Les dossiers de l’Agence O, Gallimard, 1943(1943/3/31)(1938/6執筆)[原題:O探偵事務所の事件簿]
『名探偵エミールの冒険1 ドーヴィルの花売り娘』長島良三訳、読売新聞社、1998*[1, 2, 7, 8]
『名探偵エミールの冒険2 老婦人クラブ』長島良三訳、読売新聞社、1998*[13, 9, 12]
『名探偵エミールの冒険3 丸裸の男』長島良三訳、読売新聞社、1998*[3, 5, 6, 4]
『名探偵エミールの冒険4 O探偵事務所の恐喝』長島良三訳、読売新聞社、1998*[10, 11, 14] 以上、邦訳全4冊
ドーヴィルの花売り娘 (名探偵エミールの冒険 1) 老婦人クラブ (名探偵エミールの冒険 2) 丸裸の男 (名探偵エミールの冒険 3) O探偵事務所の恐喝 (名探偵エミールの冒険 4)

▼収録作 邦題は読売新聞社版(長島良三訳)より
1. La cage d’Émile 旧題:La jeune fille de La Rochelle « Police-Roman » 1941/4/25号(n° 125)、« Le Jury » n° 22, 1941 エミールの小さなオフィス [エミールの小部屋]
2. La cabane en bois « Police-Roman » 1941/5/2号(n° 126) 掘立て小屋の首吊り人 [木造の掘っ建て小屋]
3. L’homme tout nu « Police-Roman » 1941/5/9号(n° 127)、« Le Jury » n° 26, 1941 丸裸の男
4. L’arrestation du musicien « Police-Roman » 1941/5/16号(n° 128)、« Le Jury » n° 22, 1941 ミュージシャンの逮捕
5. L’étrangeur de Moret « Police-Roman » 1941/5/30号(n° 130) モレ村の絞殺者
6. Le vieillard au porte-mine « Police-Roman » 1941/6/13号(n° 132) シャープペンシルの老人
7. Les trois bateaux de la calanque « Police-Roman » 1941/6/27号(n° 134) 入り江の三艘の船
8. La fleuriste de Deauville « Police-Roman » 1941/7/18号(n° 137) ドーヴィルの花売り娘
9. Le ticket de métro « Police-Roman » 1941/8/8号(n° 140) 地下鉄の切符
10. Émile à Bruxelles « Police-Roman » 1941/8/29号(n° 143) エミールとミンクのコート [エミール、ブリュッセルへ行く]
11. Le prisonnier de Lagny « Police-Roman » 1941/9/19号(n° 146) 不法監禁された男 [ラニの囚われ人]
12. Le Club des Vieilles Dames « Police-Roman » 1941/10/10号(n° 149) 老婦人クラブ
13. Le docteur Tant-Pis « Police-Roman » 1941/10/31号(n° 152) むっつり医者と二つの大きな箱 [ドクター《しょうがない(トンピ)》]
14. Le chantage de l’Agence O « Police-Roman » 1941/11/28号(n° 156) O探偵事務所の恐喝

・デザインとイラストレーション=Sacha Gepner, Les dossiers de l’Agence O: Le ticket de métro, Hatier, 1994[9]
・同, Les dossiers de l’Agence O: Le prisonnier de Lagny, Hatier, 1994[11]
・同, Les dossiers de l’Agence O: Le docteur Tant-Pis, Hatier, 1995[13]
 以上、イラストつきシリーズ全3冊
・イラスト=サッシャ・ジュプネル『メトロチケット O探偵事務所事件簿 くらしっくみすてりー1』榊原晃三訳、パロル舎、1996*[9]
・同『ラニーの囚れ人 O探偵事務所事件簿 くらしっくみすてりー2』榊原晃三訳、パロル舎、1996*[11]
 以上、イラストつきシリーズの邦訳は2冊のみ

メトロチケット―O探偵事務所事件簿 (くらしっくみすてりー) ラニーの囚れ人―O探偵事務所事件簿 (くらしっくみすてりー)

Tout Simenon t.24, 2003 Nouvelles secrètes et policières t.2 1938-1953, 2014

▼他の邦訳掲載
 読売新聞社版各篇の初邦訳掲載誌は次の通り(1996-1998)。
「エミールの小さなオフィス」長島良三訳 《EQ》1996/1(No.109, 19巻1号)pp.124-144[1]
「掘立て小屋の首吊り人」長島良三訳 《EQ》1996/3(No.110, 19巻2号)pp.117-139[2]
「丸裸の男」長島良三訳 《EQ》1996/5(No.111, 19巻3号)pp. 139-161[3]
「モレ村の絞殺者」長島良三訳 《EQ》1996/7(No.112, 19巻4号)pp. 133-154[5]
「シャープペンシルの老人」長島良三訳 《EQ》1996/9(No.113, 19巻52号)pp.110-131[6]
「ミュージシャンの逮捕」長島良三訳 《EQ》1996/11(No.114, 19巻6号)pp. 127-149[4]
「入り江の三艘の船」長島良三訳 《EQ》1997/1(No.115, 20巻1号)pp.130-152[7]
「ドーヴィルの花売り娘」長島良三訳 《EQ》1997/3(No.116, 20巻2号)pp.127-150[8]
「むっつり医者と二つの大箱」長島良三訳 《EQ》1997/5(No.117, 20巻3号)pp.143-164[13]
「地下鉄の切符」長島良三訳 《EQ》1997/7(No.118, 20巻4号)pp. 133-156[9]
「エミールとミンクのコート」長島良三訳 《EQ》1997/9(No.119, 20巻5号)pp. 106-128
「老婦人クラブ」長島良三訳 《EQ》1998/1(No.121, 21巻1号)pp. 141-164[12]
「不法監禁された男」長島良三訳 《EQ》1998/3(No.122, 21巻2号)pp.123-146[11]
「O探偵事務所の恐喝」長島良三訳 《EQ》1998/5(No.122, 21巻3号)pp.122-145[14]

