Le Blanc à lunettes, Gallimard, 1937(1936春 執筆)[原題:眼鏡の白人]
・« Les Annales » 1936/10/25-12/25号
Tout Simenon T20, 2003 Les romans durs 1937-1938 T3, 2012 Romans du monde T2, 2010
Talatala, Havoc by Accident所収, translated by Stuart Gilbert, Penguin Books, 1952(Talatala/The Breton Sisters)[英][タラタラ]
Talatala, translated by Stuart Gilbert, African Trio所収, Hamish Hamilton, 1979((Preface)/Talatala/Tropic Moon/Aboard the Aquitaine)[英]
L’oranger des îles Marquises « Marianne » n° 192, 1936/2/5号(1935執筆)*[マルケサス諸島のオレンジ]
Monsieur Mimosa « Paris-Soir-Dimanche » n° 57, 1937/1/24号(1936執筆)*[ミモザ氏]
Tout Simenon T22, 2003 Nouvelles secrètes et policières T1 1929-1938, 2014

「聞いてるの、ジョルジュ?」
 夫はビールの入ったグラスを手に、思わず飛び上がった。
「フェルディナンがいってたわ、渇きを癒やす唯一の方法は、火傷しそうなほど熱いものを飲むことだって」
「わかっているよ!」
「じゃあ、どうしてあなたビールを飲んでいるの?」
「紅茶は好きじゃないからさ!」
「今日それで4本目じゃない」
「きみはいったい煙草を何本吸っているんだい?」
 フェルディナン・グローは微笑をこらえつつ、少し顔の向きを変え、そこでナイロビの老英国人と目が合った。それで老人がフランス語を解していることがわかった。
 どこの喫茶の席にこんな場面があるだろうか? もうすでに努力の必要があった。よく考えていなかったが、こんな生活は長く続いてきたと思えるにもかかわらず、それは前日の朝2時に始まったに過ぎないのだった──本当のことだ! 
 その喫茶の席があったのはアスワンでのことだ。だがその前に、すでにカイロで、ボーイにチップをやる前哨戦があった。(仏原文/英訳文から瀬名の試訳)

 本作『Le Blanc à lunettes[眼鏡の白人]は、『アフリカ三部作』と題して後に英訳が1冊にまとまった1930年代のシムノンの長編、最後の1作である。前の2作『赤道』第36回)と『摂氏45度の日陰』第47回)はすでに紹介した。
 シムノンの第一期攻略も大詰めに近づいてきた。1936年春、シムノンは愛する南仏ポルクロール島へまたしても赴き、その場所で本作を書いている。そして続いて最大の長編『ドナデュの遺書』(次回予定)を書き、シムノンは次のステージへと移ってゆくのである。戦争の影はすぐそこまで迫ってきている。

