のピピにそれほど同情する? なぜ老コルネリウスは最後までおのれの思いを吐露しようとしない? なぜジョゼフやハンスは一家が危機に陥ってもうろうろするばかりなのか? 本作には最後にごく短いエピローグ的な章が添えられている。そこで物語は数年後に飛び、イタリアの観光地でクリュル一族の人物同士が偶然に出会うところで小説は終わる。ところがこのラストシーンもぼんやりとして、いつものシムノンの冴えが見られない。何よりシドニーを殺した犯人は、ついに最後まで特定されない。
 犯人が最後までわからないシムノン作品は他にもあるので、そこは非難しても仕方がない。作者であるシムノン自身が謎解きに関心がないからだ。しかし犯人不明で終わるにしろ、それによって小説としての効果が生まれていなければどうしようもない。小説の冒頭部がいきいきとして鮮烈であっただけに、このぼやけた結末は無念である。本作はずっと何かが燻ったままで、ついに何も爆発することがない。これなら本作など手に取る必要はなく、『仕立て屋の恋』『運河の家』『人殺し』という傑作を読めばそれでよい。
 もちろん、読者とはつねに遅れて作家を発見するのであるから、たとえば本作が数年後に翻訳され、それまでの翻訳書が品切れになっているならば、読者は本作にシムノンの凄みを感じるだろう。傑作だと賞賛される可能性もありうるし、何かの折に映画化されたりすれば、さらに評価は上乗せされることだろう。人はいつでもその場の雰囲気で、傑作かどうかを決めてしまうものだ。
 繰り返すが本作の物語の展開は読書に慣れていない人でも充分についていけるほどストレートで単純であり、だからこそヒットの可能性を秘めている。『倫敦から来た男』を安心して絶賛できるのと同じ安心感を、巷の書評家諸氏に与えてくれる。だが、このモチーフでこのテーマならもっと書いてほしい、というのがこちらの願いだ。もっと行き着く先まで書き切ってほしい。まだシムノンの長篇執筆の腕は本調子に戻っていない──私にはそう感じられたのである。
 今回で『シムノン全集』第21巻の攻略を完了した。

  

 さて、メグレ最初期の『サン゠フォリアン教会の首吊り男〔新訳版〕』がハヤカワ・ミステリ文庫から刊行されたが、私・瀬名が書いた巻末解説を読んでいただけたであろうか。どうか心からお願いしたい。この巻末解説は、少なくともプロの海外ミステリー評論家、プロのフランスミステリー翻訳家の方々には全員必ず目を通していただきたいのである。

「メグレはパリ警視庁の所属ではない。メグレが所属するパリ司法警察局Police judiciaire, P.J.の名を翻訳書で記述するとき、わざわざ〝パリ警視庁司法警察局〟と言葉を補うのはかえって間違いになるので注意」

 という、極めて重大な指摘がここに記されているからである。大切なことなのでもう一度述べる。メグレの時代、「パリ警視庁」と「司法警察局」は別の組織であった。司法警察局とは内務省治安局の組織であり、あえて類似の例を挙げるなら日本の公安警察、アメリカならFBIに近い。
 なんとなくメグレは東京警視庁刑事部捜査第一課に所属する刑事のようなものだと思っている方が日本ではほとんどだろうが、そうではない。メグレは公安警察の刑事なのである! だからメグレは「パリ警視庁のメグレだ」とは決していわない! となればもちろん、かつての機動隊brigade mobileの功績を讃えてパリ司法警察局の通称を冠した「オルフェーヴル河岸賞」を「パリ警視庁賞」と訳すのも間違いなのだ! 
 私の考えが間違っていると思われる方は、ぜひご指摘いただきたい。私はいろいろ調べたが、どうしてもメグレが「パリ警視庁」の所属であるという記述をフランス語の文献で見つけることができないのだ。もしあればご教示を願う。私自身、この間違いが日本のミステリー業界で90年近くも放置されてきたことが信じられないくらいなのだ。
 せっかく新しいメグレ愛好家を増やす役目を果たした現在上映中の映画『メグレと若い女の死』も、字幕やパンフレットの記述に誤りがある。映画でジェラール・ドパルデューは何と自己紹介しているか? 予告編を観ていただきたい(https://youtu.be/KSlF4a7TAZo)。
 ドパルデューは「Maigret, brigade criminelle, 36 Quai des Orfèvres」といっている。「brigade criminelle」とは「機動隊brigade mobile」の後年の名称であるから、この台詞は「オルフェーヴル河岸36番地、犯罪捜査部のメグレだ」でなければならない。ところが字幕は「警視庁犯罪捜査部のメグレだ」となっている。オルフェーヴル河岸36番地とはパリ司法警察局の通称なのであってパリ警視庁の別名ではない。この時代(1950年代)、パリ警視庁とパリ司法警察局はまだ統合されていない! 明日からでも字幕を変更してほしいと願うほどだ。「司法警察局犯罪捜査部のメグレだ」ではなぜいけないのだろうか。もうひとつついでにいうと、仏検3級の私でさえ指摘できるほどあまりに基本的なので間違っていることにむしろ驚くのだが、 途中で6eme étageのアパルトマンが登場するもののこれは〝6階〟ではなく7階なのでやはり字幕を変えてほしい。フランスでは地上階の上に1階がくるのが慣わしである。日本でいう2階が1階となる。
 パリ警視庁と司法警察局の混同、混乱がわが国でいつどこから始まったのかは不明であるものの、シムノンが『サン゠フォリアン教会の首吊り男』に間違った記述を残したことが、今日までずっと尾を引いてきた可能性は否定できない。
 フランスにおけるコミッセールcommissaireは英語圏だとインスペクターinspectorと訳されることが多いのだが、英語圏のinspectorは日本だと警視庁捜査一課の警部のイメージになるので、英語経由でメグレの官職は誤解されてきた可能性もある。ちなみにフランスでcommissaireと呼ばれる官職は3つあったようだ。歴史順を追うと、まずひとつは街の各区に馴染んで地域の治安を守る「警察署長commissaire」。ただしある時期までは地元民との癒着がひどいものであったらしい。2番目は広く〝捜査する者〟の意味合いで首都警察であるパリ警視庁の私服刑事を指す「警部commissaire」。3番目が司法警察局機動隊に所属するメグレのような「警視commissaire」である。喜安朗『パリ 都市統治の近代』(岩波新書)を読むと、パリ警視庁の刑事の役職名は、公安警察由来の「警視」とは慎重に区別されて、「警部」から階級が始まっている。「警部」の上に「警視」があるのではない。
 というわけで、これは奥が深い問題なのである。だがまだ遅くはない。ここを理解することによって私たちはより深く、より鮮明に、シムノンの世界を読めるようになるはずだ。

■映画『メグレと若い女の死』予告編

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。

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