 第二時世界大戦が始まる直前の時期、シムノンが《チビ医者の犯罪診療簿》に続いて書き溜めたのは、さらにカジュアルな娯楽読みものを目指したと思われる本作《O探偵事務所事件簿》シリーズであった。戦時中の1941年に探偵誌《Police-Roman》に掲載された。
 日本での紹介はかなり遅れ、ひと通りメグレものや代表的なロマン・デュール作品の邦訳が出てシムノンも亡くなった後の1990年代に、落ち穂拾いのようなかたちで読者のもとへと届けられた。すでに海外ミステリーブームも去り、もちろんジョルジュ・シムノンという作家への世間の関心もほぼ消えつつあった時期である。だが偶然なのかどうか、面白いことに本作はそれだけの時間を経た後、2種類の邦訳がほぼ同時に世に出ることとなった。
 ひとつはファンタジーものを得意としていたパロル舎による、絵本のようにたくさんのカラー挿絵が導入された『メトロチケット』(1996)と『ラニーの囚れ人』(同)の《O探偵事務所事件簿 くらしっくみすてりー》2冊である。体裁だけ見るとシムノンが児童向けに書き下ろしたミステリー読みものを発掘邦訳したかのようである。翻訳者は榊原晃三氏。
 もうひとつは光文社が出していたミステリー専門誌《EQ》に1996年から1998年にかけて訳出され、読売新聞社から渋川育由氏の瀟洒な装丁で刊行された、『ドーヴィルの花売り娘』『老婦人クラブ』『丸裸の男』『O探偵事務所の恐喝』(1998)の《名探偵エミールの冒険》全4冊だ。それぞれ4、3、4、3篇を収録。翻訳は長島良三氏で、2巻と4巻に長島氏の書き下ろし解説が添えられている。
 どちらも同じ、原作は《Les dossiers de l’Agence O》(O探偵事務所の事件簿)である。本シリーズはシムノンにしては珍しく全13作ではなく全14作で、長島版はそのすべてを訳出しているが、実は「全訳」ではない。一方、榊原版の初出についてはシムノン読者の間でもよくわからないと放置されていたようだが、これはオランダのHatierという小さな出版社から刊行された挿絵付きミステリーシリーズの翻訳本で、しかもこの小出版社は画家のサッシャ・ジュプネルSacha Gepner自身が興したものだ。彼は自分の好きなミステリー小説に挿絵をつけて出版したいと考え、そのラインアップにシムノンを加えたのである。彼は中編シリーズの《O探偵事務所事件簿》から3作品『メトロチケット』『ラニーの囚れ人』そして『Le docteur Tant-Pis』を選んで1994年から95年に出版した。文章は児童向けに省略されているわけではなく、シムノンが書いたフランス語そのままである。この3冊のうち2冊を訳出したのがパロル舎の榊原版なのである。
 さて私は「長島版は全訳ではない」と指摘した。どこが訳されていない部分なのか。両者の本を見比べると、パロル舎の榊原版にはいささか長くて奇妙な前口上が一定の間隔でついていることがわかる。実はこれが長島版で訳されていない部分なのだ。シムノンは本作に親しみやすさを持たせるためだろう、各編の章の冒頭部に、古式ゆかしきかつ微笑を誘う、いささか大仰な口上をつけたのである。長島版ではもったいないことにこれがすべて割愛されている。
 そこで本稿では、長島氏が消してしまった各章の口上部分を訳し下ろして紹介しよう。多くの口上は「Où 何とか……」で始まっており、où(ウ)は本来「どこ」と場所を尋ねる語であるが、ここでは「物事が○○であったこと」「誰それが△△をしたこと」といったような、次から始まる章の内容を要約し、「以下の章ではこんなことが起こりますよ、まさにここがその章ですよ」とあらかじめ読者に知らせる役目を果たしているのである。18世紀ころまでの古い物語本によく出てきた体裁だ。これを併せて読むことで、本シリーズの楽しさがいっそう増すことと思われる。
 もうひとつ、大切なことを最初にお伝えしておく。長島良三氏による邦訳全4冊は、原著と収録の順番が変更されている。ぜひ4冊すべてを入手してから、原著の順番通りに読み進めてゆくことをお薦めする。

■ 1. 「エミールの小さなオフィス」1941■
 1. ひとりの若い娘が屈強なトランスの胸に倒れ込み、また探偵事務所の奇妙な上下関係が明らかになること
 2. 葡萄の鋏が葡萄を切る以外のことに使われ、またラムネが意外な役回りを担うこと
 3. トランスが足跡を消し去り、また、かの若き娘が突如として警察官が望むような話をし始めること
 4. トランスが親分(パトロン)の機動の悪さを気にしながらも、結局この所長は指示を出すに至ること(瀬名の試訳、以下特記なき場合同様)

 
 午前11時。かつて音楽家ショパンも住み、オペラ座を始め数々の劇場が並ぶパリのベルジェール地区シテ。とある劇場の向かいにある美容院の右側の通路を進み、階段で三階へ上がって左へ行くとそこに、かつてメグレ警視のもとで働き現役時代は名刑事と称賛されたジョゼフ・トランスが所長を務める《O探偵事務所》──《アジャンス・オー》のオフィスがある。ここにひとりの若き娘が訪ねてきたことから物語は始まる。娘はドニーズと名乗り、ラ・ロシェルから列車に乗ってやって来たという。父が到着するまで大切な物品をここの金庫で預かってほしいというのだ。
 そこへ赤毛でひょろりと背の高い青年が帰ってきた。鼈甲縁眼鏡をかけたエミールという名の彼は隣の小部屋へ引っ込む。彼はトランス所長の下で働く事務所の運転手兼カメラマン兼雑用係だと控えめに自称したのだが、早くも隣の小部屋から隠し窓を通してトランスと娘の様子を観察し、明晰な推理を働かせ始めた。実は名字を名乗らないこのエミール青年こそ、《O探偵事務所》の真の所長なのである。娘は手持ちのものが事務所の金庫にしまわれるのを見届けると、急によろめいてトランスに凭れかかった。大柄で屈強なトランスもこれには戸惑う。
 そして娘は帰っていったが、赤毛のエミール青年は隣室から出て来るとトランスのポケットから今朝別件で宝石泥棒の調査をしているとき発見したハンカチーフが消えていることを指摘した。あの娘が凭れかかった際に奪い取ったのだ。エミールは自分よりずっと年上で高名なトランス元刑事に対して推理を披露する。あの娘は今朝ラ・ロシェルからやって来たといっていたが、それにしては服の折り目がおろし立ての新品のようだった。金庫に彼女が預けた品は? ……なんと小型爆弾だ! 彼女はこのところ連続して起こっている宝石強盗事件と関わりがあるに違いない。今朝現場でエミールとトランスがハンカチを押収したところを見ていたのだろう。それで足がつくことを恐れて取り戻しに来たのだ。だが彼女の正体はいったい何者か? 
 すでにエミール青年は、かつて名うての掏摸としてならした〈バルベ犬Barbet〉という渾名の男を放って娘を追跡させていた。そして彼は自らもその足跡を追う。エミールは娘と対峙するが、蠱惑的なその娘は笑みを浮かべつつカクテルを傾け、なんとエミールに仲間にならないかと甘く誘いをかけてきたのだ……。