 時は5月。フェルディナン・グローは欧州での休暇を終え、カイロ経由の飛行機便でベルギー領コンゴへ戻ろうとしていた。彼はコンゴでコーヒー農園を営んでおり、地元民からは「ムンデル゠ナ゠タラタラ」──「眼鏡の白人」という渾名で呼ばれている。飛行機に乗り合わせたのは農園から100キロほど離れたニャンガラの町に暮らすジョルジュとイェットのボデット夫妻だ。ジョルジュ・ボデットはニャンガラで副長官を務めている。ニャンガラは現在のコンゴ民主共和国の北外れ、南スーダンとの国境近くに位置する、中央アフリカの町である。
 フェルディナンは幼なじみの友人カミーユを農園で助手として雇って暮らしている。農園には象もいる。家政婦は15歳だがすでに成熟した体つきの地元娘バリジである。フェルディナンが農園に戻ると、近くの丘に小型飛行機が墜落していた。乗員はふたり。英国のメイキンスン夫人と若いフィルプス機長である。夫人は事故で足を脱臼していた。
 医者を呼ぶと遅くなるので、いくらか心得のあったフェルディナンは夫人の脱臼を治療した。ふたりは飛行機の新しいプロペラが届くまで農園で寝泊まりすることになる。夫人はフェルディナンのベッドを使う。
 この時期のコンゴはずっと雨が降っている。フェルディナンは毎日便箋に日記を書きつけ、10日ごとにフランスの母のもとへ送っている。その手紙はフランスにいる2歳下の婚約者エミリエンヌにも読んで聞かせられているはずだ。彼女は3ヵ月後にコンゴへ来てフェルディナンと結婚し、こちらで暮らす約束になっている。
 やはり今回の作品も、前半は物語の方向性が見えない。ここ数作のシムノンを読んでふしぎなのは、こうした構成が最初から計算ずくのことなのか、それともいわば天然で、筆に任せて書き連ねていったからこうなったのか、いまいちよくわからないことである。もっと以前のシムノンなら、たとえば『倫敦から来た男』第41回)のころなら、「ああ、冒頭から書いていったら自然とこういう構成になったのだな」となんとなく理解できたのだが、前回の『袋小路』第56回)や今回のような小説は、ものすごく計算されたようにも見えるし、まったくの無計画に書かれたアドリブ小説のようにも思えるのだ。しかしシムノンの腕の冴えが、最終的にはちゃんと物語を支えて作品を立ち上がらせている。がむしゃらに書いているのではなく、自分の筆力に自信がついてきた作家だという印象を与える。なるほどこういう成長過程の先に第二期メグレが生まれるのだなと考えると、この時期の作品は意外と重要であるように思われる。
 本作はアフリカの農園が舞台ということもあり、異国情緒の雰囲気が最初から醸し出され、前作『袋小路』の前半よりは惹きつけるものがある(ついでに指摘しておくと、試訳した冒頭部ではフランス語文法でいうところの「半過去」がいままでなかったほど頻出し、シムノンの文体が徐々に変わってきたことがうかがえる)。
 1932年にシムノンがアフリカ縦断旅行をしたことは以前に記した(第36回)。そこで見聞きしたことが本作の描写には反映されているはずだ。シムノンはかつてのルポルタージュ記事で、アフリカの中心地に行ったとき各地の族長が集まって何日も裁判をする現場に居合わせたことを書いている。そのとき裁判にかけられた人食い事件のひとつが、本作では現地の逸話として取り上げられている。
 さて前半では何が描かれるのか。大雑把にいえばフェルディナンを中心とする人間模様だということになるのだが、いまひとつ鮮明ではない。メイキンスン夫人と彼はこんな会話を交わす。「あなたは幸せ?」「はい」「本当に? これ以上何も望んでいないの?」「何も」「たとえば愛は?」「3ヵ月後に婚約者が来ます」「あなたはもっと何かをやりたいはずよ」──こうした思わせぶりなやりとりを経て、やがてフェルディナンは夫人に心惹かれてゆくことになる。婚約者がいるにもかかわらず、ふたりの子持ちである英国夫人に愛を感じ始めてゆくのである。だがそれがどれほど強く激しいものなのか、正直なところ前半を読んだだけではこちらにうまく伝わってこない。
 夫人はフェルディナンのベッドを借りて寝ている。そのために周囲の者はふたりの関係を邪推し、愛人関係になったのではないかと思い始める。地元民の家政婦バリジは主人のフェルディナンに心を寄せていたため、この状況に戸惑い、狼狽して泣く。だがこの切実さも詳細に書かれるわけではない。
 一方で、いざ夫人のことが好きになったフェルディナンは、なぜフィルプス機長が嫉妬してこないのかと訝しむ。もともと夫人は若いフィルプス機長を愛人にしていたものだとばかり思っていたからだ。ところが機長はそうした関係を否定する。
 ではともに暮らしている友人カミーユの反応はどうか。フェルディナンに何か有益な助言や忠告を与えるわけでもなく、かといって突き放すわけでもない。彼は家政婦バリジに気があったようだが、詳細はわからない。物語の展開としては、この友人カミーユがもっと主人公フェルディナンの状況に関与し、食い込んでくるのが常道ではないのか。それなのに立ち位置は曖昧なままだ。
 ふむ、まあ面白くなりそうな要素は揃っている。だが起爆するまでには至っていない。気温が高く、雨がずっと降り、少し外に出れば全身濡れてしまう不快な天候だけが印象的だ。──さあシムノンよ、これからどうする? 