 というわけで《O探偵事務所》事件簿の開幕である。シムノンは《チビ医者》シリーズに続けて娯楽性の高い推理読みものの連作を執筆したことになる。書誌に拠れば各約100枚の中篇全14作をやはり1か月で書き上げたようで、この速筆ぶりには舌を巻かざるを得ない。書かれたのはすべて1938年の6月。1941年に読み物誌に連載され、1943年に書籍化されている。
 この時期にシムノンが《チビ医者》と《O探偵事務所》に続けて取り組んだことは、彼のメグレシリーズにも大きな意味を持っている。というのも、この2シリーズでメグレ引退後の司法警察局の様子が描かれ、設定が見直されることで、メグレ第二期第2シーズン以降の始動へと繋がっていったと思われるからだ。本連載第61回62回【前編】62回【後編】63回64回の書誌情報をご確認いただきたい。シムノンがメグレ第二期第2シーズンの執筆を始めるのは、本作《O探偵事務所》の4か月後の1938年10月。それ以前にも『ねずみ氏』第79回)のような試作例はあったが、《チビ医者》と《O探偵事務所》でメグレが田舎へ引っ込んだ後のパリ司法警察局が改めて描かれたことで、他ならぬ作者シムノン自身の興味が再び司法警察局へ、そしてメグレへと遡り、その綱はシムノンの内面で手繰り寄せられて、ついに本家のメグレ復活と相成ったと考えられるからである。
 そして本連作《O探偵事務所》のいちばんの見所は、メグレの最初の部下トランスが、メグレ正典第1作の『怪盗レトン』第1回)以来、実に8年ぶりに読者の前へ元気な姿を見せたことだ! しかも彼のフルネームがジョゼフ・トランスJoseph Torrenceだと判明したのも今回が初めてのことだろう。これは実に感慨深い。
 これまでメグレを読んで来た方ならご承知の通り、トランスはメグレ前史にも登場するシリーズ最古参の部下でありながら、正典第1作の『怪盗レトン』で賊の凶弾に斃れ、以来いっさい姿を見せることがなかった。トランス刑事の代わりにメグレの実働隊としての役目はリュカ刑事やジャンヴィエ刑事が担ってきたのである。
 ではトランスは第1作で死んだのだろうか? 『怪盗レトン』を読めばおそらく誰もが死んだと思うだろう。ところが本作で明らかにされたように、トランスは被弾して生死の境を彷徨ったものの生還を果たし、だがその傷がもとで司法警察局を辞して、パリで私立探偵事務所を開いていた、という設定になったのである。だからトランスはメグレの正典シリーズに登場することはなかった──実に鮮やかな辻褄合わせがここに成立したわけだ。
 しかもここで作者シムノンは遊びのひねりを少々加えた。トランスは刑事を辞めたものの、現役時代の名声は世間に知れ渡っており、だから彼が表向き所長を務める民間探偵所《アジャンス・オー》は信頼の置ける事務所だといまも高い評判を得ている。すでにメグレは引退したが、司法警察局からはいまなおしばしば捜査協力の依頼もあるほどで、だからトランスたちは巷間を騒がせる連続宝石強盗事件にも関わっているのだ。ところが、この《O探偵事務所》の本当の所長はエミールという赤毛の青年であり、トランスはこの青年に使われる部下に過ぎないという皮肉なひねりだ。このひねりを強調させるため、シムノンは本作「エミールの小さなオフィス」を始め連作の序盤で、くどいほどにトランスの無能さを書き立てている。大柄で屈強だがおつむの回転はあまりよくない木偶の坊としてトランスのキャラクターを立てようとしたのだ。
 しかし、これが作品中ではあまりうまく機能していない。エミール青年の明晰ぶりを引き立てるためにトランスを馬鹿扱いするのは、何かが違うと作者であるシムノン本人も感じたのではないか。よって連作の後半では、トランスはやはりエミールを引き立てるものの、若き赤毛の青年と対等の立ち回りを演じるようになり、歳は離れているがよき信頼関係と協力関係が結ばれるようになってゆく。こちらの設定の方がずっと自然で、読んでいる方もよっぽど楽しい。無理やりにつくり上げたキャラクター設定は、結局シムノン作品の登場人物にはそぐわないのである。
 この連作第1弾「エミールの小さなオフィス」は、シムノンがかつてペンネーム時代によく書いていた、類型的な探偵と盗賊の追いかけっこだ。怪しげな若い娘の正体、その彼女といっしょに《マジェスティック》ホテル──そう、『怪盗レトン』『メグレと超高級ホテルの地階』第64回)に登場する、シムノン世界ではお馴染みの架空のホテル、《マジェスティック》である。本作では凱旋門へと通じるフリードランド(フリドラン)Friedland大通りに面していると書かれている──に宿泊している弟とは誰か、どうやって賊は足のつきやすい宝石類を処理しているのか、といった細かな謎にペンネーム時代とは違う成熟された工夫が見て取れるが、やっていることは『神出鬼没のノクス』第23回)と同じ、国境近くにおけるすんでの逮捕劇と逃走である。賊がベルギー国境近くのホテルに現れると推理を働かせたエミールは急いでそのホテルに電話をかけるが、電話口の従業員がまごついているせいで、せっかくその場に姿を現した賊に感づかれ、車で走り去られてしまう、というオチは、『ルパン三世』のような壮快さを残す。このスピード感はしかし、シムノンが通俗探偵読みものを書くときの常套であり、フランス推理小説ロマン・ポリシエの伝統でもあるのだろう。
 この第1作ではエミールがふだんはラスパーユ(ラスパイユ)Raspail大通りのアパルトマンで母とふたりで暮らしていること、父はすでに亡くなり、その死がどうやら彼の心に暗い影を落とし、彼が私立探偵となった理由であるらしいことが記されるが、残念ながらこれらの仄めかし設定が後に有効利用されることはない。
《O探偵事務所》の〝O〟の意味は明かされない。誰かの頭文字でもないから、おそらくはゼロ、何ものでもない、という意味で掲げられた記号である。シムノンはこうした意味のない記号を好んで探偵役に与えていた。

■2. 「掘立て小屋の首吊り人」1941■
 1. 極寒の地、前人未踏の風景のなか、トランスとそのカメラマンであるエミールが死体を捜しに行くこと
 2. かかりつけ医がタイミングよく現れたこと、またとあるペテン師がもしいっしょに訪問したのでなければいっそうタイミングよくやって来たこと
 3. エミールがなおもブーツに関して思案をめぐらせ、その間トランスは最善を尽くしていること
 4. 公式の捜査法を軽んじるエミールが、不可解なジョゼフを相手に奇妙なゲームを繰り広げること

 
 午前10時。トランスとエミールはパリから北にあるロンジュモーLongjumeauという町を車で通り過ぎようとしていた。昨夜の気温は摂氏20度以下。オープンカーで走るには寒すぎる。
《O探偵事務所》にマリー・ドーサンという女性から電話で調査依頼が入り、ふたりは彼女が暮らす《湖の城》なる森の屋敷に出向いたのである。彼女は屋敷の夫人で、敷地内にある掘っ建て小屋に男の首吊り死体を見つけたのだという。警察には内緒で捜査してほしいというのだ。
 ところが屋敷に行く途中、ふたりは近隣住民から奇妙な噂話を聞く。まずドーサン夫人は精神の病で医者がついているらしい。しかも夫人は首吊り死体となったらしきジャン・マルション氏と以前から不倫関係にあったというのだ。城に到着してエミールたちは主人のドーサン氏と会ったが、妻は病に伏せっているので相手ができないとつれない返事だ。電話で聞いた掘っ建て小屋に行ってみると死体はなかった。しかし梁にロープを擦った跡があるのをエミールは見逃さなかった。
 死体はどこへ消えたのか。あるいは最初から夫人の狂言だったのか? その後、エミールたちは城主のドーサン氏や夫人の主治医、さらに給仕頭のジョゼフなどと会うが、彼らは事件があったことなど信じない様子だ。だがここで、エミールもトランスも些細だが重要な事実に気づいていた。つい先ほどまで城主ドーサン氏は編上げブーツを履いていたはずだ。それなのにいまは乗馬ブーツを履いている。城内の誰も編上げブーツのことなど知らないという。なぜ彼らは嘘をついているのだろうか? 

《O探偵事務所》には秘書兼タイピストのベルトという女性が務めていることがわかる。トランスとエミールが不在の間も彼女が電話番として事務所を預かっているのである。
 トランスは表向き探偵事務所の所長として振る舞う一方、その裏でカメラマン役を装うエミールが鋭い推理を働かせる、という図式がこの第2作でも明確に示されるが、第1作よりはトランスが元名刑事らしくそれなりに観察眼を持っていることも描かれ、ただの木偶の坊ではなくなってきている。エミールはトランスをからかうが、本当に馬鹿にしているのではなく親愛の情から軽口を利いているのだ、というふうにニュアンスが変わってきている。このほうが自然で、私には好みである。
 本シリーズが《チビ医者》と大きく異なる点は、トランスがメグレ警視の元部下だった、とメグレの名前がはっきり記されていることだ。この後、本シリーズには《チビ医者》と同じくリュカ警視が登場するので、すなわちリュカは引退したメグレの後を継いで警視職になったのだという前後関係が確定する。
 事件の真相は、まあどうということもない。終盤にいくらかのひねりはあるが、大方の読者には予想の範疇内だろう。気軽に読み流せる一篇である。

■3. 「丸裸の男」1941■
 1. ときには諺の通り「服装が修道士をつくる」(外見は大切である)と私たちが気づくこと、また有名なトランス探偵がかなり意外な場所で依頼人を出迎えること
 2. ひとりの著名弁護士が自分の衣服を汚れた他人の服と交換し、古い鋏で自ら髭を刈り、そして《O探偵事務所》を訪れること
 3. エミールを導くのが一個の鍵であり、そしてエミールはつねに見知らぬ者に後をつけ狙われるものであること
 4. ガス欠の〈バルベ犬〉が躊躇いなく大きな手段に出ること、また他の登場人物たちがさらに並外れた手段に出ること

 
 トランスは久しぶりに古巣のパリ司法警察局、「オルフェーヴル河岸」を訪れていた。彼はメグレ警視の右腕として15年間刑事職を務めたのである。その後私立探偵となったが、古巣との関係は依然として良好だった。彼は名声と信頼を得て、いまもときおり司法警察局から協力の依頼を受けている。彼はまたかつての上司メグレをまねてパイプを吸うようになっていた。
 鑑識課が混雑しており、バルベス゠ロシュシュアールBarbès-Rochechouart地区で臨時の手入れがあったのだとトランスは友人の刑事から知らされた。怪しげな連中はしょっぴかれて、鑑識課で丸裸にされ、身体検査を受けることになる。だがトランスはその裸集団のなかに、著名なデュボワン弁護士とそっくりの男がいることに気づいて驚いた。顎髭はないが、確かに本人だ。トランスはいったん近くのビアホール《ドフィーヌ》へ行って時間を潰してから司法警察局に戻り、留置場から出て来るデュボワン弁護士を出迎えた。相手も元刑事トランスのことはよく知っている。彼はそのままトランスの探偵事務所へ行きたいと申し出た。なぜ彼ほどの著名人がロシュシュアールのいかがわしいバーで捕まったりしたのだろうか。顎髭を刈って浮浪者と衣服を取り替える変装も自分でおこなったらしく、秘密を抱えているようだ。
 彼は何かの事件に巻き込まれただけだという。無記名の女性の手紙でロシュシュアールのバー《シェ・ジュール》に来るよう連絡を受け、出向いたらたまたま手入れに遭ったのだという。おのれの名声が傷つかないよう変装を試みたのだそうだ。手紙の主に心当たりはなく、だが消印は遠く離れたピレネー山脈のポーPauという町だったという。女を見つけ出してくれたら5千フラン出す、ポーへ出向いてくれと弁護士はトランスに提案した。
 この件を怪しく思ったエミールは、〈バルベ犬〉に弁護士の後をつけさせた。〈バルベ犬〉は《シェ・ジュール》というバーを知っていた。盗品の売人が集まる場所であるという。そして彼は掏摸であった過去の手業を利用して、弁護士のポケットから曰くありげな鍵をくすねてきたのである。最近つくられた金庫の鍵のようだ。エミールは知り合いの職人に鍵を見せて、それがローリー卿なる人物の別荘に据えられた金庫のものだということを突き止めた。しかしなぜそんな鍵をデュボワンが持っていたのか。エミールは街を彷徨ううち、悪漢に後をつけられていることに気づいた。これは罠だとエミールは察する。いまトランスは列車でポーへと出向き、〈バルベ犬〉は弁護士を見張っている。エミールは事務所に電話をかけたが、誰もいない。ベルト嬢が席を外すはずはないのだ。エミールは急いで消防署に電話を掛け直した。「ベルジェール地区の《O探偵事務所》! 早く! 家事だ!」──はたして、ベルト嬢は事務所内でクロロホルムを嗅がされ倒れていたのである。事務所は襲撃されたのだ! 

 やはりミステリーとしては大した出来ではないが、「丸裸の男」というタイトルの妙が光る一篇。高名な弁護士が丸裸の状態で司法警察局の鑑識課にいた、という冒頭の設定だけで可笑しい。シムノンはこういう突飛な、絵になる謎を提示するのがうまい作家なのである。
 ビアホール《ドフィーヌ》の名が出て来るのも嬉しい。いつからこのビアホールは《ドフィーヌ》という名がついたのだったろうか? 憶えていないが、初期作品ではまだ名前が決まっていなかったはずである。本当に司法警察局の近くにはビアホールがある(あった)のだろうか。シムノン作品に出て来るバーやレストランにはたいていモデルがあるので(たぶん本作の《シェ・ジュール》や《カフェ・ド・パリ》も、そのものずばりないし類似の店があるのだろう)、このビアホールも実にありそうに思えるからだ。これはシムノンを読み始めて以来、私にとってぜひともいつか確かめておきたい案件のひとつなのである。

■ 4. 「ミュージシャンの逮捕」1941■
 1. リュカ警視と駆け引きするトランス探偵が、まさに違法へと飛び込むこと
 2. トランスは自分が小学校の校長に耳を引っ張られていたころへ戻ったと思い、勇ましい顔までしてしまうこと
 3. 《O探偵事務所》は臆面もなく最後の仕上げをなし、またそれは偽の証拠が同時に真の証拠となりうるのだと指し示すこと
 4. (なし)

 
 5月の朝6時、トランスとエミールのふたりは、ピガール広場にほど近いフロマンタンFromentin通りのバーで、リュカ警視といっしょにいた。店の正面にあるのは《ホテル・ドーフィネl’Hôtel du Deauphiné》。周囲には刑事が配置している。わずか45分前、トランスはモンマルトルのキャバレー《ウミスズメCabaret du Pingouin》で最高のジャズを聴かせるバンドのリーダー、旧知のジョゼからの切迫した電話で叩き起こされたのだった。もうすぐ自分を刑事たちが捕まえに来る、助けてほしいというのだ。ジョゼは数週間前からジュリーというブロンドの大女と《ホテル・ドーフィネ》の部屋で同棲していたが、彼女はもともと〈銀行屋〉という男のもので、ジョゼは〈銀行屋〉から脅迫を受けていた。頻繁に演奏先のキャバレーにもやってきて圧力をかけていたようだ。しかし昨夜になって〈銀行屋〉だけでなく刑事の姿も見かけるようになった。どうやら自分は〈銀行屋〉の一味と間違われているらしい、だが自分は何もやましいことなどしていない、どうか助けてくれ……というのである。そこでトランスは途中でエミールを拾い、元同僚が見張るこのバーへタクシーで駆けつけたという次第だった。
 実は一昨日の夜、「ジョンおじさん」と皆から呼ばれて親しまれていた老人が、《ウミスズメ》を出た直後に何者かに刺殺されるという事件が起きていた。不運なことにジョンおじさんが出てすぐジョゼも店を出ており、彼にとっては非常に不利な状況だった。
 リュカと刑事たちがまさにホテルへの突入準備に取りかかるとき、バーの電話が鳴った。それは向かいのホテルに籠城しているジョゼからのもので、トランスが受けるとジョゼは「いままで気づかなかったが、自分のサックスケースを開けてみたら、サックスのなかに血まみれのナイフがあった」と悲鳴を上げるかの如くに助けを求めてきたのである。ジョゼが犯行者でないのなら誰かがナイフを意図的にそこへ入れたことになるが、そんな物騒な証拠品がある状況でリュカ警視らに押し込まれては、さすがに擁護のしようもない。エミールがそこで一計をめぐらせた。ホテルの隣室に密かにエミールが入り込み、窓越しにナイフを受け取ってひとまず隠そうというのである。その計画は間一髪で成功したが、しかしリュカたちの突入を見守るトランスの眼前に、ひとりの男が現れたのである。彼こそ〈銀行屋〉であり、不気味な脅迫を残して去って行った。
 だが結果としてジョゼは逮捕され、トランスは司法警察局で局長とも話し合ったが、やはりジョゼの状況は不利なものだった。ジョゼは本名がジョゼフ・ルボルニュだそうで、このところ周囲の者から借金を重ねていたらしい。さらに匿名の告発文が届いており、そこに書かれてあった通り、押収されたサックスからはナイフこそエミールが事前に処理していたものの、ナイフからついた血の跡が見つかった。しかも告発文によれば、ジョゼはジョンおじさんがいつも嵌めていた「黒ダイヤの指輪」なるものも強奪したはずだという。あまりに内情に通じすぎた手紙だ、とトランスは感じたが、この告発者は自ら局長宛に電話して、凶器のナイフは《O探偵事務所》の所員が持ち去ったとさえ伝えてきていたのだ。トランスは自分の立場が危うくなった。局長はかつての刑事トランスの体面も慮って、一時間の猶予を与えてくれた。その一時間でトランスはエミールの知恵を借りて事件を解決し、旧知のジョゼを救わなければならない。