 と思いながら読み進め、ページがちょうど半ばに来たところで、物語がまったく想像外の方向へと転がったので意表を衝かれた。それまでずっとフェルディナンを中心に物語が綴られてきたのに、ここへ来て突然、フランスにいる婚約者エミリエンヌへと視点が移るのである。6月初旬、彼女はフェルディナンからの最新の手紙を見て驚く。そこには「ぼくはひどい情緒的危機に瀕している」と書かれていたのだ。彼は病気なのだろうか。エミリエンヌは予定を繰り上げて、単身コンゴへ向かうことを決意する。
 なんと、フェルディナンがいつも日記代わりの手紙を書いているというのは伏線だったわけだ。エミリエンヌが物語の表舞台に登場したことで呆気に取られていると、すぐさま視点はコンゴへと戻る。まさにフェルディナンは夫人と対峙し、互いの愛について話し合おうとしていた。「あなたはぼくを愛しているじゃないか!」とフェルディナンは訴えかけるが、夫人は「あなたは思っていたより馬鹿ね」とかわして、しかも翌朝、「夫のいるスタンブールに帰るわ。またどこかで会いましょう、よい友人としてね。さようなら、フェルディナン」といって去ってしまうのである。
 それから視点は再び婚約者エミリエンヌに据えられるのだ! 物語は彼女がひとりでコンゴに到着し、町で人々に会い、事情を話し、フェルディナンの農園まで車で案内される経緯を追ってゆく。すでにフェルディナンはこの地にいなかった。飛行機に乗って出て行ってしまったのだ。どうやらメイキンスン夫人を追いかけていったらしいと彼女は知る。彼の病気とは、夫人への愛だったのだとわかるのである。彼女は婚約者のすでにいない農園に辿り着いてカミーユと会う。
 完全に主役が交代するのだ。フェルディナンは表舞台から姿を消してしまう。物語の後半はエミリエンヌが婚約者の帰還を異国の地で待ち望む日々が描かれる。意外な展開を待ち望んでいたとはいえ、こういうのをまさに想像の斜め上を行くというのであろう、物語の定跡からは完全に逸脱してしまう。それまでほとんど脇役だった町の人々、すなわち冒頭に出てきたボデット夫妻などが入れ替わり立ち替わりエミリエンヌと会ってあれこれと話す。彼女は自分で車も運転するので、雨でぬかるんだ道をあちこちへと走って動き回る。もはや経営者であるフェルディナンがいなくなったいま、コーヒー農園と従業員をどうすればいいのか。彼女はその決断さえしなくてはならない。カミーユとの緩やかな心のつながりだけが彼女の支えだ。
 そして事件が起こる。私は白昼夢を見ているような気持ちになった。大きな事件であるし、なるほど振り返ってみればその予兆はすでに書かれていたとはいえ、あまりにも現実味のない唐突な展開に、これはすべてコンゴの不快な雨が生んだ幻夢と考えるほかないのではないかとさえ読んでいて感じたほどだ。この出来事にエミリエンヌは直面し、コンゴにやって来てから築き上げたわずかな人間関係さえ一瞬にして箍が外れて崩壊したことを知るのである。
 主人公であったはずのフェルディナンは物語が終わるまでにはたしてもう一度現れるのか。彼と英国夫人との関係はいったいどうなったのか。取り残されたエミリエンヌはカミーユとどうすればよいのか。残りのページ数は少ないのに、読んでいるこちらの頭は疑問符だらけだ。まさかこのまま終わってしまうのか。
 だがシムノンは最後の数ページで、まさしく力技で決着をつけるのである。
 しかもそのラストは、ここ最近の数作とは印象を異にして、明日へと顔を上げて進んで行こうと感じさせるものであった。
 まったくの破調の物語だが、読み終えてみるとシムノンの作家としての底力を見せつけられたような気持ちである。ずっとこれまで順を追ってシムノンを読んできたからこそ、手に取って無駄ではなかった、作家キャリアの貴重な一瞬に立ち会えたという感覚が胸に残る。
 シムノンをあまり読んでいない時期にいきなり本作を手に取ったなら、「何なのだいったい、この小説は」とひどく混乱し、放り投げてしまっていたことだろう。だがいまの私は本作にあまり辛い点数をつけられずにいる。本作はこれまでずっとシムノンの第一期を読み、生きてきた者にとって、祝福のような作品に思えるのだ。
 シムノンはこれだけ毎月のようにたくさん小説を書いてきた。それでもまだ自己模倣に陥らず、新しいことをやろうとしている。その前向きな姿勢を評価したいし、作者本人にとっても作品の結果的な出来映えそのものより、前へ進み続けている自らの動きこそが、いまは何よりも大切だと思っているだろうと感じられるからだ。かつてのアフリカ旅行を題材にしたのであるからその意味でシムノンは過去を振り返っているわけだが、本作はこれまでの『赤道』とも『摂氏45度の日陰』ともまったく違う。
 シムノンというと一般に戦後のメグレものが真っ先にイメージされることもあり、いつも同じような小説を書いていた作家という先入観が人々の間には強いかもしれない。だが少なくとも戦前の第一期において、シムノンはずっと変化し続けてきた。第一期が終わろうとしているこの時期になっていっそう未来を感じさせるのは、それだけでも素晴らしいことだと思うのだ。
 それはつまり、小説という芸術そのものの可能性を示しているようにも思えるからである。