 物語としては質の落ちる回だが、別の部分にいろいろと見所がある。まず書庫物件のナイフを持ち去ったエミールは、司法警察局から戻ってきたトランスに「《美術館》へ行こう」といって屋根裏部屋へ誘う。《美術館》とは《O探偵事務所》の秘密倉庫なのだ。ここでエミールはトランスから事態の成り行きを聞き出し、証拠品のナイフに細工を施すことを提案する。さて細工は流々、トランスはそのナイフを持って再び司法警察局に出向き、所長とリュカを伴ってパリ司法宮Palais de Justiceの屋根裏へと昇り、最新設備の実験室で指紋を採取する。司法警察局がパリ司法宮のオルフェーヴル河岸側に間借りして設置されていることはすでに述べたが、司法宮の建物を屋根裏まで上がってゆくと科学分析の部屋があるのだということがわかる。ここで得た結果が鑑識課へ回されるわけだ。さらには犯罪に関する国家機密をことごとく収めた《犯罪記録保管所Sommier(犯罪記録簿)》も上階にあるようだ。
 本作にはジャンヴィエ刑事も登場する。そして事件が一件落着した後、局長はやれやれといった感じでトランスにいう。

「きみは最後までダメを押さなければ気がすまんのか、えっ! しょうがないな……さあ出かけよう! 彼[ジョゼ]を連れて行くんだ、きみの依頼人を! その不愉快なエミール君も連れて行くんだ……ビアホール《ドフィーヌ》がまだ開いている可能性は大いにある」(長島良三訳)

 そしてエミールも晴れて《ドフィーヌ》デビューと相成るわけだ。しかも、こちらはシムノンのうっかりだろうが、サックス奏者ジョゼの本名はジョゼフ・ルボルニュ、すなわち『13の秘密』第28回)で安楽椅子探偵を務めた青年と同名である。よってルボルニュ君も《ドフィーヌ》デビューだ。そのお祝いの嬉しさが過ぎたのか、作者シムノンは第4章冒頭部に口上をつけるのを忘れている。こんな単純ミスは編集者が指摘してもよさそうなのに放置されている。この緩さがシムノンらしさでもある。
 本作はトランスの元同僚であるリュカ警視がシャルロ(Charlot)すなわちチャップリンのような口髭を生やしていることが明らかになる回でもある。トランスとリュカは元同僚といえる間柄で、おそらくはリュカの方がいくらか年上だろうが、気軽に呼び合える仲だということもわかる。トランスの回顧によれば、リュカはいつも自分が失敗するのではないかと不安げな男で、犯罪捜査の指揮官としては不向きに見える。だがかえって人々はそんなリュカを恐れてついてゆくのだ、とのことだ。
 リュカのキャラクターは第一期と第三期でかなり変化しており、そのためもあってか数々のTVドラマシリーズでもリュカの配役のイメージは一定せず、結果的に影の薄い存在となってしまっていた。これは戦争直前から戦時中の第二期において、リュカの設定がシムノンのなかで変化したからであり、おそらくは本作などがそうした変換点のひとつなのだろう。さらに後年、リュカは上司のメグレを真似てパイプを吹かすのだが背が低いのでまるでちびメグレだ、とからかわれるようになり、自分では変装がうまいと思っているが他の刑事はまったくそう思っていないなどとコミックリリーフ的な役目を担わされる。だが本作《O探偵事務所》や前作《チビ医者》ではまだそこまで道化役になっておらず、思慮深くかつ人望の篤い後継者として描かれている。このころまでのリュカが私は好きだ。
 口髭を生やしたちびメグレのキャラクターを再現したのがイタリアのジーノ・セルヴィ版TVシリーズ(リュカ役はマリオ・マランツァーナMario Maranzana)であり、質実剛健で機動性の高い有能な部下として第一期のイメージを再現したのが英国BBCのルパート・デイヴィス版TVシリーズ(リュカ役はEwan Solan)だといえる。口髭を生やしたちびメグレとはまさにスーパーマリオの顔つきと体つきなのだが、このキャラクター改変はいささかシムノンのミスであったのではないかと私には思われる。
 ただし──と同時に私は思うのだ。本シリーズ《O探偵事務所》は正直なところ、ここまで思わせぶりな設定をあちこちに配置しつつも、何か全体がうまく噛み合わずぎくしゃくしている印象を私たち読者に与えていた。面白くなりそうなのになり切れていないと感じさせるものがあった。かえってそのためだろう、作者シムノンは、主人公である赤毛の青年エミールよりも、脇を固めるトランスやリュカの人物描写に力を注いできたように見受けられる。その結果、少しずつ彼らのキャラクターが新しく立ち上がってきて、後に書かれる第二期メグレの基盤をつくっていったように思えるのだ。そしてこの4作までを経て、その準備期間は整ったようである。次の作品から本シリーズは飛躍的に面白さを増し、各キャラクターはおのれの立ち位置をわきまえつつ、実にいきいきと動き出すのだ。

■5. 「モレ村の絞殺者」1941■
 1. モレ゠シュル゠ロワンのふたつの宿屋が、ふたつの9号室でおこなわれた犯罪によって、図らずも恩恵を受けること
 2. 〈バルベ犬〉が他の任務に就いているとき、赤毛のエミールが悲しみの若い女と出会うこと
 3. 紳士が謎の失踪を遂げるのと同時に、彼の秘密が結果を生むこと
 4. 疑いようもなく誇大妄想に陥っているエミールが、これまで以上に多額の出費を強いられること
 5. それは3つの鉛管の問題であり、そしてひとつの実に古い物語が悪い結末を迎えること

 
 晴天が続く6月。フォンテーヌブローの森を抜けたロワン川のほとりに位置する観光地、モレの村(モレ゠シュル゠ロワンMoret-sur-Loing)で奇怪な殺人事件が起こり、日に日に人々の注目度が増している状況だった。町の中央には通りを挟んで左に《金の盾》、右に《葦毛の馬》という宿屋があるが、6月7日、この両宿のそれぞれ9号室に宿泊した男性客が、死体となって発見されたのである。しかも彼らはどちらも宿帳に氏名をラファエル・バラン、出身地をカルカソンヌと書き込んでいた。
 エミールはトランスを引き連れてオープンカーでモレの村へピクニックとしゃれ込んだ。事件のことは大雑把にしか知らないままやって来たが、町は野次馬でごった返しており、抜け目のない行商人がカメラを構えて「《二人のバランの謎》の記念に1枚いかがですか?」などと寄って来る始末だ。エミールたちはふたつの宿屋のうち右側の《葦毛の馬》に入り、テラスで昼食がてら給仕にことの次第を尋ねる。騒ぎは大きくなって、何とイギリスからも記者が来ているらしい。両宿は大繁盛していた。
 こちらの《葦毛の馬》に泊まった「バラン1」氏の世話をしたのはメイドのエンマである。件の男は灰色のスーツを着た礼儀正しい老紳士だったという。村での行動はわからない。翌朝11時にエンマがベッドメイキングで部屋に入ると、老紳士は死体となってベッドから手を垂らしていたという。すぐに地元のモーリス医師が喚ばれ、絞殺と判明した。エミールは興味を惹かれ、向かいの宿屋《金の盾》の主人にも話を聞く。こちらの「バラン2」氏は小柄な老人で、やはり行動はわからず、翌朝11時と正午の間にメイドのジュヌヴィエーヴが部屋に入ったところ絞殺死体となって見つかった。モーリス医師は道を跨ぐだけでふたつの死体を検死できた。
 すぐにカルカソンヌへ司法共助の依頼が送られたが、バランなる人物は住民台帳にないという。ふたりの所持品や生前の健康状態は微妙に異なっていたが、決定的な手がかりとはならなかった。両宿にはそれぞれ何人かの常連客が当日泊まっていたものの、彼らから有望な情報は聞き出せていない。こうして警察や憲兵隊の捜査も空しく、両老人の身元はわからないまま1か月近くが過ぎようとしていた。しかし重要なことがひとつある。どちらの部屋からも旅行鞄が消え失せていたのだ。
 トランスは警察庁のビション刑事と出会う。自信満々のビジョンは《O探偵事務所》への牽制の台詞を吐いて去って行くが、トランスはその態度が気に入らない。イギリスのフリーの記者、ノートンなる男がエミールたちに馴れ馴れしく近づいて様子をうかがってきたりもする。このノートンなる記者は何か手がかりを摑んでいるらしく、自分は太平洋のタヒチで昔ラファエル・ラバンに会ったことがあるが、不思議なことに今回のどちらのふたりにも似ていないと漏らすのだ。
 エミールはパリの事務所で留守番をしているベルト嬢に書類調査を依頼し、自分は思案のため川辺の散歩に出た。そこで何かを探している喪服姿の婦人の姿を見かける。喪服の婦人が宿に帰ってきたのでエミールがそれとなくエンマに訊くと、彼女の名はセカリ未亡人で、1か月以上滞在しており、いつも手紙を書いているが、それを郵便局に出すのを見たものはいないという。ノートン記者はこの夫人にも目をつけているようだ。
 エミールはパリから〈バルベ犬〉を呼び出し、ノートン記者を見張るよういいつけた。しかしその夜、ノートンは〈バルベ犬〉にパンチを食らわし消息を絶ったのである。エミールはイギリスの《デイリー・ニュース》に長距離電話をし、ノートンなる記者はもう1か月も連絡がない、最後の連絡はパナマからの電報だったとの事実を確認する。さらにエミールはタヒチ警察にも無線電報を打った。
 事件の背景が意外と大きいことを悟ったエミールは、推理と行動を畳み掛けてゆく。セカリ夫人が川辺で探していたものは何か? 遠いタヒチはこのモレの村の事件とどのように繋がっているのか? 最後にエミールたちは宝物さえ発見し、そしてこの長きにわたる運命の物語は終末を迎える。

 これは傑作といってよい。まずは道を挟んだふたつの宿で、ほぼ同じ時間に同じ9号室で同姓同名の老人が殺されるという設定が見事だ。シムノンはこのように日常の風景をいつも一瞬にして謎と魔法の空間に書き換える。このツカミに加えて、野次馬でごった返す観光地モレの村と、後半で判明する遥か遠いタヒチで過去に起こった因縁話も、対比が鮮やかで素晴らしい。しかも《O探偵事務所》のメンバーそれぞれが、彼ら自身にふさわしい見せ場と役どころを与えられている。物語としてバランスが取れており、ミステリーとしても謎解きの過程とその結末が面白く、しかも舞台背景の情景が豊かでシムノンらしさに満ちている。モレの村にタヒチの話を絡ませるのは、太平洋を旅して見聞を広めたシムノンでなければできない芸当だろう。文句なしにお薦めの一篇である。

■6. 「シャープペンシルの老人」1941■
 1. カフェのテラスで人々が思いがけない会話をしているのがわかること、またエミールが彼ならではの独特な粘り強さを発揮すること
 2. 小柄で賢く控えめな青年が、丁寧に大人たちの質問に答えるものの、真実をすべて語るわけではないこと
 3. 宮殿の玄関口がデートの待ち合わせに最適であり、またエミールは自分が紳士になったのを自ら祝福すること
 4. 図らずも小金持ちになったエミールが、ふたつの政府をほとんど困らせるところだったこと

 
 暖かな早春の午前11時。何の仕事もなかったのでエミールは陽気に誘われて散歩に出た。ところがモンマルトルのグランブールヴァール(大通り)交差点に来たとき、自分でも知らぬうちに何かの暗号を受信して勝手に頭のなかで翻訳していることに気がついた。モールス信号である。女性がカフェテラスでハイヒールの踵で床を鳴らし、誰かに合図を送っているのだ。エミールは探偵稼業を始める前、トゥーロンで海軍士官として過ごしたことがあるのでわかったのである。「ブロメBlomet通り、22番地、4階」とその女は発信している。承知したとの短い合図がどこからか聞こえてきた。咄嗟にエミールは事件の徴候を感じて周囲を見渡し、誰が信号を受け取っているのか確かめようとした。しかし人が多すぎてわからない。エミールは女の後を追ったが、すぐに尾行しているのは自分ひとりではないと気づく。山高帽と黒いスーツ姿の40絡みの男も彼女を追っている! だが不覚にもエミールはこの男とぶつかり、その隙に女は地下鉄に乗って行方を眩ませてしまったのである。
 エミールはこの山高帽の男の後を追い、男がレストランに入ったところで事務所に電話し〈バルベ犬〉に応援を頼む。そして尾行を引き継がせ、エミールはブロメ通り22番地へと向かった。部屋を借りる振りをしてコンシェルジュを騙し、建物のなかに入る。学生が多く暮らす家具つき集合住宅だ。不用心なことに鍵のかかっていない部屋も多いので、エミールは4階の各部屋を確かめてゆく。そのひと部屋には外国訛りの若い娘が住んでいた。ルーマニア人らしい。
 廊下の突き当たりにある戸棚のドアが、この4階だけ閉まっている。エミールは〈バルベ犬〉から手ほどきを受けた技で鍵を開けた。するといきなりなかから男が倒れかかってきて、それを見つけた先ほどの女子学生が悲鳴を上げた。戸棚に入っていたのは彼女の隣の部屋に住むサフト氏だが、すでに冷たい死体となっている。ハイヒールの女がモールス信号で知らせていたのは、この殺人が完了したという合図だったのではないか? しかし巡査がやってきて、当然のことながらエミールは第一発見者であると同時に容疑者として捕まってしまう。
 エミールはトランスやリュカ警視にことの次第を説明するが、さすがにこの突拍子もない話をすぐに信じてはくれない。死んだサフト氏は2か月前からここに暮らしていたワルシャワ生まれのポーランド人とのことだが、身分証明書の類いは見つからない。だがやがてサフト氏はポーランド警察刑事課に所属する刑事だと判明する。となれば彼は何かの国際犯罪を追っていたのだ。
 エミールは興味を抱いて推理を働かせ始めるが、トランスはいまひとつ乗り気になれない。誰かに依頼された事件でもないし、国家間を跨いで警察が動いている案件なら一介の探偵事務所が首を突っ込むべきではないからだ。しかし〈バルベ犬〉が尾行していた山高帽の男は、後にブロメ通り22番地へと向かったのだ。だが司法警察局や検事局の者たちが忙しく出入りしているなか、慎重に周囲の野次馬から噂話を聞き取った後、モンパルナス大通りの小さなホテルへ引き取ったという。〈バルベ犬〉はそのホテルまで尾行し、男がフロントで「ブラディミール」の名で呼ばれて鍵を受け取って上階へ行き、しばらくして今後はブロンドの男が降りてくるのを見届けた。ブラディミールの隣室に泊まる友人の「サシャ」という男らしいが、〈バルベ犬〉は鋭くもその男が先ほどの山高帽の男と同一人物だと気づいたのである。男はタクシーに乗ってマルゼルブ大通りの豪華ホテル《ブリストル》へと向かう。そこでは男はドアマンから「ゴルスキーヌさん」と呼ばれていた。部屋番号を突き止め、〈バルベ犬〉は向かいのバーから電話をかけた。
 トランス経由で連絡を受け取ったエミールは、ラスパイユ通りの自宅から、髪をポマードで撫でつけ、社交界の人間に扮した出で立ちで現れる。そして豪華ホテル《ブリストル》に乗り込んだとき、意外な人物の姿を目にしたのだ。