▼映像化作品(瀬名は未見)
・TV映画 同名 エドゥワール・ニエルマンEdouard Niermans監督、ロラン・グレヴィルLaurent Grévill、カトリーヌ・ムシェCatherine Mouchet出演、1995[仏]
 
   
 
 この時期に書かれた単発の短編作品をふたつ紹介する。どちらも後年のシムノン全集(1992初刊)に初めて単行本収録された。

■「マルケサス諸島のオレンジ」1936■

 フランス・ブルターニュ地方出身のプロエ神父は、南太平洋のツアモツ諸島に赴任してすでに22年も暮らしてきた。彼の実家は漁師の家系だったが、海で家族をふたりも亡くしている母に反対され、船員志望をやめて聖職に就いたのである。代わりに彼は南の島での仕事を希望した。
 彼はこの島で小さな白い教会を受け持っている。近くにもっと立派なモルモン教の寺院があり、そこにはテルというアメリカ人伝道師がいる。
 あるとき島にモンシニョール(カトリック教会の高位聖職者への敬称)がやって来ることになった。これまで島はずっとプロエ神父の教区で、ほとんど彼の王国だったというのに! だがモンシニョールの到着を歓迎し、彼は地元民とともに食事やカンタータでもてなした。新鮮なオレンジも食卓に並んだ。この島は環礁のため花は咲かないが、一本だけオレンジの木があり、そこから採れる果実は島の子供たちにとってすばらしい栄養源でもあった。
 嵐の夜、プロエ神父は礁湖そばに暮らす地元民の面倒を見たため、その場所で嵐が過ぎるのを一夜待たねばならなかった。ようやく帰ってきたとき、彼はテル伝道師から驚くべき事実を聞いたのである。島にやって来たモンシニョールは、貴重なオレンジの木にいったい何をしたというのだろうか? 

『黒人街』第52回)や『コンカルノーの女たち』第53回)を書いていたころの作品。最後に「私が島にやって来たとき、その出来事から20年が経っていた」といきなり作者視点での感想と後日談がつけ足され、純粋な短編というより小説風味のノンフィクションの体裁を採る。1934-1935年の世界一周旅行時の体験に材を得たのだろう、筆致からしてルポルタージュ連作『悪い星』第49回)の一編であってもおかしくないが、ここに書かれたことが本当に旅で見聞きしたことなのか、それともシムノンの創作なのかは不明。いちおう書誌的には小説作品に分類されている。

■「ミモザ氏」1937■

 ある小さな町での出来事。3人の少年が柵の上に腰掛けて、深刻な顔をしていた。
 少年のうちのひとりは父親が町役場の秘書で、今朝方パリから長官が役場にやって来たことを知り、他のふたりに話したのである。長官は町に住む「ミモザ氏」を逮捕しに来たらしい。その男はいつもボタン穴にミモザの花を縒って飾っているのでそう呼ばれているのだが、どうやら贋金づくりのようなのだ。
 3人の少年はミモザ氏が家から出てバスに乗るのを見る。すぐさま男たちが彼の家へと入ってゆくのがわかった。警官たちだ。ミモザ氏がまた戻ってきたところで逮捕するつもりに違いない。
「どうする?」と3人は相談する。そしてひとりの家に行って準備を整え、コートを着込んで戻ってきた。このころは5時になると空が暗くなり、冷えてくるのだ。
 ミモザ氏がバスを降りて帰ってくる。通りをこちらへと歩いてくる。警官たちは待っている。3人の少年はコートを着たまま道の反対側から歩いて行った。そしてあと10メートルというところまで迫ったとき、3人はある行動に出た。

 1936年執筆。これでシムノン第一期の短編作品はすべて本連載で取り上げたことになる。
 たわいもない掌編だが3人の少年のキャラクターがそれぞれ微笑ましい。ソーセージと呼ばれる太った少年、ルーカンという名の少年、そして役場の秘書を父に持つ少年。最後の彼らの行動は、悪戯の延長だが大らかで、読む者の胸をすかっとさせる。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。
 
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