 これも傑作。ちなみに本作の訳文でリュカは「警部」と記されているが、原文はすべてcommissaire Lucasであるから、メグレと同じ役職であり、リュカ「警視」と読み直してよい。
 まず何より冒頭のハイヒールでモールス信号を送る女というツカミが素晴らしい。しかも場所はモンマルトルのグランブールヴァールの真ん中だ。その喧噪のなかで、モールス信号を学んでいたエミールだけがハイヒールの靴音の意味に気づくという鮮烈な描写は、パリの風景を一瞬にして異界へと変える、まさにシムノン一流のマジックである。ここからスリリングな追跡劇が続く。ポーランド警察が絡む国際的事件であり、箒戸棚のなかで殺されていた男が刑事だったと判明した時点で、誰が敵で誰が味方なのかわからなくなってゆく。ここで元司法警察局のトランス、元掏摸の〈バルベ犬〉、大胆に推理を押し進める青年エミールと、三者三様の活躍が繰り広げられる。トランスがいなければ検事局や司法警察局の信頼は得られないから国際犯罪の詳細を聞き出せないし、〈バルベ犬〉がいなければいくらエミールが咄嗟の機転を働かせても敵を出し抜くことはできないのだ。ホテルのフロントで繰り広げられる頭脳戦(と呼んでいいだろう)は手に汗を握る。複数の重要人物が入り交じり、しかしエミールはその場で誰にいちばんの焦点を合わせるべきか、瞬時の判断を迫られる。今風のTVドラマなら豪華ホテルのロビーでカメラをぐるぐると回して、実際の1秒を10秒に引き延ばして、それぞれのキャラクターの表情を追うだろう。それに先立ってもう1か所、カメラがぐるぐると回りそうなシーンがある。エミールが懸命にグランブールヴァールでの状況を思い出そうと頭を捻る場面だ。エミールはその場にいた多彩な人々の会話をひとつずつ思い出してゆく。こんなに込んでいたら自動車事故が起こっちゃうよと心配げに母に尋ねる子供。彼らはパリへ上京してきたばかりだろう。テラスの他の場所ではダイヤモンド商人が商談をしていた……。そしてついにエミールはひとりきりで座っていた老人の姿を記憶から掘り起こすのだ。のんびりとコーヒーを嗜んでいるようではあったが、小卓の上には新聞だけでなくシャープペンシルも置かれていた。あれはモールス信号を新聞紙の隅にメモするためではなかったか? ──この鮮やかなディテールこそシムノン小説の真骨頂だ。
 さらに終盤、敵は列車で逃亡を図る。その敵が北駅で乗り込むのが《北極星号l’Étoile du Nord》、そう、『怪盗レトン』でメグレが国際的犯罪者〈ラトヴィアのピエトル〉を捕らえるため冒頭で足を踏み入れたあの《北極星号》なのだ! ウェブ情報に拠れば1929年から1996年までパリ北駅‐アムステルダム中央駅間で運行されていた国際急行列車だという。途中でベルギーのブリュッセルを通過する。1929年開通ということは、1930年に発表された『怪盗レトン』の《北極星号》はできたばかりなわけで、目映い国際社会到来の象徴であったに違いない。エキゾチックな雰囲気を醸すオリエント急行とは違って、こちらの《北極星号》は日本列島改造計画時代の東海道新幹線くらいのインパクトがあったのではないか。──この国際性もまたシムノンの大きな特徴のひとつである。
 ちなみにやはりウェブ情報に拠ると、シャープペンシルはすでに18世紀には発明されていたらしい。家電メーカーのシャープの名はここから来ているのだとか。フランス語でシャープペンシルはporte-mine(鉱石を運ぶもの?)と書かれ、シムノンの原文もそうなのだが、読売新聞社版ではなぜかpart-mineと記されている。読売新聞社版は割と誤字が多いのである。

■7. 「入り江の三艘の船」1941■
 1. 目映い太陽のもと、三人の目撃者の前で、誰にも気づかれることなく殺人が可能だと実証されたこと
 2. 球遊びは見栄っ張りな人々が考えているようなものではないことがわかり、また《エスタンク》が思いがけず長い演説以上の効果を発揮すること
 3. それなりの人数の大人が死を演じているかのようであること、またエミールは自ら球遊びのチャンピオンであると証明した後、今度は自ら釣りの愛好家へと成り変わってみせること
 4. ベルト嬢が、短期の調査は必ずしもベストとはいえないとつくづく考えること

 
 傑作・良作が続く。季節は夏。トランスはオズワルド・デヴィッドソンという高名なアメリカ人富豪の依頼を受けて、夫人をドーヴィルで尾行中だった。南仏トゥーロンの近くで海水浴場として有名なル・ラヴァンドゥーLavandouから仕事の依頼が来たとき、《O探偵事務所》にはエミールと〈バルベ犬〉しかいなかった。秘書のベルト嬢は休暇で旅行に出かけていたからである。
 しかしベルト嬢が行った先は、ル・ラヴァンドゥーに近い南仏カシスCassisではなかったか? そこでエミールは〈バルベ犬〉に連絡させて、ベルト嬢をル・ラヴァンドゥーに来させるよう命じ、自分も南仏へと発った。
 こうしてエミールは初めてベルト嬢とふたりで何日かを過ごすことになったのである。ベルト嬢はぽちゃっとした若い娘で、列車が駅に着いたとき彼女は有能な秘書らしく豪華な出迎えの車を用意して待っていた。彼らが滞在するのは依頼主であるオランダ人銀行家、カール・モス氏の別荘である。召使いのコルネリウスという男が身辺を世話しているようだ。この召使いは船も操縦できる。
 モス氏は独り者だが、エヴァ・グレティラ夫人というフランス人女性と親密な関係にあり、この避暑地ル・ラヴァンドゥーでは《入り江ホテル》に最上級のスイートルームを借りていっしょに生活している。
 一昨日の火曜、モス氏とエヴァ夫人はコルネリウスの操縦する高速モーターボートでポール・クローPort-Cros島の入り江に出向き、そこで船遊びに興じていた。エヴァ夫人はカヌーを操り、ひとりのときは水着を脱いで楽しむこともあるという。モス氏とコルネリウスは船上に留まる。そのとき近くには他に2艘の船があった。ジョゼフの漁船とラリニャン氏の釣り船である。ベルト嬢は調査力を発揮して、事前に証言の裏取りを済ませていた。ときは午前11時。
 ところが、入り江の真ん中を泳いでいたはずのエヴァ夫人の姿がいつの間にか見えない。正午過ぎにモス氏とコルネリウスはホテルに戻ったが、田園監視官がやって来て、エヴァ夫人が撲殺死体で見つかったと告げたのだ。現場の入り江に居合わせたジョゼフは違法なダイナマイト漁業で生計を立てている粗野な男で、一方のラリニャン氏はかつて植民地で暮らしていた50絡みの金利生活者。磯釣りが趣味で、18歳の若いメイドとふたりで暮らしているという。どちらもエヴァ夫人が殺される瞬間は見ていないと証言している。発見者はジョゼフで、彼が遺体を海から引き上げ、港に連れ戻したようである。
 入り江の海底は細かな砂なので、夫人が岩礁にぶつかったのではないことは確かだ。スクリューに巻き込まれた傷痕でもない。となれば誰かが故意に鈍器で夫人を殺したことになる。しかし誰が、どうやって? 
 モス氏はこの事件でトゥーロンのマシェール刑事から見張られている状況だった。外国人を蛇蝎の如く嫌うマシェール刑事は、すでにモス氏を犯人だと見定めている様子だ。こんなスキャンダルに巻き込まれていると新聞に書かれたら銀行家としての人生は終わってしまう、警察はあてにできない、そこで私立探偵事務所のきみたちに夫人を殺した犯人を見つけてほしい──これがモス氏の依頼であった。
 マシェール刑事はエミールたちに牽制の言葉を投げつけてくる。厄介な仕事になりそうだ──しかしそう思いながらモス氏の別荘を出たときエミールは、突然横にいる秘書のベルト嬢が、いままで考えたこともなかったが、美しく、理想的なふくよかな体つきであることに気づいた。

 何とエミールに恋の予感である。しかも舞台は南仏の避暑地。もちろん捜査時にマルト嬢は水着姿にもなる。うわー、きゃー、と端から見ているこっちがこっぱずかしくなるような展開を、しかし私たちはときおり期待するものではないか。まさにその期待通り、今回のエミールとベルト嬢は初々しいひと夏の恋模様を演じ切ってくれるのだから素晴らしい。しかも本作は南仏の光景が実にきらきらと鮮やかに描き出されているのだ。シムノンの描く夏の南仏は、私たち読者にとって最上級の贈り物といえる。
 事件の概要を開示説明する第1章が長くなってきた。しかしここでまず物語自体の魅力がぎゅっと凝縮され、次の第2章以降から果汁が弾けるかのように魅力がいっせいに広がってゆく。本作の第2章は午後5時の浜辺が舞台だ。陽が沈みかけ、うだるような暑さが終わって、ようやく人々がほっとひと息つける時間。それでもまだル・ラヴァンドゥーの海水浴場には人がいっぱいだ。そうした夕暮れのなかでベルト嬢はショートパンツにビーチドレスを羽織り、ついエミールも彼女の両腿に目が行ってしまう。散歩を経て広場に辿り着き、そこでエミールは地元の人々と球遊び、すなわちペタンクの勝負に受けて立つことになる。シムノンの原文では「ペタンクpétanque」というそのものずばりの言葉は出てこないが、1930年ころから普及し始めたそうで、とりわけ発祥の地である南仏ではいまも愛される遊びであり、『重罪裁判所』第83回)でも印象的に描き出されていた。まさにいま広場で2組のチームが球投げを競っており、一方の組は漁師たちの集まりであり、ジョゼフが入っている。もう一方は町の有力者の面々で、郵便局長、警察署長、観光協会会長、さらにはそこにラリニャン氏もいる。エミールがモス氏の調査依頼を受けたことはすでに人々に知れ渡っているだろうし、モス氏に雇われた探偵が依頼主を糾弾するはずはないから、エミールは町の人々すべてにとって敵だということになる。すなわちどちらのチームからもエミールは敵と見なされているのだ。
 しかしエミールはあえてこの危険を孕んだ広場の只中へと飛び込む。ジョゼフが投げた後、わざと大声で「下手くそ!」と叫んだエミールは、さぞやベルト嬢の肝を冷やしたに違いない。当然の如くジョゼフは敵意を剥き出しにしてエミールに勝負を持ちかける。だがエミールはかつてトゥーロンで海軍士官だったのだ。彼は見事に目標の球に命中させて弾き飛ばし【註2】、ジョゼフはその投げ方から相手がこの南仏の土地で暮らした人間であることを見抜く。同胞の情が生まれ、ふたりは酒を酌み交わす。
【註2】この技を《エスタンクestanque》というらしい。原文に出てくる命令形は《estanquez》。ペタンクの昔の呼び名か。
 では夫人殺しの犯人は誰になるのか? エミールとジョゼフは会話を重ねる。まさかラリニャン氏なのか? ここでエミールが興味深い発言をする。

「ラリニャンさんが殺したとすればいかなる理由なのか……太陽が突然目に入ったからか? それとも魚を獲る邪魔をされたからか?」(長島良三訳)
── Un coup de soleil subit ?
〝急に太陽が目に刺さったのか?〟

 確認しておくがアルベール・カミュが『異邦人』を発表したのは1942年。シムノンが本作を書いたのは1938年6月、発表は1941年。「太陽が眩しかったから」「急に太陽が目に入ったから」人を殺すという表現は、太陽の目映い南仏や海を挟んでアフリカのフランス領ではすでに慣用的に使われていたのだろうか? Un coup de soleilとは直訳すれば「太陽の一撃」だが、通常は「日焼け」「日射病」を指す。シムノンがこの言葉を改編して『月射病Le coup de lune』(第36回『赤道』他)というアフリカ小説を書いていたことが思い出される。太陽の一撃、月の一撃。『異邦人』の主人公は「太陽が眩しかったから」狂気に陥って人を撃ち殺したわけではない、と『赤道』の回で私は書いた。むしろ「太陽が眩しかったから」人間として〝正気に戻り〟、それがゆえに彼は人を殺したのである。それ以来、彼はずっと正気のままであり、裁判中でさえ法廷内で正気なのは彼ひとりであると悟っていた。彼にいわせれば彼以外のすべての人間が狂気に陥っているのであり、だからこそ正気である自分は処刑されるのだとわかっていた。しかしここでのシムノンの言葉は異なる。シムノンが描く人間は、「本当に太陽が目に入ったから人を殺す」ことがありうるのだ。図らずもその真理がさらりとエミールの口から出て読者に提示されていることに驚かされる。
 だが太陽が目に刺さったのでないとしたら、それはいったい何のせいか? 
 本作がバカンスの熱気を孕んで盛り上がるのはこの隠されたテーマ性ゆえにであろう。ペタンク勝負の翌日、エミールは三艘の船を入り江に向かわせ、事件当日の午前11時を再現してみせる。殺されたエヴァ夫人の役を務めるのはベルト嬢だ。彼女は水泳帽と水着姿でカヌーに乗って、夫人が殺された場所で同じことをする。彼女の水泳帽が見えなくなるのははたしていつか? 
 検証が終わり、エミールとベルト嬢はホテルに戻る。ベルト嬢は着替えなくてはならない。ふたりはぎこちなかった。彼らはちゃんとドアを閉めてさえいないのだ! しかしそれに気づかないふりをして、エミールはそちらに目を向けないように行ったり来たりしている……なんと初々しい! そしてエミールがついにドアの前で立ち止まる。もちろんベルト嬢はそのことに気づいている。あと数秒すればドアが開いて、ふたりは間近で向かい合い、そして……。
 そしてボーイがドアをノックする! このベタな展開をシムノンが描くと、かくも可愛らしく、こんなにも瑞々しくなるのか! シムノン読者は嬉しい驚きの声を上げるだろう。そしてラストの台詞には、私たち読者もどきりとする。
 本作にトランスは登場しない。最初に述べたように彼はドーヴィルで調査をしているからだ。しかしエミールのもとへトランスから救援の連絡が届き、早くも次の物語の舞台が決定する。このように本作はヒキまで強い。シリーズ後半に向けて読者の心をぐいぐいと引っ張ってゆこうとする。
 次のドーヴィルではどんな事件が待ち受けているのか? エミールとベルト嬢の淡い恋心にはたして進展はあるのか? 私たちはいっそう期待に胸を膨らませてページをめくり、進んでゆくのだ。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。

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